ブログ記事23件
子曰わく、飽くまで食らいて日を終え、心を用うる所無し、難(かた)いかな。博奕(はくえき)なる者あらずや。これを為すは猶(な)お已むに賢(まさ)れり。≪解釈≫孔子はおっしゃいました。「一日中腹一杯に食べるだけで、何事にも心を働かせない。困ったことだね。さいころ遊びや、囲碁、将棋というのがあるだろう。[あのような遊びであっても]何もしないよりはまだましだ。」≪後述≫孔子が掲げる”有為”老子が掲げる”無為”(道(みち)は常(つね)に無為にして、而(
子路曰、衛君待子而爲政、子將奚先、子曰、必也正名乎、子路曰、有是哉、子之迂也、奚其正、子曰、野哉由也、君子於其所不知、蓋闕如也、名不正則言不順、言不順則事不成、事不成則禮樂不興、禮樂不興則刑罰不中、刑罰不中則民無所措手足、故君子名之必可言也、言之必可行也、君子於其言、無所苟而已矣。子路(しろ)が曰わく、衛(えい)の君、子を待ちて政(まつりごと)を為さば、子将(まさ)に奚(なに)をか先にせん。子曰わく、必ずや名を正さんか。子路が曰わく、是(これ)有
古之欲明明徳於天下者、先治其国。欲治其国者、先齋其家。欲齋其家者、先修其身。欲修其身者、先正其心。欲正其心者、先誠其意。欲誠其意者、先致其知。致知在格物。古の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、先ずその国を治む。その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正しくす。その心を正しくせんと欲する者は、先ずその意を誠にす。その意を誠にせんと欲する者は、先ずその知
子曰く、師摯(しし)の始めは、間雎(かんしょ)の乱(おわ)りは、洋洋乎(ようようこ)として耳に盈(み)てるかな。≪解釈≫孔子がおっしゃいました。「名楽師であった魯の国の摯が奏でる音楽は、楽の始めから詩経の『關雎』を奏でる楽の終わりまで、心地よく耳に満ちてくるな。(あの音楽を聴くことは、もうできないのだなあ。)」礼節と音楽によって徳のある統治者がその持ち前の徳をもって人民を治めるべきであるとした孔子の統治論である徳治主義に由来する儒教の政治理念、思想であ
誠者、天之道也。誠之者、人之道也。誠者、不勉而中、不思而得、従容中道。聖人也。誠之者、択善而固執之者也。博学之、審問之、慎思之、明弁之、篤行之。有弗学、学之弗能弗措也。有弗問、問之弗知弗措也。有弗思、思之弗得弗措也。有弗弁、弁之弗明弗措也。有弗行、行之弗篤弗措也。人一能之、己百之、人十能之、己千之。果能此道矣、雖愚必明、雖柔必強。誠は天の道なり。之を誠にするは人の道なり。誠は勉めずして中(あた)り、思わずして得て、従容(しょうよう)として道に中る。聖
湯之盤銘曰、苟日新、日日新、又日新。康誥曰、作新民。詩曰、周雖旧邦、其命維新。是故君子無所不用其極。右伝之二章。釈新民。湯(とう)の盤(ばん)の銘(めい)に曰く、苟(まこと)に日に新たに、日々に新たに、又日に新たなりと。康誥(こうこう)に曰く、新民を作(おこ)すと。詩に曰く、周は旧邦(きゅうほう)と雖(いえど)もその命維(こ)れ新たなりと。この故に君子その極を用いざる所なし。≪解釈≫商(殷)王朝の湯王という名君は、誠に日に新たにして(自分の身体・精
子夏(しか)が曰わく、博く学びて篤(あつ)く志し、切(せつ)に問いて近く思う、仁其の中(うち)に在り。≪解釈≫子夏(しか)が言いました。「博く学んで熱心に理想を追い求め、真剣に質問して身近な問題として考える事ができるならば、仁はその心の中にある。」≪後述≫自己探求の道ではなく、あくなき”仁”を探求する道において、”仁”について広く学び、あらゆる物事が身近な問題として捉えることが出来、また、真摯に、謙虚に、誠実に物事に取り組むことが出来るならば、その行
季路(きろ)、鬼神(きしん)に事(つか)えん事を問う。子曰わく、未(いま)だ人に事うること能(あた)わず、焉(いずく)んぞ能(よ)く鬼(き)に事えん。曰わく、敢(あ)えて死を問う。曰わく、未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん。≪解釈≫季路(きろ)が「神霊に仕えるにはどうしたら良いか?」と孔子に尋ねました。孔子は、「まだ人に仕えることさえ十分に出来ないのに、どうして神霊に仕えることなどできようか」と答えられました。そこで季路は「ならば敢えて問いますが、死後の
子曰く、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむ。知者は動き、仁者は静かなり。知者は楽しみ、仁者は寿(いのちなが)し。≪解説≫孔子はおっしゃった。「知者と仁者を水と山に喩えるならば、知者は水を楽しみ、仁者は山を楽しむと云えようか。知者の動きは流れて止まぬ水の如きものであり、仁者の静かなることはどっしりとした山の如きものである。知者は変化を好んで楽しみがつきることがない。仁者は常にゆったりとしてあくせくしないから、長生きすることになる」と。物事の本質を見ぬき
長沮桀溺耦而耕、孔子過之、使子路問津焉、長沮曰、夫執輿者爲誰、子路曰、爲孔丘、曰、是魯孔丘與、對曰是也、曰是知津矣、問於桀溺、桀溺曰、子爲誰、曰爲仲由、曰是魯孔丘之徒與、對曰、然、曰滔滔者天下皆是也、而誰以易之、且而與其從辟人之士也、豈若從辟世之哉、耰而不輟、子路行以告、夫子憮然曰、鳥獣不可與同群也、吾非斯人之徒與而誰與、天下有道、丘不與易也。長沮(ちょうそ)、桀溺(けつでき)、藕(ぐう)して耕す。孔子これを過ぐ。子路(し
子曰く、知者は惑わず、仁者は憂(うれ)えず、勇者は懼(おそ)れず。≪解釈≫孔子はおっしゃいました。「知者はあれこれ迷うことがない。仁者はくよくよ思い悩むことがない。勇者はおろおろ怖気づくことがない。」≪後述≫知者は、正しい知識を備えているので判断に迷うことが無く、仁者は、正しい行いを心掛けているので悩むことが無く、勇者は、正しい時にこそ力を発揮するので、怖気づくことは無い。そもそも、何をもって「正しい」とするか?正邪善悪の判断基準が何よりも重