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本日は大きな国難を乗り越えた天皇の祭日が重なっています。★第十代崇神天皇は、纒向時代の天皇で三世紀に活躍したといわれています。奈良県桜井市には纒向遺跡がありますが、ここは崇神天皇が遷都された磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)の近くであり、その規模の大きいことからいかにこの時代から繁栄されたかを物語っており、崇神天皇の御事績とも当てはまっています。古事記では「所知初国之御真木天皇(はつくにしらししみまきすめらみこと)」日本書紀では「御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)」とあり、ま
地元の神社に初詣しました。宇都宮市の中心部にある二荒山神社です。正月の3が日は恐ろしい程の混雑が予想されたので、今日6日の早朝に初詣です。混雑していませんでしたお賽銭は○○円、今年1年の「医療事故ゼロ」「商売繁盛」「スタッフ円満」を祈願しました。PayPay払いは無かったです。ここの境内は戊辰戦争の「宇都宮城の戦い」の場所でもあります。新撰組が唯一圧勝ここ二荒山神社の御祭神は「豊城入彦命」です第10代崇神天皇の長男です。長男ですが、皇位を継げませんでした(弟が第11代天皇と
年末から今日までインフルで寝込んでいましたが、昨年最後に訪れた播磨の神社が面白そうなので紹介しておきます。井関三神社と言います。式外社ですが、第10代崇神天皇の御代からの伝承があります。井関三神社の主祭神は、天照国照彦火明櫛玉饒速日命(=ニギハヤヒノ命)です。井関三神社は、社伝によると、崇神天皇2年(BC96年?)に天照大神のご神託で崇神天皇の勅令により播磨国揖保郡亀の山に天照国照彦火明櫛玉饒速日命が鎮座されたのが始まりとされています。式
☆天理市立黒塚古墳展示館◎天理市の案内サイト天理市立黒塚古墳展示館のご案内|天理市国指定史跡黒塚古墳のガイダンス施設です。館内では竪穴式石室を実物大で再現しています。また、三角縁神獣鏡33面、画文帯神獣鏡1面、鉄製刀剣類のレプリカを展示しています。[注意]事情により開館日程を予告なく変更することがあります。[注意]台風等により予告なく臨時休館することがあります。www.city.tenri.nara.jp記事を上げていないことから、7年以上ぶりの見学かな?3度目です。あの「三角
仁科濫觴記は仁科宗一郎氏の解釈によれば平安後期に残っていた伝文を記録したものであり、その後江戸時代に至り追補されたことが認められるとしている。崇神天皇末の皇子仁品親王陵墓とその後の神事についてこの安曇平が海抜700mを境にして広大な湖だと称しているのは信濃国安曇開基、信府統記旧俗伝新撰仁科記などにあり、時代は景行天皇12年、ある大雨の年の満水時、犀竜小太郎が現れて山清路の谷の巨岩を穿って、水内の橋下の岩山をも破って、安曇の湖沼の水を一気に下流へ流したことが記されている。仁
大神神社が講社崇敬会会員等向けに年2回発行される「大美和」。今号で148号目。70年余り続いているもの。神職たちの大神を奉斎する「篤い」「熱い」お気持ちがダイレクトに伝わってくる小冊子。この書を頂けるだけでも講社崇敬会会員である価値はあると思っています。~*~*~*~*~*~*~*~*~*~能・狂言・歌舞伎…これらには縁遠い人生を歩んできました。神社史・古代史に於いても、知識は多少なりとも必要なんですけどね。◎能「三輪」について*「親元日記」の寛政六年(1645年)の状に、
いよいよ師走になりテレビやネットの記事に、新年の三社参りのお勧めスポットを紹介する番組や記事が多くなった。そんな記事を読みながら、古代史の研究者には「崇神天皇を実在と考え、神武天皇は「記紀」がわが国の歴史を悠久の昔に設定するために創作した架空の初代天皇」だと考えている人が多いことが気になったそれは間違い!(以下、生野先生の考察内容の概要だけ紹介します)神武天皇こそ実在の初代天皇(天皇号の使用は690年正月一日持統から)である。神武の実年代(294年即位~318年没)は記紀編者
【『日本書紀』の日子坐王】『日本書紀』の開化天皇の系譜には、后・妃が三人、皇子が三人記されている。『古事記』が四人の妃と四人の皇子及び一人の皇女が記されているのと比較すると簡略化された印象を与える。具体的には、開化記には「娶旦波之大縣主・名由碁理之女・竹野比賣、生御子、比古由牟須美命。一柱。此王名以音。又娶庶母・伊迦賀色許賣命、生御子、御眞木入日子印惠命印惠二字以音、次御眞津比賣命。二柱。又娶丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命意祁都三字以音、生御子、日子坐王。一柱。
2008年。出雲大社は60年ぶりの本殿の改修に伴い、ご神体を仮殿に移した。出雲大社本殿の小内殿奥深くにご神体が鎮座しているものの、それが何なのかは不明なのだそうだ。平安時代に書かれた源経頼の日記【左経記】によれば、出雲大社の奥には七宝で作った宝殿に七宝の筥(はこ)が安置されていると。七宝とは金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・珊瑚・瑪瑙のこと。筥そのものがご神体ではないかと源経頼は推測しているのだが、出雲大社には【七宝で作られた宝殿】などないので信憑性には欠ける。
中能登地方は特別な地域中能登地方には3世紀頃から、羽咋氏、能登氏という強力な豪族が存在していたと伝わります。その豪族は当時の天皇家と深い関わりがありました。羽咋氏の祖第11代垂仁天皇の皇子磐衝別命(いわつくわけ)能登氏の祖第10代崇神天皇の皇子大入杵命(おおいりき)その皇子を祀る神社やお墓があります。また、第10代崇神天皇の皇女沼名木入比賣命(ぬなきいりびめ)を祀る神社や織姫とされる伝承も残っています。羽咋氏が治めていたとされる地域(羽咋市)能登
「8神武東征(その8)」今日は、坂上田村麻呂みなさん、おはようございます11月5日は坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命されました東北地方の蝦夷を説得して平定しました説得に応じたのがアテルイとモレです神武東征(その8)神武と崇神(10代)はともに称号を「ハツクニシラス」スメラミコトと日本書紀にあります「初めて国を統一した天皇」という意味です初代天皇というわけです同じ名前を使うことは例えば醍醐と後醍醐などのように数多くあります先代を尊敬し
出雲大神宮が凄く穏やかな気持ちになりました。崇神天皇様昨夜、YouTuberの方で古事記を解説したのを見たから何となく分かったここからは入山手続きをされた方しか入れないです。撮影禁止です。この奥は、とても良い空気でした。坂道なので、足元は気をつけてくださいねスニーカーを履くことをオススメします。
☆葛木坐火雷神社(葛城市)日露戦争戦利品の砲も/奈良葛城山のふもと、笛吹神山に鎮座するこの神社の創建は神代とも神武天皇の代とも伝えられますが、明らかではありません。神社に伝わる旧記から崇神天皇の代にはすでにこの地に鎮座していたことがうかがえます。祭神は火雷大神と天香山命です。王朝の笛師をつとめた笛吹連(ふえふきのむらじ)がこの地に居住、天香山命を祖先神として笛吹神社に祭られたのが始まりといわれています。(10月16日(水)毎日新聞朝刊〈一部抜粋〉)
古事記・日本書紀には初代・神武天皇からその後の歴代の天皇についての記録が書かれています。ところがこれらの天皇の中で「実在しなかった」と考えられている天皇が8人いて「欠史八代」と呼ばれています。2代綏靖天皇から9代開化天皇までの8代の天皇です。これらの天皇が「実在しない」とされる説の理由については以下があげられています。1.欠史八代天皇の寿命が不自然に長い。2.欠史八代天皇は帝紀だけで旧辞がない。3.欠史八代天皇の名前が後世の天皇の名前と似通っている。4.欠史八代天皇は全て父子継承で
御祭神:天水分神速秋津比古神国水分神大和の東西南北に祀られた四水分神社のうち東に当たるのが当社とされる(他の3つは都祁水分神社、葛木水分神社、吉野水分神社)。宇陀地域には他に2つの水分神社があり、宇陀市榛原下井足(はいばらしもいだに)の宇太水分神社を「下社」、同市菟田野上芳野(うたのかみほうの)の惣社水分神社を「上社」、本項で解説する同市菟田野古市場の神社を「中社」とも称する[1]。古市場の由緒によると、創立は崇神天皇の時代で、2003年の社殿の塗り替えの時にわずかに残された色彩が発
こんばんは今日は朝から雨の大阪雨が上がると蒸し蒸しいつまで暑いのやら?さぁ大神神社さんの続きです巳の神杉さんにご挨拶をしてテクテク鳥居方へ神宝神社熊野三山の神々をお祭りしてます御祭神家都御子神さま熊野夫須美神さま御子速玉神さまテクテク天皇社三輪山の麓に都をおかれた第十代の崇神天皇をお祀りしてますテクテク三輪成願稲荷神社鳥居をくぐりこんにちはこんにちは御祭神宇迦御
続きです。フォートレスの撮影場所である「昇仙峡の仙娥は月神」という部分と、阿波の秘史は関係していますので合わせて綴ります。特にお伝えしておきたいのは、崇神天皇と神武天皇は同時代ということです。●昇仙峡の仙娥は月神(★撮影場所(昇仙峡))→かぐや姫物語へ(新・竹取物語)阿波の秘史と合わせて綴ります。「フォートレスー護りし者たちー」の撮影場所は、昇仙峡です。嫦娥は元々、姮娥と呼ばれていて、「姮」は「令嬢・お嬢様」、「娥」は美女なので、美しい姫なんですよね。
💌記紀の編集者は、国家経営に都合の悪い歴史を隠蔽し、歴史を偽造(ぎぞう)・捏造(ねつぞう)したのであります。その象徴的な事例が、渡来王朝であった崇神天皇の出自隠(かく)しでした。🌷記紀の出自隠(かく)しは崇神天皇だけではありません。徐福(じょふく)渡来史が何も記載されてありません。神功皇后の三韓征伐の出兵の動機も正直に記載されてありません。実は新羅の王位継承問題であったのです。🌺徐福の件も、三韓出兵の件も、出雲口伝で真相が明らかとなりました。記紀の編集方針で一貫しているのは「大王(支
古く崇神天皇の御代にはじまる二千年来の伝統を誇るお祭り「秋の大神祭」が、令和6年10月24日(木)に行われます!豆絞りにハッピ姿の子どもたちが元気に掛け声をあわせ、それぞれの町内より太鼓台を引き回します。15時には拝殿前にすべての太鼓台が集合し、お祓を受けた後、引き続き「御供わたし」があり、神前に供えられた紅白の小餅が豊作と家業繁栄を祝して授与されます。このとき社頭は大変な賑わいとなります。この日は、街中から子供たちの元気な掛け声と太鼓の音を聞くことが出来ます。ぜひ一度訪れてみ
おはようございます。今日も秋晴れの様ですね。さて今日は大神神社番外編です。寄り道を注意されることの多い私が(笑)、今回お参りをしなくては・・と思っていたのが、崇神天皇様の天皇社だったんです。というのは前回お参りした時に、桧原神社も参拝してくださいと狭井の神様からお願いされたのです。参拝後にお礼かたがたご挨拶していると、桧原神社では不思議な映像が下りてきました。初代斎王である豊鍬入姫様の、少し悲しいお話でした。。わざわざ私に見せるという事は、なんとか解放してほしいっ
ようこそ!!好きなことを好きなように好きなだけ発信してます。新地亜紀と同居人みっちゃんです。いつもご訪問ありがとうございます。*・・・*★*・・・*★*・・・*★*・・・*兄出雲振根ーいずものふるねー弟出雲飯入根ーいずものいいいりねー『日本書紀』にのみ、逸話が載っています。ある日、崇神天皇は、天照大御神と、須佐之男命の誓約で生まれた天之菩卑能命の御子、建比良鳥命ーたけひらとりのみことー『日本書紀』では、武日照命ーたけひなてるのみことー別名天夷鳥命ーあ
ようこそ!!好きなことを好きなように好きなだけ発信してます。新地亜紀と同居人みっちゃんです。いつもご訪問ありがとうございます。*・・・*★*・・・*★*・・・*★*・・・*丹波比古多多須美知能宇斯王ーたんば/たにはひこたたすみちのうしのみこー『日本書紀』では、丹波道主命たんば/たにはみちぬしのみこと又は丹波道主王と表記。父第九代開化天皇の第三皇子日子坐王ーひこいますのみこー『日本書紀』では、彦坐王と表記。母天御影神ーあめのみかげのかみー※
『日本書紀』によると崇神天皇時代に和泉国の茅渟県で、大田田根子命は見つけだされ、大神神社の神主となりますが、その祖先は天日方櫛日方命といいます。天日方櫛日方命に注目すると、この人物はとても大きな意味の名前であることに気が付きます。その系譜の祖は、山代水主の祖と伝わる、玉勝山代根古命になります。大神神社社家の祖、天日方櫛日方命と、大田田根子命。–古代史考証神武天皇と卑弥呼の時代著者佐藤洋太kodaishikoushou.com
ようこそ!!好きなことを好きなように好きなだけ発信してます。新地亜紀と同居人みっちゃんです。いつもご訪問ありがとうございます。*・・・*★*・・・*★*・・・*★*・・・*建沼河別命ーたけぬなかわわけのみことー『日本書紀』では、武渟川別又は、武渟河別と表記。父大毘古命母記述なし弟妹比古伊那許志別命ーひこいなしわけのみことー膳臣ーかしわでおみー(料理方を司る職)の祖。御真津比売命ーみまつひめのみことー崇神天皇の皇后
9/23三連休の最終日は三輪山の祈りからスタート🙏三輪山で素晴らしい神様とのお時間をいただきました✨さて、今回の奈良旅は、今までご縁をいただいた神仏への御礼まいりがメインでしたが、唯一新しい場所に、1箇所だけ伺いました。それは、大和神社です🙏大和神社由緒唐遣使の大使として派遣されるとき交通安全を祈願した神社です。ooyamatohp.net大神神社の狭井神社は、明治に入るまで、大和神社の別社であったといわれています。狭井神社は、大物主命の荒御魂を祀る🙏また、大
大直禰子神社(おおたたねこじんじゃ)は、大神神社の摂社の一つ。二の鳥居に向かって北側(右側)にしばらく進んだ場所にあります。祭神は、三輪の大神様のご子孫の大直禰子命(若宮様)。明治以前は大御輪寺(だいごりんじ)として、若宮神と十一面観音像(国宝・現在聖林寺奉安)があわせてまつられていました。崇神天皇の時代に国中で疫病が大流行した時、天皇の夢にあらわれた大物主大神の神託によって、茅渟県陶邑(現在の堺市)にいた大直禰子命が見出され、大神を祀る神主にされると疫病は治まり国が平和に栄え
ようこそ!!好きなことを好きなように好きなだけ発信してます。新地亜紀と同居人みっちゃんです。いつもご訪問ありがとうございます。*・・・*★*・・・*★*・・・*★*・・・*大毘古命ーおおびこのみことー『日本書紀』では、大彦命と表記。父第八代孝元天皇母内色許売命ーうつしこめのみことー御子第一皇子建沼河別命ーたけぬなかわわけのみことー阿部臣ーあべのおみー(後の安倍氏)の祖。東方十二ヶ国を守護する、四道将軍の一人。
磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は、日本書紀に記載されている崇神天皇の都。大正年間に志貴御県坐神社に「崇神天皇磯城瑞籬宮跡」の石碑が建てられています。☆疫病から民を救った崇神天皇☆記紀(古事記・日本書記)によると、崇神天皇の時に民が死に絶えてしまうような疫病が発生。これは、三輪山の神である大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)のしたこととお告げを受けた天皇は、神の意に従い神の子孫となる大田田根子(オオタタネコ)を探し出しました。そして、彼に託して三輪山に大物主大神をお祀りしたところ、祟り
大神神社より山の辺の道を南に進んだ金屋と呼ばれる地区に鎮座する志貴御縣坐神社(しきみあがたにますじんじゃ)。祭神は大己貴神になります。志貴御縣坐神社の付近は、一説に『古事記』・『日本書紀』に第10代崇神天皇が営んだと見える磯城瑞籬宮(師木水垣宮)の跡地に比定され、現在は石碑が建てられています。※第10代天皇・崇神天皇の磯城瑞籬宮については、別記事で紹介します。◇志貴御縣坐神社の基本情報◇拝観時間:境内自由拝観料:無料主祭神:大己貴神創建:不詳住所:奈良県桜井市金屋8
陸奥の国、二ノ宮岩代の国、一ノ宮会津総鎮守伊佐須美神社「会津」という地名は、第10代崇神天皇の時に派遣された四道街道将軍のうちの2柱、北陸道を進んだ大毘古命東海道を進んだ建沼河別命の父子が会津で行き会ったことに由来するといわれています。そして、2柱が国家鎮護のために伊弉諾尊、伊弉冉命を祀ったのが伊佐須美神社の創祀とされています。これら四柱がご祭神「伊佐須美大明神」と総称されています。訪れたのは8月の初旬