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2025年の初記事です。今年も細々とやって行きますので、適度にお寄りいただければ嬉しゅうございます。この正月、近場のちょっと名の知れた神社なんですが、初詣に行きました。正月の初詣自体何十年かぶりぶりでして、近年は初攻めのついでに人気のない神社で初詣を済ますという事にしてきましたが、南斗!詣でるのに参道から拝殿まで大行列できてますやんまぁTVで紹介してるような有名な神社の比程でもありませんが、いや~神さんもようさんの人の願い聴き入れるの大変やのう。そんな要らぬ心配しながら詣でてきま
播磨国の山城を攻めました。ちょうど1年前の矢筈城地獄登山が蘇る。兵庫県たつの市播磨・城山城(きのやまじょう)別名:亀山城、木山城城山城は、同一の山の上に7世紀末の古代山城と、正平7年/文和元年(1352)に赤松則祐(村上源氏・播磨守護)が築城した中世(南北朝時代)山城が複合する珍しき山城です。馬立登山口。国道179から県道724へ。来栖川に架かる橋を渡り、この先に墓地の駐車場があり、そこに本陣を敷きました。標高458m、比高400m揖保川の西岸にある山塊の亀山
虎倉城(岡山市北区御津虎倉)『和気絹』によると、伊賀守、岡左衛門久隆らが代々居城していたとされる。また、文明年中(1469~1487)には松田氏家臣、天正年中(1573~1592)には宇喜多氏の重臣長船越中の後、蟹江彦左衛門、鎌田五郎兵衛、長船越中守、石原新太郎、楢崎左近将監が在城したと伝える。さらに、天正8(1580)年の虎倉合戦(加茂崩れ)に関わる史料があるほか、城主伊賀氏と毛利氏の合戦、宇喜多氏との関係などについて記した『虎倉記』・『虎倉物語』をはじめとする軍記物にもたびたび登場する。
先日、某祕密結社の集会が東京京橋で開催されました。定例集会としては“最後の集ひ”どしたよって、久々に夜行バスで関東遠征して参りました。集ひの後の“反省会”なる宴^^に向う道すがら、東京高速道路西銀座入口の前を通りました。この『東京高速道路』、首都高速道路の一部や無ぉて別組織、別運営、て事は知ってましたけど、出入口を眼にするんはお初どした。見慣れた都市高速道路のランプウェイとは違ぅて、まるでビルの屋上駐車場にでも昇るかの
今回は今年2月に訪れた埼玉県皆野町の千馬山城の後編です余湖くんのホームページより、今回は本郭からとなります北側は開けていますが・・・先は崖でした余湖くんのホームページより、北側の尾根にも降りてみます命‼︎・・・ではなく、堀切を表現してます滑落が怖い堀切です滑ったら一巻の終わり⁈先はやっぱり崖でした北側の風景余湖くんのホームページより、東側へ行ってみましたさらに進むとロープが必要な堀切が登場岩盤を削った堀切ですえぐってますね〜さらに進むと二重堀切が現れました余湖く
桂離宮の土橋寛永二年(1662年)頃までに現在の形ができあがった桂離宮。その成り立ちは、八条宮家の別荘であった。明治14年に八条宮家が絶えた事で、その後は宮内省の管轄として維持管理されている。明治42年の桂離宮周辺の地図と、現在を比較したみた。池があるくらいは判別できるが、似て非なるものの様だ。明治時代は桂離宮が一般公開されていなかったのかもしれない。おそらく地図屋さんが、聞き取り調査で”おおよそ”のイメージで書いたのだろうか。桂離宮には、土橋(どばし)と呼ばれる橋梁が5本