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たけのこご飯菜飯人参のラペホタルイカのバター醤油炒めブロッコリー
このほど全国藩校サミット金沢大会が開かれ、全国から徳川宗家18代当主や加賀藩18代当主など、旧藩主30人を含む48藩の関係者が集まった。地域に根付く藩校教育の伝統や精神を若い世代に伝える重要性を確認したという。金沢の前田家当主は、東京石川県人会や県関係の催し物に折に触れて参加している。それと同様に、全国各地の昔の殿様が現在も何らかの形で活躍していることが想像される。明治維新の際、藩主は東京に出てしまい地元との関係を断った時期もあったかと思うが、一概にはそうでもなかったのだろう。金沢で
加賀百万石を治めた前田家の居城・金沢城。この金沢城には、明治時代から陸軍第九師団が駐屯していた。これに代わって終戦から四年後の昭和二十四年(1949)に金沢城に入ったのが国立金沢大学である。金沢大学は、金沢東部の角間町へのキャンパス移転が完了する平成六年(1994)までの四十五年間、全国でただ一つの「お城の大学」であった。世界を見渡しても、この金沢大学とドイツのハイデルベルク大学の二つしかなかったと言われている。現在、金沢城はすでに「金沢城公園」としての整備が進められ、大学であった頃の面影
月1回ほどブログに『三州奇談』の現代語訳を投稿しています。そのほか、ときどき『三州奇談』について書いています。これから3回にわたって、その『三州奇談』とはどのようなものであるのか、どのように読んでいるのかということを書いてみたいと思います。『三州奇談』をより多くの人に読んでもらため、この入門編は3度目になります。意外に思われるかもしれませんが、私ははじめは奇談集『三州奇談』を、文学の奇談としてではなく歴史学の研究対象として読んでいました。読み始めて5年、これにつ
我が家からさほど遠くない比咩神社には思い立って、ちょくちょく来ています。参道の中腹にある小さな滝心地良いせせらぎの音が心を癒してくれます💖汗ばむ陽気ですが、新緑に囲まれて清々しい気持ちになります。表参道に何枚か「クマ注意!」の貼り紙夏や秋になるとこの参道に熊が出たとニュースになります。急に暑くなってきたから、熊に注意です٩(๑º﹏º๑)۶怖ぃ~参道脇にある俵屋さんでランチ厚揚げがホントに美味しくて、厚揚げ定食と迷いましたが、今日は豪勢な日替わり定食に
石川県漫遊2日目。金沢を去る前に、金沢城の南西に残る武家町を巡りました。<旅の行程>1日目:金沢2日目:金沢→羽咋→大聖寺3日目:大聖寺→加賀橋立かつての武家町に今も残る武家屋敷へ。前田家の忠臣だった野村伝兵衛信貞の屋敷跡です。◆武家屋敷跡野村家◆野村家は代々、各奉行職を歴任した家柄。藩政が終焉を迎えた明治時代以降、幾度か屋敷の主も変わりましたが、加賀大聖寺藩の豪商・久保家の上段の間と謁見の間を移築して、一般公開に至りました。*見学料¥55
イミズスタン・アンバサダーカレー探偵、やみちゃんです。或る日のcurryYASHIcurryYASHI(石川県かほく市)カレー探偵事務所から1時間以上かかる、石川県かほく市に新しいスリランカ料理店が出来たと知り、さっそく調査してきました!アユボワン!お店は「hasuTEA」というカフェ兼ワッフル屋さんの2階部分。経営は同じですが、2階部分がスリランカ料理のレストランになっており、クルネーガラ出身のシェフが2
今も往時の町割りと風景を残す金沢。金沢城の北に商家町が広がり、浅野川の両岸に茶屋街と砦の役割もある寺町を配置し、東には武家町、屑川を挟んで茶屋街と寺町が残っています。北の尾張町に続き、東の尾山町から金沢城の正門だった大手町界隈を巡ります。大友楼加賀藩のお抱え料理人を勤めてきた家柄で、天保元年(1830)に料理屋を始めた、金沢を代表する料亭。板塀を突き抜ける梅が見事。最初からなのか、成長して突き抜けたのか…加賀藩の伝統料理を今に伝えて、現在8代目。
8番らーめんの店頭で「野菜トマトらーめん」の旗を発見「野菜トマト」は確かに秋に登場するはずなのにえ?どういうこと??という訳で、旗に誘われて8番に行ってきました!(^^)!「野菜トマトらーめん」と「野菜バジルトマトらーめん」が💖🍅バジル好きな私は迷わず後者を選択爽やかなバジルの香りがトマトスープに合って美味しかったです🍅🍅🍅個人的にはスープにもう少しコクがあってもいいなぁ次はどんならーめんが登場するか楽しみにしています^^『8番らーめんバンザーイ』
・・・・・・・っということで、北前船が何を運んでいたかということに移ります。こういうときにインターネットは便利ですよね。(^^♪【下り荷(北国方面)】蝦夷地の人々への日常生活品(酒類・飲食品類・衣服用品・煙草)、瀬戸内海各地の塩(漁獲物処理に不可欠)、紙、砂糖、米、わら製品(縄・ムシロ)・蝋燭(原産地は瀬戸内)米・酒など【上り荷(畿内方面)】鰊粕(商品作物栽培のための肥料)、数の子、身欠きニシン、干しナマコ、昆布、干鰯など。特に昆布は大坂から薩摩を経て、沖縄経由で中国にまで
昨日は、柳美里の小説「JR上野駅公園口」(河出文庫)をめぐって少し綴った。その中で読んでいてひっかかった「加賀越中」という言葉について触れた。富山も加賀藩だったのか?❗って、驚いたと記した。(私は、中学校で国語のほかに社会も幾度か教えたことがあるというのに無知である。笑&恥)それにしても加賀藩である。加賀百万石といわれる。加賀藩が大きい藩だとはもちろん知っていたが、まさか富山まで入っていたとは知らなかった。(笑)それで、ウィキペディアなどでいろいろあ
加賀百万石の城下町・金沢。この金沢の市街地にある金沢城は、加賀藩を治めた前田家の居城として知られ、兼六園と並んで主要な観光地となっている。この金沢城にはかつて「薪の丸」と呼ばれる場所があった。現在その跡地は森のようになっていてその面影を見ることはできないが、石垣を見ながら散策できるスポットとなっている。金沢城いもり坂から薪の丸に続く道薪の丸に行くルートは三つある。一つめは玉泉院丸庭園の横にあるいもり坂から緑豊かな細道を通って行くルートだ。金沢城本丸付段から薪の丸に続く道二つめは三
今日はちょっと寄り道をして、石川県能登町にある、遠島山公園に行ってきました))公園内の能登町立美術館(羽根万象美術館)へ))小企画展示『あれから170年前田のお殿様がやってきた』を見学しました時は幕末…異国の船が日本海沿岸に来るようになり、幕府は沿岸諸藩に沿岸の警備強化令を通達。1853年に加賀藩主の前田斉泰が能登の海防施設に視察に来ることとなり、その際に準備されたスケジュールや実際の行程などがパネルで展示されています。当時の地図と現代の写真も載っており、想像が膨ら
金沢城は、かつて加賀百万石を治めた前田家の居城である。前田家の加賀藩は、徳川家を除けば圧倒的な石高を誇る大藩であった。ところが、その大藩の言わば本拠地というべき金沢城は天守閣がない一見地味なお城である。金沢城の天守閣は、初代・前田利家が建てたものが落雷によって焼失して以降、江戸時代を通して再建されることはなかった。しかしこの金沢城、天守閣はなくとも他の城にはない特徴を持っている。なんと、建物全体の屋根瓦が鉛で出来ているのだ。すなわち鉛瓦である。金沢城石川門。天明八年(1788)に再建さ
花嫁のれんのお写真〜加賀藩の庶民の習わしで、お嫁に行く時に持っていくものらしい。とても綺麗で、ずーっと見ていたい!実は、欲しいと思っている。値段は分からないが、高価格だろうな。いつの日か💕で、着物は見て良し、着てよし、触って良し。着物の色や紋様はとても美しい。手に取ると、シルクの滑らかな肌触り。着付けは、手順通りに淡々と着付けていくのでまるで運動!私は着付けは大きな折り紙だと思っている。鏡に映る自分の姿を見ながらの体操だ。なので、心にも身体にも、とても良いと思う!多
大脇家の家紋尾張藩士・大脇家加賀藩士・大脇家奥殿藩士・大脇家土佐藩士・大脇家美濃・加茂郡・大脇家