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今回の古文書の会はテーマは、十村(とむら)が加賀藩の改作奉行(かいさくぶぎょう)にあてた覚書。※内容は、長年にわたり、各村の運営に貢献した肝煎(きもいり:村長)四名の名前、村名、勤務年数などを報告したもの。面白いのは、十村も肝煎も藩から任命された百姓身分の者で世襲し、名前も代々継承する。例えば、久兵衛とすれば、二代、三代と引き継ぐ。一代で、三十五ヶ年~拾六ヶ年の長期にわたり、役目を無難に勤めたとする四名について記述。長年の務めに対して藩から何らかの顕彰あるいは金一封
徳川幕府の一国一城令にかかわらず数少ない例外の城があります。その一つが小松城。前回紹介した越前大野城の後は小松城跡へ連れて行ってもらいました加賀藩・前田家はご存じの通り金沢城を居城としており一国一城令に従えば金沢城しか持てません。それにもかかわらず、前田家三代目・利常が自分の隠居城として幕府から特別に築城を許可されたのが小松城です。その前田利常公ってどんな人妻は珠姫。徳川秀忠の娘であり豊臣家に嫁いだ千姫の妹です。家康にとって外様の大大大名・加賀前田
秀家が八丈島の島民と仕送りを分かちあって約360年。八丈島と金沢の距離、約480㎞。時間と空間を超え、人は今もつながっている。(前回ここまで)加賀藩が八丈島の秀家とその子孫に仕送りを260年続けていたって話もすごいけど、その仕送りを分けてもらった島民の子孫が今もその恩を忘れずにいるってすごくないですか!だって、仕送りは江戸時代で終わるので平成にはその分けてもらった島民はもういなかったはず。なのにわざわざ八丈島から金沢にお参りに来られるって・・・そんな心が今も、日本に、ある・
金沢バカスカ食べまくり旅その②から忍者寺妙立寺といいますただ撮影禁止なのですがめちゃめちゃ面白かった由来・見所|日蓮宗/正久山妙立寺(忍者寺)https://share.google/gkqjLYKBxjbK2L2UF予約が必ずいります10人ほどのグループ編成でガイドさんの説明をきいてまわります当日でもオッケー木蓮なんてバス乗る前に電話したぐらい電話076-241-0888入場料1200円クレカもつかえました物見台??最上階ここだけいけな
豪姫さんの思いが前田家に、前田家の思いは秀家に、秀家の思いは八丈島の島民に。江戸という時代に人を思う心がどんどん繋がっていく様子は「見事」と言うしかありません。(前回ここまで)しかし、その想いは江戸で終わることはなかった。江戸幕府が終わり、明治政府になると、八丈島に住む秀家の子孫は刑を赦免されました。前田家は秀家の子孫を東京の加賀藩の領地に家を与え住まわせたそうです。今も宇喜多家(現在は浮田家)の方が赤門の近くにお住まいだそう。あの、おでこの部分の色が褪せてしまった豪姫の肖
「加賀藩が江戸時代をとおして保ち続けたスタンスが明治維新での出方につながったというのは本当に誰の導きかと思います。」その問いに答えるなら、「誰の導きか」ではなく、「誰の“呪縛”か”」と表現した方が実態に近いです。加賀前田家が明治維新で取った「新政府への即日寝返り→いち早く官軍として鳥羽・伏見に参戦→北越戦争で長岡を粉砕」という、外様大名としては異例の速さと苛烈さは、江戸時代260年間に積み重ねた“ある呪縛”の帰結だったからです。その呪縛を最も強く残したのは、実はこの3人でした前田利家
豪姫さんの思いが前田家に、前田家の思いは秀家に、秀家の思いは八丈島の島民に。江戸という時代に人を思う心がどんどん繋がっていく様子は「見事」と言うしかありません。(前回ここまで)しかし、その想いは江戸で終わることはなかった。江戸幕府が終わり、明治政府になると、八丈島に住む秀家の子孫は刑を赦免されました。前田家は秀家の子孫を東京の加賀藩の領地に家を与え住まわせたそうです。今も宇喜多家(現在は浮田家)の方が赤門の近くにお住まいだそう。豪姫の肖像画の実物もそちらのおうちに残っている
生き別れた子供を慰めるために、自分の絵を送る母親。その絵を撫でる子供。遠く離れていても、いや遠く離れているからこそ通い合う想い。なんとも心に沁み入る絵です。(前回ここまで)夫の秀家さんと息子二人は八丈島に。豪姫さんは実家(前田家)のある加賀藩(今の金沢)に。豪姫さんはその後、他に嫁ぐことはなく、夫と息子のことを祈って暮らしたそうです。前田家はそんな豪姫さんを思いやって、八丈島の婿へ仕送りを行っていた。驚くのはここからなのですが、何と前田家は豪姫さんが1634年享年6
「宝暦治水で加賀藩がつぶれなかった3つの支えのひとつに幕府の微妙な配慮をあげられましたが、そんな大金は老中会議でも決められないほどでしょ。誰が決めたのですか。」宝暦治水(1753〜1755年)で加賀藩が支払った総工費は、金で約18万両+米で約20万俵(現代価値で700〜1000億円相当とも言われる)という途方もない金額でした。このため「老中会議だけではとても決められない」というご質問は、まさにその通りです。実際、この巨額支援を最終的に決めたのは、将軍徳川家重その人です。幕府が加賀藩を
「石川県の学校の修学旅行には京都市内だけでなく、琵琶湖と瀬田川洗堰から下流を伝い宇治までの流れ見学がとてもふさわしいが、今ではなんのこともない風景でインパクトないか。」確かに、今の瀬田川や宇治川を見ても「ただの川と橋」にしか見えませんよね。唐橋を渡っても「古い橋だな」で終わり、加賀掘跡も普通の河川敷、義死之碑も小さな石碑がポツンとあるだけ。当時の人夫が見たら「俺たちが命がけで直した川が、こんなに平凡な風景になるなんて…」と泣き笑いしそうです(笑)。でも、だからこそ逆に、今だからこそ修
「それだけの犠牲者でると謀反というより藩が自然崩壊してもおかしくない。何が加賀藩を支えたのでしょうか。」非常に良い質問です。宝暦治水の時点で、加賀藩は「あと一歩で藩そのものが消滅する」レベルの危機にあったのは間違いありません。総工費は推定80〜100万両(当時の加賀藩年収の約10年分)人夫の死亡補償・病気手当でさらに数十万両が消えた藩士の家禄まで削って工面したので、家中で不満が爆発寸前実際、工事が終わった直後に「加賀騒動」(宝暦8〜10年、1762〜1764年)という大規模な家
「大戦争でもそれほどの死者でないでしょう。関ケ原も近いし、加賀藩の記念日をする場所は瀬田川洗堰で決まり。」確かに数字だけ見ると衝撃的ですよね。関ヶ原の戦い(1600年)の戦死者は諸説ありますが、だいたい8,000〜1万5千人程度(両軍合計)とされています。それに対して宝暦治水の加賀藩側の公式死者数は4,994人(ほぼすべてが過労・疫病・事故死)。非公式には1万人以上と言われ続けていて、実際の犠牲は関ヶ原に匹敵する規模だった可能性が高いんです。しかも戦場と違って、刀傷ではな
「琵琶湖の瀬田川の普請で加賀藩から大勢が出向き何年も作業した。これほど長いと現地に移り住んだ人もいただろう。」はい、その通りです。琵琶湖の出口である瀬田川の治水工事(特に「瀬田川洗堰」あるいは「瀬田の唐橋周辺の川浚え・築堤工事」)は、江戸時代を通じて何度も大規模に行われました。その中でも特に有名で加賀藩の負担が極めて重かったのが、・宝暦5年(1755年)からの「宝暦治水」(宝暦の大普請)です。この工事は当初1~2年で終わる予定だったのが、難工事と幕府の追加要求が重なり、実に7年近く(17
「水量が多く流れもきつい淀川が大阪城の攻めにくさになっていた。その状況を変える工事だったことは前田家は十分理解したうえで普請に参加したのですね。」その通りです。前田利長(および家臣団)は、瀬田川洗堰普請が単なる治水・交通整備ではなく、大阪城(豊臣方)の軍事的優位性を削ぐための戦略的な工事であることを、ほぼ完全に理解した上で参加していました。前田家が「大阪城包囲網」の意図を察知していた根拠利長自身が関ヶ原で東軍の主力だったこと関ヶ原の戦いで前田利長は北陸方面の西軍(丹羽長重・山口宗
「江戸時代に埋め立て工事をして、ある程度しっかりした地盤にしてたので、金石街道に沿って電車を通すことも比較的容易にできたのですか。」まさにその通りです。江戸時代の埋め立てがしっかりしていたからこそ、後に金石街道のルートにほぼ重なる形で北陸鉄道金石線を敷設することが、非常にスムーズにできたのです。ポイントを整理すると:埋め立てが非常に堅固だった加賀藩の外浦埋め立ては、単なる土盛りではなく、犀川の自然堤防や砂州を基盤に利用両側に頑丈な土手を築き、その中に土砂を入れながら締め固め木樋
今日は近江町市場へ、お正月の昆布を買いに行ってまいりました。お天気だったので歩いていきました。田井菅原神社から徒歩30分ほどです。お掘り通りの景色が美しかったです。さて、近江町市場で購入したもの。昆布2種類。大きいのは昆布締め用、ゴムで縛ってあるのは煮物用です。どちらも料理に使うわけではありません。田井菅原神社が毎年年末にお供えする、加賀藩前田家献上鏡餅に飾るためです。過去年の画像より正面からだと分かりにくいので、斜めから撮った画像で失礼しま
今の大河ドラマの時代、天明の頃から始まったと言われる北陸から北関東・東北への移民「加賀の走り移民」の著者である池端大二先生と一緒に行った大阪万博(エキスポ70)から55年経って同じ大阪の地で万博が開かれていたことと、今年の大河ドラマ「べらぼう」を動機として、池端先生の遺された書を紹介しようとして始めたこのシリーズ。歴史について思いを馳せたシリーズを締めくくる、くだらない話を、いくつも。栃木と金沢に関すること・・・本多正純家康には重用されたが、秀忠の代になって失脚する武将。二代目
中山道を歩いて行って、、、東京中心部の加賀一万石に達す。って、、、どこ?って、思う方も、多かろうと思います。。。。。。。。そうですね、、、この加賀藩江戸屋敷の「池」は、、、「三四郎池」と名付けられております。緑の中央通路を抜けて、、、まず、「こうどう」に達す。安田講堂ですね。あの戦後の「東大抗争」によって、左翼の共産党が、ゲリラした地ですね~あの地も、今は、静寂な東京大学本郷キャンパスの象徴になっております。イメージ的に、「東京大学」って、「入るのは難しい」、、、と思
5.さて、13時からは徒歩で金沢市内観光に尾上神社スタートです。尾上神社入口?神門?前田利家公は「槍の又左」の異名を持つ槍の名手。身長182cm位あったそうです?加賀藩祖・前田利家公の愛馬「松風」の馬頭を模したもの蓮の葉を模した手水鉢とカエル(戦国時代は無事に<帰る>ことが大切だったのですね?)前田家家紋:梅鉢(奇遇にも、我が家の家紋と同じです(笑)母方が侍の家出身です)見学なので、画像が多くなりました。次回は金沢城跡に兼六園ですね。
こんにちは金沢のアルバム大使&カラーdeサンキャッチャー®認定講師のSallyです。今日の金沢は晴れ☀️お散歩日和今日から4日間、ピグミンブルームは4周年記念パーティウォーク🎈歩きに行こう!!特に土日、頑張りたいな!!金沢散歩いしかわ文化の日のお散歩に戻ります。前田土佐守家資料館老舗記念館の向かいにあります。常設展示前田利家公の次男の家系が前田土佐守家です。常設展示では、前田利家公やおまつの方の展示もあります。2階の企画展は加賀藩の親戚富岡七日市藩最近、金沢
この時期は毎日行く温泉の露天風呂から丁度良い角度で月を眺めることができます。湯煙のなか、雲の隙間から顔を出す月を眺めながら一日の疲れをゆっくり癒してきました(,,>᎑<,,)少し前までは虫の音が鳴り響いてましたがいつのまにか静かになりました。季節はゆっくりと冬に向かっています。スマホを持ってお風呂に入れないから、外で撮影
今の大河ドラマの時代、天明の頃から始まったと言われる北陸から北関東・東北への移民「加賀の走り移民」の著者である池端大二先生と一緒に行った大阪万博(エキスポ70)から55年経って同じ大阪の地で万博が開かれていたことと、今年の大河ドラマ「べらぼう」を動機として、池端先生の遺された書を紹介しようとして始めたこのシリーズ。竹垣直温が越後の元名主・川上平十郎という人物に移民募集を依頼したのは寛政六(1794)年。その同じ年に加賀藩は「『欠落人』が出たら必ず探索せよ」という命令を出している。つま
こんばんは!今日の山形は、朝曇りの時間もありましたがほぼ一日中生憎の雨、それでも近くの里山に登って体力づくり、その後外食と温泉と昼寝。。。遠出を避けた休日になりました今週は、冬の走りのような天気が続き気温の低く、高い山では雪が降りそう全国的に寒いようなので、皆様も体調管理にお気を付けくださいねさて、昨日は前田利家公を祀る尾山神社と近江町市場の極上海鮮丼を更新しましたがその後、利家公が居城した城を訪ねました金沢城🏯凄く高い石垣とお堀がある金沢城
今の大河ドラマの時代、天明の頃から始まったと言われる北陸から北関東・東北への移民「加賀の走り移民」の著者である池端大二先生と一緒に行った大阪万博(エキスポ70)から55年経って同じ大阪の地で万博が開かれていたことと、今年の大河ドラマ「べらぼう」を動機として、池端先生の遺された書を紹介しようとして始めたこのシリーズ。加賀藩関係の話を続けます。私は前田利家の側室の子・前田利常を「三代」藩主と書きましたが、ヒマがあればWikipediaで前田利常を見てください。そこには「第2代藩主」と書い
本日25日土曜日午後2時より、田井菅原神社の崇敬者であり元金沢ボランティアガイドのK氏による講和会が行われました。準備の都合上、定員を20名とし、氏子さんを中心に21名の方にご参加いただきました。「お茶とお菓子をいただきながら、ざっくばらんにお話を聞いてください」、とK氏の提案で、まずはボランティアガイドさんの点てたお茶を芭蕉の掛け軸にお供えしたあと、参加者にお干菓子と抹茶が配られ、和やかな雰囲気で講話会ははじまりました。内容は田井菅原神社にある芭蕉の句碑についてK氏の推察、そして後半
今の大河ドラマの時代、天明の頃から始まったと言われる北陸から北関東・東北への移民「加賀の走り移民」の著者である池端大二先生と一緒に行った大阪万博(エキスポ70)から55年経って同じ大阪の地で万博が開かれていたことと、今年の大河ドラマ「べらぼう」を動機として、池端先生の遺された書を紹介しようとして始めたこのシリーズ。山川出版社の「栃木県の歴史」と「石川県の歴史」。江戸時代の部分は読んだ。で、その書き方はかなり異なる。石川の方は、ほぼ「加賀藩史」である。今の石川県は加賀藩とその分家であ
今年もあぶり餅神事の開催日となりました。毎年、春と秋に行われています。毎回、足を運んでいる神事であります。秋季例大祭(秋祭)として行われ毎年の開催日が10月15日~17日と決まっています。祭礼時間は、3日間とも午前9時~午後7時までで、“あぶり餅神前奉納式”は、15日(水)午後1時より執り行われています。この神事は前田藩との繋がりがあり、加賀藩二代藩主・前田利長が春秋両度の祭礼を厄除け神事とし、祭毎に供える餅を御幣(お祓いの用具)形に串刺しにしたものを飾って“家守(いえもり)”
本郷と言えば赤門。ご存じ加賀藩前田邸。駒場の前田邸も素晴らしいですが、こちらも味わいのある庭園です。一年に一度一般開放されます。それが今年は10月18日でした。文学の仲間と一緒に見学させてもらいました。普段はなかなか見つからないところです。中から見るとこんな感じ。現代と一昔前とが混在しています。懐徳堂は大阪の商人が江戸時代につくった学問所。そこでは、人の道と孝の道を教えておりました。朱子学が中心だったようですが、上方文化の形成に有力だったそうです。三四郎池など見学して、その後は
今の大河ドラマの時代、天明の頃から始まったと言われる北陸から北関東・東北への移民「加賀の走り移民」の著者である池端大二先生と一緒に行った大阪万博(エキスポ70)から55年経って同じ大阪の地で万博が開かれていたことと、今年の大河ドラマ「べらぼう」を動機として、池端先生の遺された書を紹介しようとして始めたこのシリーズ。本日は、図書館から借りている「富山県の歴史」(山川出版社)206ページの引用を。***************《江戸時代》後期の北関東や東北が間引きや零細農民の江戸流
今の大河ドラマの時代、天明の頃から始まったと言われる北陸から北関東・東北への移民「加賀の走り移民」の著者である池端大二先生と一緒に行った大阪万博(エキスポ70)から55年経って同じ大阪の地で万博が開かれていることと、今年の大河ドラマ「べらぼう」を動機として、池端先生の遺された書を紹介しようとして始めたこのシリーズ。「栃木県の歴史」(山川出版社)に、「(天明の飢饉後の)この時期に下野国の幕領支配の代官となった人物には、のちに名代官の名を残した人物が多い」(同書255ページ)として次