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ご訪問ありがとうございます。さて、いよいよ4年目から、崇神天皇の物語が始まります。少し長いので、まずは現代語訳で、何が書いてあるのかを読んでみましょう。途中チャチャ入れあり(崇神天皇)4年冬10月23日、(天皇は)詔ミコトノリして「これ我が皇祖ミオヤ・諸々の天皇たちには、天皇の位を継ぎ、天下を治めたのはのは、どうして自分ひとりのためであろうか?おそらく人びとが増えるように養い、天下を治めるためである。それゆえに私も奥の深い仕事をして、時に徳を敷くようにしよう。今、私は天皇の位を受け
前回の記事「邪馬台国畿内説の都・纒向遺跡から出土した桃の種の年代報道について」のなかで「崇神天皇が4世紀初頭あたり」と書いたことについて、年代観に関するコメントをいただいておりましたので、今回はいま私が用いている年代復元法について改めてまとめてみました。私が色々なギミックでもって意図的に「崇神天皇を4世紀初頭あたり」に位置づけているのではないということはお分りいただけるかと思います。もちろん、それによって得られた実年代を他者に押しつける気はありません。さまざまな人が考える実にさまざまな年代観と
阿良須神社(東舞鶴)◆丹後の原像【19.失われた大王「玖賀耳之御笠」~1】《過去記事は最下部に移動しました》丹後を巡っていると折に触れ登場するのが「玖賀耳之御笠」(クガミミノミカサ)。「陸耳御笠」という表記も。敗者の歴史として、今回はこの人物(神)に焦点を当ててみたいと思います。記の御真木入日子印惠命(崇神天皇)の状に、「また日子坐王をば旦波國に遣はして玖賀耳之御笠を殺さしめ給ひき」とあります。これは四道将軍派遣の中の一行。紀には記されません。「勘注系図」にも、土蜘蛛である
2008年。出雲大社は60年ぶりの本殿の改修に伴い、ご神体を仮殿に移した。出雲大社本殿の小内殿奥深くにご神体が鎮座しているものの、それが何なのかは不明なのだそうだ。平安時代に書かれた源経頼の日記【左経記】によれば、出雲大社の奥には七宝で作った宝殿に七宝の筥(はこ)が安置されていると。七宝とは金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・珊瑚・瑪瑙のこと。筥そのものがご神体ではないかと源経頼は推測しているのだが、出雲大社には【七宝で作られた宝殿】などないので信憑性には欠ける。
続きです。フォートレスの撮影場所である「昇仙峡の仙娥は月神」という部分と、阿波の秘史は関係していますので合わせて綴ります。特にお伝えしておきたいのは、崇神天皇と神武天皇は同時代ということです。●昇仙峡の仙娥は月神(★撮影場所(昇仙峡))→かぐや姫物語へ(新・竹取物語)阿波の秘史と合わせて綴ります。「フォートレスー護りし者たちー」の撮影場所は、昇仙峡です。嫦娥は元々、姮娥と呼ばれていて、「姮」は「令嬢・お嬢様」、「娥」は美女なので、美しい姫なんですよね。
以前、「三種の神器」の歴史について、語ってみたことがありました。流転の神器(関連)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-12744391887.html大河ドラマ『光る君へ』関連で、最近そのページを読み返したのですが。そういえばアレをやってなかったなーと、その時になって気づきまして…。「元伊勢伝承」←これです。おかげで、『光る君へ』感想本文でやりたかったことを、1つ飛ばしていたりして…。そこで、今回は「元伊勢」の伝承について
美具久留御魂神(みぐくるみたまじんじゃ)河内国石川郡大阪府富田林市宮町3-2053(境内に駐車可)■延喜式神名帳美具久留御魂神社の比定社[境内社利鴈神社]利鴈神社の論社■旧社格郷社■祭神美具久留御魂大神[左殿]天水分神弥都波廼売命[右殿]国水分神須勢理比売命「宮山」と称される霊峰を信仰対象とする社。「石川」の西岸に位置し、ぽっかりと浮かび上がる「宮山」。麓は開発が進み住宅が密集しているものの、この霊峰だけは往古の神寂びた様を未だに残しています。◎当社の創
石上神宮:奈良県天理市布留町384当社を再訪したのはあるサイトで拝殿裏の禁足地を見学できると知ったからだ。初めて訪れた時の印象は専らニワトリで、国宝の拝殿や重文の楼門はあるものの、日本有数の古社とされる割にそれほど目に止まるものがなかった。禁足地があることは知っていたが、拝殿前からは窺えず、周囲は森で囲まれているためにその様子はさっぱりわからなかった。楼門拝殿定刻の午後1時に社務所前に集合する。集まったのは20人程だろうか。授与品を受け取り、境内で整列させられた後、二手に分かれて神職から
御座峰(龍田大神降臨地)河内国大県郡大阪府柏原市雁多尾畑(P無し、いつも停め置きしています)「龍田大神」が降臨したとされる推定地、伝説の「龍田山」であるとも。大和国平群郡と河内国大県郡との境。標高は300mほど、山頂近くに鎮座します。地名は「雁多尾畑(かりんどおばた)」。すぐ側を古代の主要道路「龍田古道」が通っています。◎「龍田大神」とは文字通り龍田比古神・龍田比売神のことではないかと考えています。龍田大社に鎮まる天御柱命・国御柱命(風神)とは異なり、龍田神社の配祀神として鎮まる龍田
(向かって右の左殿が齋宮神社)■表記紀…彦坐王記…日子坐王他に彦坐命など■概要第9代開化天皇の第3皇子。和珥氏の遠祖である姥都媛命(ハハツヒメノミコト、記では意祁都比売命)との間に生まれています。◎崇神天皇十年、丹波国(当時は丹後国と但馬国が分割前)に派遣され、在地豪族(土蜘蛛)である陸耳御笠(クガミミノミカサ)を討ち平定したとされています。御子神である丹波道主命は「四道将軍」として丹波国に派遣されたことになっていますが、丹波国で出生したとされるので、彦坐王が四道将軍とし
☆天理市立黒塚古墳展示館◎天理市の案内サイト天理市立黒塚古墳展示館のご案内|天理市国指定史跡黒塚古墳のガイダンス施設です。館内では竪穴式石室を実物大で再現しています。また、三角縁神獣鏡33面、画文帯神獣鏡1面、鉄製刀剣類のレプリカを展示しています。[注意]事情により開館日程を予告なく変更することがあります。[注意]台風等により予告なく臨時休館することがあります。www.city.tenri.nara.jp記事を上げていないことから、7年以上ぶりの見学かな?3度目です。あの「三角
17日(日)は毎年恒例行事の大和三社詣で大和三社は私が勝手にそう呼んでいまして(;´∀`)大神神社大和神社石上神宮の三社を指します。この三社、特に大神神社と石上神宮は初めて訪れてから35億、じゃなくて(^O^;)35年くらい前に、山の辺の道を歩いて訪れて以来。そして、今の様に?真剣に神仏に向き合うきっかけもこの2社。一時期は月参りもしていましたが、もう15年。途中に参拝できない時期を越えて、今年も額づく事ができました。11月、12月、1月は、私にとって最重要のお宮をお詣りする月
神御前神社(大神神社境外摂社)(かみのごぜんじんじゃ)大和国城上郡奈良県桜井市茅原字神御前(北側すぐに大神神社末社富士神社・厳島神社があり、その駐車場に停めて併せて参拝がおすすめ)■祭神倭迹迹日百襲姫命箸墓古墳に眠るとされる百襲姫神を祀る社、「三輪山」山頂からほぼ西に鎮座します(若干のズレは写真参照)。◎倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトビモモソヒメノミコト)は第7代孝霊天皇の皇女であり、大物主神との神婚者(巫女)。第10代崇神天皇の御代、疫病が大流行したため八百万の神々を集めて
聴部神社丹後国熊野郡京都府京丹後市久美浜町大字友重字式ノ谷(一の鳥居前に寄せて停めました)■延喜式神名帳聞部神社の比定社■旧社格村社■祭神菊理比賣命久美浜町の外れ長閑な農村地帯、山裾に一の鳥居、社殿は中腹に鎮座します。◎社伝によると崇神天皇の御宇、河上摩須神による勧請とされています。「熊野郡誌」には「神名帳考証」を引き、菊理比賣と水分神としています。菊理比賣から「クリのキとなり媛のヘととなりキキベと称するに至れるなり」として、ご祭神を菊理比賣神とするのは当然の帰結であると断
仁科濫觴記は仁科宗一郎氏の解釈によれば平安後期に残っていた伝文を記録したものであり、その後江戸時代に至り追補されたことが認められるとしている。崇神天皇末の皇子仁品親王陵墓とその後の神事についてこの安曇平が海抜700mを境にして広大な湖だと称しているのは信濃国安曇開基、信府統記旧俗伝新撰仁科記などにあり、時代は景行天皇12年、ある大雨の年の満水時、犀竜小太郎が現れて山清路の谷の巨岩を穿って、水内の橋下の岩山をも破って、安曇の湖沼の水を一気に下流へ流したことが記されている。仁