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今日は12月18日。『ちょこっと雑学』[[割り箸とは?]]「割り箸」は、使う前に割るから割り箸と思われるかもしれないが、名前の由来は、木材を木の目に沿ってナタで縦に割って作られた事に由来します。また割り箸の歴史は、次のような流れです。紀元前の古代中国で簡易的な料理道具として使用されていたと考えられている。日本では、奈良県吉野郡下市町で、南北朝時代に後醍醐天皇が吉野を訪れた際に、下市の里人が杉箸を献上したことが始まりとされています。江戸時代後期に、屋台が流行したことで、使い捨ての
2024年12月11日西村慎太郎です。2024年12月14日、浪江駅前の浜通り地域デザインセンターなみえ(通称「浜セン」)で「権現堂城落城532年記念祭が開催されて、西村は16:30頃より「権現堂城の戦いと標葉氏―落城したのは532年前ではない?―」という報告を行います。内容は以下の通りです。•標葉氏とは何者か•権現堂城の戦いとは何か•権現堂城の戦いはいつか•【エピローグ】幕末から近代の標葉氏顕彰運動―「城攻め」前史―で。実は資料作ってて思ったん
逃げ上手の若君夏のアニメで、一番下の娘が食いついたアニメでした。少年ジャンプ連載、原作は途中まで読んだ。鎌倉幕府滅亡からはじまる動乱の時代に起きた旧勢力の反抗、中先代の乱をジャンプっぽく描いたという作品。ただでさえ、キャラ立ってる人物ばかりのこの時代、そのキャラをさらにとがらせてるのが面白い。古い時代の諏訪明神を描いているのも興味深い。アニメは鎌倉幕府の滅亡から、中先代の乱が始まったところまででした。
名称:蔵王堂城別名:蔵王城城郭:平城築城年:南北朝時代築城主:中条氏主要城主:中条氏、上杉氏、堀氏改修者:長尾為重所在地:長岡市西蔵王3-2指定文化財:市指定史跡水堀、土塁本丸堀直寄銅像金峯神社
最後はやはり・・・【天野山金剛寺】・・・此処は中世不思議の所!南北朝時代・・・南朝と北朝の・・・御在所が同時にあっ処・・・不思議どころなり!ぐるり回って・・・御在所へ茅葺屋根がよく似合う!タイムスリップしたような・・・・長い通りをぶらぶらと・・・うむ~・・・良い感じの紅葉に・・・導かれ御在所に渡る廊下なり・・・うむ・・・今が盛りか・・・紅葉は・・・うむ~・・・うむ~言葉なし・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
塙町の西側、町の中心部を外れて南北に走る旧街道西側に静かに佇む医王院米山薬王寺は、南北朝時代創建と伝わる真言宗の寺院です。その本堂である薬師堂は、江戸時代中期に建造された禅宗様式を加味した壮大な造りです。その境内に秋になると、樹齢500年以上と伝わるの大イチョウの葉が鮮やかに色づき、その葉が落葉し始めると境内は黄金色の絨毯を広げたかのような光景が見られるようになります。落葉が始まりかけたこの日は、境内に続く階段にも落ち葉が散り敷いていました。隙間なくちりばめられた黄金色
2024年12月2日西村慎太郎です。来月14日の『第11回浪江を語ろう!』では「中近世の小丸村-「最も弄ぶべき絶景なり」-」という報告をする予定です🤩現在、その準備を進めているところですので、ぜひお越し頂くか、当日のYouTubeライブをご覧ください!!さて、その報告について現在準備中ですが、ちょっと先取りして大字小丸について記してみたいと思います。前回・前々回は「相馬文書」(東京大学史料編纂所蔵謄写本3071.26-5)より建武4年(1337)4月に小丸城で南朝と北朝が戦った
令和6年11月30日(土)今日は朝から掃除を済ませ、散髪に行き、そしてスーパーに買い物に行く。昼食を自宅で済ませ、昼から四條畷神社に車で行くことにした。12:00頃自宅を出る↓城南宮南IC↓(第二京阪道路を利用する。)寝屋川北IC↓府道20号線↓14:00前頃四條畷神社に着くJR学研都市線四條畷駅からだと徒歩20分くらいかな。近くには飯盛城跡がある。飯盛城は、京都⇔大阪、大阪⇔奈良、と行き交うのを監視できる位置にあった交通の要衝にあった城だ。〈四條畷神社〉小
2024年12月1日西村慎太郎です。来月14日の『第11回浪江を語ろう!』では「中近世の小丸村-「最も弄ぶべき絶景なり」-」という報告をする予定です🤩現在、その準備を進めているところですので、ぜひお越し頂くか、当日のYouTubeライブをご覧ください!!さて、その報告について現在準備中ですが、ちょっと先取りして大字小丸について記してみたいと思います。昨日は南北朝時代の小丸村に関わる古文書について記しました。もうひとつ同じ時期の古文書が確認できます。「相馬文書」(東京大学史料編纂
*11月24日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは婆沙羅大名・佐々木道誉と南北朝時代の社会です。本日がシリーズ最終回、婆沙羅の美のおはなしです。あんみつ「先生、応安元年(1368)八月、73歳になった佐々木道誉は11歳の三代将軍・足利義満と管領・細川頼之の新政権のもと、相伴衆に列せられました。相談役というか事実上の閑職というか。道誉はかなり不満だったようですね」
(前回の続き)渡月橋を撮影後に大鎧を着装するためにバスで嵐山から太秦に移動。14時30分頃に京都の太秦にある高津商会に到着し、大鎧を着装する前に、大鎧を着装するための利用料金を支払い、大鎧を着装しながら、高津商会のスタッフの方々と、源義経や足利尊氏や大鎧に関する話をしました。今回の大鎧の着装では、両腕に籠手をつける、南北朝時代の武士の姿にしてもらいました。大鎧を着装し、剣道でいう八相の構え槍を持った後ろ姿弓を持った姿着席着席しながら扇をあおぐ。着席しながら扇をあおぐ。その2
2024年11月30日西村慎太郎です。来月14日の『第11回浪江を語ろう!』では「中近世の小丸村-「最も弄ぶべき絶景なり」-」という報告をする予定です🤩現在、その準備を進めているところですので、ぜひお越し頂くか、当日のYouTubeライブをご覧ください!!さて、その報告について現在準備中ですが、ちょっと先取りして大字小丸について記してみたいと思います。今日は南北朝時代の小丸村に関わる古文書について。小丸地区には、管見の限り、古代・中世の古文書はありません。近世の古文書もほとんど
またまた断りなく勝手にリブログです。どっかで見たことがあるなぁ…と思ったら、8月末にも別記事をリブログしてました。『【中国語】算という漢字に惑わされる算の意味とは?』今日、久しぶりに見たブログで算という漢字について語っているのがありました。簡単そうですが、実は結構奥が深いのです。《説文解字》には、「算数也從竹具」とあり、…ameblo.jpうーん、Momoさんは目の付け所がいいセンスしてますね。够は元々「多い」と言う意味しかなくて、口語として使われていた言葉に漢字をあてたもの
*11月16日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは婆沙羅大名・佐々木道誉と南北朝時代の社会です。本日は、斯波高経とのお花見勝負のおはなし。🍚あんみつ「先生、康安二年(1362)七月、大物守護大名・細川清氏が二代将軍足利義詮の命で討ち果たされました。じっさいは佐々木道誉との政争の果ての失脚。道誉は同じく足利一門の斯波高経の嫡子で、13歳の義将(よしゆき)を管領に据え
東北の玄関口・白河市には3つの「城」がありました。一つは先週ご紹介した古代の白河関、もう一つは今回最後に言及する江戸時代の近世城郭・白河小峰城、そしてその狭間に中世白河の城がありました。それが今回の白川城現在の白河市街地から東へ3キロほどの場所に築かれた城。その歴史は鎌倉時代から始まります。鎌倉御家人の一人として、平家との戦争に活躍した結城朝光は文治5年(1189)の源頼朝の「奥州合戦」で活躍し、その恩賞として白河荘を与えられ、彼の孫である祐広は、鎌倉後期に白河を拠点にして、白川城を築い
普段、トイレ掃除は誰が担当してる?▼本日限定!ブログスタンプあなたもスタンプをGETしよう明徳の和約-Wikipediaja.wikipedia.org1392年の今日な明徳の和約が結ばれ、南北朝時代が終焉を迎えた日です。南北合体条件(なんぼくがったいじょうけん)とも。
吉川弘文館のシリーズ「東海の中世史」の第二弾では、鎌倉後期~南北朝時代という動乱の時代を扱っています。俗に「三英傑」と呼ばれる、戦国時代を制した織田信長・羽柴(豊臣)秀吉・徳川家康の3人が東海地方の出身である(現在の行政区分で言えば愛知県、当時の国名では信長と秀吉が尾張、家康が三河)ことはよく知られていると思いますが、鎌倉幕府を打倒し、南北朝時代を勝ち抜き室町幕府を開いた足利氏の重要拠点が三河にあったことはあまり知られていないのではないでしょうか。東海道は行政区分、あるいは中世の街道
*11月10日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは婆沙羅大名・佐々木道誉と南北朝時代の社会です。本日は、婆沙羅宰相のおはなし。あんみつ「先生、延文三年(1358)四月、足利尊氏が54歳で亡くなり、十二月には正式に足利義詮が征夷大将軍に宣下されました。八月には義詮と紀ノ良子とのあいだに男児・春王(三代将軍足利義満)が生まれています。一時代の交代を思わせますね」
皆様、ご機嫌YOです!日本史でも人気が高い、僕も好きな人物である楠木正成。彼は世間的には湊川の悲劇的な最期から後醍醐と朝廷に忠義を尽くして死んだ尊皇の士と見られることが多いです。僕は正成の湊川の最期は忠義と言うよりも恩義と美学に殉じたと考えています。そして今回紹介する動画は、世間や僕とはまた違った視点で正成が後醍醐に仕え、湊川で死んだ理由を指摘しています。うぷ主の指摘に全面的に賛同はしませんが、鎌倉時代の武士としての正成の意気を感じる事が出来ます。皆様はどうお感じになられま
はぁ~やっちゃいました予約記事で書いているので2日分を同日投稿しちゃいましたご迷惑をおかけしました🙇♂️で、穴埋め記事としてこちらをどうぞ昨日平湯温泉のひらゆの森からの帰り道高山と郡上八幡を結ぶせせらぎ街道の景色今年は余り発色が良くないような西ウレ峠の広場基本下道派なので303号線から鯖街道を通り162号線ではなく紅葉が綺麗そうな京都腐道110号線から京北に向かいますTV朝日系列人生の楽園で登場した農家民宿やかやぶき屋根の
晩秋の吉野山1下千本~大駐車場から蔵王堂まで|高坂正澄11月7日は立冬です。なので、昨日(11月6日)訪れた吉野山に、桜の花はありません。また、紅葉にもちと早かった。本記事は、そんな何もない吉野山の「下千本(しもせんぼん)」界隈のリポートです。(以前にも同じような記事投稿したかも)歩いたコースは、題にあるとおり、「大駐車場(観光駐車場)から金峯山寺蔵王堂まで」の約一キロ。そそくさ行けば徒歩二十数分の…note.com11月7日は立冬です。なので、晩秋の吉野山に、桜の花
令和6年11月3日(日)文化の日施福寺から金剛寺に向かう。10:20施福寺駐車場を出発する。↓府道228号線⇒国道170号線(途中から旧道に入る)↓10:40金剛寺駐車場に到着する。金剛寺も秋の特別拝観を催行しており、参拝者も多いようだ。駐車場料金500円。〈金剛寺〉金剛寺本堂。大日如来が祀られている。境内図。大伽藍への参道。天野川。楼門。竜王池。納経所。食堂。手水舎。多宝塔。経蔵。鐘楼。金堂前から見た楼門。大伽藍境内。観月亭。御影堂。五仏
金剛寺境内です色鮮やかな金堂多宝塔五佛堂(右)薬師堂(左)御影堂御影堂から見た多宝塔御影堂を近くから観月亭境内の風景再び楼門から天野街道へモミジはまだ先だけ赤くなり始めたところでした天野街道を駐車場までダッシュして帰りました
天野街道から伽藍へ短い距離ですが少し走れて機嫌良さそう途中に南朝行在所があります境内入口の楼門です楼門の内側いよいよ境内ですここからマロンは抱っこです
本坊の客殿です奥殿(北朝行在所)の中には入ることができます外の天野街道を通って隣の伽藍へ天野街道はワンちゃんも歩けますやっと走れて少し機嫌が良くなったかな?
今日は、義姉の家でスマホ内の写真をPCへバックアップするという作業をする予定でしたが、昨夜キャンセルの電話があったため、一日宙に浮いてしまいました。そこで、以前から気になっていた場所へ行ってみます。南海本線の沿線に「浜寺公園」という大きな府営公園があります。ただ、この辺りに大きな寺院はありません。Wikipediaを見ると、「浜寺町」という項目に次のような記載があります。『高師浜の芦田川付近(現在の高石市、南海高師浜線伽羅橋駅付近)に三光国師が南朝の拠点のひとつとして大雄寺(金
天野山金剛寺に行ってきました1300年前(奈良時代)に開山し弘法大師の修行の聖地といわれています南北朝時代は南朝方の拠点になりましたので国宝・重要文化財も多く残されてますワンちゃんは抱っこしていれば境内に入ることができます(建物には入れません)まずは、駐車場から北朝行在所へ本坊の入口廊下で奥殿や宝物庫につながっています庭園がとても綺麗ですマロンは建物には入れないので、交代で…
天野山金剛寺北朝行在所と庭園(撮影日2024・10・17)南北朝時代を駆け抜けた・・「天野山金剛寺」・・今回は天野山金剛寺の最終回に成ります・・・本坊にある奥殿の北朝行在所と庭園に案内に成ります・・本坊エリアの境内案内図それでは楼門前から本坊に向かいます・・摩尼院表門が遠くに見えています・・南北朝時代には・・・・南朝行在所に成っていました!今回は拝観をしていないのでスルーしました。天野川沿いの白壁が美しい・・忍之橋天野川にかかる赤い橋です・・橋の向うは講堂が有りま
八代城跡内に、八代宮がある。八代宮熊本県八代市松江城町7-34八代宮の祭神は懐良親王。一の鳥居は旧大手門付近に設置参道が徳渕の津より直進する。徳渕の津って?八代市内の球磨川河口にあった港よ。室町時代初期にはすでに港湾として利用されていて、この地を治めた名和氏や相良氏は、この港を利用して独自に外国との交易を行い、収益を得ていたみたい。名和氏は、後醍醐天皇の主力武将だったけど、足利尊氏に敗れ没落し、八代にやって来たわ。そして、南朝の懐良親王や良成親王に協力するの
*10月20日エントリーの続きです。R大学文学部史学科のぜんざい教授と、教え子の院生・あんみつ君の歴史トーク、今回のテーマは婆沙羅大名・佐々木道誉と南北朝時代の社会です。今回は、正平の一統のおはなし。あんみつ「先生、観応二年(1351)六月、足利義詮が<御前沙汰>なる親裁機関を新設したことで、露骨に足利直義排除の意思を示しました。将軍足利尊氏はなんとか息子と弟の融和を図りますが、播磨守護・赤松則祐の挙兵をきっかけに諸国の大名が蠢きます