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2025年の初記事です。今年も細々とやって行きますので、適度にお寄りいただければ嬉しゅうございます。この正月、近場のちょっと名の知れた神社なんですが、初詣に行きました。正月の初詣自体何十年かぶりぶりでして、近年は初攻めのついでに人気のない神社で初詣を済ますという事にしてきましたが、南斗!詣でるのに参道から拝殿まで大行列できてますやんまぁTVで紹介してるような有名な神社の比程でもありませんが、いや~神さんもようさんの人の願い聴き入れるの大変やのう。そんな要らぬ心配しながら詣でてきま
虎倉城(岡山市北区御津虎倉)『和気絹』によると、伊賀守、岡左衛門久隆らが代々居城していたとされる。また、文明年中(1469~1487)には松田氏家臣、天正年中(1573~1592)には宇喜多氏の重臣長船越中の後、蟹江彦左衛門、鎌田五郎兵衛、長船越中守、石原新太郎、楢崎左近将監が在城したと伝える。さらに、天正8(1580)年の虎倉合戦(加茂崩れ)に関わる史料があるほか、城主伊賀氏と毛利氏の合戦、宇喜多氏との関係などについて記した『虎倉記』・『虎倉物語』をはじめとする軍記物にもたびたび登場する。
さて、この日、最後の冒険は…本当に冒険になっちゃいましたあぁ、安心してください。宗教施設ではありませんので。観光案内所を兼ねた施設です。チラシ置いてるから勝手に持って行け状態です。右側は物販していますから一人だけいました。まだまだ陽は高いです。台湾と交流があるのか台湾提灯、昔でいう支那提灯がたくさん。では山へ向かいましょうなんていうことでしょう❗️巨大イノシシ🐗が倒れていました。巨大イノシシとはいえ、倒されると可愛らしいお目目をしていますが騙されてはいけません。たぶん倭
八幡山城の北ノ丸より北之庄城へ向かって進撃しませう。滋賀県近江八幡市北之庄町近江・北之庄城別名:岩崎山城謎の城北之庄城は、八幡山から北東に尾根続きの北之庄山(254m)の山頂部に築かれた中世の山城です。北之庄城の成立に関しては、同時代の記録がないため詳細は不明ですが、江戸前期成立の「淡海温故録」にある「岩崎山城」の記述から、佐々木六角氏の観音寺城の付城と考えられています。なお、北之庄城跡が、文献の記す「岩崎山城」であることは、平成になって再発見されました。近年「岩崎山城跡」
薬師山城(小田郡矢掛町下高末)近世地誌類には見えない城で、『矢掛町史』に写真のみが掲載されている。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)西四郭西三郭西腰曲輪西三郭西二郭主郭東堀切南帯曲輪南帯曲輪の西土塁東二重堀切(西)東二重堀切間の東二郭東二重堀切(東)からの北竪堀東二重堀切(東)からの南竪堀東二重堀切(東)の土橋薬師山城遠望軌跡ログ小田郡矢掛町の城
小林山城(小田郡矢掛町小林)『矢掛町史』では小林又三郎の居城とする。『虎倉物語』によれば、又三郎は天正年中に毛利輝元に仕えたという。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)帯曲輪状の南三郭南西三郭南西二郭南東二郭南東二郭東上段東堀切門のような配置の巨石主郭西二郭北西へ延びる土橋北西三郭北西四郭北西五郭北西六郭北西七郭小林山城遠望軌跡ログ小田郡矢掛町の城
10/30(水)~31(木)にかけて、JR西日本の「サイコロきっぷ」で目が出た「津山・岡山」でお城巡りをする旅に出かけました。岡山に宿泊してレンタカーを借りる時間までの間、ホテルを早目に出て駅まで散策しながら歩きました。駅構内を通り9時に「ガッツレンタカー」で手続きを済ませ、9時10分にスタートすることができました。二日目(10/31)の1城目(通算4城目)登城予定の「金川(かながわ)城」(岡山県市岡山北区御津)へ向かいました。岡山市内とは言うもののかなり北方向の山中に向かって走り
令和6年9月半ば、キック・ザ・ツアーで埼玉県比企郡へ。比企城館跡群の一画、杉山城跡。本郭から北二の郭へ向かう土橋。土橋上には、今回のキック・ザ・ツアー参加者が。↓↓↑↑土橋とは、空堀を掘る途中で、敢えて通路として残した部分。土橋を渡って本郭方向を見る。左の土塁上が本郭。↓↓土橋から本郭上を見ると、少し出っ張りが有るが、これは「横矢掛かり」。空堀を越えて土塁をよじ登る敵が居た場合、その横腹をここから狙う。↓↓北二の郭に入り、本郭方向を見る。左上が本郭。↓↓この先
寺山城(高梁市川面町寺山)別名:川面城『備中村鑑』には、川面村にあり難波六郎経俊が在城したと書かれる。また室町時代に三好氏が在城のいわれが残る。1575年の「備中兵乱」の際には、毛利方の小早川隆景が在城したと言われるが、その期間は20日前後であったとされる。出土遺物の大半は、室町時代の土器であるが、一部鎌倉時代に遡るものもある。(※岡山県中世城館跡総合調査報告書第2冊備中編より)現地説明看板東の丸馬場曲輪本丸西の丸寺山城遠望軌跡ログ高梁市の城
令和6年9月半ば、キック・ザ・ツアーで埼玉県比企郡へ。比企城館跡群の一画、菅谷館跡。南郭〜二の郭へ戻り、土塁の切れ目に入ると、本郭。↓↓本郭の中は、平坦で広い。↓↓南郭側の奥。建物が在ったのはこの辺りか?↓↓二の郭側の土塁。↓↓本郭入口近くの平場。↓↓ここから侵入しようとする敵が来れば、確実に集中砲火を喰らうだろう。↓↓土塁の切れ目の外側には、土橋。空堀を渡れるこのポイントも、土塁上から集中砲火を受けるのは必至である。↓↓以上、菅谷館跡はここまで!因み
京都府南丹市園部町宍人丹波・宍人城(ししうどじょう)小畠館、小出館宍人城の築城年代は定かではないが、丹波の国人小畠氏によって築かれたと云われています。小畠氏は丹波守護・細川氏の被官でしたが、戦国時代は波多野氏に属し、天正3年(1575)6月に織田信長さまの命を受けた明智光秀が丹波へ侵攻すると、いち早く降伏して光秀の案内役をつとめて所領を安堵されました。えらい!江戸時代に入り、元和5年(1619)に園部に入封した小出吉親(秀吉の従兄である吉政の次男)は園部城を築くまでの間、この城に
大平山城(佐用郡佐用町上上月字山下)別名:上月城正治年間(1199~1201)得平三郎頼景が初めてここに城を築いたとされている。応永年間(1394~1428)に赤松氏と山名氏の相剋が激しくなり、これに備えて出城であった荒神山に大平山城を移してここを本城とし、大平山城を本城の出城とした。(※兵庫県中世城館・荘園遺跡より)南東出丸東麓曲輪群東三郭東麓曲輪群東四郭東麓曲輪群東五郭東麓曲輪群東二郭東麓曲輪群主郭主郭の北土塁東麓曲輪群主郭南帯曲輪北東曲輪群北東二郭北東曲輪群主郭北
⭐️朱美です!今日は、土橋の方面に出張させて頂き、オーラルケアをさせて頂きました。他のイベント先様でも、ご一緒させて頂いております、ワンコの整体の先生山本貴子先生ご挨拶・プロフィール|DogBodywork"Bluebell"Bodywork(ボディワーク)とは初めまして【DogBodywork“Bluebell”】犬の整体師Takakoです。『Bodywork(ボディワーク)』あまり聞きなれない言葉ですよね。今回、犬の整体師として活動を始めるにあたり、私は敢えて「
前回からの続き(1月6日のこと)で、仙洞御所のことです北池の左岸を歩いて行きますこれ行く少し先のアップこれは対岸くらいのとこよく見ると橋が架かってるのが見えますこちらは振り返って六枚橋周辺この辺りから動画を撮ってみました鎮守社の下へ行くと、下から鎮守社が少し見えましたその下辺りの参道の様子その先には土橋がありその先は鷺島(さぎしま)という中島になっています土橋の右側土橋の左側これは鷺島から見た入った所らへん六枚橋辺り次は石橋があります橋が全部違うのも面白いところ(
蔵出し記事です。2018年11月に古代山城である鬼ノ城(岡山県)を攻めた後、この城を攻めたはいいが、何故か今までお蔵に眠っていたんですよ。引っ張り出して陽の目に当ててやることにします。岡山県総社市黒尾備中・経山城(きょうやまじょう)経山城は吉備高原の南端に位置する、標高372m(比高300m)の山頂に築かれた山城です。平安時代、この一帯は山岳仏教の霊場として栄え、多数の径塚が築かれたことから、径山城と呼ばれています。『備中府志』によると、天文年間(1532~1555年)に
10年ぶりにお会いして呑んで参りました。あらためて書道とは?人生とは?色んな観点からの会話する事でとても刺激になりました。もちろん今朝も二日酔い。
昨夜は高校時代の同級生6名でクラス会🍻楽しい時間はあっという間に過ぎていきました。もちろん今朝は、二日酔い💦何故かコメダでモーニングw
曲輪3から南に降りてきた。↓曲輪3_3↓曲輪3_4曲輪3の最南端。↓堀切曲輪3_4の南側も、堀切って敵の侵入を遮断する。縄張図では箱堀という表現になっている。↓畝状空堀曲輪3の東側面へ回り込む道がある。この辺りは数条の畝状空堀群で守りを固めているが、いまいち分かりにくかった。↓薬研堀曲輪3の北面にある堀切。こちらは薬研堀(やげんぼり)という表現となっている。※※※※※↓水の手へ曲輪1の南西下まで戻ってきた。この分岐点で、曲輪1の北下にある水の手曲輪へ向かう。
双子山城(佐用郡佐用町安川)別名:双子山・ふたご山詳細不明。北土橋北土橋からの西竪堀北土橋からの東竪堀主郭主郭南東帯曲輪南二郭南堀切南堀切外側の土塁北西二郭双子山城遠望軌跡ログ旧佐用郡南光町の城
梅雨が明け(ほぼ)蝉が鳴きだした。やっぱこの季節は山城攻めには適してないかと。山城が適してないないならどこへ行く行くとこがねぇ~💦とりあえず美濃・揖斐城中編です。城域のほぼ中央二の丸まで撃破しました。これより尾根が東向きになり、その尾根上を削平して築かれた曲輪群を攻めて行きます。二の丸と三の丸の間にある曲輪。城域中央部の一段と低い位置にある鞍部状な曲輪。その曲輪から見る二の丸方向。段々になって低い位置にあるのがお分かりいただけるかと。
城を観る今回は...(撮影2021/08/27)椿井城(椿井山城)〜土橋・堀切〜土橋とッ堀切ッ。。。ヽ(´o`;なんちてにほんブログ村
二の丸との境の堀跡から三の丸の紹介を始めて、土橋門跡~千貫門跡の土塁と堀の跡でほぼ一周します。(厳密には千貫門の東側も堀に面していましたが、その部分は外郭+稲荷郭南の堀と一体にして別に紹介することとします。)今回紹介するのは左の土橋(そのまま土色)と右の千貫橋(木橋なので赤く着色)の間の堀の跡です。土橋の脇に「堀巾十間」と書かれているので約18メートルです。千貫橋が明治7年に焼失した時の報告書には橋について「長サ拾四間巾三間半」と記録してありますので約25メートルになり、堀の幅も同程度だ
訂正2024.7.2このブログで紹介した堀の消滅時期について、最初は次のように書いていました。「昭和44年(1969)館林商工会議所が作った館林地図にはまだ掲載されており、昭和48年(1973)の「日興の住宅地図」にはありませんので、その間ということになります。」しかし、他の航空写真(昭和39年(1964)5月8日撮影)を見ている時に、既に堀が消えていることに気が付きました。消滅時期については、現時点入手した資料では昭和31年から昭和39年の間という表現にします。商工会議所作成の物は新た
6/20の東近江市、蒲生郡日野町へのお城巡りの2城目は「大森城」(滋賀県東近江市)です。1城目の「大森陣屋」から約5分位で獣柵がある登城口に到着しました。獣柵の内側に車を止めるスペースがあったのでそこに置いてスタートしました。「大森城」が築かれた山↓舗装道が続いていましたが、すぐ左手に「大森城跡」碑が立っていて草も刈られていたのでそこから入山しました。「大森城跡」碑(草も綺麗に刈られていたのでここから入城するも・・・)↓しかし、しばらく進むうちに藪化が進み、道も
山自体を間違ったのは2度目である何の迷いもなく左道を選択したのが大間違いであった。案内がない山城では判断を誤ると地獄を見る羽目になるので、事前調査と正確な判断力、そして運気を身に付けることをお薦めします。ちなみに何度も言いますがホンマもんの地獄へ行ったことないので、地獄とはどんなとこか知らない。第1話でコメントいただいたpascalさんによると、大昔の林業は伐った丸太を馬に曳かせて、山から下していました。運んだ跡が溝になり、さらに滑りやすくするために水を流したりしたので、植林山
古城山城(宍粟市一宮町安積・中安積)別名:安積城・安積山城建武二年(1335)広瀬氏の幕下安積出羽守盛氏が初めて築城した。以来代々安積氏が城主で、盛好、盛正、盛建、盛矩、胤阿、盛兼、盛行、盛勝、盛昌、盛長と続き、天正八年(1580)羽柴秀吉の軍に攻められ落城した。この城も与用の構と同じく嘉吉の変(1441)に際し山名の軍の攻略に遭わなかった事になる。しかし因幡から出てくる若桜街道と但馬から出てくる但馬街道の交又点にあって、ここを扼して長水城の守備を固めたとすれば、但馬から進撃する山名勢の見逃
高校時代の同級生。彼は、電車で移動する事自体がお仕事。仕事柄、電車関連の情報は強い。笑えるのはプライベートで電車には一切乗りたくないそうだ。wそんな彼とは地元や関西エリアでもタイミングが合えば合流してました。今回は糸魚川で合流。彼とは社会人になって富士山の山頂まで登ったり静岡に遊びに出掛けたりシャレードで六甲山に出掛けたり大阪のミナミで呑んだり高校時代は頻繁にツーリングしてました。そんなこんなでアクティブに活動を共にしてきた友達です。何故か?お互い社会人にな
転勤族妻1年生アラサー元CA名古屋→広島(2023.4~)食べ歩きと旅行がだいすき特にスイーツ系をたくさん食べます各地で食べてきたおいしいものを忘れないための備忘録ブログです♡広島・北海道・福岡・山口多め、たまに海外こんばんは~主人おすすめの二重焼きのお店にいってきました~♡土橋にあるいわた屋さんお店の周辺はすごくいい匂いがします♡土曜の14時すぎで10組以上並んでいました平日でも並んでいるそう人気店ですねどんどん焼いているので、進みが遅い
5/9(木)に「和田岬砲台」「明石藩舞子台場跡」を見学した後、「舞子」からすぐ近くの「明石藩」の「明石城」(兵庫県明石市)へ登城しました。前回のブログ「前編」では、「三の丸」跡から高石垣上の「本丸」「二の丸」「東の丸」の各跡を見てきましたので、本日のブログ「後編」では、「東帯曲輪」跡から見ていきたいと思います。「前編」は下をクリックしてご覧ください↓『<明石城(前編)>西国大名の睨みを効かすべく築城された巨大城郭』5/9(木)に「和田岬砲台」「明石藩舞子台場跡」を見学した後、「
先日高校時代からの古い友人たちと、芥川山城へ行ってきました。昔高槻で教員をしてた頃は、生徒たちや地域の人たちを案内して何度も登ったことがあるのですが、久しぶりの案内・再訪でした。前日は雨で、お天気が心配だったのですが、当日は傘なしで大丈夫でした。ただし、三好山山頂の本丸跡からの眺望は「いまいち」でした(-_-;)晴れていたら、大阪平野全体がもっとクリーンに見渡せるのですが・・。左端のほうに二棟ほど高層ビルが見えていますが、あのあたりがJR高槻駅付近になります。ちなみに、下