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1985年(昭和60年)2月10日は岡田有希子さんのエッセイ集『瞳はヒミツ色』がワニブックスから発刊されました。エッセイ集の撮影場所は旧向ヶ丘遊園、生田緑地のバラ苑。エッセイ集の内容はニッポン放送「岡田有希子ちょっとおあずけ」の収録スタジオでのトーク、イベントやコンサート、テレビなど岡田有希子さんの思いをエッセイや詩を交え写真を交えた青春ベストセラーズな一冊となっています。(フォト/エッセイ集/日記)/(全213P/モノクロ写真78P/カラー24P)エッセイ集『瞳はヒミツ色』(
「ミディアム・スローの春っぽい感じの曲で、歌詞にストーリー性がないの。イメージっぽい『LoveFair』みたいな感じの歌詞なんです。」1986年5月14日発売予定の新曲『花のイマージュ』について岡田有希子さんはこのように語っていました。しかし、花のイマージュは発売中止となり、封印状態が長らく続きました。13年後の1999年に発売された「メモリアルBOX」の収録曲としてようやくCD音源として世に出ることができました。それから更に25年を経た今年8月22日、ユッコさんのお誕生日
風街散歩愛を知る県⑥数年前から一度はお墓参り訪問したいと思っていました岡田有希子さん(1967年8月22日-1986年4月8日)生存していたらこの8月で49歳を迎えていました日本のアイドル歌手、女優である。本名、佐藤佳代(さとうかよ)。愛称は「ユッコ」。身長155cm。愛知県名古屋市熱田区出身。名古屋市立高蔵小学校、名古屋市立沢上中学校、名古屋市立向陽高等学校から堀越高等学校へ編入、卒業。サンミュージックに所属していた。1980年代中期に活動したアイドル歌手のひ
昨日と今日、私のライフワークと言ってもいいラジオ番組、東海ラジオ毎週土曜23時からの『ドットーレ山口のドキドキラジオ’84』でスタート時から長らく取り上げているユッコこと故岡田有希子さんのファンミーティングを開催しました😊2016年春から始めた番組は今年で9年目になりました😳コロナ禍には他のアイドルさんやアーティストを取り上げましたが、デビュー40周年の今年、春からまた、ユッコオンリーに戻っていますリアルにファンの方々を集めたイベントは5回目‼️厳密には、2回目からは名古屋と東京の二か所
少し前に、僕の中で約30年封印していた「くちびるネットワーク」を聞いたら涙が出そうになった。確か沢口靖子さんが出ている、カネボウのCMソングでしたね。これはお墓参りに行くしかない・・・と、鈴鹿の帰りに寄ってきました。場所等はネットで公表してる通りです。東名阪自動車道の弥富インターを下りて、約5分の成満寺にあります。(お墓等の写真を載せるので、気分を害される方はココでストップを・・・)この日は、僕の前に少し年上の男性が一人、僕が帰るころには少し年上のご夫婦が有希子さんの墓参
バレンタインチョコ、もう買った?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう★今日はバレンタインデーの日。グリコセシルチョコレートのCM(広告)。岡田有希子さんから皆さんへの"メッセージ"恋はじめまして、グリコセシルチョコレート12粒の気持ちがつまっています。江崎グリコ「グリコセシルチョコレート」広告ポスター「恋はじめまして」恋する女の子の気持ちはとってもスイート&メロウ。ロケットにそっとしのばせ
数多くのブログのなかから、当ブログをご訪問いただき誠にありがとうございます。太字は過去記事へのリンクです。よろしければこちらもどうぞ!渡辺有三と岡田有希子本日1月2日は、わたしの仕事始めでした。あっというまに終わってしまった正月休みよ、サヨウナラ…。〝箱根への号砲我も初仕事〟そしてきょうは前回の記事でも少し触れましたが、ユッコこと岡田有希子さんのプロデューサーだった故・渡辺有三さんの命日です。生粋の慶応ボーイにして、大学時代は加山雄三&ザ・ランチャーズのベー
今年も4月8日を迎えました。岡田有希子ちゃんが亡くなって38年。私がこのブログを始めて丸3年となります。有希子ちゃんのあまりにも若すぎる死を決して忘れてはならないのは言うまでもありません。一方で有希子ちゃんのことについて、残念ながら誤解されていることや、あり得ない噂話などが未だに付いて回っているのも現実としてあります。まず何より、有希子ちゃんの直接的な死因が飛び降り自殺であるということが既成事実となっていることが非常に残念ですし納得がいきません。数時間前に自殺未遂をしたからといって、自
先日、昔のアルバムをめくっていたらこんな写真がありました。昭和40年代半ば、angelyuki18&ブラザー(兄)でございます。兄は何やら人形をふたつほど抱えています。向かって右側のをよく見ると…パーマン!見たところ、ビニール製の空気を入れて膨らますタイプの人形っぽいですね。パーマンといえば、雑誌の取材で虫獲りに勤しむ岡田有希子ちゃん。首からさげている水筒の絵柄は…パーマン!なんということでしょう!昭和を駆け抜けた永遠のアイドルと田舎で育った昭和の兄妹が今まさにパーマンを通じて
昨日、4月8日は岡田有希子さんの命日でした。あれから36年も経つんですね。そのニュースが飛び込んで来た時には本当に驚きましたが、一方で、「やっぱり…」という気持ちもありました。少し前から、テレビ画面に写る彼女に異変を感じていたからです。まだ18歳。若過ぎる死を多くの人が悼みました。岡田有希子さんは明菜と同じ『スター誕生!』出身。決戦大会では「スローモーション」を歌い合格、夢だった歌手デビューを果たします。小説や漫画に出てくる''可憐な少女''のイメージそのままのル
8月某日シリーズ第3回です。自らを傷つけ、自宅の南青山ロータリーマンションから救急搬送された岡田有希子ちゃんは、北青山病院にて緊急手当てを受けることになります。今度は、その北青山病院までどういった経路で搬送されたかを想像しながら歩いていきました。まず、青山学院記念館が見えてくるまで細い道をまっすぐ進みます。そこを過ぎると国道246号線に再び出ます。南青山5丁目交差点を渡って、また細い道に入っていきますが、ここからが北青山です。プリントアウトしたグーグルマップの経路を見ても、どこも細い路地
当ブログに来てくださったあなたへ、お会いできて嬉しいです。太字は過去記事へのリンクです、よろしければお立ち寄りください。「無敵の人」という言葉の意味合いは、多分にネガティブだ。いつから〝社会から孤立し失うものが無い人〟を指すようになったのだろう。いつの間に〝相手になる敵がいないほど強い人〟という、本来の意味を凌いだのだろう。待ち合わせた相手の男が、モノトーンな人混みで多分に悪目立ちする格好…たとえば〝金色の学ラン〟を身に付けて来たとする。何なんそのカッコ?の問いに「俺っ
今回はややネガティブな話になってしまうかも知れません。岡田有希子さんと峰岸徹さんに関する当時の私の記憶に基づいたうだうだ話ですので、読むのが大丈夫な方のみお願いしますm(__)m最近、テレビ番組でほんのチラッと峰岸さんの姿を見た事をきっかけに自分の中に溜めていた思いを吐き出したくなってしまいました今から15年近く前、2008年10月の事です。ある俳優の訃報をネットニュースで知りました。久しぶりに目にする名前「峰岸徹」さん。名前を見た瞬間、頭に浮かんだのは岡田有希子さんの事。無論、2
【ザ・ベストテン追悼番組/岡田有希子】…1986年4月10日は音楽番組『ザ・ベストテン』(TBS)のエンディングで黒柳徹子さんが視聴者に向けて急逝を惜しむコメントを涙ながらに語った。動揺が続く中、4月10日のザ・ベストテンは、司会の黒柳徹子さんも小西博之さんも黒い衣装を着て登場。番組は通常どおり明るく進行したが、「DESIRE」を歌う中森明菜さんの衣装は黒と白のシックなもので、どこか喪服のよう。トークも心ここにあらずといった様子であった。1位の少年隊が歌い終え、いつものようにスタジオで記念撮
岡田有希子16歳から18歳までの顔の変化あちこちから集めた画像の切り貼りで申し訳ないのだが、ユッコが16歳(高校2年生)でデビューした頃から亡くなる前、18歳(高校卒業後)までの顔の変化を追ってみた。16歳から18歳。花に例えるならば、固い蕾が膨らんで、咲き始める…ちょうどそんな時期だろう。恋に憧れ、異性への関心が高まる時期でもあり、肉体的にも精神的にも大人に近づく多感な年頃だ。たった2年の間に、ユッコの顔つきもだいぶ変わったように見える。デビュー当時は、まだあどけなさの残る表
当ブログに来てくださったあなたへ、お会いできて嬉しいです。太字は過去記事へのリンクです、よろしければお立ち寄りください。ユッコこと岡田有希子さんのオリジナル55曲を網羅した「贈りものIII」には、うち18曲のカラオケバージョンも収録されています。建国記念日の午後。年末に届いたままだったBOXを開封し、〝ユッコがレコーディングに使用したオリジナルカラオケ〟をヘッドホンで聴きました。1983年12月10日、いまはなき一口坂(ひとくちざか)スタジオで、ユッコさんが初めて臨んだレコー
年が明け、1月もあっという間に過ぎてしまったような、そんな感じがします。さて、今日は2月8日です。4月8日まであと2か月。こう考えると1年の巡りも早いなあと。やはり歳のせいか?岡田有希子さんの良き親友だった荻野目洋子さん…あの日から長い年月を経た今もなお、名古屋に来た時はユッコさんのお墓参りにも訪れておられるということです。ありがたい話であるし、本当に頭が下がる思いです・・・これも何かの縁と勝手に思い込み(笑)、エントリーした荻野目さんのライブチケット、ゲットしました…!日にちは4月
もう半年以上前になりますが、縁あってこんな中古本をお迎えしました。峰岸徹さんが亡くなった当時のニュースで、トライアスロンに打ち込んでいたというのは目にした事がありましたが、本まで出していたとは知りませんでした。入手したはいいものの、これまでパラパラと見た程度でして、ようやく最近になって読んでみようかなという気持ちになりました。50代半ばを過ぎてからトライアスロンの挑戦を始めた峰岸さん。この本を読んだことで何か得るものがあればと思っておりますが・・・いつかの機会に、読んだ感想やずっと抱き続け
6月も残り少なくなりましたね。もう1年の半分が終わろうとしています。早い、早すぎよ6月といえば1985年に岡田有希子さんが堀越高校の修学旅行で北海道を訪れて同級生と楽しんでいたのも束の間、皆より早く旅行を切り上げてスイスへ出発するという強行ぶり。本人も「残念だし、悔しい」と言っていたようで、私も考えると本当にかわいそうだなと思います。でも、憧れの地だったスイスへ行き、壮観な景色を目の当たりにできたことはきっと素晴らしい思い出となったことでしょう。有希子さんの眠るお墓の横に建てられている
ユッコこと岡田有希子さんが名古屋出身と知ったのは、わたしがユッコさんの魅力にずっぽりハマった2年前です。それからというもの、彼女を育んだ街・愛知県名古屋市を訪れてみたくてたまらなくなりました。名古屋出身の芸能人は、例えば青森や埼玉、福岡などの人と比べると進んで自分から出身地を明かしたがらないとの説があります。でも彼女はきっと名古屋が大好きで、名古屋出身をことあるごとに話題にしていたようですね。ユッコさんいわく「ふるさと名古屋は、思い出のなかの街?ちがう。名古屋はいまでも、わたしの現在に生きて
再び「愛をください」より。佳代さん誕生時のお母さんの話。昭和42年に佳代が生まれました。辺縁性胎盤という異常出産で、あとで聞くと、ふつうは帝王切開をするのだそうですが、陣痛の起こる注射を打って、切開せずに生みました。未熟児で体重は2700グラム、身長47センチしかありませんでした。三歳児検診のときに、「よくまぁ無事に生まれましたね。ふつうなら死産か障害児として生まれるケースです」と先生に驚かれ、かえって私のほうがびっくりしたくらいです。お母さん、よくぞ無事に産んでくださいました。娘さんはみ
ユッコさん7枚目のシングル。イントロなしで綺麗なファルセットから始まります。ああ、本当にいい声・・これまた私のお気に入りの一曲です。歌詞に脈略がないのというのでしょうか?例えば五木ひろしさんの「よこはま・たそがれ」みたいな。(例えがわかりづらいかな?笑)♪花びら摘みとるいけない子やめてNONONO・・不思議な電波を放つのは誰の瞳?不思議な歌詞です。でも、そこがいいのです。ちょっと過激な歌詞も出てきます。♪時々ハードに責めて来るダメよNONONO・・発売は1985年10月
【『くちびる・ときめきネットワーク』ミニコンサート&握手会】…1986年(昭和61年)2月11日から3月2日まで、握手会イベント『くちびる・ときめきネットワーク』が全5都市で開催され、初日の東京(後楽園ホール)では2部構成で4,000人のファンを動員した。(一部Wikipedia転載引用)握手会・ミニコンサート『くちびる・ときめきネットワーク』は先月1986年(昭和61年)1月29日岡田有希子さんの8枚目となるシングル曲「くちびるNetwork」の新曲リリース(キャニオンレコード:現ポニー
8月某日シリーズ第4回目(最終回)。岡田有希子ちゃんの最期の足跡として、再び大木戸に向かって歩いていきます。サンミュージックのスタッフらによりタクシーに乗せられた有希子ちゃんは、事務所のある大木戸ビルに連れていかれることになります。今回は北青山病院跡地のMIRRORMIRRORから再び大木戸ビルまで歩いた道のりについて紹介したいと思います。脚にもかなり疲れが出てきており、また、距離も長く一番きついコースでした。まずは、MIRRORMIRROR脇のロハス通りを表参道通り方面に向かい、
当ブログに来てくださったあなたへ、お会いできて嬉しいです。太字は過去記事へのリンクです、よろしければお立ち寄りください。すいません…人生謝ってばかりのわたし、たばこ吸いません。学生の頃、愛煙家だった父親が50歳のとき脳卒中で倒れたのもあり。わが人生に、たばこは無くてもイイかなと思ったのでした。まあ、身体が紫煙を受け付けなかったのが大きいんですが。さりながら…お酒のほうはほどほどに、今夜もぐびぐび飲んでます。この歳になると、醸造酒より蒸留酒がイイと聞きます。
ユッコファンになって彼女の事を色々調べるようになり、生い立ちやエピソードなど様々な事を知っていくにつれて、色んな思いや感情がこんこんと湧き上がってくるようになりました。不快に思う方もいるかも知れませんが、ユッコさんを語る上であの悲しい出来事はやはり外す事ができないので書かせていただきます。岡田有希子本名佐藤佳代1967(昭和42)年8月22日生まれ1986(昭和61)年4月8日逝去享年満18歳これは私の勝手な推測なのだが、自殺未遂の時点では、彼女は本気で死ぬつもりはなかったので
岡田有希子ちゃんが亡くなるまでの最後の1年をみると、かなり深刻なうつ病を発症していたことが伺えます。歌番組のリハーサルで泣き崩れたり、表情が乏しくなってきたり、笑顔が強張ってきたりと何らかのサインが出ています。有希子ちゃんについて、サンミュージックなどの関係者たちはよく「躁うつの波がある」だとか「感情の起伏が激しい」といったような躁うつ病だったような言い方をしているようですが、私は違うと思います。そもそも、有希子ちゃんはうつの状態ではあっても躁の状態ではなかったからです。躁の状態というの
1985年2月11日(月)は、第36回札幌・さっぽろ雪まつりが開催され、会場(札幌STV広場)から生中継で1月16日にリリース4枚目シングル「二人だけのセレモニー」を岡田有希子さんは歌唱する。この日のランクインは第5位(ザ・トップテン)。テレビ局は札幌テレビ(日本テレビ系列)より生中継。【さっぽろ雪まつり】…さっぽろ雪まつりは、雪国ならではの魅力的な都市景観を演出し、市民や観光客に楽しいひとときを提供しています。大小の雪像や氷像、プロジェクションマッピング、氷彫刻コンクー
数多くのブログのなかから、当ブログをご訪問いただき誠にありがとうございます。太字は過去記事へのリンクです。もしよろしければ、ご覧になってください。母親が綴った、娘・岡田有希子ユッコこと岡田有希子(本名・佐藤佳代)さんの母・孝子さんの手記には、幼かった娘のこんなエピソードが綴られていました。二歳何カ月ごろのことです。主人が日曜日にどこかへ連れて行ってやろうと約束をしていて(中略)急に取り止めにしたことがありました。さぁ、そうなると佳代はもう、ものすごくやんちゃを言う。
恋愛経験が皆無に等しく、男性とのお付き合いもした事がないという話をしていた18歳間近のユッコさん。さらにはもっと際どい発言もあって良くも悪くも昭和のおおらかさを感じずにはいられません(苦笑)好きな人ができて、追いかけても相手がいざ振り向いてくれると冷めてしまうのだそうで…つかみどころのない子だな(笑)ユッコファンなら知らない方はたぶんいないであろうユッコさんの「年上好み」。常々最低でも10歳以上年が離れていて、優しくて包容力がある人が好きだと話しています。今だったら「おじ専」とか「老け専