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吉野町というと、桜の名所の吉野山辺りを思い浮かべる方が多いですが…(奈良県HPより⤵️)範囲は広く、昭和31年、今から約68年前に旧吉野町、上市町、中荘村、中龍門村、国樔村、龍門村が合併して誕生しました。【地理】吉野町は、吉野郡の北部に位置し、大台ヶ原を源流とする吉野川が流れています。また、吉野熊野国立公園、吉野川・津風呂県立自然公園に指定されている地域を有します。【歴史】「吉野」地方は古事記、日本書紀、万葉集など…歴史の大きな舞台となっています。🔘天武天皇
南北朝時代のお話。新田義貞というと、楠木正成に比べてどうしても二流で、酷い言い方だと凡将とか言ってる本もあります。(そこまで言うかなー、とわたしは擁護に回りたいが)がしかし。父亡き後の新田・楠木の子どもたちになると、ダントツで新田の評価が高いとな。その活躍は驚嘆に値するそうです。と言うわけで読んでみました、新田三兄弟〜〜〜それは新田義顕・新田義興・新田義宗。嫡子の義顕は父よりも先に戦死してしまうので、その後は脇屋義助の子供・義治が加わり、三人でめちゃく
これまで「一条家」と「二条家」を紹介してきた当ブログ。ならば次は「三条家」ではなかろうか…?となってきたので、せっかくなのでやってみようと思いますw三条家は、藤原氏閑院流の嫡流にあたる家です。閑院流とは、藤原兼家(道長の父)にとってずっとずっと下の弟・公季(きみすえ)から始まる一族。公季は道長にとって、たった10歳だけ年上の叔父さんです。紫式部大河にも出る…はず。閑院流の紹介は、普通にやると今日どころか明後日まで終わってしまうので(笑)、ざっくりやると『平清盛』にも登場し
武蔵新田('23.6.18)「池上へ、ゲームのヒット祈願に向かう」「池上本門寺へ行ってきました」「ナムコの聖地・矢口渡と、蒲田の屋上観覧車」「東急多摩川線・武蔵新田駅から新田神社へ」「新田義興の悲劇と、武蔵新田・新田神社の奇跡」の続きです。前回に引き続き、武蔵新田の新田神社から。江戸時代になると、徳川家が新田家の末裔とされていることから、松平家から「新田大明神絵巻物」や、前回取り上げた「矢口新田神君之碑」が奉納されるなど、武家信仰の神社として発展。さらに江戸時代中期の
小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.comお知らせした通り、『厳島縁起残巻』のデータ起こしをしつつありますが、今回はそのまま読める内容で書いてくれているようなので、そのまま載せます。「一二五-一二六嚴島縁起残卷一卷〔重要美術品〕縦九寸九分紙本着色、奥書によれば吉野時代貞和二年の作で、願主掃部入道々崇の發願
ごめんなさい…少しお休みしておりました(汗)チャカポンさん一代記の歴史記事という過去にない長作で気力がダウンしていましたが、ようやく充電完了。何とか溜まっていた『宿題』の解消に努めていきたいと思います。今回の『逃げ若』は「ときゆきくんのおつかいミッション」ということで話自体は非常にギャグテイストが強いですが、それでも非常に含蓄あるもの。特に頼重さんのいう「りそうのくんしゅ」像は笑えてしまいます。それでは本編感想参ります。〇SかMか?頼重さん(の心の声)「くれぐれも皆には内緒ですぞ!私
『逃げ上手の若君』とかでブームになりつつある室町時代。こちらは先日新刊で出た小説なのですが、いやーこれ最高!!かなり長い物語なのですけど、面白くて面白くて、爆笑しながら読んでいました。帯からしてすごいインパクトです。やる気なし使命感なし執着なしなぜこんな人間が天下を獲れてしまったのか↑なんという失礼な室町幕府の祖・足利尊氏のことなのですが、ヒドイ言われようです。しかしこれ、わざとそういうキャラ立てしたわけではなく、足利尊氏という人物はどう
週刊少年ジャンプで連載中【逃げ上手の若君】のおかげで南北朝時代が取り上げられ(レアです)しかもついにアニメが放送開始となりました感想としては、アニメ最高すっごく絵も綺麗。色使いもキレイ。もしかして、かなり力を入れた制作なのでは?と嬉しくなりました1333年5月諏訪頼重と北条時行今までの”目で見る南北朝時代“は大河ドラマの「太平記」くらい?でしたが(重かった‥)そこで見ていた暗い木造の鎌倉殿の御屋敷がアニメでも細かに再現されていました。北条時行の衣装、咲き誇る花々、印象的な孔雀
どえらい巨木を見た後に三熊神社の境内を探索中潮来市へ来ています境内は広くきれいに整備されています桜の木もあるので春はにぎやかでしょう水神様年代はわからないですが古いもののよう気持ちが良い境内です南北朝時代の創建ですね色付きがチャーミング拝殿とツーショット
前回からいよいよ胎動してきた佐々木道誉が余りにも大河ドラマ『太平記』の陣内判官殿と(僧体を除けば)そのまんま過ぎる件。流石ラスボス尊氏と生涯をかけたズッ友判官殿今回も実に逃げ若テイスト風味で素晴らしいぐらいです。いや、それにしても子煩悩すぎる判官殿も新鮮すぎて面白!そしていよいよ物語は核心へと迫っていきます。さあどうなる?時行くん?〇ラスボス尊氏にしか見えないもの信濃における反乱の危険性があるからこそ「闘志あふれる国司」が必要ということで、愛の闘魂注入を行うことで麻呂国司に元気にな
さてさて…………………【嵯峨天皇陵】から徒歩10分程で、次の目的地が近づいてきた………………道中には、こんな無人野菜販売機がありました見通しが良く、気持ち良くてくてくと歩いて…………雰囲気あるなあ到着したのは………………【後宇多天皇蓮華峯寺陵】京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町天気の良さももちろんあるが、とても清々しい空気に身体が浄化されるココロ通算114陵目(124陵分の)の『天皇陵』となる【後宇多天皇(ごうだてんのう)】1267年ー1324年日本の第91代天皇。亀山
あれこの直垂って、護良親王と伝わるものでは‥今日のXの投稿「令和6年新指定国宝・重要文化財」の内、東京国立博物館所蔵の2件として紹介されているこちら。ただこの赤地牡丹唐草文錦直垂は、なんだか知っているのと違う横置き展示は初めて見たし、色も褪せていて、布がすれている所も‥「伝護良親王」と書かれていないし(模造)とも書かれていない〜今まで馴染みの「伝護良親王の直垂」は、「文化遺産オンライン」や「ColBase」で見られるような新しくて張りのあるこのイメージ。いつも衣紋掛け
〇神社の門前町として栄える城跡関東鉄道常総線で再び北上し、次なる目的地の大宝城へ。最寄り駅の大宝駅に到着。駅は待合室のみある無人駅です。駅から出てすぐ歩くと現在は民家が建ち並んでいますが、かつての大宝城の城域そのものです。画像右側には「大宝城」の標柱が建立されています。大宝城はかつて大宝八幡宮の境内内が本丸でした。関東最古とされる八幡宮として現在でもかなりの門前町となっています。結構店とかもあり、繁忙期には結構な参拝客が訪れる由緒ある場所です。この境内が本丸跡とされています。
本日も晴天筑西市の続きです今回は関城に来ています国指定文化財です鎌倉から南北朝の時代大宝城と同じ時代興国4年(1343)11月11日関城は大宝城とともに落城駐車場に着きました筑西市どこに行っても見える筑波山田畑の広がる大地から良く見えるわ地図あり現在地は・・・ここか坑道跡から行ってみます坑道跡ありました
2021年2月20日土曜日東京都町田市にある菅原神社と境内にある「井出の沢古戦場」を訪問。「井出の沢古戦場」とは、「東京文化財情報データベース」によると「元弘3年(1333)にはじまった後醍醐天皇による建武の新政は、武家を軽んじたため各地で武家の不満が高まりました。そのような中、かつて鎌倉幕府の執権を務めた北条氏の得宗である高時の子時行が、建武2年(1335)、反乱の兵を挙げました。これが中先代の乱です。信濃から鎌倉奪還を目指し南下した時行の兵は、この井出の沢の地で足利尊氏の弟直
最近の推し・上杉憲顕のお話をしたいです。かねてから欲しかったこの図録を入手しました。米沢の上杉博物館で過去に行った企画展の図録で、現在は在庫なしとのこと。古書で買えました。(しあわせ)色々とお宝文書が掲載されているのですが、これこれ!↓こいつを見たかったのですよ。足利直義から上杉憲顕にあてた直筆書状です内容はですね・・・めっちゃ熱烈なお褒めのお手紙中先代の乱を制して足利兄弟が世の中を治め始めた頃、上杉憲顕は上野国の守護として下向しました。上野国(
よく創作ものだと城攻めの際に出てくるのが坑道戦術ですね。堅固な城塞を攻囲軍が攻略せんと密かに地下に穴を掘り、坑道を創り上げようとする。それに対して、城の守備軍は何として潰そうと地面に耳を当てて、更に対抗の坑道を掘るせめぎ合い。もっとも現実世界ではなかなかその跡地はお目にかかれない。そんななか貴重な坑道が残っているのがここ茨城県筑西市にある関城です。鎌倉時代には結城氏一族の関氏が領主であった頃に築かれた城で、この城がスポットが当たるのは南北朝時代の争乱の頃でした。暦応4年/
このところ続けております令和3年夏の京阪神遠征、前回に続いて今回も神戸から、というよりも今回も「湊川」からになります。ミスター湊川、ミスター忠臣のカッチョイイ銅像になります。よろしくお願いします。楠木正成(湊川公園)コチラは神戸の中心地から少しだけ西のエリアになるでしょうか、三ノ宮や元町のハイソなイメージとは少し異なり、大分下町っぽい新開地エリアにある公園の銅像です。前にも述べましたが、私がブログをフォローさせてもらっている列伝先生と落人さんにご教示頂いた推し銅像なんです。銅像そのも
今回の優品鑑賞は「山城国長谷部國重」の短刀です◎長谷部國重南北朝初期期短刀「長谷部國重」南北朝初期期山城国造込み平造り短刀、真の棟。刃長九寸、反りなし、元幅八分、先幅八分五厘、元重二分地鉄不規則な板目肌、裏は流れ肌出て地沸付く。刃文大乱れ皆焼刃、刃中に砂流し入り、匂いに
〇冬・飯田線次なる目的地はいよいよ長野県飯田市まで進軍!飯田線のローカル線旅は色々楽しい車窓と駅が多いので楽しめます。本長篠駅から飯田線天竜峡行きに乗車県境を走るこの区間は列車の本数も少なく、乗客もまばらでした。そしてここ飯田線は秘境駅と呼ばれる珍しい駅の宝庫。秘境駅とは駅以外に何もない「本当に利用客がいるの?」とか思ってしまうような駅のこと。最も今では逆に人気スポットとして有名になっており、鉄道ファンがここを訪れるのがメッカとなっています。かくいい私もここ小和田駅には一度下車し
相州住秋廣應安三(重美佐竹家伝来)の紹介相州住秋廣應安三(重美佐竹家伝来)平造り短刀刃長、1尺1寸5分、反り2分、表裏に棒樋地鉄の鍛錬は板目肌、同作中白眉の地鉄刃分は皆焼であるが通常見るものより温和特徴、作柄全部が特徴敢て説明の要なし(押し型を参照してください)押し型をご覧になられて直ちに脳裏にひらめいたものは作者の時代位置と中心五カ国のうち相模鍛冶群にあることは当然でしよう日本春霞刀剣会
9月13日(日)に都城市で行われた「六朝体(りくちょうたい)基本講座」に行って来ました。六朝体とは、中国の南北朝時代、北朝で発達した独自の楷書体の総称で、現在の楷書体の起源となった書体の一つです。六朝体を全く書いた事のない初心者の私でしたが、先生の丁寧なご指導のもと楽しく学ばせていただきました。線には「ゆらめき」をとか、はらいは、はらい切らず動きを止めるだけとか、楷書・行書とは異なる技法に戸惑いながらも、上手く表現したくて、夢中になりました。あっという間の4時間でした。
いやぁ〜実は去年から中国からの情報で「超〜面白いよ〜!!」とは聞いていたんです。でもね、私としては散々中国宮廷ドラマには裏切られる(笑)ことが多かったので、話半分どころか3割程度の認識だったのよね〜。でもこれは面白い!去年中国最大のヒットで、さすがに中国版エミー賞といわれる「2015年度國劇盛典」で「影響力のあったドラマ賞」「最優秀男優賞」を始め、最多の10冠を獲得しただけのことはあります。インターネットでの反響もすさまじく、中国版Twitter「微博」ではドラマジャンルで過去最高と
南北朝時代を大河ドラマにしてほしい南北朝時代とは簡単に言って、朝廷から武士へと権力が完全に移行した時代です。これまで大河ドラマでは1回しか題材に選ばれておらず、また1991年の太平記では、南北朝が集結するまでは描かれませんでした。大河ドラマは2022年までで61作が決まっています。舞台となる時代には偏りがあり、戦国ものはまだ作れると思いますが、幕末はネタ切れだと思います。これは統計を取った上ではないただの偏見ですが、大河ドラマは、ほぼ毎年見ている視聴者層に支えられて、一定の視聴率を獲
『逃げ上手の若君』公式サイト『逃げ上手の若君』公式サイトwww.shonenjump.com週刊少年ジャンプで連載中の『逃げ上手の若君』(作松井優征)に、今週ついに北畠顕家が登場したそうです!!南北朝時代が漫画化だなんて最高すぎるし護良親王や北畠顕家が個性豊かなキャラクター化して登場するのは週刊少年ジャンプさまさまです早く読みたい一心で、まずはお借りした画像を眺めます♡秀吉の「中国大返し」の倍速で奥州から鬼の大軍を率いて駆けつけ足利
皆様、ご機嫌YOです!足利尊氏。皆様ご存じの室町幕府の初代将軍にてウヨ共には大逆人扱いされている御仁であります。ちなみに鶴ヶ魂的には後醍醐への「反乱」をどうこういう気はありません。後醍醐は背かれるべくして背かれた、と思ってますので(ちなみに後醍醐については、湊川へ向かう寸前の楠木正成にも手紙で上記と同様の指摘をされています。それへの後醍醐の反応は不明)。そんな彼ですが、最近の多くの歴史ファンから指摘され、僕も大いに同意している一つのポイントがあります。それは後で触れます。勿論尊氏
昔、鎌倉に来た時は、円覚寺、長谷寺と高徳院の鎌倉大仏と極楽寺の近くの山にある忍性墓にお参りしました。私が尊敬する僧侶の1人に鎌倉時代に貧民救済に障害を捧げた真言律宗の忍性さんがいます。ただこのお墓のある場所。お寺から離れたところにあり、そのお墓のある山が電力会社か?なんかの敷地内になっており、金網フェンスが張り巡らされて近づかないようになっております。下の方からあの辺がそうかな?と首を長くして眺めたことを覚えています。せっかく遠くからお参りしたのに、できませんでした。さて、今回は源
鹿児島市内の谷峰城跡へ行って来ました埋蔵文化財情報センターのデータベースでは原良にあると記載されていましたが実際は常磐町らしい🤔更に調べてみると樟南高校の野球グランドの裏手との事所在地鹿児島市常磐町二ノ迫立地丘陵現況山林・宅地残存度消滅築城者肝付氏在城者肝付氏・鮫島氏存続期間南北朝時代~文和元年満足です2城目は辺田城跡所在地鹿児島市中山町辺田立地山頂現況宅地規模200×300複
先日、渋谷まで行ったときにちょうど『逃げ上手の若君』のグッズが期間限定販売されていると聞き、いてもたってもいられず訪問することにしました。最初「渋谷109」と聞いて、渋谷の象徴的あの建物を思ったのですが、全く違う建物と聞いてようやく発見することができました。ちゃんと分かるようにマップを明示してくれ…一人三点までのお買い物私が一番欲しかった時行くん&頼重さん2ショットタペストリーは完売だったぜ…orzついつい年甲斐もなく衝動買いをしてしまいました。それにしてもまさか足利尊氏のキャラグッズ
西番場公民館から、往年の宿場町らしい通りを歩いて10分位で蓮華寺に着きます。元々は聖徳太子が創建した寺の1つです。花園天皇より、菊の寺紋を許されました。なぜ、血の川ががあるか?今は小さい堀に見えますが。14世紀、南北朝時代。鎌倉で再起を期して、都落ちして番場まで来たのですがついに力尽き、430余名が自刃したのです。それが血の川のようになったのですね。オソロシ…供養の墓碑群。庫裏では、たまたま全国の北条氏の子孫で作る菊花会の法事の集まりがありました。びっくり。中庭には弘法大