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◇【外伝】箱崎文應大阿闍梨③荒れ果ていた飯室谷長寿院に『箱崎阿闍梨』は入った。太平洋戦争が日本に不利になり始めた頃である。田んぼで米を作り、畑を耕す。精力的に箱崎師は動いた。北嶺大行満大阿闍梨となれば比叡山の高僧の仲間入りである。悠々自適の生活を送ることも出来るのだか、現実は厳しい。弟子も居なければ寺の住職として認められてないからであった。日々の生活に追われながらも、一方で再び「回峰行」を始めた。昭和十七年、大峯回峰にのぞんでいる。大峯山は女人禁制の修験の根本道場で厳しい修行ひとすじの山で
【栃木】宗光寺は鬼の爪伝説が残る天台宗別格寺院。御朱印対応日とのタイミングが合わずのままでしたが今回は鬼の伝承にちなんだ【御朱印】と天海僧正ゆかりの【御朱印】をいただきました【宗光寺御朱印】書き置きのみ【宗光寺御朱印】書き置きのみ【宗光寺御朱印】書き置きのみ【本堂】【宗派】天台宗別格【山号】新御堂山【院号】円頓止観院【寺号】宗光寺【創建】848年【開山】慈覚大
◇箱崎文應師と再会、小僧に戻る、、(酒井雄哉大阿闍梨)酒井阿闍梨は、無動寺谷宝珠院の住職のまま、飯室谷長寿院の箱崎師の弟子となり、昭和四十九年八月に東塔から横川へ移って来た。まさに「仏縁」だと、酒井阿闍梨は不思議な見えない糸を思った。得度する前に、役行者(えんのぎょうじゃ)の仏像を持ってきて、「お御霊」を抜いてもらい、そしてまた入れてもらったことがあった。箱崎師から、そんなもの持っていると、裏山をのそのそ歩くようになるぞ、と怒鳴られたが、それでも「お御霊」を入れてもらった役行者の仏像を手元
茨城県守谷市(もりやし)にあります。本尊は、阿弥陀如来(あみだにょらい)です。天台宗のお寺です。前回紹介した守谷八坂神社から車で15分程です。距離じたいは6.3㎞と遠くないのですが、守谷市内中心部で国道等も走っており少し時間かかります。お寺の目の前は鬼怒川が流れています。入口前は幟が立っていたり駐車場もあるので気づくかと思います。清瀧寺さんはAmebaブログも書いています。今回こちらに来る機会があり参拝に来ました。では紹介にうつります。当日雨だったのと駐車場が検問中だったので入口
◇「ナーマクサーマンダーバーサラナンセンダン、、」(酒井雄哉大阿闍梨)「ぼくにはお師匠さんが三人いるわけよ。小林先生、小寺先生、それからおじいさん(箱崎師)。最初に小林先生のところにいったんだけど、弟子はとらないからって、小寺先生に紹介されたわけね。小林先生のあずかり弟子というかたちで、霊山院に住み込んだ。それから飯室谷にきて、今度はおじいさんといっしょに住むことになった。三人の師匠は、それぞれ立派な人で、その点、ぼくは恵まれているわけ。相談ごとがあると、いまだって小林先生のところにい
◇赤山苦行、失神、(酒井雄哉大阿闍梨)堂入りが終わって、酒井阿闍梨は陰役となって自分を支えてくれた人たちの温かい心を知った。出堂後、体を心配してつきっきりで食事の世話をしてくれる人もいた。堂入り中に大阪、京都、坂本から駆けつけてきた七人の信者たちが、明王堂に毎日集まってきた。信者たちは酒井阿闍梨の無事満行を念じて、好きな酒やコーヒーを断ち、不動明王にご加護を祈ったのである。信者たちは堂内には入れない。しかし介添えの僧に様子を訊き、閼伽井まで取水にいく酒井阿闍梨を見守り、無動寺から飯室まで一時
【継報】天台宗性被害問題「私はここにいる」顔や名前を出して立ち上がる性暴力被害者たち長い間、社会の中で性暴力被害は恥じるものとされ、隠され、ないことにされてきた。それゆえに被害を訴えることは難しく、多くの当事者は沈黙を強いられてきた。それでも最近、名前や顔を出し、被害を訴える人が相次いでいる。誹謗(ひぼう)中傷や周囲の対応でさらに傷つく可能性がありながら、声を上げる。当事者たちにその思いを聞いた。(編集委員・大久保真紀、島崎周)「存在がないもののように扱われてきた」「長年、存
◇闇の中の孤独、、(酒井雄哉大阿闍梨)「歩行禅」という言葉がある。無念無想、自然の風物のなかに溶け込み、風のささやき、樹々の声を聞きつつ黙々と歩く。天地との一体感のなかで、ひたすら歩いていく。その静謐で他者との完璧な調和を「歩行禅」というのだろう。とすれば、当時の酒井阿闍梨は「歩行禅」とはほど遠い状態であった。一期目百日のうち、七十五日目に「切り廻り」といって一日だけ、京都大廻りをする。この日は一日に九十四キロも歩かなければならない。その「切り廻り」よりも、最初のうちは睡眠不足で歩く四十キ
◇火焔の十万枚大護摩供、、(酒井雄哉大阿闍梨)紅蓮の炎が燃え上がり、酒井阿闍梨が祈禱しながら護摩木を投じると、火焔はさらに天井まで焼きつくすかのように凄まじい火勢でめらめらという音をたてた。「ナーマクサーマンダーバーサラナンセンダンマーカーロシャナソワタヤウンタラターカンマン」信者たちが唱和する真言が、一大合唱となってそれに和する。一つひとつ護摩木に込められた衆生の祈願を声に出して読みあげ、それを火焔の中に投じる阿闍梨の顔は、真っ赤に炎にそまり、さながら生きた不動明王を彷
◇『千日回峰行』①(酒井雄哉大阿闍梨)宮本一乗師の先導で酒井阿闍梨は、飯室回峰を歩き出した。酒井阿闍梨は、不動堂に祈願すると、まず近接している松禅院の前を通って、不動堂から二、三分の距離にある慈忍和尚の墓所に詣でた。飯室中興の祖といわれる慈忍和尚の墓所は、十七段の石段を駆け足で上っていくと、昼でも薄暗い霊域は夜のしじまの中で月の光一条も通さぬ暗黒の世界、ここは元三大師の墓所などと並んで、「比叡山の三魔所」の一つと恐れられている。老杉の巨木がつながる細い参道を奥に進み、「手文」にしたがって礼
【京都】京都市左京区浄土寺真如町の真正極楽寺(真如堂)密を避けピークを外し参拝しました。【真如堂御朱印】安倍晴明ゆかり【決定往生之秘印】安倍晴明が閻魔大王から授かった印紋921年に生まれ85歳まで生きた安倍晴明。一度は不慮の死をとげるもまた生き返ったとの伝承があります。真如堂御本尊の脇侍不動明王は安倍晴明の念持仏といわれ「真如堂縁起」には不慮の死に遭った安倍晴明が
我が家の宗教「真宗大谷派」には、戒律がナイ。世界では、戒律の無い宗教は少ないし、極めて変わっている。まぁ、プロテスタントも無いけど(笑)親鸞聖人の師僧、法然聖人は浄土宗の開祖では、あるけれど、天台宗の1派であるため、戒律はある。その、法然聖人が堅持していた「円頓戒」当時の最高の聖僧と言っても過言では無い。その、法然聖人の言葉と覚悟…「ここにわがごときは、すでに戒定慧のうつわものにあらず」凄まじき冷徹眼だ。(@_@;)
◇京都大廻り、、(酒井雄哉大阿闍梨)「千日回峰は、まあだいたいスムーズにいったけど、この赤山苦行だけは本当に大変だった。行をやっているんだから、辛いのは当然てま、そのつらさ、苦しさを基準にして、なおかつもっと辛かったのが赤山苦行だったね」二月十五日、尾崎大顕師が西塔・浄土院での十二年籠山を結願した。十二年間、比叡山から一步も出ず、傳教大師の廟所のある浄土院でひたすら清掃と勉学の毎日を送る。横川の看経、東塔の回峰行と並ぶ比叡山の「三大地獄」の一つである。回峰行を動とすれば、静に徹する苦行であ
【3月17日】京都市中京区にある天台宗行願寺(革堂)さんへ。3月16日~23日までの季節の御朱印。
最期の父との再会、、(酒井雄哉大阿闍梨)昭和四十九年三月三十一日、三年籠山を終えた酒井阿闍梨は、初めて比叡山の住職になることを認められ、無動寺谷宝珠院の住職として配された。宝珠院は、無動寺回峰の聖地、明王堂や護摩堂のすぐ近くにある。無動寺坂を少し下れば、行門法流を伝えてきた玉照院がある。酒井阿闍梨は、自分には学僧になるような頭はない。歩く行が一番向いている、という見きわめから、千日回峰に命をゆだねてみたい、と激しく希望するようになっていた。「千日回峰をやってみたいのです。わしは行に生きよう
(天台宗宗務庁滋賀県大津市)❖先月末から報道されている、『天台宗僧侶による性暴力被害』と該当僧侶の僧籍剥奪の申告について、天台宗宗務庁が正式に受理したとの報道がありました。天台宗の寺“住職から性暴力”尼僧が訴え事実関係など調査へ2024年2月8日20時18分四国にある天台宗の寺の住職から十数年にわたり性暴力などを受けたと訴え、尼僧が住職ら2人の僧籍を取り上げるよう申し立てたことを受け、天台宗が事実関係などについて調査を始めることがわかりました。四国に住む50代の尼僧の法名・
今東光さん今東光(こんとうこう)1898年3月26日生まれ、1977年9月19日、満79歳没。神奈川県横浜市生まれの小説家、天台宗大僧正(法名春聽)、中尊寺貫主、参議院議員。大正末期に新感覚派の作家として出発。その後、出家し、長く文壇を離れたが復帰。住職として住んだ河内や平泉、父祖の地、津軽など奥州を題材にした作品で人気を得た。週刊誌やテレビでも活躍し、毒舌和尚としても知られた。1956年、裏千家の機関誌『淡交』に1年間連載していた『お吟さま』で第36回直木賞を受賞
◇幻の常行三昧(酒井雄哉大阿闍梨)酒井阿闍梨は百日回峰を無事に終ると、次の行に入ることを義務づけられていた。三年籠山中に果たさなければならない修行として、祖廟浄土院での侍真奉仕、百日回峰、そして「四種三昧」のうちから「常坐三昧」か「常行三昧」のどちから一つ、この三つが定められている。四種三昧とは、比叡山で最も歴史的が古く、基本的な修行で、「常坐三昧」「常行三昧」「半行半坐三昧」「非行非坐三昧」の四種をさす。これは天台宗の高祖、中国の天台大師が法華経の修行法を説いた「摩訶止観」に示されている
◇山田恵諦師とは、、(酒井雄哉大阿闍梨)陰に日向に、酒井阿闍梨を見守る一人に、「山田恵諦師」がいる。酒井阿闍梨曰く「厳しい先生だった。」叡山学院時代、山田師の授業を受けている。第二五三世天台座主・探題大僧正、明治に生れ、大正・昭和・平成に生き、今の比叡山延暦寺を語る上で欠かせない僧である。「法華三部経を暗記」「漢文法華経をソラで唱える」「東洋の聖者」とローマ教皇にいわさしめ、「空飛ぶ座主」といわれた人物。大まかな略歴は、明治二八年兵庫県揖保郡太子町に生まれる。明治三七年天台宗延
2023.3.9.調布の深大寺参拝した時、角大師の降魔札と豆大師の利生札をいただいてきました。降魔札と利生札(二枚一組・紙札)降魔札と利生札(二枚一組・紙札)深大寺通信販売ECサイトwww.jindaiji.or.jp降魔札と利生札(二枚一組・ステッカー)降魔札と利生札(二枚一組・ステッカー)深大寺通信販売ECサイトwww.jindaiji.or.jpちょっと前に計画しだした防犯計画で大口真神のお札を門に貼りましたが、『強盗・盗難避けにオオカミのお札―大口真神―』2023年.
西国三十三所第四番札所・施福寺(せふくじ)です。天台宗のお寺さんになります。現状...恐らくは西国巡礼における最大の難所は、ここと言う事になるでしょう。以前は醍醐寺がNo.1でしたが、上醍醐の観音堂が焼失し、札所が下醍醐に下りて来られましたからね。ここが現在は難所ランキング繰り上げNo.1となっております(笑)。意外に思われるかも知れませんが、大阪府です。大阪にこんな秘境があるのかと、遠方から来られた方は衝撃を受けるでしょう。西国最強の難所は、近畿二府四県と岐阜県に広がる西国霊場の中で
阿闍梨【外伝】❖一隅を照らす『比良八講』三月二十六日、滋賀県大津市近江舞子浜において『比良八講』が執り行われました。比良山より吹き降ろす風を『比良八講の荒れじまい』と呼び、春の訪れを告げると言われています。酒井雄哉大阿闍梨の師匠、箱崎文應大阿闍梨が再興した『比良八講』、孫弟子の藤波源信大阿闍梨を導師に、水難者回向、琵琶湖への報恩感謝などを祈願します。(天台宗延暦寺公式サイト画像)◇比良八講の歴史的背景最澄が開いた天台宗天台宗の開祖である最澄(伝教大師)は、767年、現在の大
何時もブログをお読み頂き有り難う御座います。m(._.)m❗️令和6年元旦の初詣は、世界遺産平泉の関山中尊寺へ行って来ました。中尊寺金堂には1958年比叡山延暦寺より不滅の法灯を分灯して頂き、天台宗東北大本山の称号を認められました。そんな延暦寺から千二百年を繋ぐ不滅の法灯を観ることが出来ますよ❗️中尊寺金堂では縁起物「熊手」を求め、熊手でお金が集まる様にと自宅神棚脇に飾りました❗️そして今日の初詣の他に、もう一つの目的が有って金色堂に詣でました。拝観料800円をお支払いして、いざ金
☆【外伝】高倉健と二人の阿闍梨京都に、西村泰治(敬称略)という実業家がいる。酒井雄哉大阿闍梨が二千日回峰行をする時に『京都大廻り』の際に、先導を勤めた人である。その破天荒な人生は、前の記述で紹介したが、酒井阿闍梨に心酔した一人である。通称「ヤッさん」、昭和のスーパースター、「高倉健」の付き人を四十年以上つとめてきた男でもあり、芸能界の裏側を知り尽くした男でもある。令和二年、高倉健七回忌にあたり、ベストセラー・フリーライターである山平重樹が著した、『高倉健からアホーと呼ばれた男西村泰
〈学生部教学のページ〉『生死一大事血脈抄』に学ぶ〈上〉2024年1月24日三世を定める「今」の戦い!本年、学生部は年間拝読御書として4編を定め、日蓮仏法の魂を心肝に染める。今回からは、2回にわたって「生死一大事血脈抄」を研さんし、久遠の師弟の縁を学び深める。この時を選んで広宣流布を誓い躍り出た学生部が、一層深い弟子の自覚に立ち、「世界青年学会開幕の年」を弘教拡大で先駆してまいりたい。(今回の範囲)新版1774ページ1行目~1775ページ17行目全集1336ページ1行目~1337ペ
2月4日の木の芽春立つ日に開催したサイバー鈴木の『小江戸川越開運ツアー』今日は一年前の川越ツアーでも訪れたこちらの有名寺院さんです✨☆慈恵堂(本堂:県指定有形文化財)『星野山無量寿寺喜多院』別称:川越大師ご本尊元三大師創建天長7年(830)開基円仁天台宗寺院の喜多院のご本尊は元三大師。慈覚大師が天長7年(830)に淳和天皇の命で創建したのが始まりとされます。当時のご本尊は阿弥陀如来だったそうです。その後、平将門の乱や比企の乱により衰退しますが、鎌倉時代後期の永仁4年(
◇飯室谷にいく、、①(酒井雄哉大阿闍梨護摩行)酒井阿闍梨の千日回峰行は認められた。が、一つ条件がつけられた。これはすでに、酒井阿闍梨が叡山学院研究科を卒業したあと、本山交衆への加入を認めるかどうか、年齢が問題になって一山会議が開かれ、比叡山の規則が変更されたときからついていた「ただし書き」だった。特例を認める代わりに「ただし書き」をつけた。その内容は、「将来は飯室谷(いむろだに)の箱崎文應師のもとで、起居する」というものである。先達会議は、酒井阿闍梨の千日回峰を認めると同時に、この「ただ
◇常行三昧、二河白道を歩く、、(酒井雄哉大阿闍梨)昭和四十八年六月一日、酒井阿闍梨は九十日間の「常行三昧」に入った。場所は西塔にある「にない堂」で、ここは釈迦堂を背景にして朱塗りの宝形造りの堂が、双子の堂のような形で並んでいる。右側が法華堂、左側が常行堂で、文禄四年(一五九五年)建立と伝えられる。にない堂は杉木立の静寂の中にある。周囲の苔の緑が美しい。恵心僧都源信の流れをくむ浄土真宗の宗祖・親鸞も、かってはこの常行堂の堂僧であった、と伝えられている。酒井阿闍梨が常行三昧を発願したとき、高
◇百日回峰が終る、(酒井雄哉大阿闍梨)初日を終え、翌日から一人きりの回峰となった。漆黒の闇の世界を、小田原提灯の火一つで歩くのは、得体の知れない恐怖に襲われる。自分の足音が妙に大きく聞こえる。峰道を登るとき、ガサッと音がした。野兎が駆けて行った。酒井阿闍梨は「手文」を見ては、礼拝し、真言を唱え、印を結ぶ。とにかく前へ進まなければならない。同じ時期、酒井阿闍梨を入れて五人の新行さんが百日回峰を行っていたが、回峰行は一人でやるものだから、毎朝それぞれが時間をずらして出峰して行く。しかし、三十
❖食事は一日二回千日回峰行のうち、七百日までは自利行という自分が不動明王に近づくための修行をする。そのうち百日につき一日だけは、利他行といい、人のために祈る修行をする。七十五日目のこの日、『京都切廻り』をする。この日は比叡山を下り、京都市中四十五キロを行をしながら歩く。多くの人々が沿道にひざまづき、首(こうべ)を垂れて阿闍梨さんのご加持を待つ。不思議にこの日には便意をもよおさないと阿闍梨さんはいう。千日回峰行中でも最高に体調がよいときは何日も便意がない。便そのものが体中にないのだとい