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Googleマップで検索して参って来た津山三十人殺しの都井睦夫の墓石。Googleマップに表示された場所のスロープを上がった右側が都井家本家の墓所。スロープの左側の笹に覆われてしまっている場所の奥に都井睦夫の墓石代わりの川石が有りました。周りの笹を取り除き、撮影して、車に戻って写真フォルダを確認すると、上の墓石の写真の次に紅色の謎の光の画像が。こんな紅いものに向けてシャッターを切った覚えは無いのですが。何なんでしょう。
※2024年1月6日訪問※大隣寺さんの境内には、戊辰戦争で犠牲となった【二本松少年隊の墓】が建てられています✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼慶応四年(1868)七月二十六日、三春瀋の突然の降伏により二本松藩の横腹を突く形となった西軍は、潮の如く二本松城下に迫りつつあった。そのため藩は止むなく少年達の出陣を命じることとなり、十二歳から十七歳までの62名が緊急に各隊に配属され、西軍との応戦体制に入った。二十九日朝、隊長木村銃太郎・副隊長二階堂衛守の率いる少年隊士25名が出陣した大壇
この日は笠間市で遊んでいますまずは国指定文化財の楞厳寺山門その奥には笠間城主笠間時朝公の一族の墓所がありますさらに奥には楞厳寺行ってみよう山の中山際に田畑が広がる小川のせせらぎを聞きながら見えてきたのは楞厳寺山門です周囲はのどかな風景です日本情緒あふれる鎌倉時代笠間城初代城主笠間時朝
【問題】福岡市博多区にある崇福寺には、次のうちどの家の歴代の墓所があるか?【選択肢】細川家加藤家黒田家立花家【正解】黒田家【解説】崇福寺(そうふくじ)には、福岡藩主であった黒田家の歴代の墓所がある。藩祖・黒田如水、初代・長政、4代・綱政、6代・継高、7代・治之、9代・斉隆などが眠る。
さて、長久寺から南下していく。まずは、日蓮宗の妙寿寺。こちらには、鬼子母神がお祀りしてある。※門はこんな感じに閉まってたけど、お隣の駐車場の入口が全開だった。そして、田中金峰墓所となっているのだが、田中金峰さんってどなた??と思って調べてみたら江戸時代の大阪の儒学者・医者・漢詩人だった方だそう。こちらが鬼子母神のお堂鬼子母神ってあんまりお見かけしない気がする。(記憶にあるのは、西国三十三所の33番の華厳寺)・・・鬼子母神も夜叉だったのね。本堂閉まって
【土公供(どこうく)仏式地鎮祭】今年の夏、県外から島根県へ移住され、懸命に頑張っていらっしゃった方が、90歳を越える大往生で亡くなられました。ご家族思いで、子供さんがそのお仕事もきちんと継承をされておられます。このご一家では初代。清水大師寺とご縁をいただき、通夜、葬儀から逮夜や満中陰のご法事等々を勤めさせていただいて参りました。初代であるということで、どこかに墓所を…と探しておられたところ、良い地が見つかったということで、本日、仏式の地鎮祭である【土公供(どこうく)】の
2018年1月20日JR東海のさわやかウォーキングに参加しました。テーマは、「新春詣、家族皆で豊川歴史散歩」です。距離も4.5kmと短めですね。豊川駅の一つ手前、牛久保駅で降りてウォーキング開始です。改札を出たところで地図を貰いスタートです。車の入れない細い道を進みます。野菜のセルフ販売所には、一袋100円の里芋がありました。安いけど・・・・ウォーキングで持って歩くのは疲れるので止めました。大聖寺にやってきました。
平安時代後期に藤姓足利氏(藤原秀郷の系統)が築いた足利城(両崖山)は1512年長尾氏に支配権が移りました(藤姓足利氏は源平合戦で平氏側として戦い滅亡)。鎌倉時代には源姓足利氏(尊氏の系統)は平地に居館を構えたため足利城は荒れ放題の状況でしたが、室町時代中期には足利長尾氏の3代景長(かげなが、1469~1528)は足利城を修築して居城とします(4travel.jp)。源姓足利氏と足利長尾氏の関係がわかりません。詳しい人に聞いてみましょう。足利長尾氏墓所は心通院(足利市本城)にあ
高野山「奥の院」には織田信長をはじめとする有名な戦国武将の墓が点在しています。ちょっとご紹介織田信長、豊臣家、徳川家、明智光秀、石田三成、伊達政宗、武田信玄・勝頼、上杉謙信など、誰もがよく知る武将の名が連なります。伊達政宗、石田三成、明智光秀の慰霊碑今はお隣さん同士です戦国時代には考えられない隣人関係…何だか微笑ましいですね。立派な鳥居の墓群薩摩島津家の霊屋がありました。豊臣家の墓所は他よりも広い敷地で墓所に入れないように柵が設けられていて常にお供え物が置かれ、さ