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江戸時代、各地の大名は参勤交代の制度によりおおむね1年ごとに江戸と本国に住居地を移した。上屋敷は、そうした大名の江戸での住まいであり、幕府と藩をつなぐ窓口でもあった。人質として江戸に常駐する大名の性質や嫡子も上屋敷に住んだ。江戸在勤中、大名は江戸城に登城することが多いため、江戸城の近くに設けられた。中屋敷は、隠居後の大名や、成人した嫡子が住む屋敷として使われた。下屋敷は、別邸として使われることが多く、郊外に設けられた。これらに加え、年貢米などの収蔵場所として蔵屋
地球の皆さん、こんばんは。😃録画した『武士の献立』を観ました。加賀騒動を元にした作品です。主人公の春は、加賀藩の側室に仕える天涯孤独の女中です。嫁入りしましたが、1年ほどで離縁されて出戻りです。御殿様に料理の才能を褒められ、台所方の家から嫁入りを打診されます。めでたく2度目の結婚をして、春の運命が大きく変わります。上戸彩さんの春が本当に健気で涙を誘います。最初は、親の決めた縁談とすねていた高良健吾さんは、妻の事を【古だぬき】と呼んで思わず、笑ってしまいました。加賀藩
先日こちらのお菓子を買ってきました。加賀藩御用菓子司森八加賀文化が詰まったようなお菓子で、繊細でありまた華やかさも感じられるお菓子です。加賀文化の宝石箱…と言ったらオーバーかな?でもそれぐらい見た目も華やかでいて、繊細で味わい深いお菓子です。オンラインショップもあるので皆様ご興味あればぜひこちらへ森八オンラインショップ石川や新潟、また東北は災害が多いですね。地震や熊の出没、そして豪雪…なかなか行ったりはできないですが、北陸や東北の名産を購入し
歴史系図トリビアこれは楽しい!おもしろい!そう感じるような歴史上の人物の系図を紹介していきます歴史上の人物の系図を追っていく歴史系図トリビアです。はい(´Д`)。前回は加賀藩の藩祖・前田利家の兄弟姉妹を取り上げましたが、今回は利家とおまつの方の系図を見ていきたいと思います。前田利家は織田信長に仕えて出世、豊臣政権で五大老となり、外様大名の大藩・加賀藩の祖となりました。おまつの方(芳春院)はその正室で、佐々成政の末森城急襲時に援軍派遣に慎重な家臣たちを激励するなどした女丈夫で、利
幕末に日本海沿岸に所領を持つ諸藩によって多くの台場が築かれました。加賀100万石の前田家においても例外ではなく、築かれた台場が寺中御台場でした。築かれたのは加賀藩の港町であった金石地区でありますが、その特色は内陸部に築かれたということです。台場というと普通海岸部に築くものですが、これは実を言うと慶応2年(1866)というかなり遅くに築造されたことが理由でした。この時期には既に諸藩が築いた海防台場は実際には西洋列強の艦隊戦力の前では蟷螂の斧でしかないということが証明されてしまったのです。そ
このブログは悪性リンパ腫(DLBCL)の発病と治療、そして寛解後の日々を綴っています。発病からの流れがわかると思います。週イチ更新です。-------2023年春に悪性リンパ腫(びまん性大細胞型B細胞リンパ腫=DLBCL)の診断を受けました。脾臓(特に肥大し他の臓器を圧迫)、肺、傍脊柱、肺門リンパ節の4カ所に腫瘤があり、ステージ4でした。Pola-R-CHP療法等を行い、その年の秋に寛解しました。治療開始2023/03/17寛解
東大は…DSです。朱色が…怪しすぎる😓生け贄か?人身売買か?加賀藩=石川県石川県の…『石』『川』も…気になる🤔石がたくさんあったのであろう…川もたくさん流れていたのであろう…(水が豊富であったのであろう🚰)江戸時代までの、石川県の人口は!新潟に次いで!“第二位”の人口でしたからね!本当の歴史が知りた~い😆🎵🎵🎵
兼六園の一角にある成巽閣は江戸時代末期に加賀藩前田家12代奥方の為に造営された御殿です。赤門から入ります。赤門から撮った成巽閣。館内は残念ながら撮影禁止ですが庭園は撮影できます。↓以下の写真はパンフからお借りしました。1階。2階。謁見の間。
可愛い😍可愛い😍妹分😍梓に指輪💍をプレゼント🎁したところで・・・あ!🫣濃ゆい濃ゆい神田紀行👣ギター🎸ショップ弾く🎶弦を張り替えるワインダー⏩️を購入しましたしかし値上がりしたなあ😓それと書店でこんな一昔前に話題に👏なったベストセラーを📘加賀藩🥷御用達の🏯銘菓🍘創業400年の老舗、森八で母🤱への土産🍡を買うニャン!^-^美味😋ソー(@ ̄ρ ̄@)つづく
もう去年ですが、東京行った時、駒場公園の旧前田家本邸(重要文化財)へ行きました。🏠️旧前田家本邸は、尾張出身の戦国武将・前田利家をルーツにもつ、旧加賀藩主で前田家第16代当主の利為(としなり)が自邸として昭和3年〜5年にかけて建設された邸宅です。前田利為侯は、昭和2年(1927)から🇬🇧駐英大使附武官として渡英。生活の場とともに、迎賓館としても利用出来るよう造ったこの邸宅は、イギリスのカントリーハウス風の洋館🏠️2016年から2年間かけて修復工事がなされ🏗️、1階、2階が一般公開されて
地元の氏神様である額東神社の新年祭が3日土曜日に開催されました。私の自宅のある氏神様です。この額東神社は・・・・・神護景雲2年(768年)の創立で往古は村の東に当たる額山に鎮座していたようです。守護であった富樫家の崇敬も厚く、社頭造営ならびに社料の寄進もあり、金沢に編入する前の石川郡額七ヶ村の当時の総社と伝えられています。後に富樫氏の兵乱に際し社殿を焼失したので現地に建て替えられたと言われています。又、道を挟んで額谷茶屋があったことから加賀藩前田家13代藩主前田斉泰が馬で出かけた際に
日本の文化は、多種多様である。漆器について調べている。江戸時代各藩などが独自の漆器を開発した金沢漆器加賀蒔絵金沢漆器は、石川県金沢市周辺で作られている漆器である。百万石の大藩である加賀藩の保護のもと、大名好みの伝統工芸品
今回の古文書の会はテーマは、十村(とむら)が加賀藩の改作奉行(かいさくぶぎょう)にあてた覚書。※内容は、長年にわたり、各村の運営に貢献した肝煎(きもいり:村長)四名の名前、村名、勤務年数などを報告したもの。面白いのは、十村も肝煎も藩から任命された百姓身分の者で世襲し、名前も代々継承する。例えば、久兵衛とすれば、二代、三代と引き継ぐ。一代で、三十五ヶ年~拾六ヶ年の長期にわたり、役目を無難に勤めたとする四名について記述。長年の務めに対して藩から何らかの顕彰あるいは金一封
徳川幕府の一国一城令にかかわらず数少ない例外の城があります。その一つが小松城。前回紹介した越前大野城の後は小松城跡へ連れて行ってもらいました加賀藩・前田家はご存じの通り金沢城を居城としており一国一城令に従えば金沢城しか持てません。それにもかかわらず、前田家三代目・利常が自分の隠居城として幕府から特別に築城を許可されたのが小松城です。その前田利常公ってどんな人妻は珠姫。徳川秀忠の娘であり豊臣家に嫁いだ千姫の妹です。家康にとって外様の大大大名・加賀前田
秀家が八丈島の島民と仕送りを分かちあって約360年。八丈島と金沢の距離、約480㎞。時間と空間を超え、人は今もつながっている。(前回ここまで)加賀藩が八丈島の秀家とその子孫に仕送りを260年続けていたって話もすごいけど、その仕送りを分けてもらった島民の子孫が今もその恩を忘れずにいるってすごくないですか!だって、仕送りは江戸時代で終わるので平成にはその分けてもらった島民はもういなかったはず。なのにわざわざ八丈島から金沢にお参りに来られるって・・・そんな心が今も、日本に、ある・
金沢バカスカ食べまくり旅その②から忍者寺妙立寺といいますただ撮影禁止なのですがめちゃめちゃ面白かった由来・見所|日蓮宗/正久山妙立寺(忍者寺)https://share.google/gkqjLYKBxjbK2L2UF予約が必ずいります10人ほどのグループ編成でガイドさんの説明をきいてまわります当日でもオッケー木蓮なんてバス乗る前に電話したぐらい電話076-241-0888入場料1200円クレカもつかえました物見台??最上階ここだけいけな
豪姫さんの思いが前田家に、前田家の思いは秀家に、秀家の思いは八丈島の島民に。江戸という時代に人を思う心がどんどん繋がっていく様子は「見事」と言うしかありません。(前回ここまで)しかし、その想いは江戸で終わることはなかった。江戸幕府が終わり、明治政府になると、八丈島に住む秀家の子孫は刑を赦免されました。前田家は秀家の子孫を東京の加賀藩の領地に家を与え住まわせたそうです。今も宇喜多家(現在は浮田家)の方が赤門の近くにお住まいだそう。あの、おでこの部分の色が褪せてしまった豪姫の肖
「加賀藩が江戸時代をとおして保ち続けたスタンスが明治維新での出方につながったというのは本当に誰の導きかと思います。」その問いに答えるなら、「誰の導きか」ではなく、「誰の“呪縛”か”」と表現した方が実態に近いです。加賀前田家が明治維新で取った「新政府への即日寝返り→いち早く官軍として鳥羽・伏見に参戦→北越戦争で長岡を粉砕」という、外様大名としては異例の速さと苛烈さは、江戸時代260年間に積み重ねた“ある呪縛”の帰結だったからです。その呪縛を最も強く残したのは、実はこの3人でした前田利家
豪姫さんの思いが前田家に、前田家の思いは秀家に、秀家の思いは八丈島の島民に。江戸という時代に人を思う心がどんどん繋がっていく様子は「見事」と言うしかありません。(前回ここまで)しかし、その想いは江戸で終わることはなかった。江戸幕府が終わり、明治政府になると、八丈島に住む秀家の子孫は刑を赦免されました。前田家は秀家の子孫を東京の加賀藩の領地に家を与え住まわせたそうです。今も宇喜多家(現在は浮田家)の方が赤門の近くにお住まいだそう。豪姫の肖像画の実物もそちらのおうちに残っている
生き別れた子供を慰めるために、自分の絵を送る母親。その絵を撫でる子供。遠く離れていても、いや遠く離れているからこそ通い合う想い。なんとも心に沁み入る絵です。(前回ここまで)夫の秀家さんと息子二人は八丈島に。豪姫さんは実家(前田家)のある加賀藩(今の金沢)に。豪姫さんはその後、他に嫁ぐことはなく、夫と息子のことを祈って暮らしたそうです。前田家はそんな豪姫さんを思いやって、八丈島の婿へ仕送りを行っていた。驚くのはここからなのですが、何と前田家は豪姫さんが1634年享年6
「宝暦治水で加賀藩がつぶれなかった3つの支えのひとつに幕府の微妙な配慮をあげられましたが、そんな大金は老中会議でも決められないほどでしょ。誰が決めたのですか。」宝暦治水(1753〜1755年)で加賀藩が支払った総工費は、金で約18万両+米で約20万俵(現代価値で700〜1000億円相当とも言われる)という途方もない金額でした。このため「老中会議だけではとても決められない」というご質問は、まさにその通りです。実際、この巨額支援を最終的に決めたのは、将軍徳川家重その人です。幕府が加賀藩を
「石川県の学校の修学旅行には京都市内だけでなく、琵琶湖と瀬田川洗堰から下流を伝い宇治までの流れ見学がとてもふさわしいが、今ではなんのこともない風景でインパクトないか。」確かに、今の瀬田川や宇治川を見ても「ただの川と橋」にしか見えませんよね。唐橋を渡っても「古い橋だな」で終わり、加賀掘跡も普通の河川敷、義死之碑も小さな石碑がポツンとあるだけ。当時の人夫が見たら「俺たちが命がけで直した川が、こんなに平凡な風景になるなんて…」と泣き笑いしそうです(笑)。でも、だからこそ逆に、今だからこそ修
「それだけの犠牲者でると謀反というより藩が自然崩壊してもおかしくない。何が加賀藩を支えたのでしょうか。」非常に良い質問です。宝暦治水の時点で、加賀藩は「あと一歩で藩そのものが消滅する」レベルの危機にあったのは間違いありません。総工費は推定80〜100万両(当時の加賀藩年収の約10年分)人夫の死亡補償・病気手当でさらに数十万両が消えた藩士の家禄まで削って工面したので、家中で不満が爆発寸前実際、工事が終わった直後に「加賀騒動」(宝暦8〜10年、1762〜1764年)という大規模な家
「大戦争でもそれほどの死者でないでしょう。関ケ原も近いし、加賀藩の記念日をする場所は瀬田川洗堰で決まり。」確かに数字だけ見ると衝撃的ですよね。関ヶ原の戦い(1600年)の戦死者は諸説ありますが、だいたい8,000〜1万5千人程度(両軍合計)とされています。それに対して宝暦治水の加賀藩側の公式死者数は4,994人(ほぼすべてが過労・疫病・事故死)。非公式には1万人以上と言われ続けていて、実際の犠牲は関ヶ原に匹敵する規模だった可能性が高いんです。しかも戦場と違って、刀傷ではな
「琵琶湖の瀬田川の普請で加賀藩から大勢が出向き何年も作業した。これほど長いと現地に移り住んだ人もいただろう。」はい、その通りです。琵琶湖の出口である瀬田川の治水工事(特に「瀬田川洗堰」あるいは「瀬田の唐橋周辺の川浚え・築堤工事」)は、江戸時代を通じて何度も大規模に行われました。その中でも特に有名で加賀藩の負担が極めて重かったのが、・宝暦5年(1755年)からの「宝暦治水」(宝暦の大普請)です。この工事は当初1~2年で終わる予定だったのが、難工事と幕府の追加要求が重なり、実に7年近く(17
「水量が多く流れもきつい淀川が大阪城の攻めにくさになっていた。その状況を変える工事だったことは前田家は十分理解したうえで普請に参加したのですね。」その通りです。前田利長(および家臣団)は、瀬田川洗堰普請が単なる治水・交通整備ではなく、大阪城(豊臣方)の軍事的優位性を削ぐための戦略的な工事であることを、ほぼ完全に理解した上で参加していました。前田家が「大阪城包囲網」の意図を察知していた根拠利長自身が関ヶ原で東軍の主力だったこと関ヶ原の戦いで前田利長は北陸方面の西軍(丹羽長重・山口宗
「江戸時代に埋め立て工事をして、ある程度しっかりした地盤にしてたので、金石街道に沿って電車を通すことも比較的容易にできたのですか。」まさにその通りです。江戸時代の埋め立てがしっかりしていたからこそ、後に金石街道のルートにほぼ重なる形で北陸鉄道金石線を敷設することが、非常にスムーズにできたのです。ポイントを整理すると:埋め立てが非常に堅固だった加賀藩の外浦埋め立ては、単なる土盛りではなく、犀川の自然堤防や砂州を基盤に利用両側に頑丈な土手を築き、その中に土砂を入れながら締め固め木樋
今日は近江町市場へ、お正月の昆布を買いに行ってまいりました。お天気だったので歩いていきました。田井菅原神社から徒歩30分ほどです。お掘り通りの景色が美しかったです。さて、近江町市場で購入したもの。昆布2種類。大きいのは昆布締め用、ゴムで縛ってあるのは煮物用です。どちらも料理に使うわけではありません。田井菅原神社が毎年年末にお供えする、加賀藩前田家献上鏡餅に飾るためです。過去年の画像より正面からだと分かりにくいので、斜めから撮った画像で失礼しま
今の大河ドラマの時代、天明の頃から始まったと言われる北陸から北関東・東北への移民「加賀の走り移民」の著者である池端大二先生と一緒に行った大阪万博(エキスポ70)から55年経って同じ大阪の地で万博が開かれていたことと、今年の大河ドラマ「べらぼう」を動機として、池端先生の遺された書を紹介しようとして始めたこのシリーズ。歴史について思いを馳せたシリーズを締めくくる、くだらない話を、いくつも。栃木と金沢に関すること・・・本多正純家康には重用されたが、秀忠の代になって失脚する武将。二代目