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⬛️女性芸能人たちの自殺の原因2020年7月18日付の当ブログ「俳優三浦春馬の死、珍しくない俳優の自殺」、2020年7月23日付の当ブログ「三浦春馬自殺分析」では、俳優三浦春馬の「自殺」をベースに、「自殺」に進むストーリーを描いてきた。自殺をした「女性芸能人」も少なくはない。理由については、「「三浦春馬自殺分析」」でも書いたが非常に複雑である。「殺される場合」は、「殺し手側」の身勝手な理由が主である為、「殺される側」の知る由はない。ただ、フリーアナウンサーであった川田亜子の死
ブログへの訪問ありがとうございます!もう何日か過ぎましたが、4月8日は、岡田有希子さんの命日なんですよね。人気アイドルであった岡田有希子さん(当時、18歳)が所属事務所のあるビルから飛び降りて亡くなるという衝撃的な出来事があったのは、今から35年前。私は12歳でした。中学の入学式が午後からで、フジテレビのお昼の番組「笑っていいとも」を観ながら制服に着替えていたら、テロップが流れてきました。「えっ⁉️」その衝撃的な内容に戸惑っていたら、次のCM(グリコ?)は岡田有希子さん出演のものでし
ユッコさんが1年生の一学期だけ通った地元名古屋の向陽高校。デビュー後初めて高校を訪ねたときの写真です。親友の同級生お二人とのこんなひとコマも。こうやってじゃれついているユッコさん、なんか嬉しそう。岡田有希子から佐藤佳代に戻った瞬間かな?向陽高校時代はサッカー部に入り、マネージャーとして活動していました。また、入学後間もなく芸能界デビューも決まったので他のクラスの生徒がたびたび見に来ていたそうな。(見に行った生徒、あまりの可愛さにビックリしたんじゃないか?笑)「愛をください」の中で、お母
セブンイレブンに入り、本のコーナーを通りかかった時に〝岡田〟という文字が目に入ったので「えっ!?」と思い、そのままバック。改めて見てみると、阪神タイガース岡田監督の本だったとさ!なあ〜んだ…岡田有希子じゃなかった昨年の阪神タイガース日本一から遡ること38年前、同じく日本一に輝いた1985年。ちょうどその頃は、ユッコさん7枚目シングル『LoveFair』で頑張っておりました。今回に限らず、何かとユッコアンテナが働き過敏かつ過剰に反応してしまうのは、ユッコさんが放つ不思議な電波を何年
1986年、岡田有希子さんの事件に関して特集が組まれた週刊誌です。その中には、ユッコさんの担当マネージャー溝口伸郎氏(故人)のインタビューが掲載されています。このインタビューの中には、出会いから最期、マネージャー目線から見た努力家・岡田有希子、そして彼女の性格や人間性なども語られています。全文を引用させて頂きますので、よろしかったらお読みになってみて下さい。一部、リアルな描写もありますので苦手な方はスルーして頂きますようお願い致します。4月8日は、私は子供の入学式に出席していました。有
改めて思います。岡田有希子さんは本当にたくさん仕事をしていたなあと。テレビやラジオはもちろん、雑誌の取材ももう数え切れないほどではないかと。数か月前にユッコさんのインタビューが載った雑誌を新たに発掘しました。17歳のユッコさんが当時何を考え、何を語っていたのか・・・よろしかったら読んで頂けたら幸いです。月刊DoLiVe1985年7月号より−ドリブ生インタビュー岡田有希子−小説を読んでいると、自分が主人公になったような気がしてきちゃうんですよわたし、性格がおかしいってよく人に
UPTOBOY(アップトゥボーイ)1986年5月号より。岡田有希子さんのインタビュー記事です。5月号とありますが、発売は3月下旬のようです。また、インタビューの時期は話の内容からして高校卒業後ですね。有希子さん晩期の姿です。インタビューの一部をかいつまんでご紹介します。写真を拡大したら他の部分も読めるかも。----噂によるとチョロチョロ遊びまわっているらしいジャン。「人をネズミみたいに。遊んでるっていったって、お休みの日に電車に乗って遊園地行くとか、帰りにボウリングするぐらいです
【第17回新宿音楽祭】…1984年(昭和59年)10月12日は第17回新宿音楽祭が開催された日です。会場は日本武道館で行われました。主催は文化放送、新都心新宿PR委員会。大会の模様は文化放送で生中継され、放送時間は1974年-1987年までは16時-20時30分。大会は基本的に3部構成で、第1部は参加歌手による歌唱。第2部は前年度の金賞受賞者など、ゲストによる歌唱コーナー。第3部は審査結果発表と金賞受賞者の再歌唱となっていた。最高賞は「金賞」で、原則として2組が選ばれた。受賞
【ユッコ「堀越高等学校卒業式」】…1986年(昭和60年)3月3日は岡田有希子さんの「堀越高等学校卒業式」が行われた日。中野サンプラザにある「堀越高等学校卒業式」では眼鏡に制服姿の岡田有希子さんが堀越のクラスメイトと一緒に最後の卒業式を迎えます。エピソードとしては先生に「もしかしたら卒業できないかも知れないぞ!」ってこう言われてあーやだな留年かなあなんてねちょっと心配してたことを語っておりギリギリ最後の二カ月位で頑張って学校に行って卒業させてもらったことをSpringツアー86
こんばんは。約3か月ぶりのバンブラで皆様のお耳汚しに参りました今回の演目は、岡田有希子さん3rdアルバム「十月の人魚」収録曲『水色プリンセス-水の精-』です。この曲は小室哲哉さんの作曲で、十月の人魚には水色プリンセスを含め2曲提供しています。当時まだ無名に近かった小室さんが初めて曲を提供した歌手がユッコさんだったという、今になって思えば〝おお〜!〟な件である訳です。原曲-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だち
時には可愛かったり、時には綺麗だったり、時には美しかったり・・・その時によって違う表情を見せるユッコさん。ホント不思議だ〜と、思わせる動画が最近またアップされておりました。私は初見でした。あるところにはあるんだな〜本当にありがたい事です。『哀しい予感』の歌唱動画なのですが、この動画は「可愛い・綺麗・美しい」が全部詰まっているように感じるのです。歌前のトークで、前日に日本テレビ音楽祭で金の鳩賞を受賞した話をしていたので、放送は1985年8月30日ですね。そして、番組は「お昼のワイドショ
【第14回銀座音楽祭グランプリ】…1984年(昭和59年)10月8日は、第14回銀座音楽祭グランプリが開催された日です。在京AMラジオ局のニッポン放送(JDLF)の実行委員会が主催する歌謡音楽祭。新人歌手が中心の音楽祭で「新宿音楽祭(文化放送)」や「銀座音楽祭(ラジオ日本)」とともに新人賞レースの中盤戦に向けた重要な音楽祭でした。この音楽祭はラジオで生放送され、映像はフジテレビで録画放送され、この年15人の新人歌手がエントリーし1組の「グランプリ」を競い合いました。この年岡田有
【7thシングル曲『LoveFair』】…『LoveFair』(ラブ・フェアー)は、1985年(昭和60年)10月5日、キャニオンレコード(現:ポニーキャニオン)からリリースされた岡田有希子の7枚目シングル曲である。A面『LoveFair』の構成は、作詞/作曲ともにかしぶち哲郎さん。B面は『二人のブルー・トレイン』。B面の『二人のブルー・トレイン』に関しては、作詞のみ竹内まりやさん、作曲は杉真理さん、編曲はA面『LoveFair』/B面『二人のブルー・トレイン』ともに松任谷正隆さん
数多くのブログのなかから、当ブログをご訪問いただき誠にありがとうございます。太字は過去記事へのリンクです。もしよろしければ、ご覧になってください。「子は親の鏡と云いますが、そっくりなのでびっくりします」小学一年生の時の通信簿に、母の字でそう書かれていた。母は明朗快活な、物怖じしない性格で。お節介な、そしておせっかちな人だった。引っ込み思案なわたしは、ちっとも母に似てないのに…。子供の頃、ずっと不思議に思っていたのだけど。でもいまは、なんとなく分かる気がする。母は幼い
ハムの美味しい食べ方教えて!▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう↑イラストのようなかたまりのハムなんかは厚めに切って焼いたら美味しいですよねー。でも、なかなか食べる機会はありません。せいぜい正月に奮発して買うくらいですね。なので普段はスライスハムですが、ただただそのまま食べるのが一番美味しいような気がします。ちょっとお腹すいたなーって言う時に冷蔵庫開けて1枚2枚盗み食い(笑)さて・・・話は変わりますが、私にとって86とは8月6日ではなくて86年。西暦1986年です。
数多くのブログのなかから、当ブログをご訪問いただき誠にありがとうございます。太字は過去記事へのリンクです。もしよろしければ、ご覧になってください。わたしは昔、ある人から〝人を怒らせる天才〟とよばれた。ちょっとした言葉の選び方にセンスがない、だから相手を無駄に怒らせてしまう。こちらもイラっとしているからか、相手がムカつくひと言をつい選んでしまうのだ。わたしへの怒りの沸点が異常に低い人…天敵が職場にいる。それが絡んでくるのはメンドクサイけど別にいい。心に少々傷を負うだけで済む。
【第15回銀座音楽祭】…1985年(昭和60年)10月7日は、第15回銀座音楽祭が開催された日です。主催はフジテレビ。会場は赤坂プリンスホテルで行われ、製作はニッポン放送。ノミネート数は定数15組で、新人グランプリを獲得するため15人が競い合う。各賞は、大衆賞(中村繁之さん)、審査員特別賞2名(岡本舞子さん、石野陽子さん)、銀賞3名(中村繁之さん、井森美幸さん、橋本美加子さん)、金賞2名(芳本美代子さん、本田美奈子さん)。新人グランプリ受賞は松本典子さんでした。岡田有希子さんは前
恋愛経験が皆無に等しく、男性とのお付き合いもした事がないという話をしていた18歳間近のユッコさん。さらにはもっと際どい発言もあって良くも悪くも昭和のおおらかさを感じずにはいられません(苦笑)好きな人ができて、追いかけても相手がいざ振り向いてくれると冷めてしまうのだそうで…つかみどころのない子だな(笑)ユッコファンなら知らない方はたぶんいないであろうユッコさんの「年上好み」。常々最低でも10歳以上年が離れていて、優しくて包容力がある人が好きだと話しています。今だったら「おじ専」とか「老け専
少し前に、僕の中で約30年封印していた「くちびるネットワーク」を聞いたら涙が出そうになった。確か沢口靖子さんが出ている、カネボウのCMソングでしたね。これはお墓参りに行くしかない・・・と、鈴鹿の帰りに寄ってきました。場所等はネットで公表してる通りです。東名阪自動車道の弥富インターを下りて、約5分の成満寺にあります。(お墓等の写真を載せるので、気分を害される方はココでストップを・・・)この日は、僕の前に少し年上の男性が一人、僕が帰るころには少し年上のご夫婦が有希子さんの墓参
岡田有希子16歳から18歳までの顔の変化あちこちから集めた画像の切り貼りで申し訳ないのだが、ユッコが16歳(高校2年生)でデビューした頃から亡くなる前、18歳(高校卒業後)までの顔の変化を追ってみた。16歳から18歳。花に例えるならば、固い蕾が膨らんで、咲き始める…ちょうどそんな時期だろう。恋に憧れ、異性への関心が高まる時期でもあり、肉体的にも精神的にも大人に近づく多感な年頃だ。たった2年の間に、ユッコの顔つきもだいぶ変わったように見える。デビュー当時は、まだあどけなさの残る表
1985(昭和60)10月13日(日)、岡田有希子さんのラジオ番組タイトルは「岡田有希子の夜遊びしナイト」がスタート。全国10局ネットで、ニッポン放送では毎週日曜日25:00~25:30の放送。12月第2週からは、新たに二人が加わり、三人で放送。1985年10月13日から1985年12月29日までは、岡田有希子の単独パーソナリティで、タイトルは「岡田有希子の夜遊びしナイト」(おかだゆきこのよあそびしナイト)だった。有希子・章子・麻里の夜遊びしナイト(ゆきこ・あきこ・まり
スター誕生の決戦大会出場を認めてもらえず、ハンストを起こした中学3年生のユッコさん、いや、佳代さん。家族と口もきかず、食事もとらずに部屋へ閉じこもる日を続けましたが、「このままじゃどうにもならない」と、4日目にお母さん宛てに手紙を書きました。(BOMB!1986年6月号より)字が小さくて見づらいと思いますが佳代さんの本気度が伝わると思い、直筆の手紙をあえてそのまま載せさせて頂きました。もしよければ拡大して見て頂ければと思います。本当に芯が強く一途な性格が伝わってきて、むしろ危うさすら感
1981年8月『ニコンフレッシュギャルコンテスト』オーディションに応募した佐藤佳代さん(岡田有希子)。翌年1982(昭和57)年3月7日、東京・池袋西武屋上特設イベント会場にて「ニコンフラッシュギャルコンテスト」が行われ岡田有希子さんは準グランプリ受賞を獲得しました。副賞としてグアム旅行。★ユッコデビュー前のまだ中学2年生14才ニコンフレッシュギャルコンテストで準グランプリに選ばれた時の写真です。ご存知の通り、写真雑誌「写楽」1982年3月号『立木義浩が撮った佳代、14才』のタ
竹内まりやさんが中山美穂さんにプロデュースした曲「色・ホワイトブレンド」ですが、やっぱりこの曲は岡田有希子ちゃんに歌って欲しかった。もちろん、美穂さんの代表曲の一つであることには変わりませんが、まりやさんプロデュースであることを考えると、本当は有希子ちゃんが歌うはずだったと思います。https://youtu.be/olzsYnh0FM8中山美穂色・ホワイトブレンドyoutu.be【色・ホワイトブレンド】Whitespring春の陽ざしにWhitelips輝き出せばW
岡田有希子のイラストで紹介❢❢❢
数多くのブログのなかから、当ブログをご訪問いただき誠にありがとうございます。太字は過去記事へのリンクです。よろしければこちらもどうぞ!本日1月2日は、わたしの仕事始めでした。あっというまに終わってしまった正月休みよ、サヨウナラ…。〝箱根への号砲我も初仕事〟そしてきょうは前回の記事でも少し触れましたが、ユッコこと岡田有希子さんのプロデューサーだった故・渡辺有三さんの命日です。生粋の慶応ボーイにして、大学時代は加山雄三&ザ・ランチャーズのベーシストだった渡辺さん。バンド名
7/31投稿記事の続きです。先日、といってももう4月の事ですが、フジテレビ系で木曜夜9時に放送された『私のバカせまい史』という番組で「ものまね芸人vs辛口審査員・淡谷のり子低得点史」というテーマで考察を繰り広げていました。(詳細な内容は割愛します)淡谷先生、懐かしい。1980年代当時の『ものまね王座決定戦』の映像がいくつか流されたのですが、その映像に峰岸徹さんの姿もあったのです。当時番組を観ていてご記憶の方もおられるかも知れませんが、一時期(88年前後)峰岸さんも審査員として出演され
私の大好きな昭和アイドルの一人である岡田有希子ちゃんユッコのイメージといったらデビュー当時の姿が思い浮かんできます。この聖子ちゃんカット風なヘアースタイルがすごく似合っていて好きです。岡田有希子ちゃんの本名は佐藤佳代ちゃん!芸名をつけてもらったあと、デビューしてからユッコという愛称が生まれました✨ユッコの世界はまるでリトルプリンセス物語みたいにキラキラしていて、女の子の憧れや夢が詰まったようなそんな存在でした。衣装の雰囲気や曲のイメージもすごく好きで、特に初期の頃の曲が大好きです。彼女
こんばんは。5月に入り早くも6日になりました。今月初めての投稿です。仕事が忙しかったり何だりラジバンダリと色々ありまして更新をサボって空けてしまいました。きっと誰も気づいていないと思うけどね!(*゚∀゚)アハハー!先月は岡田有希子さんのメモリアル月ということで、喜びと悲しみの入り交じった4月でありました。そしてこの5月は!そう、「花のイマージュ月間」でございます。ユッコさんがご存命であれば1986年5月14日に発売される予定でした。発売予定から13年後にようやく世に出る事ができた訳で
1986年4月5日・東京、1986年4月6日・名古屋において岡田有希子さんのコンサート『HeartJack』が開催されました。結果的に最後のコンサートとなってしまいましたが、当時参加された方はきっと心に深く刻み込まれていることと思います。HeartJackのコンサートパンフレットです。私が唯一所有しているユッコさんのコンサートパンフになります。ぐんと大人っぽくなったユッコさんの写真がふんだんに掲載されていて、まるで写真集でも見ているような気分になります。ほんの一部ですが載せておきます