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ご訪問ありがとうございます。さて、いよいよ4年目から、崇神天皇の物語が始まります。少し長いので、まずは現代語訳で、何が書いてあるのかを読んでみましょう。途中チャチャ入れあり(崇神天皇)4年冬10月23日、(天皇は)詔ミコトノリして「これ我が皇祖ミオヤ・諸々の天皇たちには、天皇の位を継ぎ、天下を治めたのはのは、どうして自分ひとりのためであろうか?おそらく人びとが増えるように養い、天下を治めるためである。それゆえに私も奥の深い仕事をして、時に徳を敷くようにしよう。今、私は天皇の位を受け
天皇社(大神神社末社)大和国城上郡奈良県桜井市三輪字天王山(大神神社拝殿の南すぐ)■祭神御真木入日子印恵命(ミマキイリヒコイニエノミコト、崇神天皇)大神神社拝殿から「巳の神杉」を過ぎたすぐにある末社。小高い山の上に鎮座します。◎ご祭神は第10代崇神天皇。日本の歴史上何かと転機となった御世ですが、それまで廃れていた大神神社を再興させたという意味では、当社にとっての意義は大変重要かと。◎崇神天皇の御代に国家を揺るがすレベルの疫病が流行します。これは三輪の神である大物主神の祟りによ
『『川島神社』出張の合間神社巡り阿波徳島編~善入寺島と七十五の神事の謎~』『『中内神社』出張の合間神社巡り阿波徳島編~阿波藍と秘密の女神~』『『事代主神社』出張の合間神社巡り阿波徳島編~大物主と二柱の事代主~』『『建布都神社』…ameblo.jp↑のつづき。さて、善入寺島(粟島)に想いを馳せながら川島神社を後にして、車でさらに西へ数分。『大明神農村公園』の看板を発見。カッコよすぎる園名に興奮しながら奥の石段を進む。立派な鳥居。この山の上には、多くの古墳群が眠っている
『日本書紀』を読んでいると、不思議な数字に気が付くことがあります。『日本書紀』編纂時に現れるのは、天武天皇の崩御日と川嶋皇子の薨去日が同じ9月9日という不思議な一致です。川嶋皇子は、天武天皇が国史編纂の詔を出されたときに、筆頭に名前を記されている皇子です。その川嶋皇子が、天武天皇が崩御された5年後の同じ日に亡くなっています。神武東征に関連して、神武天皇が東征出発前に語られた言葉の中に、1792470年という数字が登場します。東征出発の年が、瓊瓊杵尊が天孫降臨してから17
ご訪問ありがとうございます。今回から垂仁天皇の巻に入ります。とりあえず読んでみましょう。活目入彦五十狹茅イクメイリヒコイサチ天皇(垂仁天皇)は、御間城入彦五十瓊殖ミマキイリヒコイニエ天皇(崇神天皇)の、第三子である。母の皇后曰御間城ミマキ姫は、大彦命の娘である。天皇は、崇神天皇29年壬子ミズノエネの年春正月1日瑞籬宮に生まれ、生まれながらに秀でた容姿で、壮年になってからは度量も広く、人となりは真理に叶い、歪めたり飾ったりしなかった。(崇神)天皇はたいそう可愛がって、お側にお置きになっ
出雲大神宮の本殿背後の山が、御神体山「御蔭山(みかげやま)」であり、磐座群が鎮座している。この磐座群は、国常立尊(くにのとこたちのみこと)の象徴として、一万年以上前からこの地に鎮まる聖域であり、今も禁足地になっている。この御神体山は、御影山、千年山、千歳山とも称し、太古より人々から神そのものとして崇められてきた。本殿横の鳥居をくぐると、鎮守の杜であり、春日社、古墳、磐座が鎮座している。この磐座は、本殿の真後ろの位置にあり、パワースポットとされている。磐座内は、神域であり禁足地になっている。
水口神社(近江国甲賀郡)■表記大水口宿禰(オオミナクチノスクネ)大水口足尼、大水口命、水口命■概要物部氏系で穂積氏の遠祖。司祭者であったと思われます。◎紀の崇神天皇七年の段に登場します。━━倭迹速神淺茅原目妙姫(ヤマトトハヤカミアサヂハラマクハシノキミ)・穂積臣の遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君(イセノオミノキミ)が共に同じ夢を見て天皇に奏上した。昨夜の夢に一人の貴人が現れて言うには、大田田根子命に大物主大神の神主として祭らせ、市磯長尾市(イチシノナガオチ)に倭大國魂神の神主として祭ら
大和神社(おおやまとじんじゃ)大和国山邊郡奈良県天理市新泉町星山306(P有)■延喜式神名帳大和坐大國魂神社名神大三座月次相嘗新嘗の比定社■社格等二十二社(中七社)の一社旧官弊大社現在は別表神社■祭神日本大國魂大神八千戈大神御歳大神日本(倭)の國魂を祀るという壮重な社。◎創建由緒は紀においてはっきりとしています。崇神天皇六年に疫病が全国に蔓延、世の中が乱れ未曾有の大危機が訪れます。天皇はあらゆる原因を探り手を打ちました。その一つ、宮中に天照大神の御魂と大和
推古天皇までの無事績年をチェックしたデータをもとに、歴代天皇の事績を記した在位年と実年代(西暦)を対応させたのが表1です。思った以上に年代が下ってくるのがわかります。仁徳天皇の即位は423年。倭の五王の最初の人物である讃が、宋の武帝に遣使したのが421年、425年、430年とされていますが、それに近い年代となります。崇神天皇の即位は302年。そして、318年に崩御されたことになります。これはたまたま偶然でしょうが、318年は古事記の崩年干支に記される戊寅と一致します。さらに、欠
今日は徳島県北西部の神社などを精力的に巡ります。今回の3日間の旅行では時間的に全然足りない事が分かったので、アクセスの悪い徳島県の北西部、吉野川北部を中心に巡る計画です。飛行機のフライト時間ギリギリまで頑張ります。先ずは朝ご飯を食べに食堂へ降りました。昨晩にスタッフの方から言われた通り冷蔵庫のトレーを取り出しました。食パンをトーストして紅茶を淹れただけの作業です。これで夕方まで頑張ります誰も居ない宿のフロントに鍵を置いてチェックアウトです。玄関を出たら隣家の方が門を開けてくれ
『出張の合間の神社巡り阿波徳島編『多祁御奈刀彌神社』~元諏訪とタケミナカタの故郷~』『出張の合間の神社巡り四国編香川県『八坂神社』~牛頭天皇と琉球の繋がり~』『出張の合間の神社巡り四国編香川県『鵜羽神社』~ウガヤフキアエズ生誕の地~』『…ameblo.jp↑のつづき。さて、元諏訪を後にしたワタシは、再びディーゼル車に乗る。見た目は電車だが、動力源は電気ではないのだ。下浦駅から一駅、石井駅で下車。そこから徒歩5分。『大御和神社』である。「おおみわ」ですよ皆さん❗あやかり兎。
ご訪問ありがとうございます。次の四道将軍は、いったい何者か?それを考える前に、ここで整理のために崇神天皇のいた時代をざっと見ておきましょう。さて、以前ご推薦した「古代史講義」には、最新の考古学の成果が説明されてありましたが、それをまとめたのが下の表です。見えないですね(^^;)タップすると拡大できますが、いちいち見なくても大丈夫です🙆この「古代史講義」は各時代の専門の先生が、邪馬台国時代から平安時代に至るまでを分けて書いておられ、その第1講は、島根県古代文化センターの吉松大志さんな
ご訪問ありがとうございます。さて崇神天皇の時代については、前回のお話のように、最近の九州での考古学成果では、博多湾で北部九州と出雲が中心に大陸との交易を行い、西日本の諸地域はむしろ北部九州に依存していたということが推定できるのですが、そういうことになると、帯方郡を通じて、魏に遣使した邪馬台国が、北部九州に依存するような形で交易を行っていた西日本のどこかにあるというよりは、北部九州そのものであったというのが自然ではないか……という考えを呈示させていただきました。さて、「日本書紀」では
今回は、大和国一之宮・大神神社の境内に隣接する境外社2社をご紹介します。大神神社・境外摂社①神宝神社(かんだから)当社は、熊野三山の神々を祀る神社です。◇鎮座地:大神神社境内・字大宮川上◇御祭神1:家都御子神(けつみこのかみ)◇御祭神2:熊野夫須美神(くまのふすみのかみ)◇御祭神3:御子速玉神(みこはやたまのかみ)◇御朱印:なし◆手水舎まずは。大神神社の手水舎にて禊です。この日は小雨模様のため、時折フラッシュが自動発光します。◆境外
奈良県桜井市にご鎮座する志貴御縣坐神社は、第10代崇神天皇の宮跡と言われています。境内の調査で縄文時代の遺跡なども発見され、古来より祭祀が営まれていた地と考えられています。神社の立地は、三輪山の山裾の平地にご鎮座しています。三輪山は、山を御神体とする信仰の山、神名備(かんなび)です。『古事記』『日本書紀』等の奈良時代の歴史書にも、三輪山を取り巻く話がいくつも紹介されています。境内からは桜井市が低く見渡せます。このことから、崇神天皇の宮は神社敷地だけではなく、近隣の土地、小学校あた
~大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立~古来、和歌にも詠まれてきた大江山へ、真名井神社からの帰り道で差し掛かりました。和泉式部の娘・小式部内侍の余りにも有名な歌。当時、母の和泉式部と同じく女官として出仕する傍ら、歌人としても知られ始めていた小式部内侍でしたが、一部には、彼女の詠む歌は母の和泉式部が代作しているのでは?などと悪評を流す人々もおり、その噂がまことしやかに都人の間で流布されていたそうです。この噂を受けて、とある歌合せの場に参加していた小式部内侍に対し、同席した