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ここ暫く業務続きで、今週末までずっとその予定なのでいい加減ネタ切れ。そして、聖夜22はまだ数値がわからん。なんで、暫く過去聖夜でお茶を濁す。先ずは如水さん。味方全体防バフ25%周囲味方忘却&回復不可治癒全体バフの最高は50%だが、事実上彼は一発アイテムみたいな存在なので除外。そうなると、まともに運用できる最高が30%で、次点が25%で彼が該当する。つまり、悪くない。しかも、周囲と範囲は狭くなるが、回復不可と忘却の二種が治癒出来るのは便利。20XX(201X含む)には、色んな如
新型コロナウイルスの感染が拡大してますが、皆さんいかがお過ごしですか?とある用事がありまして、今静岡に来てまして。。ちょっとだけネタバレしちゃいます↓(また改めて記事にしてお知らせしますので、お楽しみに〜)ついでに城巡りを少し進めてます💨今回は興国寺城!!最寄りはJR原駅です。駅前はこんな感じ。左にちょっとだけ見えてるんですけど、富士山があるんです🗻雲で隠れてしまっているんですが、見えますかねミューバスというバンが運行しているようですが、本数が少なく、時間が合わなかったの
射)孝蔵主:奥の射手呪)実窓夫人:花冠の指揮者覇)足利氏姫:降誕祭の威武武)真田阿梅:前掛の麗姿薬)黒田如水:金衣の名賢射)高橋紹運:千金の噴流戦)北条早雲:爆竹二十一連戦)小早川秀秋:聖夜の提灯覇)阿古姫:柊葉の聖歌薬)甲斐姫:北極無双の麗©コーエーテクモゲームス
今回は、今年3月に訪れた静岡県伊豆の国市の韮山城の続きです「余湖くんのホームページ」より、縄張り図お借りします、前回は4郭から2郭まで攻城しました1郭(本丸)に上がります到着前回と同様、先の5郭へは立ち入り禁止でした行きてぇ〜あの先へ周辺案内図周りには付城や砦跡がわんさかあります余湖くんのホームページより、行きたかったけど私有地が多くて多くは立ち入り禁止のようです眼下には先ほどの高校、眺めも良くて北条早雲を偲ぶには最適な場所です本丸を降ります2郭へ2郭と3郭の間の堀切を
事前の作戦、準備が功を奏し、信長軍を撃退する事ができた。すぐには織田も次なる軍事行動を起こせないだろう。トモミクの尽力で集まってきてくれている家臣は、一癖も二癖もある御仁が多い。それぞれが非凡な面々で、命を惜しまない勇敢さ、強い結束力、それぞれの臨機応変の判断力を持ち合わせている。しかし鎌倉以前や以降の歴史上の偉人と呼ばれていた人物やこの時代に生きる有能な者たちで、良き家臣に恵まれる事がこれほどに軍団の力を大きくできるのか、とあらためて痛感する。トモミクや猫、里見伏、出雲阿国、赤井輝子
一般向けの歴史書ですと、今川義元は海道一の弓取りといわれていて、衰えた室町幕府に代わって天下を収めようとして上洛の兵を進めたが、桶狭間であえなく討ち取られた看板倒れの情けない大将と書かれています。織田信長を世に出すために登場してくるだけの人になっています。どうして海道一の弓取りになれたのか、詳しく説明していないので、多くの人たちには世襲で豊かな土地を手にしただけの人と思われがちですが、政治家としての器は大きく有能な人でした。今川義元は今川氏親の3男に生まれます。家督は氏親の長男
いつものメンバーチーム城ケ崎4人とすずちゃん好天に恵まれ最高のお出かけ日和となりました笑ってしまいますがすず母は45年ぶりの小田原城です勿論、すずは初めてこの写真を撮ってくれたのは茨城県常総市から来ていた小学6年生君なんですよ残念ながら校長先生の許可が下りず6年生君たちの写真は✖6年生君、ありがとーすずも興味津々の顔つきをしていますあらあら~今度は
「兄上がお戻りになられたか!」南信濃遠征軍が犬山城に差し掛かったとの連絡が、小牧山で織田軍の波状攻撃をしのいでいた義経隊にも届いた。天才的な軍略をもって整然と戦う義経隊は兵の損耗を最小限に戦えていたが、櫛橋光隊は出陣時の半分程度の兵となり壊走寸前、太田道灌隊も織田軍の絶え間ない突撃を騎馬隊で押し戻していたため相当消耗していた。「間もなく兄上から指示がある。もう少しの辛抱だ!」どれくらい小牧山で戦っているたか分からない。それだけ激戦が続いていた。それでも頼朝軍本軍が帰投した事が伝わり
山川出版社の日本史リブレットシリーズ42段は、戦国大名の走りとも言われる北条早雲こと伊勢宗瑞(または伊勢新九郎盛時)です。現在の最新研究をベースにした宗瑞像が描かれており、800円(税別)と安価であることも手を出しやすい理由の一つとなります。その分薄めですが、宗瑞の生涯をざっくり知りたい場合にはこれくらいの情報量が過不足ないと思います。宗瑞の家臣団についても言及がありますが、笠原・大道寺・平井・荒木・山中・荒川・在竹といった『新九郎、奔る!』でもおなじみの根本被官に交じって左近士九
穂積忠氏は生涯で校歌をどのくらい作ったのでしょうか。死後に纏められた『穂積忠全歌集』には校歌は収録されていないそうですが、才ある詩人の割にはあまり作らなかったようで多く見積もっても10校くらいではないかと思われます。しかも最も活躍していた戦前でも確認できるのは1校、韮山中学校だけです。これは歌・詩作を生業にしていたわけではなく、本業は教師だったからです。旧制韮山中から國學院大学に進学、大学卒業後すぐに長野県の高等女学校の教師になっています。関東大震災で実家のある伊豆に帰郷後は死去するまでそこ
飯田城下で頼朝軍が再出陣の準備を急いでいた。織田軍本隊の軍事行動に不安を持ちながら東美濃の織田軍を掃討しつつ美濃に帰投する、頼朝軍は賭けに出る。急ぎ美濃に戻りたいところであったが、今後弱体化した武田軍に援軍を送るためには、南信濃まで街道がつながらなくてはならない。どちらにせよ、帰路には織田軍の苗木城、岩村城、鳥峰城が立ちはだかる。迎撃に出た東美濃の織田軍を散々に撃退したので、残る兵も少なく包囲すれば降伏勧告に応じるはず、祈りと決意の進軍であった。出陣前に軍議にて秀長から作戦の
「ご無事のお戻り、誠に嬉しく存じます。」娘の桜より幼い妻、篠が凱旋帰国した頼朝を出迎える。「義経、櫛橋殿から初陣にも関わらず篠も良く働いたと聞いておる。さすがは秀長の娘、わしの妻じゃと申しておった。」「義経様の軍略、櫛橋様の采配を目の当たりにし、己の未熟さを痛感いたしました。義経様をお助けするどころか、義経様はわが隊をかばいながらのご采配。櫛橋様も私の願いをお聞き届けいただき寄せ集めの兵を束ねられ、随分とご苦労をおかけしてしまいました。私の短慮から多くの兵を失ってしまいました。。。