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この日のお昼は家で前の晩にいただいたちまきと焼きそば晩はみんなで「炉端焼き新谷」予約の段階で注文してたエビしそ巻きが早々と登場ナス餃子エビフライ空豆豆が続く、枝豆刺し盛り(生くじらは指定で)ここで熱燗きのこホイル焼き海鮮チヂミ亀の手自家製らっきょう肉豆腐豚巻きアスパラで終了やっぱりみんなで行くと色々頼めていいねご馳
妙見山城(岡山市東区瀬戸町鍛治屋・瀬戸町塩納)別名:妙見山大森山遺跡標高240mの大森山山頂に、妙見宮造成に伴うと想定される一辺30m程の平坦面あり。山頂あら北側に延びる尾根上は、広い平坦面がらいくつか存在している。近くに、平木・土井・木戸など城跡に関連する地名が残ると伝わる。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)南四郭南三郭南二郭主郭広大な北東二郭北東二郭北東端の祠?土橋状の北尾根北出丸妙見山城遠望軌跡ログ旧赤磐郡瀬戸町の城
この日のお昼は前日定休日だった「ちから寿司」なんと1月末で閉店するのが決まってました最後は寿司セット(10貫)で🍣コスパ良しですこーゆーお店がどんどん無くなっていってます😭残念晩は久しぶりに「炉端焼き新谷」一番乗りお通しからわけぎと海鮮のぬたカンパチ刺身ええ仕事してます👏名物、エビしそあげあんこうのフライ営業時間のお知らせ満足
【清澄庭園は回遊式築山林泉庭園…隅田川の水を引いた大泉水を中心に全国各地から集めた名石を贅沢に配した明治の庭園】【東京都・江東区】大正十二年(1923)発生の関東大震災で、庭園は大きな被害を受け、邸宅も焼失した。翌十三年(1924)、3代統率者岩崎久弥は震災被害の比較的少ない東半分を東京市に寄贈。市は大正記念館の移築などの整備を進め、昭和七年(1932)に「清澄庭園」として開園した。昭和四十八年(1973)、都は残る西半分の敷地を購入して整備を行い、昭和五十二年(1977)に開放公園として追加
【清澄庭園は回遊式築山林泉庭園…隅田川の水を引いた大泉水を中心に全国各地から集めた名石を贅沢に配した明治の庭園】【東京都・江東区】「深川親睦園」を開園した後も造園工事が進められ、三菱財閥第2代統率者岩崎弥之助が泉水に隅田川の水を引き込み、築山の造営、池の周囲に全国から取り寄せた名石を配するなどして、明治二十四年(1891)に「回遊式築山林泉庭園」として完成させた。岩崎兄弟は石に造詣が深く、「磯渡り」と呼ばれる贅沢な飛び石を造営した。「磯渡り」は水辺に直径2〜3mの自然石を点々と配したもので、石
※2025年10月19日訪問※府内城の正面玄関である大手口までやって来ました現在、城外と城内は【土橋】によって繋がれていますが、かつてはこの場所に水堀に掛かる【廊下橋】が設置されていました✨土橋の下に見られる石積も後生の改変という事ですね土橋を渡った先には【大手門の廊下橋とかがみ石】と書かれた案内板が設置されていました✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼大手門と三ノ丸との間にある内堀には、廊下橋が有りました。廊下橋は、城にかかる橋の中でも、橋に屋根を付け両側を壁で覆っているものを
今回の外濠川(その4)は、数寄屋橋から終点の土橋までの区間。その区間の空中写真(その1に追加掲載した外濠川全体の空中写真中、該当箇所をトリミングしたもの)がコレ。国土地理院ウェブサイト(https://service.gsi.go.jp/map-photos/app/map?search=photo&ratio=26&limit=200&search_date_from=0000&search_date_to=1950&color_type_ids=1%2C2&scale_from=0
奥塩田茶臼山城(和気郡和気町奥塩田)赤松氏が備前守護の時に、橋本与三兵衛が城主であったと伝える。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)西二重堀切(西)に架かる土橋西二重堀切(西)溜池状の北西腰曲輪帯曲輪状の西四郭西二重堀切間の西三郭西二重堀切(東)西二重堀切(東)の北の腰曲輪自然地形の西二郭主郭西帯曲輪下段主郭西帯曲輪上段主郭図には無いが、北出丸?奥塩田茶臼山城遠望軌跡ログ和気郡佐伯町・和気郡和気町の城
紀伊国(和歌山県)の山城を攻めました。いちおう熊五郎は出没しない山だと踏んでの出陣です。まぁ山であるかぎり絶対出ないとは言われへんのですけどね。和歌山県西牟婁郡すさみ町周参見紀伊・神田城(かんだじょう)神田城は、すさみ町周参見にある紀伊・周参見城の支城であり、永禄12年(1569)宇都宮勘解由道直によって築かれたと伝わる。その宇都宮氏と言うのは、関東(下野国)の摂関家藤原北家道兼流の流れを汲む下野宇都宮氏の後裔と云われ、織田信長さまに敗れた宇都宮道直が、永禄12年
あと残された「城郭建造物」の「塀」「橋」「供侍」「馬見所」等を紹介する「その他の城郭建造物を巡る」シリーズでは、毎回各お城毎に「その他城郭建造物」をお届けしていきたいと思います。併せて、そのお城の特徴的な建造物や普請物の写真もモニュメント的に掲出していきます。「塀(城壁)」の現存は少なく、復元(復興)、摸擬が大半ですが、「塀」の再建によってお城や城下町の雰囲気を醸し出す努力がされていますので、そのような「塀」も採り上げたいと思います。また「橋(土橋は除く)」も「堀」に架かる等かなりの数のモノ
平原城(松江市八雲町平原)別名:金尾城当城の城史は確かな史料からは確認できない。ただ、大内義隆による富田城攻めを記した二宮俊実覚書(吉川家文書)によると、天文十一年(1542)十一月初め、義隆が寒気が激しいために高津馬場(高津場番城)から馬潟の正久寺に陣替えしたおり、吉川興経は平原に着陣して越年したとある。史料性はさらに劣るが忌部総社神宮寺元録(忌部神社文書)によると、吉川興経は玉造から新宮湯峠を越え忌部黒目山(久多美山とも)麓を経て平原に陣を取ったと記している。恐らくその後吉川勢は意宇川河
こんにちは。この間まで暑いと言っていたのに、この頃は一転して寒い日もありますよね。周りではカゼを引き始めている方も目立ってきましたので体調管理に注意が必要ですな。さてさて三河の田原城址の続きです。こちら再建の桜門。今回はこの縄張り図を持って歩きます。高低差や道の曲がり具合などから城の全体像がイメージしやすいので利用しています。石垣もいい感じで残っています。石垣は近世のものかと思われますが、田原城は中世の面影もみられるので興味津々です。本丸と二の丸の間の土
小谷城レポ第2弾になります。その1のレポ『22.10.01小谷城[江北の雄浅井氏の本拠]その1』2021年の暮れに『朝倉氏の城郭と合戦』という書籍を読了しました。朝倉氏は、四国民としては、少々遠い存在です。越前を収めた戦国大名で、最後には織田信長によって…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁や虎口など)はブルー名前がある場所(本丸や内堀など)はパープル現存建築物(移築建
数ヶ月前に、愛知県豊田市の土橋駅周辺を歩きました。名鉄三河線の駅です大正9年に開業しました。数年前に駅が新しくなったようで、とてもきれいでした。南口を出ると、目の前にはバスのロータリーがあります。この辺りは少し行くとメガドンキがあったりコロナワールドがあったりします。駅前に心療内科と薬局がありましたファミマがあります。駅前のコンビニは便利ですね「土橋駅南」交差点です。交差点を東へ歩きました。この辺りは道路もきれいで、全体的にきれいな印象でした。一旦先ほどの交差点に戻って、
横浜市の小机城跡です。空堀横浜市の中心部からさほど遠くはないのに、このような雄大な遺構が残されています。土橋堀底道このように手入れの行き届いた竹林もこの城跡の魅力です。堀底道空堀空堀空堀小机城跡は、JR横浜線の小机駅から徒歩15分ほどで行けます。駐車場はたぶんないと思います。住宅街なので、車での訪問はなるべく避けた方が良いかと思われます。でわまた。
田井山城(備前市伊部・浦伊部・西片上)別名:たい山城たい山城跡は今回の調査によって新たに発見された城跡である。『備陽国誌』・『吉備温故秘録』などの近世地誌類では、城主を安達修理亮(主馬介)と推定する。別称田井山城。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第1冊備前編より)北東三重堀切(北)北東三重堀切(中)北東三重堀切(中)からの東竪堀北東三重堀切(南)帯曲輪状の南東三郭南東四郭東二郭広大な主郭主郭東上段主郭北西帯曲輪帯曲輪状の北西二郭主郭西帯曲輪上段主郭西帯曲輪下段
怒涛の7月が過ぎ、知らん間に8月に突入した。けっきょく7月はいっこもどこにも行かれなんだ。笠置寺(笠置城)の次に攻めました。京都府木津川市木津片山山城・木津城(きずじょう)木津城は、京都府木津川市の木津川左岸の城山にあった中世の山城です。築城年は不明だが、康正3年(1457)に畠山義就の攻撃を受けた木津氏が木津城を自焼させたという記事がある。応仁の乱の際には大内政弘が文明2年(1470)に山城南部に侵攻したため、大和国人筒井順永らが大和と山城を繋ぐこの城を拠点とし
逸野城(新見市神郷油野字重藤)別名:逸野々城・重藤城『備中村鑑』には「逸野々城」と書かれ、池野村にあり平中将重藤卿が在城したとある。その他に永禄年間に嶺本間兵衛、天正年間に三村親友が在城と伝わる。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)浅い南堀切南帯曲輪自然地形の南三郭南二郭主郭主郭にある石積主郭南西帯曲輪主郭東帯曲輪北土橋北堀切逸野城遠望軌跡ログ旧阿哲郡神郷町の城
只今、城郭建造物の一つであります「城門」(『全国「城門」を巡る』シリーズ)をお届け中です。「日本100名城」に指定されています。「城門」については、『全国「城門」を巡る”はじめに”』において、簡単に説明していますので、どうぞご覧ください。はじめに↓『全国「城門」を巡る”はじめに”』「城郭建造物」の「御殿(居館)」シリーズを終えました。「御殿」には殿さまやその家族が居住したり政務を執る為の所謂「御殿」や、城主・家族の憩いの場や来客対応の…ameblo.jp「はじめに」でも記載しました
萩城レポ第13弾となります。その12のレポ『22.05.04萩城[260年間雌伏した毛利氏の居城]その12』萩城レポ第12弾となります。その11のレポ『22.05.04萩城[260年間雌伏した毛利氏の居城]その11』萩城レポ第11弾となります。その10…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移
海老山城(松江市鹿島町名分)千光寺の裏山の海老山城(標高九〇M)は、城主新田右馬頭泰国が、長享元年(一四八七)から二年の歳月をかけ築城したと伝えられています。新田氏(仁田氏)は、佐太神社の神領島根分三百五十貫を領していた地頭でありました。天文十九年(一五五〇)に、佐太神社の兼神主でもあった朝山越前守綱忠と佐太神領を巡って争いになり、海老山城は五月二十日に落城し、新田氏は討ち死にし滅んだとされていました。落城したこの日に海老山に入ると鯨波声や轡の音、黄金の鶏の声を聞いた者は不幸になると山に入
牛切山城(松江市西谷町牛切)別名:菅城城主は井原大膳守と伝わる。源行近作の縄張図牛頭大王の石仏と五輪塔現地説明看板、この話の中に城主井原大膳守が登場する南東出丸南東五郭南東出丸南東四郭南東出丸南東三郭南東出丸南東二郭細長い南東出丸主郭主郭西帯曲輪上段主郭西帯曲輪下段主郭方面へ向かうと南東堀切(ここから上記の図に入る)堀切からの土橋南東十二郭南東十二郭の北土塁南東十二郭の南竪堀南東十二郭南帯曲輪南東十二郭の南西土塁南東十一郭南東十郭南東九郭南東八郭南
笠窪➜伊勢原駅北口➜大学病院➜愛甲石田駅い111(いすゞSDG-LR290J♿)[伊59/白根大住台・鶴巻線(07:12)]い13(三菱PJ-MP35JM)[伊74/大学病院・愛甲石田線(07:50)]い39(三菱QKG-MP38FK♿)[伊74/大学病院・愛甲石田線(10:49)]愛甲石田➜秦野/渋沢➜開成➜鶴巻温泉5062快速急行|小田原11:133093快速急行|小田原/新宿渋12:50/開13:22OTV見てなかったら秦野で折り返していた‥‥コレを撮影するの
日曜日の夕方、友人から大崎上島から寅が来ると聞いて一緒に晩飯行くお店は「新谷」に決定!日曜じゃし19時からと言うので予約してた方がいいと思い一応予約着くとすでにほぼ満席で予約しといて良かった😄お通しのトマト魚の子タコの子サザエの刺身めざし海老のしそ揚げトロたく煮ダコタコの酢味噌和え赤イカ天と、ここまでタコ率高しwこれなんだったっけ?美味しかった
基本的情報所在地木津川市木津片山標高(比高)105m(70m)遺構曲輪、土塁、堀切、土橋歴史築城年は不明だが、康正3年に畠山義就の攻撃を受けた木津氏が木津城を自焼させたという記事がある。応仁の乱の際には大内政弘が文明2年に山城南部に侵攻したため、大和国人筒井順永らが大和と山城を繋ぐこの城を拠点としていた。文明9年に再度木津氏らが自焼、戦国時代末期には三好三人衆の1人三好政康の勢力下にあったが、永禄10年の織田信長の入京後は使われなくなった。縄張り・単郭の城で主郭であるⅠ郭は
この日の晩は友人たちと「炉端焼き新谷」へ最初に到着したんでカウンターで一杯始めるお通しこの辺でもう1人来て大将に「あと2人来ます」と伝えると「じゃあテーブルに行って〜」ってことで移動トマトスライスちくわ磯辺揚げ水イカサザエ(瀬戸内産」激ウマ亀の手馬刺し茗荷やっこホタルイカ名物のエビしそ揚げ大海老の刺身なめろう空豆自家製餃子
井戸橋城(井原市芳井町下鴨・松谷)『井原市芳井町史』・『岡山縣後月郡誌』では、源平合戦で平家に属した足利忠綱が寿永2年(1183)に井戸橋城に移り、天文年中(1532~1555)の城主は宮実信であるとする。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)西五郭西下段西五郭中段西五郭東上段西四郭西四郭の南竪堀西四郭の北竪堀西三郭西二郭主郭主郭南東帯曲輪主郭東帯曲輪土橋の架かる東堀切東堀切からの北竪堀東堀切からの南竪堀北東二郭北東三郭北東四郭北東四郭北腰曲
南坂北陣(岡山市北区下足守)史料・文献・伝承は確認できない。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)南西二郭主郭南二郭南三郭南四郭南土橋南坂陣遠望軌跡ログ岡山市北区の城
桜迫城(加賀郡吉備中央町田土字下田土)別名:桜坂城元弘(1331~1333)、建武(1334~1335)の頃、下左衛門政勝が居城した。下左衛門は北条方であったというから、おそらく地頭職をもっていたのであろう。後、「後醍醐天皇が山門より花山院に遷幸」と聞くや、皇居の警固と称して上京したが、その後天皇が吉野に下られたと聞くや、再び北条方に戻ったと伝えられる。(※現地説明看板より)現地説明看板南西堀切南西二郭主郭東土橋桜迫城遠望軌跡ログ旧上房郡賀陽町の城
萩城レポ第7弾となります。その6のレポ『22.05.04萩城[260年間雌伏した毛利氏の居城]その6』萩城レポ第6弾となります。その5のレポ『22.05.04萩城[260年間雌伏した毛利氏の居城]その5』萩城レポ第5弾となります。その4のレポ『2…ameblo.jp---------------------------------------見所となる遺構(土塁など)はブルー名前のある場所(本丸など)はパープル現存建築物(移築建築