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昨日、『竹内文書』を記した竹内巨麿のことを書いた。皇祖皇太神宮天津教の開祖である。いわゆる新興宗教の開祖だ。古代史の偽書を書いた人物である。今回は、『正統竹内文書』を書き、第73代武内宿禰だと自称する竹内睦泰について書きます。竹内睦泰1966年~2020年、53歳で没。大学受験予備校の日本史講師をしていたそうだ。その時は古事記や日本書紀などをまともに教えていたのだろう。授業アンケートで8年連続全国1位になったとか。優秀な講師だったようだ。頭は
🌸桜井市の由来となった「桜の井」古代史や古道が好きで桜井を巡っているみくるです。今回は、桜井市の地名の由来ともいわれる「桜の井」を訪ねてきました。第17代履中天皇が称賛した清水の伝承が残る、とても歴史ある井戸です。🏞大和の七ツ井のひとつ桜の井は「大和の七ツ井」と呼ばれる名水のひとつ。古代から人々の暮らしを支え、歌や物語にも登場する井戸として知られています。⛩赤い鳥居のある神社もすぐ近くに井戸のそばから見える赤い鳥居が気になって行ってみると、「三輪流両部神道心
実はミチカエシウタ『神話の子』ノベライズのていでとある秘儀の実技場面...披露しちゃっていたりして...
ご訪問ありがとうございます。さて今回から武烈天皇ですが、まずは「武烈天皇紀」の冒頭、この前飛ばした総評の部分を見ることにしましょう。小泊瀬稚鷦鷯オハツセノワカササギ天皇は、仁賢天皇の皇太子である。母を春日大娘カスガノオオイラツメ皇后という。仁賢天皇7年、立ちて皇太子となる。長じては刑の判断や執行を好み、法令に詳しかった。日が暮れるまで政治を行い、無実を見抜き、訴えは退けるにしても情はおありになった。と、ここまで見るといい人に見えますが、これは「法治主義」です。法がすべてで、儒教のよ
奈良県桜井市にある安倍文殊院の境内には、実は古代ヤマト政権の息吹を今に伝える巨大古墳が眠っているのをご存じでしょうか?そのひとつが「文殊院西古墳」です。巨大な切石で組まれた横穴式石室は、飛鳥時代の石造技術の粋を示すものとして知られています。古代ヤマト政権の有力豪族と深く結びついたと考えられるこの古墳は、当時の権力や文化交流の姿を今に伝えてくれる貴重な存在です。歴史好きにはたまらない見どころが多い一方で、実際に間近で巨石石室を目にすると、そのスケール感に圧倒され、「古墳ってこんなにすごいん
ご訪問ありがとうございます。今回は話が完成されているので、まずは本文をお読みくださいませ。弘計オケ天皇(顕宗天皇)、またの名は来目稚子クメノワクゴは、大兄去來穗別オオエノイザホワケ天皇(履中天皇)の孫で、市邊押磐イチベノオシハ皇子の子である。母は荑媛ハエヒメという。「譜第カバネノツイデノフミ」に市邊押磐皇子は、蟻臣アリノオミの娘の荑媛を娶り、最終的に三男二女を生んだ。其の一人目を居夏イナツ姫といい、其の二人目を億計オケ王、またの名を嶋稚子シマノワクゴ、更に大石尊オオシノ
ご訪問ありがとうございます今回は以前から「皇后の来た道」として紹介してきた息長ー忍坂間のルートについてお話ししましょう。まず忍坂宮の位置なのですがダンナさんの允恭天皇も、子供の安康天皇の石上穴穂イソノカミアナホ宮も、雄略天皇の泊瀬ハツセ朝倉宮も、みんな近くにあります。ついでに側室の衣通郞姫の藤原宮も近くです(^^;)妹だから💧忍坂宮が「倭の五王」の「済グループ」と関わりが深いということが分かりますね(*´・ω・`)b允恭天皇が即位を渋ったときは、忍坂大中姫がめちゃくちゃ圧をかけ
マルディンの歴史や文化を語るうえで欠かすことができないのが、アッシリア人Süryanilerの人々の存在です。うん、古代メソポタミアのねうんうん分かる👍と思ったそこのアナタそうじゃないんだ❗️マルディンではアッシリア人が今この時代も生きているんですぜ‼️現代のアッシリア人は、セム系の民族で、アッシリア東方教会やシリア正教会を信じるクリスチャン☦️イエス・キリストも使っていたアラム語を話す、という生きる歴史遺産?と呼びたくなるような方々
『鴨(賀茂)一族を求めてエピソード0』日本の歴史に興味がない人が意外に多いのは学校教育、特に戦後のGHQ政策で天皇や神道を排除してきた影響があります。理由は天皇を現人神にし、国民を神道という宗教を…ameblo.jp『鴨(賀茂)一族を求めてエピソード1』『鴨(賀茂)一族を求めてエピソード0』日本の歴史に興味がない人が意外に多いのは学校教育、特に戦後のGHQ政策で天皇や神道を排除してきた影響があります。理由は…ameblo.jp『鴨(賀茂)一族を求めてエピソード2』『鴨(賀茂)一族を求
久留倍官衙遺跡くるべかんがいせきにやっと行くことができましたあれはまだ新型コロナの発生前じゃった···車で行くのは便利だけど電車乗り継ぎは不便な所で、もたついてたらコロナ発生場所は四日市市国道1号線北勢バイパスの下掘立柱建物跡は8世紀後半から9世末の正倉と推定バイパスや高速で古代遺跡が引っかかるのは“あるある”門とその脇の塀を復元7世紀後半から8世紀前半と推定される官衙跡手前は、正殿の位置を示すためのそれっぽい形状の、あずまや雨天時の遠足でも対応可能正殿前の
古代ギリシアとペルシャが激しく争った時代。荒れ狂う海へ、たった一人の女性が乗り出しました。その名は――アルテミシア1世。夫を亡くし、幼い息子を抱えながら国を統治し、さらには海軍を率いて戦場へ向かった彼女の姿は、「女性だから」という固定観念を打ち破るものでした。本記事では、彼女がいかにして“戦う女王”となり、歴史にその名を刻んだのか。その背景と戦い、そして彼女が残したメッセージをわかりやすく解説していきます。1)“二つの顔”を持つ女王アルテミシア1世は、現在のトルコ
暇な時は歴史の本を読んでいますすごく楽しいのですが覚えが悪くて忘れてしまうことも多く何度も同じような本を読んでそーなんだ!と同じところで感激する(笑)直木孝次郎古代を語る7『古代の反乱』2009年吉川弘文館さて直木孝次郎さんは大阪平野に現れた巨大古墳の考察から応神天皇/仁徳天皇からを河内政権とする説を唱えた先生で前にもblogで紹介しましたこのシリーズ本は講演録を書いたものと思われますがとてもわかりやすい文章でした『古代の反乱』
ご訪問ありがとうございます。今回は東アジアを揺るがした大事件です。「倭の五王」の興王の時の出来事ですが、やはり20年ほどずれて雄略20年(実際は興王の晩年、倭王武の即位以前の475年)に記載されています。20年冬、高麗コマ王=高句麗王(長寿王)が大軍を発して、百済クダラを滅ぼした。そこで逃げ延びた少数の人々が、倉下ヘスオトに集っていたが、食糧も尽き、深く憂い泣いていた。その時高麗の諸将は王に「百済の考え方は我々と違うので、相対するたびに私は不覚を取って失敗いたします。恐らくまた、蔓草
宇土半島(熊本県)基部をベースにしていた火の君一族(多氏)は、熊本県域・九州内はもとより日本各地へ進出・移住していった。それには3つの背景がある。①自らの勢力の拡大によるものー肥国(肥前・肥後)内においてー②ヤマト王権との関係によるものーヤマト王権による国内統一の実働部隊としてー③磐井の乱(527年)ー制圧された磐井に代わって北部九州へ進出ーこれまで書いてきたように、火君(ひのきみ)は肥君(ひのきみ)であり、肥は「ヒ」「クマ」と読む。従い「クマ」は火君(火君一族)を指し、地名の「クマ」
771年以降の「東海道15ヵ国」・・・・・・・・・・・・❖・・・・・・・・・・・・宝亀2年(771)の東山道から東海道への所属変更によって武蔵国と都(中央)との距離が大幅に短縮された東海道は都(遷都地)からいくつかの国府を経由して常陸国府へ向かうルートが本線また本線から離れた国府へ向かうために途中で分岐する支線がいくつかあったさらに常陸国府から先は東山道へ合流するための接続路があった「延喜式」駅路概念図(吉川古代の道
ご訪問ありがとうございます。「雄略天皇紀」に描かれた眉輪王の変です。もう一度読み直しましょう。最初は褒め称えたいつものパターン大泊瀬幼武オオハツセノワカタケ天皇は、雄朝嬬稚子宿禰天皇=允恭天皇の第五子である。天皇は、生まれた時に神光が宮殿に満ち、長じて壮健であることは人に抜きん出ていた。慈しみ深いとか礼儀正しいとは書いてないのに注意(o´艸`o)♪3年8月、穴穗天皇は沐浴をしようと山の宮に行幸され、高楼に登って眺めを楽しみ、酒宴を催すように命じた。しばらくするうちに楽しさも極まって宴
ご訪問ありがとうございます。今回は吉備の話なのですが、吉備というと古代は今の岡山県、広島県東部を中心にした大地域でした。のちに律令制の時代に備前・備中・備後・美作ミマサカと分かれますが、さすがに4分割された地域は東北以外はありません。広いというより強大であったからのようです。古代の吉備地域8月。官者トネリ吉備弓削部虛空キビノユゲベノオオゾラが緊急の用事で家に帰った。吉備下道臣前津屋キビノシモツミチノオミサキツヤ或本に云わく国造吉備臣山キビノオミヤマが、虚空を留めて使用
ご訪問ありがとうございます。雄略天皇も次回で、最後になりますので、長いですが、後少し頑張りましょう。14年春1月13日、身狭村主青ムサノオスグリアオらは、呉クレ=宋国の使者と共に、呉が献上した手末テナスエの才伎テヒト、漢織アヤハトリ・呉織クレハトリ及び衣縫キヌヌイの兄媛エヒメ、弟媛オトヒメらを率いて、住吉スミノエの津に泊った。この月に、呉の客人のための道を造って、磯歯津路シハツノミチ(大阪市住吉区、東住吉区)に通じ、これを呉坂クレサカ(大阪市平野区喜連キレ?)と名づけた。3月、臣・連に
ご訪問ありがとうございます。今回は軽めのお話なので、ゆるゆるとお楽しみください。3月7日、天皇は后妃たちに自ら桑を摘ませて、養蚕を進めたいと思いました。そこで蜾蠃スガルという人物に命じて国内の蚕を集めさせた。ところが蜾蠃は間違って嬰児(子コ)を集めて天皇に献上した。天皇は大笑いなさって、嬰児を蜾蠃に与え、「おまえが養え。」とおっしゃった。そこで蜾蠃は嬰児を宮中で育てたので、姓を賜って少子部連チイサコベノムラジとした。天地悠久さんのブログ「神ながらの道」より転載なんだかおっちょ
ご訪問ありがとうございます。さて今回から武烈天皇ですが、まずは「日本書紀」を見ることにしましょう。小泊瀬稚鷦鷯オハツセノワカササギ天皇は、仁賢天皇の皇太子である。母を春日大娘カスガノオオイラツメ皇后という。仁賢天皇7年、立ちて皇太子となる。長じては刑の判断や執行を好み、法令に詳しかった。日が暮れるまで政治を行い、無実を見抜き、訴えは退けるにしても情はおありになった。まあまあ、熱心に政務を執っているように見えますが、この後少し評価が変わります。又、頻繁にいろいろな悪行をなさり、一つの
ご訪問ありがとうございます。「雄略天皇紀」は相変わらず外交的な記事ですが、その出典については渡来系氏族の言い伝えや家記によっている感じの記事が多いです。岩波古典文学体系本の頭注によると、史料について批判的な分注が多いのが特徴で、後世に加えられたものとは考えがたい、ということもあり、ここの担当者は、かなり文献を多岐にわたって調べて書いているのでは?と感じます。そのせいでマンセー記事がなくて雄略天皇は何かあれば刀を振り回す人((ヾ(≧皿≦メ)ノ))のイメージになっちゃったんですが💦10