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石浜の高台にそびえる巨大な石浜観音石浜の人々の浄財で建立2025/07/01石浜の高台にそびえる石浜観音は、昔は村の外れに有りました。今は外れであった奥の西方もしっかり住宅地に変貌しました。はずれてあった場所が石浜の中心の場所になっています。昔は寺の墓と遺体を埋葬する外墓の墓所と2つ墓を持っていました。その外墓の墓所に石浜観音は建立されました。石浜の人々の浄財で巨大な石浜観音がそびえています。(残念なこと高台であるため通信会社が電波の中継塔を建てて、観音様の視界に電波塔
母の御骨を納めるお墓が完成しました。先祖代々のお墓は父方も母方も遠方にあり、お墓参りに行くのが困難なため新設しました。お墓を新設するにあたり、現代の日本のお墓事情等、色々知ることが出来ました完成までの経緯をお話しさせていただきますね。(少し長くなります🙇♂️)母は生前、樹木葬を希望していました。私の頭の中では、樹木葬って言葉のイメージから、山の中の大きな木の根元に御骨を埋めるor散骨する。というようなお墓を持たない、自然葬というようなイメージを持っていました。そうではなく今の「樹
春彼岸の前に父のお墓とお仏壇に手を合わせようってことにしていたのに私の絶不調で見送り、それっきりになっているのは申し訳ないのでは?という夫からの提案で私の地元へ出向いてファミレスでランチしてきた、のび子ですオムライスにビスクソース。カニクリームコロッケ付き。美味しかったのーぅオムライス久しぶり!ビスクソース新鮮!あとこのお皿かわいい!欲しい!普段はランチしたお店でデザートまで手を出すことはないのだけれど暑かったからか気が向いて頼んだソフトクリーム。しっかり固めなソフ
闘覚院機魂寛道居士この方がいなければ、小生、この世界に入っていなかったのかも・・・・遅れ馳せながら、鶴見の總持寺に墓参に行って参りました同行は、40年来の格闘技の友。この道を行けば、どうなるものか危ぶむなかれ・・・・お馴染みの「道」の碑ヽ(^o^)丿今後、この場所には何回も行く事になるんでしょうねぇ~(笑)考えただけでも、空恐ろしい因みに拙宅近くの池上本門寺の力道山先生の墓所に、これまで何回行った事でしょうか話は変わりますが・・・・この曹洞宗の大本山總持寺の大きさに度
みなさま、おはようございます!対馬の旅シリーズ、その後途絶えていましたが、今日は、「万松院」をご紹介。あの人気ゲーム、ゴースト・オブ・ツシマ。ゲーム序盤に登場する「黄金寺」の石段は、この「万松院」がモデルになったのではないか?と言われています。確かに、この「百雁木(ひゃくがんぎ)」と言われる石段は、登る前はかなり圧倒され、「大丈夫かな?」と心配になるのですが、登ってみると段差も低く、たくさんの高齢の方々もチャレンジされていました。登りきって振り返ると、こんな素
品川区・大井公園の高台の片隅に土佐藩15代藩主にして幕末の四賢侯の一人「山内容堂」の墓がひっそりと佇んでいます。容堂の墓の左手には島津家から山内家に輿入れした山内豊熙(13代藩主)の正室の墓があり右手には、山内豊範(16代藩主)の正室の墓が並んでいます。多くの資料が、容堂の墓が大井公園にある理由を「土佐藩があった場所」と「遺言で指定された」の2点で説明していますが実際には、土佐藩の土地ではなく遺言の存在も口承のみで裏付けがありません。ここは、鯖江藩・間部詮勝
【問題】豊臣家臣・加藤光泰の墓所は、次のうちどこにあるか?【選択肢】今宮戎神社築地本願寺甲斐善光寺鶴岡八幡宮【正解】甲斐善光寺【解説】加藤光泰は2年半という短期間ではあるが甲斐国を治めていた時期があり、文禄2年(1593)に病死した後、甲斐善光寺に葬られた。墓は甲府市の文化財に指定されている。
2025年4月1日祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。驕れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。有名な「平家物語」の序章である。何でこんな話を始めたかと言うと、今日は4月1日。4/1と言うことでヨイチ、平家物語に出てくる那須与一を思い出したからだ。平家物語はおおよそ平清盛の時代から、平家滅亡までを綴った古典だと言える。そもそも琵琶法師の口伝であった
3月22日きょうはご近所の幼馴染の納骨だった一緒に育った仲良し『仲良し逝く』仲良しが亡くなった物心つくころには仲良しになっていた一緒におままごとやいたずら秘密基地を作ったり学校ごっこをしたり隠れん坊していて隠れているつもりが寝て…ameblo.jp奇しくも我が家と同じ墓所永代供養墓にお骨は収まった本堂での供養の後供養墓の前で合掌お坊さまのお話は亡くなった方が喜ぶ生き方みんな仲良くこの二点だった主人のお葬式の時の思い出深いお説法悲しい…
1月も終りが近づいたとある休日のお昼頃京浜急行鮫洲駅まできたので、鮫洲八幡神社へ半年以上一年未満の再訪となります鮫洲八幡神社につきましては『鮫洲、旧東海道の裏道から八幡神社』しながわ花海道(勝島運河)より旧東海道へ家と家との路地入口に「稲荷大明神」赤い幟が目についた分け入ってみると路地の突き当りは鮫浜小学校その前に小さな社が白玉…ameblo.jp社殿の背後を・・・時折り通り抜ける京浜急行の走行音さえ無ければ、静な境内なんですけど穏やかな日差しを浴びる狛犬さんと
参拝日2025/2/104/9竜泉寺りゅうせんじ山号:宗派:真宗大谷派愛知県田原市田原町新町82-2☎0531-22-0241墓所の参拝としていただけるようです。山門境内と本堂左の手水舎の後ろにお墓が有ります山門横の説明書きに芭蕉の自筆の句が保管されているようです。Pは西側に回り込むと大きな駐車場が有ります。
私はこんな人私・夫・しーちゃんの3人家族オタク主婦でアニメ・ゲーム・漫画大好物念願のマイホームゲットしたからその辺のことをつらつらと…なお趣味部屋は作れなかった模様土地シリーズ第25弾前回はこれ!『便利だ!と飛びつくと痛い目に遭うかもしれない土地?!』私はこんな人私・夫・しーちゃんの3人家族オタク主婦でアニメ・ゲーム・漫画大好物念願のマイホームゲットしたからその辺のことをつらつらと…なお趣味部屋は作…ameblo.jp今回は地盤の話
播磨六寺の一つ増位山随願寺に行ってきました。増位山随願寺の境内には、三十三代姫路城主であった榊原政邦の側室で、三十四代姫路城主・榊原政祐の生母である実相院の墓所がある。案内板には「実相院は、三十三代姫路城主・榊原政邦の側室で、世子・政祐(三十四代姫路城主)の生母。婦人病になやんだことから、死後は同病に苦しむ人を救いたいと遺言をした。このことから「しも」の病に霊験あらたかとして詣る人が多い。地
事故死した雌鶏の亡骸を埋めました。前庭の、家の壁のすぐ外側、バラの苗の下に。これまでは息を引き取った動物を前庭に埋葬することはしなかったんですけど(敷地内の木の下などを選んでいた)、今回はまあ色々と思うところもあり。私は自覚していた以上にあの雌鶏が好きだったのかもしれません。私の人生って基本的にそういう感じでよう・・・!夏になったらバラの花に生まれ変わってまた我が家の庭に遊びに来ればいい、というのと、あとあの雌鶏は別に他のニワト
日光東照宮を訪れたら外せないのが徳川家康公が眠る奥宮の墓所でしょうか!徳川家康公の墓所は日光東照宮本殿に向かって右側にある坂下門を通り向かいます。坂下門を潜る直前に有名な左甚五郎作とされる彫刻の眠り猫を見ることが出来ます。この先は歴代の徳川将軍しか立ち入れなかったなので本当に神聖な場所ですよね!坂下門から墓所まで200段の石段を登っていきます。ちなみに徳川家康公の墓所が公開されてから今年で丁度60年なのですがホンダがF1世界選手権で初優勝を果たした1965年(昭和40年)に東照宮350
※2025年1月7日訪問※こちらは【六代・邦和】公の墓石です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼文化8年(1811年)、岩出山伊達家8代当主・伊達宗秩の三男として誕生。叔父で川崎伊達家5代当主・伊達宗和の婿養子となり、家督と知行2000石を相続し、陸奥国柴田郡川崎邑主となる。藩主・伊達斉邦の偏諱を受け織部邦和と名乗った。天保14年(1843年)閏9月19日死去。享年33。家督は嫡男・邦賢が相続した。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲ということで、川崎伊達氏の墓所にお参
※2025年1月7日訪問※こちらは【五代・宗和】公の墓石です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼天明7年(1787年)、岩出山伊達家7代当主・伊達村則の子として誕生。川崎伊達家4代当主・伊達村賢の婿養子となり、家督と知行2000石を相続し、陸奥国柴田郡川崎邑主となる。仙台藩主・伊達周宗の偏諱を受け上野宗和と名乗った。天保5年(1834年)7月19日死去。享年48。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲陸奥国・陽廣山龍雲寺川崎伊達氏墓所六代・邦和▲に続く
※2025年1月7日訪問※こちらは【二代・村敏】公の墓石です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼正徳3年(1713年)10月16日、岩出山伊達家当主・伊達村泰の二男として誕生。幼名は大次郎。始め親倫(ちかのり)と名乗っていたが、のちに仙台藩主の伊達吉村より「中村」の姓と偏諱(「村」の字)を与えられ中村村高(なかむらむらたか)と名乗る。享保16年(1731年)、跡取りの居なかった義兄で川崎伊達家当主・村詮の隠居に伴い、養子に迎えられて家督を相続し、村敏(むらとし)と名乗る。寛延4
※2025年1月7日訪問※こちらは【四代・村賢】公の墓石です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼安永6年(1777年)7月8日、水沢伊達家8代当主・伊達村儀の子として誕生。幼名は直躬。初名は景賢(かげかた)、ついで藩主・伊達斉村の偏諱を受け主殿村賢と名乗る。寛政4年(1792年)6月、川崎伊達家3代当主・伊達村煕の婿養子・継嗣となる。天保9年(1838年)2月10日死去。享年62。跡目を婿養子・宗和(伊達村則の子)が継いだ。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲陸奥国・
※2025年1月7日訪問※こちらは川崎伊達氏の【初代・村詮】公の墓石です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼元禄10年(1697年)5月17日、中津山藩主・伊達村和の長男として江戸六本木の中津山藩邸にて誕生。幼名は丑千代。元禄12年(1699年)に、父・村和が旗本・岡孝常との刃傷沙汰(土器町事件)により改易されると、父と共に仙台に戻され、享保4年(1719年)に赦免されるまで逼塞を余儀なくされた。享保5年(1720年)、村和の出家に伴い家督を相続すると、暫定的に一門格の待遇を受け、
※2025年1月7日訪問※続いては【三代・村煕】公の墓石です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼元文5年(1740年)、川崎伊達家2代当主・伊達村敏の子として誕生。宝暦3年(1753年)12月、父・村敏の死去により家督を相続し、陸奥国柴田郡川崎邑主となる。仙台藩主・伊達宗村より偏諱を賜って村煕と名乗る。宝暦8年(1758年)、新藩主伊達重村(宗村の長男)の帰国許可の謝使として江戸に出府し、江戸城で9代将軍・徳川家重に拝謁する。寛政11年(1799年)6月10日死去。享年60
※2025年1月7日訪問※こちらは【七代・邦賢】公の墓石です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼天保8年(1837年)、川崎伊達家6代当主・伊達邦和の嫡男として誕生。天保14年(1843年)閏9月、父・邦和の死去により、家督と知行2000石を相続し、陸奥国柴田郡川崎邑主となる。藩主・伊達慶邦の偏諱を受け主殿邦賢と名乗った。慶応2年(1867年)4月、1000石の加増を受け知行3000石となる。慶応4年(1868年)の戊辰戦争における仙台本藩の敗戦により、先祖代々の知行地・川崎領
※2025年1月7日訪問※まずは【川崎館主子女の墓碑】に手を合わせて行きます標柱が建てられているので確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ここの墓石群(碑二十一基、台石二個)は、川崎伊達家累代館主(二代村詮・三代村敏・四代村煕公)の子息と息女方の墓碑です。おおよそ、そのほとんどが二歳から十歳ぐらいの幼児です。館主の子女ということもあってか、「院殿」という高位の法号が授けられています。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲子女の墓という事もあってか、比較的小さ
1月26日(日)休みが月曜で被っててなかなか行けなかったお店にランチに訪問DantePizzaNapoletana帰宅途中に寄り道毎年参拝している神社です。【湊川神社】智・仁・勇の三徳を備え聖人と仰がれた南北朝時代の名将、楠木正成公をお祀りし、楠公なんこうさんと、親しまれています。39年前、ここで挙式を上げました結婚式当日は朝から夜まで暴風雨でしたあれ以来、参拝する時はいつも晴天です。扁額「湊川神
※2025年1月7日訪問※墓地の南側に位置する【川崎伊達氏の墓所】ですここ最近になって整備されたようで、【川崎伊達家廟所(曹洞宗陽廣山龍雲寺)配置略図】と書かれた案内板が設置されているのはとても助かりますね✨【川崎伊達家の墓】という大きな標柱も建てられているのでわかりやすいですね✨▲陸奥国・陽廣山龍雲寺川崎伊達氏墓所川崎館主子女の墓碑▲に続く
※2025年1月7日訪問※墓地の東側に残されているのが川崎館主【砂金氏の墓所】ですいくつかの墓石と、墓に関わる標柱が建てられていますね✨まずは初代川崎館主で砂金氏11代の【砂金右衛門右兵衛実常】の墓所続いて、二代川崎館主で砂金氏12代【砂金佐渡隆常】の墓所です今回訪問した砂金氏の墓はこの二基しかし、帰宅後に改めて調べて見ると、少し離れた場所に13代~15代の墓も残されていたようなのですが、訪問時には気付かず…事前のリサーチ不足でしたので、また再訪出来ればと思います▲陸奥国・陽廣山
※2025年1月7日訪問※龍雲寺さんの本堂から南側に少し歩くと墓地が見えて来ますが、この中に川崎領主で有った【砂金氏・川崎伊達氏の墓所】が残されています✨墓地入口部分には【龍雲寺と川崎館主】と書かれた案内板が設置されているので、砂金氏・川崎伊達氏の偉業を学ぶ事が出来ます▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼龍雲寺は、川崎館主砂金氏と川崎伊達氏の菩提寺である。関ヶ原役後、中ノ内城主(本城)砂金氏11代右兵衛実常が川崎館(城山)を築き、龍雲寺を勧請して、元和4年(1618年)現在
※2025年1月7日訪問※龍雲寺さんの敷地の道路を挟んで南側には何やら墓石のような物が数基並んでいる不思議な光景が【国司壇】と書かれた案内板が設置されていますね✨国司壇を後にし、寺の南側に当たる墓地部分へと向かいます✨▲陸奥国・陽廣山龍雲寺川崎館主の墓▲に続く
※2025年1月7日訪問※山門をくぐった先には龍雲寺さんの【本堂】が見えて来ます▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行8間、正面1間唐破風向拝付き、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲陸奥国・陽廣山龍雲寺国司壇▲に続く
※2025年1月7日訪問※境内を進むと見えてくる【山門】です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼山門は入母屋造りの銅板葺き。三間一戸、八脚単層門、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、腰壁は下見板張り、左右に花頭窓の装飾。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲【龍雲寺】の扁額、そして伊達家の家紋である《三引両》《竹に雀》の門があしらわれていますね✨▲陸奥国・陽廣山龍雲寺本堂▲に続く