ブログ記事116件
はい!歴史大好きの奈央です。昨日のブログで、「空白の4世紀」の状況について、朝鮮側からの観点を主として研究した例をご紹介しました。その中で、倭国は3世紀後半、崇神天皇と思われる時代に、国内がまとまり(中央集権化)、それから4世紀にかけて、統制された軍隊を新羅に送り込むことができるようになったこと、新羅、百済に対しては優勢で、高句麗とは対等、もしくは劣勢の位置にあったことなどが述べられていました。さて、中国の歴史書に戻ると、倭のことが再び現れるのは5世紀になってのことで
倭の五王の謎を解くためには、日本書紀等の天皇と比較するのではなく、百済の王族を研究することが必要だと私は考えている。ではその百済の王族について知るにはどうアプローチしていけばいいのか?百済のことについてだから「三国史記」の百済本紀を読めばいいのか、いや違う。「三国史記」は1145年に完成したものでその元となった資料は錯綜している。詳しくは、高寛敏著の「『三国史記』の原典的研究」に譲るが、「旧三国史」「資治通鑑」「冊府元亀」さらに新羅、高句麗の独自史料の存在が伺われる。ならば「宋
武寧王は蓋鹵王の子、日本書紀だけを見ている人には当たり前のことだが、他の史書、「三国史記」等を読んでいる人にはそうとは言えないと思うだろう。事実「三国史記」には武寧王は牟大王の次男となっている。このあたりは情報が錯綜していてどれが真実だかわからなかった。ただ「三国史記」を読み返しているうちに気になった記述があった。蓋鹵王の次の王、文周王の内容だ。冒頭では蓋鹵王の子とある、これはストレートだ。しかしその後蓋鹵王が王位を継いだとき、文周がこれを輔佐して位が上佐平になったとある。これ