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決定版阿波の古代史邪馬台国は阿波だったAmazon(アマゾン)謎なんです。井川神社のご由緒が。。。そして、その謎がまさかと思ったのですが、もしかすると、かもなのです。井川神社は愛媛県四国中央市岡銅、法皇山脈の北斜面中腹にある延喜式神明帳よりも古い、延喜元年(901年)に成立した三代実録にも名の残る式外社です。実は実家の近くにありますが、こんな山深いというか、小高いところに由緒ある神社があることは全くしりませんでした。社名:井
ご訪問ありがとうございます。さて今回から武烈天皇ですが、まずは「武烈天皇紀」の冒頭、この前飛ばした総評の部分を見ることにしましょう。小泊瀬稚鷦鷯オハツセノワカササギ天皇は、仁賢天皇の皇太子である。母を春日大娘カスガノオオイラツメ皇后という。仁賢天皇7年、立ちて皇太子となる。長じては刑の判断や執行を好み、法令に詳しかった。日が暮れるまで政治を行い、無実を見抜き、訴えは退けるにしても情はおありになった。と、ここまで見るといい人に見えますが、これは「法治主義」です。法がすべてで、儒教のよ
シン・きー歴史沼チャンネルさんと対談させていただきました!日本神話や古代史の謎を追いかけているYouTuberのきーさんは『ホツマツタヱ』にも興味津々でぼくの本を購入してくださったようです。対談動画はまだまだ続くようですね!こちらでも随時ご紹介してゆきたいと思っています。どうぞよろしくお願いいたします(つづく)↓対談の全記事はこちらからお願いします。key「key」の記事一覧です。navihico.com
生まれも育ちも奈良県で、明日香が大好きなみくるです「飛鳥・藤原まるごと博物館」検定の第3回が、今年(2025年)12月13日(土)に開催されます。私はこれまで、第1回で初級に、第2回で中級に合格しました。どちらも勉強の過程がとても楽しくて、飛鳥や藤原への理解がぐんと深まりました✨上級は受験を見送りにしました今回から受験資格のある「上級」ですが、私は見送ることにしました。というのも、初級・中級はマークシート式(4択)だったのに対し、上級は語句・穴埋めや小論文形式なんです。しかも、過去問
歴史系図トリビアこれは楽しい!おもしろい!そう感じるような歴史上の人物の系図を紹介していきます歴史上の人物の系図を追っていく歴史系図トリビアです。はい(´Д`)。本日は崇峻天皇の系図を見ていきたいと思います。崇峻天皇は諱を泊瀬部皇子と言います。用明天皇崩御後に丁未の乱が起こると、蘇我馬子側に参戦して物部守屋討滅に協力し、馬子らによって擁立されて即位しました。しかしその後、馬子と対立し、馬子配下の東漢直駒によって暗殺されて崩御しました。崇峻天皇は日本史上、臣下によって暗殺され
熊神籬の祭場日本へ渡来してきたルートのひとつがこのようにちゃんと遺されていました加羅新羅系宝物も素晴らしかったです
ご訪問ありがとうございます。ひさしぶりに「日本書紀」本文に戻ってまいりましたが、この頃から記事量も内容もしっかりしてきます。「内乱」説のせいで、事績としてはあまり注目されませんが、次の飛鳥時代にはちゃんと国家になっていますから、この間に着々といろんな組織とか経済基盤ができていることになります。そうでないと飛鳥寺やら法隆寺のような国家事業はできませんもんね❗それでは、「安閑天皇紀」❗まいりましょう❗(*´・∀・)つ目次安閑天皇の即位安閑天皇の后妃伊甚屯倉安閑天皇の即位ここでもう
ご訪問ありがとうございます。仁賢天皇が終われば、岩波古典文学体系本の上巻が終わります。あとちょっと頑張ろう(^ω^)5年春2月5日、全国の国・郡コオリに散って逃げた佐伯部サエキベを探し求めました。佐伯部仲子=売輪ウルワの後裔を佐伯造サエキノミヤツコとしました。佐伯部仲子は顕宗天皇紀に見えます。(市辺押羽皇子と一緒に殺され、埋められた人)佐伯部は塞サえき部だと言われてまして、国境等の警備をする部民で、多くは大和王権に恭順した蝦夷を蝦夷の国との国境に置いて守らせたものです。それを
五月の絵手紙教室へ行って来ました🌿この日のテーマは、先生が持って来た、色々な昔の資料の中から、写真を選んで描くと言う物でした。私は、一つは江戸時代の写楽が描いた有名な歌舞伎役者の絵。他にも女郎さんの絵や、町娘、武士等も有りましたが、この一番有名な写楽の絵が強烈な印象を感じたのでコレにしました。目力が有ると先生に褒められた〜❤️もう一枚は、古代中国から発掘された、唐の時代の女神の埴輪です。俑(よう)と言うそうです。他にも、神様・兵士・母子像・馬・犬等、色々な形の俑が出土されている。
古事記の記載と、実際に歴史的に起こったことなどを組み合わせると、存外な内容であるとは言えない記載内容であることが判る。歴史的な事実と偶然の一致かも知れないが、パズルのように符号していくと妙に一致することが多いのだ。特に樺太や北海道を経由し、北方から日本列島に入った、現モスクワ東近辺に居たウラル・アルタイ語族の一派は、遠くシベリアの大雪原を越え、日本語話者民族として日本列島にアイヌ系に比べて後から入ったのだが、冒頭彼らの視点から見ると尚更一致する点が多い。それを少し纏めて古事記を
ご訪問ありがとうございます。前回まで「日本書紀」の雄略天皇のところを読んでいましたが、外交関係の記事ではおよそ20年のズレがあり、允恭天皇の頃の出来事が「雄略天皇紀」に入っているということがわかりました。つまり「日本書紀」の編者たちは、外交についての史料、ほぼ「応神天皇紀」と「雄略天皇紀」に集約して、あまり綿密な考証は行わなかったと言うことが言えます。そういうことですから、「神功皇后紀」~「雄略天皇紀」について、倭の五王を大和王権の人物とすることは妥当とする一方で、「日本書紀」に基づ
ご訪問ありがとうございます。「雄略天皇紀」に描かれた眉輪王の変です。もう一度読み直しましょう。最初は褒め称えたいつものパターン大泊瀬幼武オオハツセノワカタケ天皇は、雄朝嬬稚子宿禰天皇=允恭天皇の第五子である。天皇は、生まれた時に神光が宮殿に満ち、長じて壮健であることは人に抜きん出ていた。慈しみ深いとか礼儀正しいとは書いてないのに注意(o´艸`o)♪3年8月、穴穗天皇は沐浴をしようと山の宮に行幸され、高楼に登って眺めを楽しみ、酒宴を催すように命じた。しばらくするうちに楽しさも極まって宴
ご訪問ありがとうございます。今回から「倭の五王」について考えていこうということですが、これまでみてきた通り、「日本書紀」の紀年はズレまくっていて、「神功皇后紀」の120年のをどう回収するかなどは、どなたも考えられたこともなく、また応神・仁徳同一人物説に立つと、天皇の数があまりにも少ない、ということになり、今まで言われているほど天皇の系譜が信用できるのか、甚だ心もとなくなってきます。ですから今回は「倭の五王」を中国や朝鮮半島の国々の史料から考えて、安易な比定をせずに話を進めたいと思いま
前号↓にひきつづき、マルディン県内をあちこち周ります。『アッシリア人の聖地へ【マルディン旅行④】』翌日は、マルディン旧市街を出て、近郊の見所を周ることに。まず向かったのは、カスミイェ神学校KasımiyeMedresesi15世紀末、白羊朝の…ameblo.jp古代都市ダーラを見たあとは、車は一気にシリア🇸🇾との国境ちかくに向かいました。もうあのフェンスの向こうはシリアです‼️シリアなんて気軽に観光したり語学留学したりできる国だったんですけどねぇ
←晩秋の蒼穹に山茶花の花が。来春まで次々と咲いては散る。雨が降っても雪が降っても。(11/2712:50)秀麗の秋空のもと、吾輩は地べたを這い蹲って庭仕事。納屋で枝葉を処理し柴(柴ストーブの燃料)を作り、裏庭で伸び切っている木々の枝葉落とし。長く重い高枝用の太枝切鋏を駆使して。が、いよいよ地上からはどうにも届かない枝が。車道に枝葉が食み出しているので、なんとしても伐採したい。次回はまた脚立に昇って頑張るしかなさそう。また、落っこちたら嫌だな。(11/2804:47)
宇土半島(熊本県)基部をベースにしていた火の君一族(多氏)は、熊本県域・九州内はもとより日本各地へ進出・移住していった。それには3つの背景がある。①自らの勢力の拡大によるものー肥国(肥前・肥後)内においてー②ヤマト王権との関係によるものーヤマト王権による国内統一の実働部隊としてー③磐井の乱(527年)ー制圧された磐井に代わって北部九州へ進出ーこれまで書いてきたように、火君(ひのきみ)は肥君(ひのきみ)であり、肥は「ヒ」「クマ」と読む。従い「クマ」は火君(火君一族)を指し、地名の「クマ」
おはようございますまずるかです^_^⬇︎現在の積読状況イマイマ読書中なのは上段左の『タクトは踊る〜風雲児・小澤征爾の生涯〜』上段中央は、12/5に行って来た劇作家、演出家の鴻上尚史さんの講演会が面白かったので帰宅後すぐにポチした『空気と世間』マイブームになっている日本の古代史関連では上段右の『加耶/任那』シェイクスピアの有名な翻訳者といえば坪内逍遥、福田恆存、小田島雄志、河合祥一郎が浮かんでくるが、今は誰が話題になるかと言えば松岡和子さんであり、この方が訳したシェークスピアのドラ