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5/9(木)に「和田岬砲台」「明石藩舞子台場跡」を見学した後、「舞子」からすぐ近くの「明石藩」の「明石城」(兵庫県明石市)へ登城しました。前回のブログ「前編」では、「三の丸」跡から高石垣上の「本丸」「二の丸」「東の丸」の各跡を見てきましたので、本日のブログ「後編」では、「東帯曲輪」跡から見ていきたいと思います。「前編」は下をクリックしてご覧ください↓『<明石城(前編)>西国大名の睨みを効かすべく築城された巨大城郭』5/9(木)に「和田岬砲台」「明石藩舞子台場跡」を見学した後、「
先日高校時代からの古い友人たちと、芥川山城へ行ってきました。昔高槻で教員をしてた頃は、生徒たちや地域の人たちを案内して何度も登ったことがあるのですが、久しぶりの案内・再訪でした。前日は雨で、お天気が心配だったのですが、当日は傘なしで大丈夫でした。ただし、三好山山頂の本丸跡からの眺望は「いまいち」でした(-_-;)晴れていたら、大阪平野全体がもっとクリーンに見渡せるのですが・・。左端のほうに二棟ほど高層ビルが見えていますが、あのあたりがJR高槻駅付近になります。ちなみに、下
先日、某祕密結社の集会が東京京橋で開催されました。定例集会としては“最後の集ひ”どしたよって、久々に夜行バスで関東遠征して参りました。集ひの後の“反省会”なる宴^^に向う道すがら、東京高速道路西銀座入口の前を通りました。この『東京高速道路』、首都高速道路の一部や無ぉて別組織、別運営、て事は知ってましたけど、出入口を眼にするんはお初どした。見慣れた都市高速道路のランプウェイとは違ぅて、まるでビルの屋上駐車場にでも昇るかの
館林城址のシンボルでもあります土橋門について、もう少し詳しく書いてみたいと思います。ますは三の丸。幕末の三の丸にはこのような建物がありました。こちらが復元されたジオラマです。この建物は藩主の邸宅でしたので、三の丸が一番早く買い戻されて、旧藩主である秋元家に献納されました。現在は館林文化会館や館林市立図書館が建てられましたが(館林市役所も一部が旧三の丸の土地にあります)、土塁も残されており、江戸時代の館林城の雰囲気を一番感じさせてくれる場所です。左が文化会館の後ろから三の
今回の但馬遠征の一番の目的。出石城の背後にある有子山城(ありこやまじょう)攻め入ります。有子山城は豊岡市出石町にある出石城の裏山(南側)にある比高310mほどの山城です。出石の町から見た有子山。頂上に僅かながら石垣と休憩所が見える。下は出石城の西隅櫓。有子山城は永禄12年(1569)但馬山名氏の山名祐豊がそれまで居城であった此隅山城が織田軍の但馬侵攻で羽柴秀吉の攻撃により落城し、天正2年(1574)新たに有子山城を築城した。落城した此隅山が「子盗み」を連想させること
日曜日は土橋さんの応援にアウトサイダーに行ってきた❤️前日、私の試合の応援に来てくれていつの間にかみんな帰ってたんだけどその日の土橋さんのブログにこんなことが書いてあって本当に気づかなかったんだけど想像出来すぎて爆笑しました。昨日ごめんなさい!!と謝る私に速攻、中指🖕笑笑良い先輩です。笑笑載せ忘れてました応援に来てくれた土橋さんの後輩のそうしくんと😆ふたりで来てくれてたのに💦そうしくんとの写真しかない失態。また是非お願いします!内田さんとの
一応、土橋門の最終回で、門の表側、城外から見た姿です。日本遺産の旗が翻っていますが、旗が立っている辺りが土塁との境目です。こちらにも間知石が並べられています。復元された土橋門は発掘された柱の跡より4m程度、後ろ(すなわち城内側)に建てられています。丁度、並べられた間知石のすぐ後ろ辺りになります。間知石は6個並んでいて、同じような形に整ったものが並べられています。その3で「6個で1間」と書きましたが、ここに並んだ石は1辺が40~50cmと大振りです。どうも「6個で1間」の間知石は比較的時代が新