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幕末、多くの英雄が跋扈し、歴史は大きく転換した。しかし、活躍したのは何も人間だけでなない。250年にわたる鎖国で、井の中の蛙となった日本を、開国、明治維新、そして国際社会へと日本を導く要因となった一隻の船がある。===咸臨丸===正直そう大きくもない軍艦だが、まるで天から選ばれた船であるかのように、この船に乗船して人生や運命が変わった偉人、英雄が多くいる。不思議な縁をもつ軍艦、咸臨丸の「乗船者名簿」をここで紹介したい。咸臨丸は、幕府がオランダへ注文した蒸気船2隻のうちの一隻。
先日ついに、今年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」が放送されました。主役は渋沢栄一ですね。その渋沢栄一を演じるのが吉沢亮さんです。吉沢亮さんのホロスコープは、太陽・水星・金星・火星が水瓶座なので、風の男です。すごい!!水瓶座の帝王じゃないですか。世は水瓶座時代。木星・土星が今年は水瓶座。水瓶座の帝王の吉沢亮さんが、水瓶座時代の始まりの年に大河ドラマの主役に。主人公の渋沢栄一も水瓶座的に、世のため人のために生きた人。資本主義の父と言われる渋
明治6年(1873年)7月29日付で板垣宛に出された西郷書簡の目的は、派兵先行論の板垣を説得して西郷の主張する使節派遣論に転換させることにあった。もし板垣が同郷の後藤(土佐)や征韓派の江藤、大木(共に肥前)を糾合して派兵論を主張すれば、西郷、大隈、三条の3名を凌ぐ多数派となるからである。西郷としては、まず板垣を翻意させ、彼の影響力をもって土佐、肥前の4参議を使節派遣論に転換させねばならなかった。そこで西郷は、自分が使節に立ち、交渉の場で殺害されることによって板垣の主張する派兵の名分が立つという「
ようやっと読み終えました。「竜馬がゆく」司馬遼太郎著1981年新装版発行文春文庫出版(画像は勝手ながらアマゾンよりお借りいたしました。)文庫本は全8巻文芸書判は、全5巻1963年から文藝春秋新社出版私は坂本竜馬を名前しか知らない状態で読み進めました。もちろん、幕末のころに活躍したお一人・・・くらいの知識はありましたよ(^_^)日本史を勉強しようと思ったら司馬遼太郎さんの著書を読み解いたら分る部分がたっぷりとありそうです。
村田さとは、中村半次郎の京都時代の恋人だった女性です。村田さと(既存写真の一部を修正)。大正十年(1921)八月十一日に81歳で亡くなっているので、逆算すると天保十二年(1841)生まれという事になるでしょうか。半次郎の『京在日記』によれば、半次郎とさとの出会いは慶応三年(1867)九月だったようです。半次郎は同月三日に京都市内で赤松小三郎を暗殺したばかりでした。さとの実家は四条小橋の高瀬川沿いにあった村田煙管店で、半次郎は頻繁に店に通い詰めていたようです。間もなく半
明治維新は、それまでの日本の政治、経済、文化を大転換させた日本の歴史の中でもトップクラスの転換点です。しかしながら、これから約20年間に起きて行く時代変化は、明治維新を遥かに上回る大転換の時代になる、と私は考えています。次の時代がどのようになるのか?それは誰も見えておらず、神のみぞ知る!ですが、これからだんだん見え出すはずです。世の中の流れを注視して行きたいと思います。幕末から明治維新に至る過程は、今後の参考になるはずです。幕末には、後に偉人と称される幕末の志
えっと...昨日は【青天を衝け】のレビューの投稿に失敗し、せっかく書き上げたデータも消失してしまい...。流石に落ち込んで、やる気を失ってしまいました(笑)。軽いプチキレ状態でしたね...。しかし、ここで引き下がっては【幕末オタ】の名が廃る!!なので、本稿を投稿次第...二日遅れの【青天を衝けレビュー】を...昨日書き込んでいた内容を思い出しながら...再度書きたいと思っております。暫し、お待ちを(笑)...。まあ、大体はですね...ネタを明かしますと...投稿日の
うちのブログは、アクセスの7割ちょっとが「検索」でいらっしゃる方々でして。ありがとうございます。日本古代史ばっかりやっている所ですが、たまに中世や近代や海外もやってます。ゆっくりして行ってってくださいましね☆で、アクセス解析を見てみると、多い日で「検索」の8割ほどは「系図」なのですが、ここ数ヶ月は『光る君へ』関連で来る「藤原氏」のほかに、「徳川家」でいらっしゃる方が多いのです。去年は大河ドラマが『どうする家康』だったので、その余波かな…と思いかけたのですが、検索ワードでは「徳川
韮山笠(にらやまがさ)です。良く、幕末を描いた戦闘シーンで登場する【餃子ヘッド】ですね(笑)。今年の大河ドラマ【青天を衝け】でも度々登場しておりました。皆さんも、何度か見かけられた事があるでしょう?恐らく、珍奇なイメージでご覧になられていると思います。(なんじゃありゃ?幕末の足軽はチンチクリンな被り物ばっかり...。チンドン屋か...笑。)まあ...分かります(笑)。戦国時代の甲冑武者の様に、ゴージャスな兜ではありませんからね(笑)。足軽ですら戦国期には頑丈そう
元治二年(1865)一月、報国隊を結成し、その隊長である都督となった野々村勘九郎(改め泉十郎)。長府藩に対して報国隊の結成を認めてもらえるよう上申書を提出した結果、長府藩は報国隊を正規の部隊として認めるとともに、野々村勘九郎を藩の目付役に任命します。こうして一見順調に見えた報国隊の船出でしたが、間もなく大きな問題が起こってしまいます。「長府随一の剣客」と呼ばれ、その一方で短期間とはいえ寺社奉行や町奉行の経験もあった野々村勘九郎は、報国隊の中にあって人物が飛び抜けていました。そのため、自然と
さて、そろそろ時間を戻しましょう。慶応四年(1868)二月三十日の夜、三枝蓊に対して二回目の尋問が行われました。一回目の尋問では共犯者はいないと述べた三枝でしたが、二回目の尋問では共犯者がいることを認めました。ミットフォードの回顧録によると、「朱雀操と名乗っていた共犯者の本姓は林田というが名前は知らない。彼は京都の近くの桂村の村医者の息子で士族ではない。彼は浪人で御親兵の南一番隊に属していた」と三枝は供述したようです。が、先述したように、実際には朱雀操はれっきとした武士であり、おそらく三
坂本龍馬のファンなら、龍馬が土佐在住時、「お徳」という女性に求婚したけれども、「龍馬さんは土佐にじっとしている人ではないから」ということで断られた、ということは周知のことと思います。お徳は元々の名を「岩本徳」と言い、四万十市の旧中村城下横町に天保14年(1843)に誕生しました。小さい頃より「美少女」として評判が高く、「中村小町」と呼ばれていましたが、13歳時、一家は高知市秦泉寺(地名)に移りました。ここでもお徳の評判は高く、数年後には高知城下等から毎日、多くの侍等が来て、求婚
風ノ章をはじめてみたら、序盤から過去作より丁寧なストーリー展開だったので、やってみたくなっただけ。※薄桜鬼真改風の章土方歳三√をプレイしながら注釈入れています。まだ進めてない場面はおいおい追加。※京都伏見に住んでいたくせに新選組のことは全く追っていなかったので付け焼刃年表です。※山南さんですが岩城升屋事件、鴻池事件に参加。ですがこの事件の時期がはっきりしていないそうです。※真改で追加された伊庭八郎、相馬主計などもちょこちょこ追記しています。薄桜鬼真改風ノ章限
2024年7月21日(日)、滋賀県守山市古高町の福寿院にて、古髙俊太郎さまの160周忌を迎えるにあたり、第160回俊太郎祭『古髙俊太郎先生没後160年祭』が神式にて執り行われましたことをご報告申し上げます。5年に1度執り行われる俊太郎さまの慰霊祭ですが、今年も快晴で(過去、私が参加してきた回は毎回晴天に恵まれており)俊太郎さまのご加護とご人徳とを感じ、より一層強い思いで、俊太郎さまを偲んでおりました。近年の異常気象で、本当に……本当に暑くて……駅から徒歩で向かったのですが、辿り着く前に
今回の旅のメインとなった、推し活の話をしよう。こちらです。佐賀の八賢人おもてなし隊、通算三千回記念公演。この告知を見た瞬間、わたしは衝動的に航空券の予約をしたのでした。最近は毎週東京に通っているため、脳内の距離感がバグっている…ところで、おもてなし隊のシステムってどうなっているのでしょうね?全国に隊があるけど、何か協会とか認定基準とかあるのだろうか。戦国時代の武将隊が多い中、幕末偉人は珍しいと思います。わたしが知っているのだと、あとは二本松少年隊かな。ちなみに今週末は二本松で「二本松戊辰
文吉を連れ去ったのは土佐勤王党でした。その一員であった五十嵐幾之進がのちにこんな談話を残しています。(閏)八月末日の晩の目明し文吉の絞殺一件、これには少し私も関係しております。瑞山(武市半平太)先生の木屋町の宿所に集まりまして協議をしましたが、斬りに行くという人が多くて仕方がない。そこで籤(くじ)取りをして決めますと、清岡治之助、阿部多司馬、岡田以蔵の三人が当たりました。島村恵吉が、あのような犬猫同然の者を斬るのは刀の汚れである。絞め殺すがよろしいと申しますと、皆それが良いということ
15でねえやは嫁にゆき~ではなく、15で日本に置き去りに~江戸時代後期に来日して日本に西洋医学を伝えたシーボルト。その2度目の来日の際に父に連れられてやってきた12歳の長男・アレクサンダー。シーボルトは日本人妻・タキとの間に娘・イネがいるが日本退去後、ドイツで結婚しており、3男2女をもうけている。15歳の時、父は帰国。残された彼は幕末日本で通訳を。その後、明治の日本と欧州を何度も往復する数奇な運命!出典
続きまして~こちら↓恋歌Amazon(アマゾン)3,500円恋歌(れんか)by朝井まかて今のところくまモンに恋心が湧かないから小説で恋心を味わおうと思って読んでみたで、以前、書評を書いた『白蓮れんれん』の柳原白蓮と宮崎龍介のような熱き恋愛小説を想像していたのだけど‥『恋歌』は恋愛小説というだけではないもっと過酷な物語だったよ確かに前半部分には苦しいほどの一途な恋が成就するまで‥が描かれ
■無名の剣豪「服部武雄」新選組ファンの間において、一番強いのは誰か?この問いに多くの人は、沖田・永倉・斎藤の三強の誰かを上げるのが通例だと思います。服部武雄?名前すらメジャーでは無い、この人物。ところが新選組隊内でも、一二を争う剣豪であったと伝わります。新選組緒士調役兼監察、撃剣師範を務め、新撰組で唯一二刀流を使った記述のある剣士です。その様な剣豪がなぜ?無名なのか?それは彼の生き様が関係しているのかも知れません。■剛腕の男服部武雄は1832年、播磨赤穂藩の服部覚平として
二条城御門番組剣術師範であった中川萬次郎の養子となった登代蔵は、十一歳になった文久元年(万延二年/1861)五月に与力見習となり、翌文久二年(1862)頃には父のもとで稽古場剣術世話役となっています。十二歳かそこらで剣術世話役とはすごい話ですが、これはどうも「お手伝い」役のようなものだったようです。元治元年(1864)の禁門の変に際しては二条城の消火活動に当り、翌慶応元年(1865)に京都文武場の開設が決まると、統陣太鼓世話方を申し付けられます。文武場の実際の運営は翌年からなので、先立
小510歳長女夏休みの宿題🍉自由研究完成!!5年生なので日本の歴史の年表か『まとめノート日本歴史』大人気小学まとめノート日本歴史書き込んで定着させてくれるノート型問題集!!中学受験にも役立つ小学高学年〜中学入試入試に対応できる重要語、重要年表、図表書き込…ameblo.jp大河ドラマ『鎌倉殿の13人』が流行っているので鎌倉時代の事とか書いてもらおうかなぁと思ったら戦国姫の浅井三姉妹を書きたい!!と言うので『戦国時代を生きた浅井三姉妹』大人気でシリーズいっぱい
幕府陸軍の軍装は大きく分けて文久、元治、慶応と3度変化しました。士官は御目見以上の者、諸藩から業前として招聘された有識者が任命されており、文久2年創設当初、正面に金輪の入った陣笠、韮山笠を被り、筒袖段袋、三斎羽織を着用していました。慶応2年に入り識別章が入った陣笠が制定され、筒袖とズボンの着用が定められることになります。背中に入った家紋と羽織の形状、ラインの入ったズボンを着用していることが確認できます。羽織は三斎羽織り、マンテル羽織、レキション羽織があり任意のものを着用してい
ブログ内に誤った表記があったために、修正致しました。今回の区切り最終日で、今日の内に帰宅するので15時位までしか歩けません。6時30分に朝食を摂りながら、Tさんと今日のスケジュールについて情報交換します。Tさんは相変わらず足首の状態悪いみたいでして、今日は歩けても歩けなくても安芸で2泊して休息日を作るそうです。そして実は私も今朝起きたら、何故か右足首のくるぶしの下辺りが痛いTさんとピッタリ同じ箇所です。不思議ですよね。もうこれはお大師さんの警告としか考えられません。ただ、私は歩く
土佐東街道(藩政期の呼称は阿波路)は香南市の旧赤岡町に於いて、国道55号の東から北側に並行して南下・東進しており、赤岡の商店街を通って、以前紹介した土佐勤王党結成の謀議を行った佐田屋のやや西方で旧香我美町岸本に入る。藩政期の赤岡村は商業のまちとして発展していたが、その反面、土佐有数の賤民部落として現代まで暗い影を落としてきた。以前紹介した逸話、高松順蔵が村の不良に野良犬をけしかけられたのも、そういう土地柄だったからだろう。ただ、勝手に穢多に指定された地域住民には罪はないため、犬をけしかけ
渡辺吉太郎が江戸浅草の生まれだとして、それはそれで疑問がないでもありません。一番引っかかるのが今井信郎との関係です。今井が渡辺吉太郎のことを桑名藩士だと思い込んでいたとすれば、それはすなわち今井信郎と渡辺吉太郎との間に面識がなかったことを意味します。今井信郎は天保十二年(1841)生まれで渡辺吉太郎の二歳上になります。住居は湯島天神下でしたが、弟・省三の証言によれば信郎は「剣術を藤川、柔術を窪田氏に就き」修行をしたとあるのですが、この藤川というのは下谷長者町の直心影流藤川道場のことと思
<実際の跡地ではないがファンは是非>以前、坂本龍馬が16歳時の嘉永3年、四万十市・赤鉄橋の上流右岸の堤普請の現場監督補佐として着任していた際、堤にあった並松という松林で昼寝をしていたことや、そのもたれかかっていた松が後に「龍馬昼寝の松」と呼ばれるようになったことを何度か述べた。また、2016年、そこより上流の入田にある桜づつみ公園内に、地元の龍馬会がこの伝承に関する看板を設置したことも紹介した。その看板を先日確認してきた。場所は並松(大正期まであった)跡よりかなり上流ではあるが、龍馬ファ
今や知る人ぞ知る年末の風物詩なのだけど、その昔、年末になると時代劇スペシャルっていうのが日本テレビで放送されていました。これがなかなかの大作で、後々語り継がれるような名作の数々が生まれています。その中でも評価が高いものの一つ、白虎隊。リアタイで家族でテレビを見た記憶がありますが、何せ子供だったもので、よくわからないところも多かった。もう一度見てみたいなーと思ったのですが、残念ながら配信とかはしてないらしい・・・?(時代劇専門チャンネルとかではたまに放送してるのかしら??)かくなるう
佐賀に行って来ました。(三回目)よく言う「推し活」とはこのことかなぁ、と実感しております。昨日の朝、帰って来ました。そして午後から仕事しました。だいじょうぶか、わたし。佐賀駅です。空が青いなあ〜そして、今回気づきました。雰囲気が決定的に違うわけが。佐賀のセミは違う佐賀というか、もしかすると九州全体なのかもしれないが、セミが朝からずーっとシャワシャワシャワシャワと鳴いているのですね。ミーンミンミン、じゃないんだな。それも轟音です。轟音。なんだか異国に
文久二年(1863)八月二十九日の夕刻のこと。京の都は鴨川の東岸、川端通の二条の辻をやや南に下がったあたりを、ある父娘(おやこ)が歩いていました。※.「文久二年京都細見図」より。父親は名を文吉といい、「猿(ましら)の文吉」の異名を持つ目明かしでした。世に名高い安政の大獄においては島田左近に従い、時の大老井伊直弼に反目する水戸派の検挙に功績をなし、その報奨金(※)を元に高利貸しをはじめて莫大な冨を得ていたことなどから、尊王攘夷の志士は無論、京の町の人々にもひどく憎まれていました
どうも、みけねこです。(※愚痴多め。気になる方はブラウザバック!!)(※愚痴多め。気になる方はブラウザバック!!)(※愚痴多め。気になる方はブラウザバック!!)(※愚痴多め。気になる方はブラウザバック!!)(※愚痴多め。気になる方はブラウザバック!!)「なぁ、これどう思う?」超忍の刀:沢村の愛刀。【龍の一族】なる忍者の一門が代々受け継いできたものを、沢村が譲り受けたらしい。かつて宿していた真の力は失われているそうだ。「あぁ、やっぱ…」「頭防具といい…この忍者は…【幕末☆ブサ