ブログ記事163件
いつも当ブログをご覧いただきましてありがとうございます。12月9日、全国の書店で『倭の五王たちの真実~「日本書紀」が仕掛けた壮大なミステリー~』(ワニブックスPLUS新書)が発売されます!★アマゾンでも予約受付中です倭の五王たちの真実-『日本書紀』が仕掛けた壮大なミステリー-(ワニブックスPLUS新書)Amazon(アマゾン)1,100円「倭の五王」は、みなさんよくご存じと思いますが、5世紀に中国の南朝宋に遣使朝貢した讃・珍・済・興・武という5名の倭王のこと
ご訪問ありがとうございます。今回から「倭の五王」について考えていこうということですが、これまでみてきた通り、「日本書紀」の紀年はズレまくっていて、「神功皇后紀」の120年のをどう回収するかなどは、どなたも考えられたこともなく、また応神・仁徳同一人物説に立つと、天皇の数があまりにも少ない、ということになり、今まで言われているほど天皇の系譜が信用できるのか、甚だ心もとなくなってきます。ですから今回は「倭の五王」を中国や朝鮮半島の国々の史料から考えて、安易な比定をせずに話を進めたいと思いま
ご訪問ありがとうございます。前回まで「日本書紀」の雄略天皇のところを読んでいましたが、外交関係の記事ではおよそ20年のズレがあり、允恭天皇の頃の出来事が「雄略天皇紀」に入っているということがわかりました。つまり「日本書紀」の編者たちは、外交についての史料、ほぼ「応神天皇紀」と「雄略天皇紀」に集約して、あまり綿密な考証は行わなかったと言うことが言えます。そういうことですから、「神功皇后紀」~「雄略天皇紀」について、倭の五王を大和王権の人物とすることは妥当とする一方で、「日本書紀」に基づ
ご訪問ありがとうございます。今回からは「安康天皇紀」になります。とりあえず最初のところから読みましょう。穴穗アナホ天皇=安康天皇は、雄朝津間稚子宿禰天皇=允恭天皇の第二子である。一云、第三子也。母を忍坂大中姫命といい、稚渟毛二岐皇子の娘である。(允恭天皇)42年春正月、天皇が崩御された。ここまでは既出ですね。さて、次から木梨輕皇子の話の続きなんですけど、禁断の恋のために人心が離れ、挙兵した挙げ句、伊予に流され、あとを追ってきた輕大娘とともに死を選んだという悲劇物語に比べるとなんかつ
ご訪問ありがとうございます。さて、のちの雄略天皇になる大泊瀬オオハツセ皇子の殺戮はまだまだ続きます。それだけ当時の皇位継承が大変だったかわかりますね(;^_^A冬10月1日、天皇(大泊瀬皇子)は、穴穗天皇=安康天皇が生前、市邊押磐皇子に皇位を伝え後事を託しておられたことを恨んで、使者を市邊押磐イチベノオシハ皇子のもとに送って、狩りをしようと偽って約束し、郊外に行くことを進めて「近江の佐々貴山君ササキヤマノキミ韓帒カラフクロが『今、近江の来田綿クタワタの蚊屋野カヤノに、猪や鹿がたくさ