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吉野町というと、桜の名所の吉野山辺りを思い浮かべる方が多いですが…(奈良県HPより⤵️)範囲は広く、昭和31年、今から約68年前に旧吉野町、上市町、中荘村、中龍門村、国樔村、龍門村が合併して誕生しました。【地理】吉野町は、吉野郡の北部に位置し、大台ヶ原を源流とする吉野川が流れています。また、吉野熊野国立公園、吉野川・津風呂県立自然公園に指定されている地域を有します。【歴史】「吉野」地方は古事記、日本書紀、万葉集など…歴史の大きな舞台となっています。🔘天武天皇
小野龍海’s歴史塾五代目の小野小町(小野吉子)の末裔が先祖である小野小町の実在性を証明する為に始めた歴史研究の成果を公表する為のホームページになります。ono-no-tatsumi.amebaownd.comお知らせした通り、『厳島縁起残巻』のデータ起こしをしつつありますが、今回はそのまま読める内容で書いてくれているようなので、そのまま載せます。「一二五-一二六嚴島縁起残卷一卷〔重要美術品〕縦九寸九分紙本着色、奥書によれば吉野時代貞和二年の作で、願主掃部入道々崇の發願
歴史叙事詩と娯楽が両立した貴重な古典😲南北朝時代に熱い視線が集まる昨今、太平記の新訳が出た意義は大きい。岩波版は古文ベースでハードルが高いが、本書は現代感覚で肩肘張らずに読めてありがたい。多数の人物が入り乱れて仏教説話も多いから、読みにくい部分もあるが、抄訳だから無事に読み切れた。太平記を読む意味は、南北朝時代の理解に留まらない。権威の正統性が問われた時代を経て、日本人特有の天皇観と忠節が形作られる契機となった太平記が、成立して間もない時期から広く受け入れられたことにより、その後の思想に多大
週刊少年ジャンプで連載中【逃げ上手の若君】のおかげで南北朝時代が取り上げられ(レアです)しかもついにアニメが放送開始となりました感想としては、アニメ最高すっごく絵も綺麗。色使いもキレイ。もしかして、かなり力を入れた制作なのでは?と嬉しくなりました1333年5月諏訪頼重と北条時行今までの”目で見る南北朝時代“は大河ドラマの「太平記」くらい?でしたが(重かった‥)そこで見ていた暗い木造の鎌倉殿の御屋敷がアニメでも細かに再現されていました。北条時行の衣装、咲き誇る花々、印象的な孔雀
昔、鎌倉に来た時は、円覚寺、長谷寺と高徳院の鎌倉大仏と極楽寺の近くの山にある忍性墓にお参りしました。私が尊敬する僧侶の1人に鎌倉時代に貧民救済に障害を捧げた真言律宗の忍性さんがいます。ただこのお墓のある場所。お寺から離れたところにあり、そのお墓のある山が電力会社か?なんかの敷地内になっており、金網フェンスが張り巡らされて近づかないようになっております。下の方からあの辺がそうかな?と首を長くして眺めたことを覚えています。せっかく遠くからお参りしたのに、できませんでした。さて、今回は源
相州住秋廣應安三(重美佐竹家伝来)の紹介相州住秋廣應安三(重美佐竹家伝来)平造り短刀刃長、1尺1寸5分、反り2分、表裏に棒樋地鉄の鍛錬は板目肌、同作中白眉の地鉄刃分は皆焼であるが通常見るものより温和特徴、作柄全部が特徴敢て説明の要なし(押し型を参照してください)押し型をご覧になられて直ちに脳裏にひらめいたものは作者の時代位置と中心五カ国のうち相模鍛冶群にあることは当然でしよう日本春霞刀剣会
放送日:1998年01月24日放送回:第575回タイトル:南北朝時代悪党vs婆裟羅の戦いミステリーハンター:竹内海南江解答者:黒柳徹子、板東英二、野々村真、リサ・ステッグマイヤー、田中義剛Question1:独特の身なりをしている人たちで、密かに城に物を運んだり情報を伝えたりしていました。独特な身なりをしていた人達で、千早城の戦いの影の功労者とは何?正解:山伏正解者:黒柳徹子(+1)、板東英二(+1)、田中義剛(+1)Question2:出陣の時、「三献の儀式」というものが行わ
宗隣寺の庭園昭和四九年宗隣寺の庭園が、国の名勝として文化財に指定された。宗隣寺は、宝亀八(七七七)年の開基といわれる由緒ある寺院であるが、湧水をとり入れた庭は、特に名園として知られていた。室町時代の作と考えられていたこの庭は、学術調査の結果、それよりも更に古く南北朝時代の築庭と確認された。山口県下最古の庭園で、建物の内から対座して艦賞するようになっている。(明治大正昭和「宇部」より)(彦島のけしきより)参考宗隣寺庭園・龍心庭(りゅうしんてい)、宇部市大字小串210
🍀2022年2月4日🍀著者朝松健戦闘シーンが多くて、思っていたのとは少し違ったかな。一休のセリフは格好良いのに、地の文が平凡なのが残念だった。えっ、「ほしみる」は何だったの?しうせんは文章から○○○○だって分かるでしょー。ルイニュー怖い。ここだけ完全にホラー小説。一休、良く異世界に迷いこんじゃう人なんだね。笑足利持氏は矢の傷が膿んで死んだらしい。藤原高房も背中の腫瘍が原因で死んだらしい。多くない?夢枕獏さんが好きな方にお薦めです!東山殿御庭Amazon(アマゾン)
まだまだ6月18日天河の続きです。30年以上前にこちらの天河大弁財社の少し上にある丘の上、当時は珍しい女性の修験道者さんが連れて来てくださったこと、今でも思い出す。『南朝黒木御所跡』この日はやはりどうしても訪れたくて、おふたりに無理を行って訪れることに。あの頃は、日本の歴史に『南北朝時代』があると言うことも知らなかったまま、ここに『連れられた』という感じだったの。ところがところが、富士山に移住してからの2016年くらいから、富士山北麓周辺では宮下
2024年6月18日こんばんはコロナ後の倦怠感によって無理が出来なくなり今日やれる限りのことをしようと前提条件のある日々を過ごしているのですがそれが逆にいい方向に自分を動かしている何だかそんな気がしますこの変化は大きなものに繋がっていきそうですさて、5月の京都を歩いた初夏の京都旅いよいよ今回の旅で最大のハイライトの1つ最も再訪したかったお寺を訪ねます向かう足取りからして既にワクワクテンションがとても上がっていましたね(笑)次に訪ねましたのは大覚寺嵯峨野エリアで最大の寺
2024年6月15日こんばんは復帰後の疲れが酷く1日寝て過ごした土曜日でしたでも、疲れは確実に取れたのでこれでもいい方向に向かっていると思いますようやくホッと出来ましたさて、初夏の京都旅2日目は桂川にかかる嵐山の渡月橋からスタートしました2日目の序盤は嵯峨嵐山エリアを歩きますが桂川を渡って嵐電の嵐山駅の辺りから歩道を歩く人たちがものすごいことになりいや〜、大変なところに来てしまった!と2日目の序盤はオーバーツーリズムとの戦いでもありましたね(笑)そんな嵐山編、嵐山と言
◆二桁ゾロ目国道の不思議サムさんが語る「祭り」と「日本人」より8日の記事では、八咫烏の末裔である「松田光世氏」のインタビュー動画を紹介しました。動画主のお一人であるサムさん(本名・新井康陽さん)は、大阪府出身だそうですが、現在は、名古屋市の大須を拠点にご活躍されています。★大須観音(名古屋市中区大須)大須観音は日本三大観音のひとつであり、真言宗智山派別格本山です。昨年2月に名古屋市を訪れた際、大須観音に参詣してきました。境内には弘法大師像があります。※日本三大観音の
急に始めてみた訳だが、磯風のデカール探しがこの記事の発端だと解った方はマニアックださて、早速第1段な訳だが、日本史上でも希代の名将であることは疑いない楠木正儀(くすのきまさのり)公を考察してみる。楠木正儀(くすのきまさのり)は、言わずと知れた、南北朝時代の北朝方を代表する武将で、父楠木正成(くすのきまさしげ)、兄楠木正行(くすのきまさつら)らの愚行によって滅亡の危機に瀕した一族郎党を立て直し、室町幕府の要職に就いて、事実上南朝滅亡の切っ掛けとなる拠点を陥落させた。後醍醐天
久しぶりに南北朝時代の話題です。先日書店で見て購入してきました、『結城宗広・親朝』。なんと6年も前のことだ。結城一族の居城を訪問していたのである。『結城氏の居城白川城~福島県白河市~』霊山~下神山摩崖仏~宇津峰城~ときて、関東に出る前に立ち寄ったのは、結城一族が居城とした白川城。白河というとどうしても白河の関が有名です。結城氏は「三木一草…ameblo.jp結城宗広は北畠顕家と共に二度も京都に向けて遠征、足利尊氏を苦しめますが、足利の勢いを止めるこ
よく創作ものだと城攻めの際に出てくるのが坑道戦術ですね。堅固な城塞を攻囲軍が攻略せんと密かに地下に穴を掘り、坑道を創り上げようとする。それに対して、城の守備軍は何として潰そうと地面に耳を当てて、更に対抗の坑道を掘るせめぎ合い。もっとも現実世界ではなかなかその跡地はお目にかかれない。そんななか貴重な坑道が残っているのがここ茨城県筑西市にある関城です。鎌倉時代には結城氏一族の関氏が領主であった頃に築かれた城で、この城がスポットが当たるのは南北朝時代の争乱の頃でした。暦応4年/
楠木正成像皇居外苑その1となります。皇居外苑2024.5.19(日)撮影『200m←楠木正成銅像』の案内標識…。前方に楠木正成銅像が見えております。海外からの訪問者の方々に、通訳ガイドさんが説明されている構図。反対側からの構図。楠木正成銅像の正面、斜め右方向から撮影。接近して見上げた構図。真正面から見上げた構図。お馬さんの鼻の穴が印象的です。正面より斜め左方向から撮影。楠木正成銅像のご尊顔が、こちらを見下ろしているような構図。馬が尻尾を靡かせて疾駆しているよう
さてさて…………………【嵯峨天皇陵】から徒歩10分程で、次の目的地が近づいてきた………………道中には、こんな無人野菜販売機がありました見通しが良く、気持ち良くてくてくと歩いて…………雰囲気あるなあ到着したのは………………【後宇多天皇蓮華峯寺陵】京都府京都市右京区北嵯峨朝原山町天気の良さももちろんあるが、とても清々しい空気に身体が浄化されるココロ通算114陵目(124陵分の)の『天皇陵』となる【後宇多天皇(ごうだてんのう)】1267年ー1324年日本の第91代天皇。亀山
どえらい巨木を見た後に三熊神社の境内を探索中潮来市へ来ています境内は広くきれいに整備されています桜の木もあるので春はにぎやかでしょう水神様年代はわからないですが古いもののよう気持ちが良い境内です南北朝時代の創建ですね色付きがチャーミング拝殿とツーショット
〇神社の門前町として栄える城跡関東鉄道常総線で再び北上し、次なる目的地の大宝城へ。最寄り駅の大宝駅に到着。駅は待合室のみある無人駅です。駅から出てすぐ歩くと現在は民家が建ち並んでいますが、かつての大宝城の城域そのものです。画像右側には「大宝城」の標柱が建立されています。大宝城はかつて大宝八幡宮の境内内が本丸でした。関東最古とされる八幡宮として現在でもかなりの門前町となっています。結構店とかもあり、繁忙期には結構な参拝客が訪れる由緒ある場所です。この境内が本丸跡とされています。
5月22日(水)天気27度/13度☀️→🌤️〔寺社仏閣御神木探訪編〕□楠正行(マサツラ)公墓の大クス(四條畷市)Taphere⤵️riff-raffonInstagram:"5月22日(水)天気27度/13度☀️→🌤️〔寺社仏閣御神木探訪編〕□楠正行(マサツラ)公墓の大クス(四條畷市)南北朝時代、北朝の光明天皇派足利軍に追われた後村上天皇派と共に南朝廷の復活に戦った楠正行公が眠る小楠公御墓所です。大碑石と大木が静かに佇む伸びやかな空間で、幹回り10m以上もある大
ほとけのざってどんな花?ホトケノザってどんな花?|百人一首ソングライター:じょぷりんホトケノザってどんな花?知っているようで知らない花、ホトケノザ。見たことありますか?春の七草でも有名ですよね。せりなずなごぎょうはこべらほとけのざすずなすずしろこれぞ七草この短歌は、14世紀の南北朝時代に、四辻の左大臣(四辻善成)が源氏物語の注釈書「河海抄(かかいしょう)」の中で七草のことを記載したのが、短歌として…note.com
どうも♪こんにちは🌞今回は奈良県吉野山へ行って来たのでご報告させていただきます⛰️今にも龍神様が現れそうな空です🐉車🚙で来ましたので近くの駐車場に停めて金峯山寺さんへお参り国宝仁王門大修理中❗️でしたー一口五千円から支援できます綺麗になってください☺️気持ちのいい天気でした☀️お参りさせていただきました🌲ありがとうございます😊近くに南朝吉野皇居跡がありました🛕こちらに吉野朝があったんですね🤔南北朝時代のことは謎がありますねひとまずごはんにし
茨城県…かつての常陸国は南北朝時代には南朝側と北朝側の間で激しい攻防戦を繰り広げていました。これは常陸が南朝側にとっては数少ない有力拠点であったためであり、そのため北朝…実質的には足利軍にとっては攻略を目指すべき目標であったからです。そんな常陸国で最期まで抵抗を続けた公家武将がおりました。現在、『逃げ上手の若君』でも絶賛活躍中の春日顕国です。基本的には使い物にならない公家武将の中では数少ない戦において有能ぶりを発揮していた貴族。同じく日本史最強の貴族・北畠顕家卿の下で活躍し、彼の死後もそ
山中絶景カフェお天気がよかったこともありますが、この景色でランチは最高です!ゴールデンウィークでイベントしていてもそれほど混雑していません。奈良県川上村はアートで村興しということでここを造ったようですが、もう25年という作家さんも。宿泊できるコテージ、作家さんのアトリエ兼住居、絶景カフェがあるパブリック棟があります。面白いところです。これはおまけグリーンカレーおすすめします!吉野川上村は何度か行ってますがココは初めて。おすすめします。https://takum
皆様こんにちは。沙貴誉(さきほまれ)です。YouTube動画『後醍醐天皇について占ってみた』、公開されました。早速紹介させて頂きます。後醍醐天皇について占ってみた久しぶりの歴史シリーズです。今回は後醍醐天皇についてです。吉野桜と後醍醐天皇については前回の動画をご覧下さい。https://youtu.be/Kwg6lTJHiYY?si=wJaWmHnKmjOMgJ96沙貴誉(さきほまれ)の名前でブログを書いています。https://ameblo.jp/b
南砺市文化芸術アーカイブズ寺家新屋敷古舘跡南砺市文化芸術アーカイブズculture-archives.city.nanto.toyama.jp南北朝時代に築かれた館跡のようです。戦国期には、改変、リユースされたようで、庄丿城の支城だったようです。城って、リユースされているパターンが多いですね。せっかく都合よくあるものなら、改変して、さらに防御、攻撃性を高め、人件費と工期に無駄がないようにしたいでしょう。南北朝時代の城跡の印象は、静岡県の勝間田城跡が思い
機織り機の縦糸を巻く千亀利と言う器具が本丸と二の丸が千亀利のように重なって並んでいるので別名千亀利城と呼ばれているようですただ千亀利がどのような物なのかわかりません。城内にある岸城神社は千亀利と「契り」とをかけて縁結びの神社として知られています南北朝時代に楠木正成が和泉の守護職となり一族の和田高家を代官とし、この辺りの地名が「岸」だった為「岸の和田」と呼ばれたようです
正統な権力の踏襲はいつの世も難しい🤔私淑する佐藤優氏が読むべき古典にあげた太平記。ここから尊皇思想が生まれたと知り、手掛けたい意識を持ってきたが、岩波版は古文ベースでハードルが高く、待望の新訳に思わず食指が伸びた。抄訳だが、手軽に概要が理解できるのはありがたい。朝幕対立は鎌倉期の承久の乱で武力闘争となり、後醍醐天皇による建武の新政で巻き返したつもりが、時代を戻すことはできなかった。一進一退を経ながら権力の座を射止めた足利尊氏により武士の世が確定する中で、天皇への忠節という概念が生まれることに
皆様、ご機嫌YOです!さて、以前の記事で南朝の猛将・結城宗広の生涯を取り上げさせて頂き、同時に彼のシリアルキラーっぷりにも注目して頂いたのを皆様憶えておられますでしょうか。その様は南朝寄りとされる「太平記」においてすら「十悪五逆重障過極の悪人也」「常に死人の頚を目に見ねば心地の蒙気する(↑死人の首を見ないと気が滅入る)とて僧俗男女を云ず日毎に二三人が首を切て態目の前に懸させけり。」「さればかれが暫しもゐたるあたりは死骨満ちて屠所の如く、尸骸積んで九原の如し。」「死して候が阿鼻地獄