ブログ記事1,179件
豊葦原神社(遥拝神社)熊本県八代市豊原上町3011第47代淳仁天皇の時に天地地祇十六柱を勧請し、その後第48代称徳天皇の時に阿蘇三座の神を合祀して豊葦宮と称していたとか。豊葦原といえば、日本の美称。古い神様たちを沢山祀っているから、そういう名前にしたのかな。此の石段は、八代郡誌によれば「征西将軍懐良親王、高田御所御在館の時、常に当社より、吉野の行在所を遥拝せられ、社殿の修復を営み、随従の諸士に命じて石段四十余段を献納せしめ給う」。故を以って遙拝宮と称す。
10月26日♪土曜日♪京都三大祭(葵祭♪祇園祭♪時代祭♪)の最後の1つ♪時代祭♪昨年は、最初だけ御所で♪途中で行列追っかけてアチコチで見物したん♪今年は♪御所(御苑)を出て行く行列が見える堺町御門の真正面♪最前列に陣取って、座って見物♪1時間半前から場所取りして♪キレイな和装女子たち♪名誉奉行の馬車♪騎乗の総奉行♪先頭集団がすぎて…時代行列♪ココ♪京都が首都やった時代を順番に、時計の針を逆回転♪明治維新時代から平安京遷都の時代へ…明治維新時代♪維新勤王隊(山
(西条市丹原町古田地区の徳田小学校前に贈正四位・得能備後守通綱と土居備中守通増の供養塔)皆さまは、土居・得能氏の名前を聞いたことがありますか?南北朝時代に後醍醐天皇に仕えて粉骨砕身の働きわを成したことで名高い楠木正成と同じく、忠臣として知られていた伊予出身の武将の名前です。皇国史観の下に義務教育を受けられた戦前生まれの方は知っていたのですが、敗戦により占領軍主導で進められた戦後教育ではほとんど教えられなくなり、ほぼ全くと言って良いほど知られなくなりました。しかしながら、少なくとも愛媛県民
これまで「一条家」と「二条家」を紹介してきた当ブログ。ならば次は「三条家」ではなかろうか…?となってきたので、せっかくなのでやってみようと思いますw三条家は、藤原氏閑院流の嫡流にあたる家です。閑院流とは、藤原兼家(道長の父)にとってずっとずっと下の弟・公季(きみすえ)から始まる一族。公季は道長にとって、たった10歳だけ年上の叔父さんです。紫式部大河にも出る…はず。閑院流の紹介は、普通にやると今日どころか明後日まで終わってしまうので(笑)、ざっくりやると『平清盛』にも登場し
ごめんなさい…少しお休みしておりました(汗)チャカポンさん一代記の歴史記事という過去にない長作で気力がダウンしていましたが、ようやく充電完了。何とか溜まっていた『宿題』の解消に努めていきたいと思います。今回の『逃げ若』は「ときゆきくんのおつかいミッション」ということで話自体は非常にギャグテイストが強いですが、それでも非常に含蓄あるもの。特に頼重さんのいう「りそうのくんしゅ」像は笑えてしまいます。それでは本編感想参ります。〇SかMか?頼重さん(の心の声)「くれぐれも皆には内緒ですぞ!私
絶賛南北朝追っかけ中に読んだ一冊です。前に読んだ本で、あまりにも佐々木道誉が裏切りまくってイラッとするオヤジだったので、この人が主人公になったらどうなるんだろうと思い読んでみました。佐々木道誉といえば婆娑羅大名。が・・・確かにこの本を読むと、幕府から天皇方に寝返ったり、かと思うと足利方についたり、その最中に天皇方にまた寝返ったりとかの彼の不可解な行動の理由がわかるので、「ああそういうことだったのね」と、納得する部分はあります。それがわかると、道誉の行動が突飛なもの
懐良親王御陵の脇にあった階段を登って行きました。登った先に何があるかもよく分からず登り始めましたが、無事何かに辿り着きました。鐘があるからお寺だ!程度の認識(笑)何やら曰くありげな鐘ですよ🔔悟真寺熊本県八代市妙見町24641160(永曆元)年の妙見中宮創建後、懐良親王も参籠した天台宗の神宮寺・護神寺が創建。1390(元中7)年、良成親王の命により菊池武朝が懐良親王の御墓と菩提所・悟真寺を護神寺に創建。曹洞宗に改宗。戦国期には末寺80余寺を数える大寺に発展。相良為続代に七
最近の推し・上杉憲顕のお話をしたいです。かねてから欲しかったこの図録を入手しました。米沢の上杉博物館で過去に行った企画展の図録で、現在は在庫なしとのこと。古書で買えました。(しあわせ)色々とお宝文書が掲載されているのですが、これこれ!↓こいつを見たかったのですよ。足利直義から上杉憲顕にあてた直筆書状です内容はですね・・・めっちゃ熱烈なお褒めのお手紙中先代の乱を制して足利兄弟が世の中を治め始めた頃、上杉憲顕は上野国の守護として下向しました。上野国(
どえらい巨木を見た後に三熊神社の境内を探索中潮来市へ来ています境内は広くきれいに整備されています桜の木もあるので春はにぎやかでしょう水神様年代はわからないですが古いもののよう気持ちが良い境内です南北朝時代の創建ですね色付きがチャーミング拝殿とツーショット
葛城(かつらぎ)に南朝今もそっとあり石仏ならび哀(かな)しみ伝え😸奈良県御所市にある九品寺には、「千体石仏(千体地蔵尊)」が見事に立ち並んでいる。その数、1800体はあるらしい。これは、南北朝時代、御前城主・楢原(ならはら)氏が北朝と戦った際、地元の人達が味方の身代わりとして奉納したもので、「身代わり石仏」とも言われているらしい。千体を越して石仏なお静か声無く立ちて哀(かな)しみ誘い😸千体を越す石仏が、葉陰にそっと立ち並ぶ姿は
相州住秋廣應安三(重美佐竹家伝来)の紹介相州住秋廣應安三(重美佐竹家伝来)平造り短刀刃長、1尺1寸5分、反り2分、表裏に棒樋地鉄の鍛錬は板目肌、同作中白眉の地鉄刃分は皆焼であるが通常見るものより温和特徴、作柄全部が特徴敢て説明の要なし(押し型を参照してください)押し型をご覧になられて直ちに脳裏にひらめいたものは作者の時代位置と中心五カ国のうち相模鍛冶群にあることは当然でしよう日本春霞刀剣会
今回の優品鑑賞は「山城国長谷部國重」の短刀です◎長谷部國重南北朝初期期短刀「長谷部國重」南北朝初期期山城国造込み平造り短刀、真の棟。刃長九寸、反りなし、元幅八分、先幅八分五厘、元重二分地鉄不規則な板目肌、裏は流れ肌出て地沸付く。刃文大乱れ皆焼刃、刃中に砂流し入り、匂いに
皆様、ご機嫌YOです!鎌倉幕府の打倒から建武の新政を支えた朝廷方の武士の中には「三木一草」と呼ばれた人たちがいました。その中の一人に結城親光がいますが、今回のお話は彼ではなくその父である結城宗広です。彼は南北朝を題材とした松井優征氏の漫画「逃げ上手の若君」でも、一見穏やかな好々爺風の人物として登場しています。彼は一貫して朝廷方につき、鎌倉幕府や足利尊氏との戦いを繰り広げました。今回はそんな彼の生涯をまずは動画にて見ていきたいと思います。ちなみに、彼の生き様については下の楠木家の末裔の御
視聴終了~✌️史劇だと本当に連続再生しちゃってすぐ終わっちゃう。早送り無しで一週間くらいかな。中国ドラマは1話短いので54話でも割とすぐ笑簡単なあらすじとしては、南北朝時代、北魏に滅ぼされた北涼の王女が、北魏の貴族の令嬢(未央)になりすまし復讐を誓うといったお話。評判通り面白かった~韓国史劇だと奇皇后が好きで、奇皇后に似てる!つまり最初から最後まで陰謀ピンチ陰謀ピンチ、、、でも賢いヒロインが切り抜けていく感じ未央役のティファニータンが本当に可愛い!🥰金蘭良縁(途中でギブ😭)でもテ
神戸高速線新開地駅徒歩5分兵庫警察署前竹内典之シェフGeorgesBlancHôtelBeau-RivageGenèveフィレンツェやプーリア州等で3軒リーガロイヤルホテル大阪を経て2017年5月15日オープンムール貝・小海老・帆立・トマトエスカルゴバターココット焼き真鯛の香草マリネ、シーザーサラダカリフラワームースパイ蛍烏賊・ベーコン・菜の花ペペロンチーノ→予約時スープへ変更可連子鯛、ベーコンと春キャベツケッパー・焦がしバターソース兵庫産牛フィレ肉、マデラソ
鎌倉末期に天皇による親政を目指したのが後醍醐天皇、平安中期の醍醐天皇の延喜の治を理想とし自ら生前に後醍醐と名乗ったという天皇の名は崩御後に崇められて命名される、よって現天皇は常に今上天皇と呼ばれ生前に名の呼称は相応しくない、ことになる南朝は後宇多⇒後醍醐⇒後村上天皇とつながり、平安時代に藤原摂関を逃れ親政の治世を敷いた宇多⇒醍醐⇒村上天皇をなぞっている南北朝を統一し公武を制覇した室町幕府第三代将軍の足利義満は理想国家を目指す再び清和天皇系譜源氏の足利家が政治の実権
*10月14日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは婆沙羅大名・佐々木道誉と南北朝時代の社会です。本日は、足利兄弟錦小路の和談のおはなし。あんみつ「先生、観応二年(1351)三月、打出浜の戦いを経て敗者尊氏、勝者直義の足利兄弟が京都錦小路で会見しました。肩身が狭いはずの尊氏が、なぜか大きな態度で戦功者への恩賞と、高一族を討滅した上杉重季の処罰を要求します。やはり実弟で
茨城県…かつての常陸国は南北朝時代には南朝側と北朝側の間で激しい攻防戦を繰り広げていました。これは常陸が南朝側にとっては数少ない有力拠点であったためであり、そのため北朝…実質的には足利軍にとっては攻略を目指すべき目標であったからです。そんな常陸国で最期まで抵抗を続けた公家武将がおりました。現在、『逃げ上手の若君』でも絶賛活躍中の春日顕国です。基本的には使い物にならない公家武将の中では数少ない戦において有能ぶりを発揮していた貴族。同じく日本史最強の貴族・北畠顕家卿の下で活躍し、彼の死後もそ
懐良親王(かねよししんのう)御陵熊本県八代市妙見町懐良親王は後醍醐天皇の第八皇子。南朝の征西大将軍として、肥後国隈府(熊本県菊池市)を拠点に征西府の勢力を広げ、九州における南朝方の全盛期を築いたわ。外交上は、明に対して日本国王と名乗ったそうよ。まって!色々分からないけど、まず「南朝」って何?💦南朝と北朝って?鎌倉幕府滅亡後、二つの朝廷が正統を争いました。吉野で後醍醐天皇が開いた「南朝」と、京都で足利尊氏が光明天皇を擁立した「北朝」です。九州で
皆様、ご機嫌YOです!さて、以前の記事で南朝の猛将・結城宗広の生涯を取り上げさせて頂き、同時に彼のシリアルキラーっぷりにも注目して頂いたのを皆様憶えておられますでしょうか。その様は南朝寄りとされる「太平記」においてすら「十悪五逆重障過極の悪人也」「常に死人の頚を目に見ねば心地の蒙気する(↑死人の首を見ないと気が滅入る)とて僧俗男女を云ず日毎に二三人が首を切て態目の前に懸させけり。」「さればかれが暫しもゐたるあたりは死骨満ちて屠所の如く、尸骸積んで九原の如し。」「死して候が阿鼻地獄