ブログ記事116件
倭の五王の謎を解くためには、日本書紀等の天皇と比較するのではなく、百済の王族を研究することが必要だと私は考えている。ではその百済の王族について知るにはどうアプローチしていけばいいのか?百済のことについてだから「三国史記」の百済本紀を読めばいいのか、いや違う。「三国史記」は1145年に完成したものでその元となった資料は錯綜している。詳しくは、高寛敏著の「『三国史記』の原典的研究」に譲るが、「旧三国史」「資治通鑑」「冊府元亀」さらに新羅、高句麗の独自史料の存在が伺われる。ならば「宋
はい!歴史大好きの奈央です。昨日のブログで、「空白の4世紀」の状況について、朝鮮側からの観点を主として研究した例をご紹介しました。その中で、倭国は3世紀後半、崇神天皇と思われる時代に、国内がまとまり(中央集権化)、それから4世紀にかけて、統制された軍隊を新羅に送り込むことができるようになったこと、新羅、百済に対しては優勢で、高句麗とは対等、もしくは劣勢の位置にあったことなどが述べられていました。さて、中国の歴史書に戻ると、倭のことが再び現れるのは5世紀になってのことで
『宋書』『宋書』は、中国南朝の宋王朝(420-479年)の正史で、南朝宋の時代の出来事を記録した重要な歴史書です。「倭国伝」「倭国伝」は、『宋書』巻97の「夷蛮伝」の東夷の条に含まれる記述です。この倭国伝は、5世紀に中国南朝に朝貢した5人の倭王(倭の五王)について詳しく記しています。日本(当時は「倭国」と呼ばれていました)に関する記述は主に「倭国伝」に集中していますが、他の部分にも散見されます。内容地理:倭国の位置、気候、風俗習慣、産物など例えば、倭国は「帯方郡」の東南の大海の中にあ
【筑紫都督府についての考察】「都督」、日本書紀には三度登場する。景行紀五十五年、「春二月戊子朔壬辰、以彥狹嶋王、拜東山道十五國都督、是豐城命之孫也。」豊城命の孫の彦狹嶋王が東山道十五国の都督を拝命したという記事である。岩波版の注(補注七-45)には、都督は中国の官名で、ここは彦狹嶋王が東国の支配を委任されたことの漢文的修辞か、と記されている。東山道十五国についても未詳であるという。天智紀六年には、「十一月丁巳朔乙丑、百濟鎭將劉仁願、遣熊津都督府熊山縣令上柱國司馬法聰等、
(考察)津田氏は、「四世紀の末期頃から文字の術がそろそろ我が朝廷に知られはじめたのであるから、もし口碑伝説が文字に写されるようになったとすれば、それはたぶん、五世紀に入ってからのちのことであろう。」と言っている。古事記には、応神天皇の治世に百済照古王が馬1つがいと『論語』『千字文』を応神天皇に貢上したことが記されている。照古王は近肖古王(生年不詳-375年)のことだとすると、百済との交渉は4世紀中頃には始まっていたことになる。ということは4世紀前半にはヤマト朝廷の
今週はあれこれと予定が入っていて、毎日どこかへ出歩くという週になっている。昨日は、この間作成をお願いしていた新しい入れ歯が出来上がったので、それを受け取りというか、はめてみた上で調節をしてもらうために、歯医者さんに出掛けていた。ほぼ〝総入れ歯〟に近い上の入れ歯に比べて、数本の歯が残る下の入れ歯は、調整をしてもなお何となく痛みを感じている。特に、はめたり外したりに痛みがひどい。しばらくは、我慢をしながら様子を見て、10日ほど経ったところで、再度微調整をお願いする、という段取りにな
『古事記』には「崩年干支」というものがあります。『古事記』は初代神武天皇から第33代推古天皇までの治世について語りますが、天皇が何歳で崩御されたかという「宝算」を記しています。その宝算に注釈として干支が付けられています。それが「崩年干支」です。しかし、すべての天皇の宝算に付けられているわけではなく、第10代崇神天皇から始まり33代推古天皇まで、飛び飛びに15名の天皇についてのみ付けられているのです。この崩年干支は、しばしば倭の五王の比定に関連して引用されます。
古代史研究者には有名なこの上表文。そして宋書にある倭国の情報。これらを正しく読み解くと倭王武の本当の正体がわかります。雄略天皇ではありません。ではスタート。先ずは上表文の原文を引用します。全てを訳す必要はありませんが、資料として全文を掲載します。「封國偏遠,作藩于外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處。東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國,王道融泰,廓土遐畿,累葉朝宗,不愆于歲。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道逕百濟,裝治船舫,而句驪無道,圖欲見吞,
「閑話休題」(六五)一,令和六年三月十七日と二十四日に「NHKスペシャル古代史ミステリー」と題する番組が放送された。第一回は「邪馬台国」(邪馬台国の謎に迫る),第二回は「倭の五王」(ヤマト王権空白の世紀)との標題と副題を持つものであった。どのような内容で放送されるのか,興味と関心を持って視聴した。結果は,ものの見事に期待はずれであった。これを「閑話休題」で取り上げようと思ってはみたものの,第三回以降も続くものと考え,一連の放送が終わった後にでも感想を書けば足り
この番組に気がついた時はすでに第1週の卑弥呼の回が終わっていたので、録画したのはこの第2集だけ、しかし、やっと、今週朝の少しの時間で少しずつ視聴していて、4日くらいかけて見終わった。大変に興味深く面白かった。倭の五王というのも初めて知ったし、昔からよく知っている仁徳天皇陵、雄略天皇とか数々の大古墳がこの倭の五王のもの、と言われてるのは知らなかったので。。。。自分は学生時代南大阪の河内方面のとある遺跡発掘事務所でバイトをしていたことがあって、その時にはこの弥生
武寧王は蓋鹵王の子、日本書紀だけを見ている人には当たり前のことだが、他の史書、「三国史記」等を読んでいる人にはそうとは言えないと思うだろう。事実「三国史記」には武寧王は牟大王の次男となっている。このあたりは情報が錯綜していてどれが真実だかわからなかった。ただ「三国史記」を読み返しているうちに気になった記述があった。蓋鹵王の次の王、文周王の内容だ。冒頭では蓋鹵王の子とある、これはストレートだ。しかしその後蓋鹵王が王位を継いだとき、文周がこれを輔佐して位が上佐平になったとある。これ
突然古代史ですが、最近謎が解けたので整理するためにここに書きます。中国の史書には倭の五王についての記述があり、それらが日本の記紀にある天皇の誰にあたるかが論争になっています。しかしそれらは全て徒労であったことがわかったのです。具体的にはタイトルにあるように倭王武とは百済の武寧王のことでした。唐突過ぎてわからない人も多いかと思いますが、このことは事実らしく他の候補では矛盾が出ていたことが解消され全てのパズルのピースがはまります。まずは当時の百済と日本列島の中に在った倭国との関
【空白の150年日本古代史の真実】ちかみつリーディング要約2024.4.4・卑弥呼らしき人は山のようにいる。巫女さん・空白の150年にダブル王朝が2つ出てきた。吉備王朝と阿波忌部王朝。岡山と徳島。これが後に、藤原氏の誰かによって消し去られた・古事記、日本書紀は藤原氏によって全部再編纂された。聖徳太子直後に・阿波忌部王朝をスキャンすると阿波忌部一族と物部一族が出てきた。3〜4割は物部氏・阿波忌部王朝と吉備王朝は150年間仲が良かった。・吉備王朝は遡れば九州のほうから流れて来た・中
NHKスペシャルが2回シリーズで特集「古代史ミステリー」を3月17日と24日に放送した。邪馬台国の第1集では大和説を優勢に取り上げ、第2集では倭の五王(讃、珍、済、興、武)の時代に朝鮮半島へ出征していった姿を取り上げた。日本史における空白の時代、宋書などに記される倭の五王を誰に比定すべきかの議論はさておき、番組はこの時代の大和王権の強大さを紹介。最大の円墳なのが近年明らかになった奈良市の富雄丸山古墳から見つかった盾形の鏡や蛇行剣を紹介しながら、時の王権が製鉄技術を独自に発展させる段階に入っ
来ていただいて、ありがとうございます。今日の文字は24日の「NHKスペシャル」は「古代史ミステリー第二集ヤマト王権空白の世紀」「魏志倭人伝」に書かれている邪馬台国の時代が三世紀。次に、中国の書物に日本のことが書かれているのは五世紀の「宋書倭国伝」に登場するヤマト王権の「倭の五王讃、珍、濟、興、武」について。記録がない四世紀は「空白の100年」と言われています。その四世紀後半に造られたと思われる奈良の「富雄丸山古墳」2022年、ここ
古代史ミステリー第2集は倭の五王そう言えば、松本清張「空白の世紀」を読んだ時に、新発見と隣国の事情改善を期待していたのでした。それが両方あってのこの番組!感慨深いまずは新発見、大発見。富雄丸山古墳の盾形銅鏡と長大な蛇行剣!約1年前のことでした。技術を改良してしまう今にも続く日本人気質が語られてましたそして、韓国での前方後円墳。伽耶あるいは任那との関係に突っ込んで欲しかったところですが、もう少し時が必要なのかも。五王の中でも特にフィーチャーされたのが雄略天皇でした
テレビとNHKには失望した(笑)最近NHKスペシャルの邪馬台国と卑弥呼特集と、ヤマト王権と倭の五王の特集を見たが、その内容はまるで義務教育で学んだ内容を再履修させられているかのような内容だった。邪馬台国と卑弥呼特集では、弥生時代の日本が倭国大乱と呼ばれる戦乱となり、それを治めるため各小国連合に女王卑弥呼が祀り上げられ、卑弥呼は日本国内のライバル狗奴国に勝つ為魏に使者を送り親魏倭王の称号と金印を得たと。次回のヤマト王権と倭の五王の特集では、巨大な古墳や鉄製の武具を作れるほど大きな勢力を持ったヤ
勉強会の参加者の方から「倭の五王は6人」や「朝貢のルール」だけでも概要を紹介したら、とのご意見をいただきました。2009年5月の勉強会②(5/17)をそのまま再度掲載します。(朝貢の詳細な考察やなぜ倭王の一人が記録から欠落したかなどの説明は2012年5月勉強会の記事の方が参考になると思います。下の表は2012年5月27日に掲載しているものです。とりあえず写真を撮り直してアップしてみましたが、あまり鮮明ではありませんねぇ)************************
古代史ミステリー第1集邪馬台国と卑弥呼の謎に迫る一昨年、かねてより念願の「吉野ヶ里遺跡」に行ってきた。ちょうど発掘が再開した頃で「現場が見られますよ」と言われたけど、ともかく広〜いの!!(とてもじゃないけど全部は回りきれなかった)『コンサートから始まったフェリー旅3日目その1』《卑弥呼のクニへ行こう!》小倉に着きました〜ようやく朝の光が差して来たけど、ちょっと寒いかな。今日のお宿『リーガロイヤルホテル小倉』小倉駅隣接通路から雨が降…ameblo.jp『コンサートから始ま
古代史ミステリー(NHK3/24放送)の第2集「ヤマト王権・謎の五王」を、先週に続いて見ましたが、あまりに杜撰で雑な番組編成に呆れてしまいます。テレビの画面タイトルには「空白の世紀」となっていて、出演者たちのセリフにも3世紀の卑弥呼以後、5世紀の所謂「倭の五王(生野先生の考察では6人!)」に至る間の4世紀が謎だと言っているのに、番組で紹介される内容はほとんど5世紀のことばかり。(つまり、謎だから口を閉じるってかぁ)文献史料で卑弥呼の後継者である臺与が266年に「晋」に朝貢して以来約1
今夜は、NHKスペシャル新シリーズ「古代史ミステリー」が放映されていますね。先週からの連続放送で、第2回の今回は大和朝廷の誕生、倭の五王です。大和朝廷のシンボル、前方後円墳が韓国で発見!?倭の五王VS高句麗の英雄・広開土王(好太王)。技術革新とアジア情勢を睨んだ大和朝廷のグローバル戦略とは・・・・!?
あす3月24日の午後9時から、NHKスペシャル「古代史ミステリーヤマト王権空白の世紀」が放映されます。内容の詳細はわかりませんが、倭の五王(讃・珍・済・興・武)について描かれるようです。そこで、以前に倭の五王についてYouTube動画でシリーズ化していたこともあり、今回それをまとめた動画を作りました。動画本編は私の説が中心となりますので、多くの異論もあると思います。それで、今回動画では冒頭に中国史書に現れる倭の五王の記事や、一般的な解釈をまとめました。その部分を
https://news.yahoo.co.jp/articles/7bda0f2ddc00de1eb3f7e22f3e232b1f1b0ba897<邪馬台国>吉野ヶ里&纒向遺跡の研究最前線取材で新事実紹介シシド・カフカが卑弥呼役で歴史ドラマ“Nスぺ”放送(MANTANWEB)-Yahoo!ニュース邪馬台国と女王・卑弥呼を特集した番組「NHKスペシャル『古代史ミステリー第1集邪馬台国の謎に迫る』」が、3月17日午後9時からNHK総合で放送される。番組では、専門家の考証をもとに
※こちらの記事は、平成20年10月21日に書かれたものです。こんばんは。今回は教育社歴史新書の第1弾である佐伯有清氏著の『古代の東アジアと日本』という本について。これも高校時代に読んだ本ですが、僕は昔は歴史全般に興味があって、なんだかんだ言って中世がいちばん好きでしたが、古代史も割りと好きだったんですね。特にこの本で取り上げている卑弥呼(ひみこ)の問題や、「謎の四世紀」の話(注:卑弥呼が登場した三世紀のあと、「倭(わ)の五王」が登場する五世紀まで、日本についての記録が残っていない)や、「
YOUTUBE第五弾です。【宋書倭国伝】倭の五王は本当に天皇だったのか?【ゆっくり解説】私がシナリオ書いてます。日本の古代に思いを馳せていただければ幸いです。
日本古代史において、大陸の国家と結びついたのは、紀元前200年頃から倭ないし倭人が前漢王朝へ貢物を献上してた頃に始まります。西暦57年、博多湾周辺に勢力を伸ばしていた倭奴国の首長が、後漢の光武帝から金印(漢委奴国王印)を授与されています。5世紀全般の古墳時代中期に、倭の五王が晋、宋、斉などの南朝に遣使を送っています(遣宋使)。第33代天皇、推古天皇が593年1月15日に即位し、日本史上最初の女帝となりました
以上の仮説が正しいとすると、607年の遣隋使は誰が派遣したのでしょうか。手がかりになるのは、倭の「多利思比狐(たりしひこ)」が隋の開皇20年(600)に派遣した使節のことが『隋書』に記載され、そこに倭国の風俗や風土として「阿蘇山あり」というくだりがあることです。つまり、飛鳥(奈良県明日香村)にある推古天皇の王朝とは別に、九州にも王朝が存在し、その王が隋へ使節を派遣したというのが以上の説の結論です。通説は『隋書』が記す「多利思比狐」を聖徳太子としていますが、この説では当然
王位継承と五世紀の東アジア倭の五王河内春人ずいぶん前に読んだ本なのだがまた再び読んでみたくなって手に取ってみた家に帰ってから再度写真を取り直すことも可能だったが無理やりささくれを取った親指が痛々しい残しておきたくなった本の内容は謎の多い古墳時代倭の五王は誰だったかを推定することの意味に疑問を投げかけているすなわち、この本は倭の五王が○○天皇か?ということではなく卑弥呼から飛鳥時代の間にこの国がどのように統べられていたのか?という1つの説から1600年前
日(ひ)出(い)ずる処の天子、書を日(ひ)没(ぼっ)する所の天子に致す――。これは、推古天皇がこの国を治めていた607年に、かの聖徳太子が当時の中国皇帝「隋」の煬帝(ようだい)に使節を派遣した際、日出ずる処の天子、すなわち日本の天皇が日没する所の天子、つまり中国の皇帝へ送った有名な国書の一節です。この国書の歴史的意義について述べる前に、当時の日中関係を振り返ってみましょう。まず5世紀の「倭の五王」の時代には、日本の大王(天皇)が中国皇帝(南朝の宋)の臣下に甘んじ、その威
本日発売の週刊大衆。日本史ミステリー捜査隊は、中国の南朝時代王、讃・珍・済・興・武の五王の特集です。原作/跡部蛮挿絵/萩山明日香次回掲載は6月12日(月)です。日本史ミステリー捜査隊をよろしくお願いします。