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「ご無事のお戻り、誠に嬉しく存じます。」娘の桜より幼い妻、篠が凱旋帰国した頼朝を出迎える。「義経、櫛橋殿から初陣にも関わらず篠も良く働いたと聞いておる。さすがは秀長の娘、わしの妻じゃと申しておった。」「義経様の軍略、櫛橋様の采配を目の当たりにし、己の未熟さを痛感いたしました。義経様をお助けするどころか、義経様はわが隊をかばいながらのご采配。櫛橋様も私の願いをお聞き届けいただき寄せ集めの兵を束ねられ、随分とご苦労をおかけしてしまいました。私の短慮から多くの兵を失ってしまいました。。。
「兄上がお戻りになられたか!」南信濃遠征軍が犬山城に差し掛かったとの連絡が、小牧山で織田軍の波状攻撃をしのいでいた義経隊にも届いた。天才的な軍略をもって整然と戦う義経隊は兵の損耗を最小限に戦えていたが、櫛橋光隊は出陣時の半分程度の兵となり壊走寸前、太田道灌隊も織田軍の絶え間ない突撃を騎馬隊で押し戻していたため相当消耗していた。「間もなく兄上から指示がある。もう少しの辛抱だ!」どれくらい小牧山で戦っているたか分からない。それだけ激戦が続いていた。それでも頼朝軍本軍が帰投した事が伝わり
一般向けの歴史書ですと、今川義元は海道一の弓取りといわれていて、衰えた室町幕府に代わって天下を収めようとして上洛の兵を進めたが、桶狭間であえなく討ち取られた看板倒れの情けない大将と書かれています。織田信長を世に出すために登場してくるだけの人になっています。どうして海道一の弓取りになれたのか、詳しく説明していないので、多くの人たちには世襲で豊かな土地を手にしただけの人と思われがちですが、政治家としての器は大きく有能な人でした。今川義元は今川氏親の3男に生まれます。家督は氏親の長男
射)孝蔵主:奥の射手呪)実窓夫人:花冠の指揮者覇)足利氏姫:降誕祭の威武武)真田阿梅:前掛の麗姿薬)黒田如水:金衣の名賢射)高橋紹運:千金の噴流戦)北条早雲:爆竹二十一連戦)小早川秀秋:聖夜の提灯覇)阿古姫:柊葉の聖歌薬)甲斐姫:北極無双の麗©コーエーテクモゲームス
とにかく、読むのに時間がかかった。たかが、コミックス一冊を読むのに、凄い時間がたっていた。何度か中断して、どこまで読んだかを、右手に感じられる本のページの厚さで確認した。何とも量の少なさに驚いた。作品の中で起こっていることを確認してみる。九代将軍足利義尚(あしかがよしひさ)が死ぬ。次に、八代将軍足利義政(あしかがよしまさ)が死ぬ。義政の庶兄足利政知(あしかがまさとも)の子である香厳院清晃(きょうごんいんせいこう)と義政の弟足利義視(あしかがよしみ)の子で
[新九郎、奔る!18巻]2024/12/12小学館試し読み&購入戦国大名、北条早雲の物語。時は室町時代、動乱の時代の少し前から物語は始まる。主人公の伊勢新九郎盛時(別名:伊勢宗瑞)が戦乱の世の始まりを切り拓き、戦国大名となり、後北条氏の祖(初代)へと至るお話。文正の政変、応仁の乱、細川勝元、足利義政、太田道灌、細川政元、享徳の乱……時代の変革とその中心人物から学び、成長していく真面目な男の一代記。北条氏(後北条氏)を名乗るのは、新九郎盛時の後を継いだ氏綱から※歴史考証協力:
飯田城下で頼朝軍が再出陣の準備を急いでいた。織田軍本隊の軍事行動に不安を持ちながら東美濃の織田軍を掃討しつつ美濃に帰投する、頼朝軍は賭けに出る。急ぎ美濃に戻りたいところであったが、今後弱体化した武田軍に援軍を送るためには、南信濃まで街道がつながらなくてはならない。どちらにせよ、帰路には織田軍の苗木城、岩村城、鳥峰城が立ちはだかる。迎撃に出た東美濃の織田軍を散々に撃退したので、残る兵も少なく包囲すれば降伏勧告に応じるはず、祈りと決意の進軍であった。出陣前に軍議にて秀長から作戦の
https://news.yahoo.co.jp/articles/f84bc5c93256f8b9be0c8e1c0113e85d4f2a6c6a大河で1年間ネタが持つのかな?江戸時代の時代劇はNHKでも他の作品でやっているし。なんか、どんどんマイナーな方に向かっていっている感じ。個人的には、王道の戦国時代とかが好きなんだが…。もしやるなら、北条早雲と毛利元就を半年ごとでやってもらいたい。西の毛利、東の早雲ってタイトルとかどう?wこの二人は、早く生まれすぎて天下取りに手が届かなか
12月14日、土曜日、朝から寒かったです❗️西国街道の続きで矢掛から備後赤坂までの予定で矢掛町の観光駐車場からスタートです❗️7時25分でした。通りは人がいません。店もまだ開いていません。絵になるところで、ぼっこう堂さんの前を通った時、あっ✨❗️お店の中で作業している人が、立ち止まり中を覗いてみると、煎餅を焼いていました。朝早くから❓️❗️中から女性が扉を開けたので聞いたらどうぞ❗️との事で、見たらいろんなお菓子が有りました。お土産にたまご煎餅を買いました❗️味はわからない
いつものメンバーチーム城ケ崎4人とすずちゃん好天に恵まれ最高のお出かけ日和となりました笑ってしまいますがすず母は45年ぶりの小田原城です勿論、すずは初めてこの写真を撮ってくれたのは茨城県常総市から来ていた小学6年生君なんですよ残念ながら校長先生の許可が下りず6年生君たちの写真は✖6年生君、ありがとーすずも興味津々の顔つきをしていますあらあら~今度は
事前の作戦、準備が功を奏し、信長軍を撃退する事ができた。すぐには織田も次なる軍事行動を起こせないだろう。トモミクの尽力で集まってきてくれている家臣は、一癖も二癖もある御仁が多い。それぞれが非凡な面々で、命を惜しまない勇敢さ、強い結束力、それぞれの臨機応変の判断力を持ち合わせている。しかし鎌倉以前や以降の歴史上の偉人と呼ばれていた人物やこの時代に生きる有能な者たちで、良き家臣に恵まれる事がこれほどに軍団の力を大きくできるのか、とあらためて痛感する。トモミクや猫、里見伏、出雲阿国、赤井輝子
斥候から火急の連絡が入る。「徳川家康の軍団が、大草城を目指して進軍しております!」昨年の織田との戦闘の際にはなりを潜めていた徳川軍団であったが、ここで牙を向いてきた。大草城には家康軍団の攻撃を守り切れる兵団がいないので、部隊を急遽派遣しなくてはならない。「義経、まず我らで急ぎ大草城に急行する!秀長、他の城にも出陣の準備を急ぐように伝えよ!」徳川軍は猛然と進軍をしており、まだ那加城の義経隊、頼朝隊の出撃準備が整う前に、徳川軍の渡辺隊は大草城に迫り、水野、酒井隊は織田の尾張清州城経由で進
小牧山の合戦でかろうじて織田を撃退したものの、次回攻撃を受けたら同じ戦略は通用しないだろう。先方もさらに戦力を増強していずれ攻撃をしかけて来る事も予測される。評定で秀長が国力の増強と外交の必要性について提案をする。「今回織田の力をあらためて思い知らされました。しかし、皆々様の必死の働きで何とか大草城の築城が成功し、当分は領内の整備に労力をさけるかと。。。この後さらに激しい長期の戦いが予想されますので、耐えられるだけの国力を整えることが急務となるのは皆様も同様の認識だと思います。ま
静岡県伊豆の国市にある郷土資料館では、企画展「韮山城と北条氏の伊豆支配」が来年1月30日まで開催中です。戦国時代の始まりは、下剋上の幕開け。明応2年(1493)伊勢宗瑞(後の北条早雲)が駿河國興国寺城から、伊豆國の堀越公方を攻め進出する。伊豆國平定した、伊勢宗瑞は韮山城を整備し本拠地とする。永正16年(1519)宗瑞没する。二代目氏綱は北条氏と改姓。相模國小田原に本拠地を移す。韮山城は小田原城の支城として、足柄城、山中城と西側を防御する重要な城となります。しかし、天正18年(15
こんにちは😊。2週間ほど前になりますが、小田原をすこしだけお散歩してきました。小田原と言えば、小田原城。お堀のある正面入り口から入ったことは無かったかもしれません。↑この橋は、二の丸に通じていて、もう一つ先の馬出門土橋が、正門のようです。↑銅門。お城の壁の部分の内部は、こんなふうになっているらしい。とても立派なイヌマキの樹。お城大好きさんには、きっとたまらない石垣。↑常盤木門をぬけると・・・真
新井城を訪れた時の記録三崎城があっさりしていたので、追加で新井城を訪れてみる。新井城は三浦氏の居城、三崎城も三浦氏の居城どっちが本拠地やねん新井城とは神奈川県三浦市に昔あった城相模三浦氏の居城北条早雲の攻撃を受けた三浦氏は徐々に追い詰められていき、最後に新井城で3年にわたる籠城戦を展開最終的に落城し、当主の三浦道寸含め、城内の人たちは全滅した北条早雲が接収した後は、千葉の里見氏に対する備えとして運用された豊臣の小田原征伐後に廃城となる相模三浦氏相模国
さて始まりは、住んでいる小田原の話からです。地図をイメージして。小田原は関東平野の西のはずれの市です。20万人くらいいる自治体です。西は箱根が控え、ふもとの小田原は箱根湯本とともに観光地として行楽客が集まります。もちろん北条早雲から5代続いた戦国大名の居城小田原城(レプリカ)があり、周辺は公園や広場として整備が進んでいます。5月3日には北条5代祭りで、武者行列が町を回る行事が行われます。そもそも、江戸時代までは幕府の軍事的理由から自由な通行を制限するために地形を活用してい
小田原にある小田原北条家二代目:北条氏綱ゆかりの地へ行ってきました~まずは居神神社。主祭神:三浦義意公なんで氏綱ゆかりの地に三浦氏三浦義意公は三浦半島・新井城を本拠に相模国を治めた三浦家最後の武将です。1516年、相模制覇を目論む伊勢宗瑞・北条氏綱親子に滅ぼされ父・三浦道寸とともに自刃しました。攻防については新井城へ行った際の記事をご覧下さい『【神奈川県三浦市】三浦氏最後のお城”新井城”ついでに油壺をちょい散歩』三浦市油壺にあるウオーキングコース。海沿い
三崎城に行ったときの記録三崎口駅三崎城とは神奈川県三浦市にかつてあった城相模三浦氏の居城北条早雲によって奪われてからは北条家に属する秀吉の小田原征伐後に廃城となる相模三浦氏とは横須賀市、逗子市、三浦市、鎌倉市に勢力を持っていた元・相模国守護の武家戦国時代(室町時代中期)では、相模国守護となった扇谷上杉家の重臣として活躍北条早雲と扇谷上杉氏が敵対したため、自動的に北条と戦うことになる北条早雲によって一族が滅ぼされる道中京急の三崎口駅から城ヶ島方向に行く
強羅、早雲山の記事の続きです🎵おばちゃんひよりまくり『箱根③ロープウェイ待てばカイバの日和あり』箱根のこってり回想記事の続きです🎵おばちゃんの旅日記に需要はあるのか??アハハ☺️まぁ車なしの箱根旅行の参考になれば嬉しいです🎶予約するだけで、、右往左往!探…ameblo.jpおばちゃんの旅日記に需要はあるのか??アハハ☺️まぁ車なしの箱根旅行の参考になれば嬉しいです🎶朝早く出発した1日目!アートを!足湯を!麦とろを!!楽しんだら時計はすでに14:00すぎ。箱根観光客の多さに箱
相模玉縄城ミニサイズ#北条早雲#玉縄城#お城#ジオラマ
城コレ相模玉縄城・神奈川県戦国の城#北条早雲#玉縄城#お城#ジオラマ
11月2日、伊豆の国市韮山にある韮山時代劇場大ホールで、城郭ライター萩原さちこさんによる「韮山城祭り歩こう!韮山城のココが魅力」講演会に行きました。この日は、大雨で東海道新幹線が不通になったりしました。屋外のイベントが中止になったり、室内での開催になりました。講演会は、韮山城の魅力など話されたあと質疑応答がありました。ノベルティ北条五代を大河ドラマに!織田信長、豊臣秀吉、徳川家康、武田信玄、上杉謙信、伊達政宗、毛利元就、前田利家、山内一豊、斎藤道三、明智光秀、真田昌幸・信之・信繁な
相模玉縄城(北条早雲の城)を製作するにあたり、参考画像をネットや本で探すと結構微妙に違うのでどれを参考にするか?縄張りは変わらないが建物が年代に応じて違いがあり、作れる範囲の問題やその他色々と考えて作ってみることにしました。
この投稿をInstagramで見るカヒミ(@kahimi_unabow)がシェアした投稿久々のブログ、そして城跡巡りです💦先週の木曜日(10月31日かな?)に、石脇城跡へ行ってきました。近所の城跡はもう行き尽したと思っていたのですが、なかなかどうしてまだあるじゃないですか!私のご近所のお城と言えば、大体今川・徳川・武田辺りの歴史が感じられるものが殆どなのですが、インスタの画像を見て頂くとわかりますが今回の石
--------------------------------------------2024年政治の世界では、噓も方便は通用しない。誤解されたら、まずいと思います。2023年11月7日--------------------------------------------わたしの心構えは、なんでしょう。「傾聴の姿勢」ですね、今は。2022年11月7日--------------------------------------------「意思の疎通にゴミをためるな」
小田原城に行ってきました。東海道・山陽新幹線で広島に行くときに通過する小田原は、東京に近いイメージですが、小田急線で小田原に行った今日は、ものすごく遠く感じました。距離感の違いです。遠い広島が目標のときは小田原は近く感じて、小田原が目標のときは、小田原は遠い。人生もだね。小田原城、とにかくデカいです。軍議に参加中北条早雲からの3代。豊臣秀吉に攻められるまでは、上杉謙信も武田信玄も落とせなかった難攻不落の城。お城を堪能した後、近くの海岸まで歩いて行きました。
11月2日、韮山城祭りが伊豆の国市韮山時代劇場で開催されます。韮山城は、戦国時代の幕開けとなる伊勢宗瑞(北条早雲)が駿河國興国寺城から伊豆國韮山の足利氏を攻め滅ぼし本拠地にします。豊臣秀吉の小田原征伐で、後北条氏が滅亡するまで五代100年間と戦国時代の終焉を見届けた城です。11月2日、城郭ライター萩原さちこさんの講演会があります。11月3日には、韮山城ガイドツアーがあります。韮山城の一角にある、江川邸では竹灯りイベントが開催されます。韮山城祭りのあとは、江川邸竹灯りイベントへ来て下さ
【主な乗り物:高速バス「伊豆長岡・修善寺温泉ライナー」、伊豆箱根鉄道駿豆線】東京から箱根の坂を越えて伊豆までは、かなり億劫な行き来となる覚悟がいる時代があった。首都圏に近い人気の一大観光地でありながら、車を使った場合、伊東や伊豆高原、下田などの東伊豆へは、東名高速道路と小田原厚木道路までは順調でも、小田原市街を通過した先の西湘バイパス石橋ICから先は、崖っぷちを登り下りする国道135号線を延々と南下する以外に道はない。それでも、この経路は箱根山塊の裾を回り込む海岸に沿い、根府川
伊勢盛時という室町幕府高級官僚が伊豆で挙兵し、伊豆、相模と平定し「伊勢早雲庵宗瑞」として1519年に死去します。後を継いだのは嫡男の「伊勢氏綱」です。「勝って兜の緒を締めよ」の格言を遺した名将です。父早雲の後を受けて関東での戦いを続けますが、足利、上杉など伝統的名門が多い関東において、関東に根付かない2代目の伊勢氏では家格不足となりました。そこで氏綱は2つの手を打ちます。正室の実家が鎌倉幕府執権北条氏の末裔である横井氏であり、そ