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倭の五王がいまだに誰だったのか特定されない最大の原因は、天武天皇が「国史」編纂において五王の隠蔽を図ったからだと考えています。ここでいう「国史」とは天武天皇朝において編纂された『日本書紀』の一段階前の史書であり、わたしの想定する『原日本紀(げんにほんぎ)』というものです。(飛鳥宮跡)国史の編纂は、天武天皇の治世10年(西暦681年)に始まったとされます。天皇は川嶋皇子ら12名に帝紀と上古の諸事の「記定」を命じました。それが『日本書紀』に記されていますが、そこで注目したいの
「閑話休題」(八四)一、「古代史セミナー2025」の主題「卑弥呼はどこにいたか」で、「畿内派」と「北部九州派」による見解の発表が行なわれた。この議論を受けて、「北部九州」説を採る「多元史観論者」にとって、「三世紀の比恵那珂地区」の後退或いは都市としての消失後、その「都」は、どこへどのように移ったのか、の問いかけに対する答えが問題となってこよう。二、これについては、「多元史観論者」の中でも、見解が割れているようである。①博多湾岸から、直に太宰府に移った、とする見解
いつも当ブログをご覧いただきましてありがとうございます。12月9日、全国の書店で『倭の五王たちの真実~「日本書紀」が仕掛けた壮大なミステリー~』(ワニブックスPLUS新書)が発売されます!★アマゾンでも予約受付中です倭の五王たちの真実-『日本書紀』が仕掛けた壮大なミステリー-(ワニブックスPLUS新書)Amazon(アマゾン)1,100円「倭の五王」は、みなさんよくご存じと思いますが、5世紀に中国の南朝宋に遣使朝貢した讃・珍・済・興・武という5名の倭王のこと
〈新刊発売のご報告〉いつも【邪馬台国と日本書紀の界隈】をご覧いただきましてありがとうございます。来月12月9日に『倭の五王たちの真実~「日本書紀」が仕掛けた壮大なミステリー~』(ワニブックスPLUS新書)が刊行されることが決まりました!全国の書店およびアマゾン等のネット書店で発売されます。昨日、本のカバーの色校正紙が届きました。キービジュアルは、倭の五王時代の築造と推定されている大仙陵古墳(仁徳天皇陵古墳)です。先日、気球に乗って空から見ることが
【九州にあった倭国、俀国】魏志倭人伝、宋書倭国伝、隋書俀国伝の中からキーワードをとりだして、その当時中国の王朝と交渉していた日本列島の国の中心は九州島内にあったことを記してきた。日本列島が九州の勢力に支配されていたということではない。あくまでも中国に対して使者を送り中国の文献に倭国あるいは俀国と紹介されている国が九州に存在していたということである。【日本国者倭国之別種也】旧唐書倭国日本国伝にはじめて日本国が登場する。「日本国者倭国之別種也」旧唐書は中国の史書に初めて出て
題名:新・古代史グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権【内容紹介・目次・著者:「NHK出版Web」より引用。】NHK出版新書735新・古代史グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権|NHK出版卑弥呼と三国志、空白の四世紀と技術革新、倭の五王と東アジア情勢──。最新の発掘調査とAI・DNA分析などの科学的アプローチ、さらには中国や韓国の国際研究の成果から、「日本」という国の始まりを多数の写真…www.nhk-book.co.jp内容紹介「日本」はいかに誕生した
長いあごひげのある歴史上の人物といったら誰を思い浮かべるだろうか。関羽、後醍醐天皇、レオナルドダヴィンチ、板垣退助……いずれ劣らぬ見事なヒゲである。私は、まずこの人が浮かぶ。武内宿禰一時期、日本国紙幣の一円札に描かれていた人物だ。ただし、1958(昭和33)年に発行停止になっているため、私はその実物を見たことはない。ただ、武内宿禰は歴史上の人物かといわれると微妙だ。現在のところ彼は、実在しているかわからない伝説上の人だからだ。この人、戦前までは諸般の事情で超有名人だったはずだが
【九州王朝論】古田武彦氏は九州王朝論者である。8世紀初頭に日本国を成立させた大和朝廷の前に、弥生時代以降九州に中国や韓半島の国々と交渉をもつ倭国(九州王朝)が日本列島の最大勢力として存在していた、とする主張を行っている。【盗まれた神話】古田武彦氏の著書に『盗まれた神話記・紀の秘密』がある。その中で古田氏は、『古事記』は大和朝廷に伝わる歴史を編纂したもので、『日本書紀』は『古事記』に九州王朝時代の史書(『日本旧記』など)を取り込んで完成させたものであると主張する。『古
『延喜式』の中に「諸国運漕雑物功賃」つまり「諸国」より物資を運ぶ際の料金を設定した記事があります。それを見ると「山陽道」「南海道」の諸国は「海路」による「与等津」までの運賃が記載されており、これらの国は「与等津」へ運ぶように決められていたと思われます。いくつか例を挙げてみます。山陽道播磨国陸路。駄別稲十五束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別稲一束。挾杪十八束。水手十二束。自与等津運京車賃。石別米五升。但挾杪一人。水手二人漕米長門国陸路。六十三束。海路。自国漕『与等津』船賃。石別一束五把
いつものように妄想だけど、、、400年ごろから高句麗の脅威があるね。そのころ倭の都は九州にあって、百済の応援に行くも惨敗する。455年以降百済は高句麗に何度も攻められる。そして475年に百済王は高句麗に倒される。この期間、九州にあった都を奈良の山に囲まれた地域に遷都したのでは?九州の都は福岡県一帯だと思われるが、志賀島の金印や宗像大社があり、謎だが沖ノ島も関係しそう。大型船で大陸に渡るには九州からの方が安全だから。讃と珍は九州の王で、済あたりから遷都して奈良の王になったのでは?
皆さん、二月十一日が、何の日かご存知ですか?十人が十人、建国記念日と日本人なら答えるでしよう。でも、いつ誰が、日本を建国したか、ご存知ですか?答えは、紀元前660年の2月11日に神武天皇が建国したとあります。しかし、詳細は不明で、率直に言うと法でその日を建国記念日に制定したから、そうなんだという強引な言い分で、神武天皇(正式に言うと神武の大王(おおきみ))で、天皇を初めて名乗ったのが、天武天皇なので、大王(だいおうでなくおおきみ)なのだ。更に、日本国でなく日本国の起源となる原型が生ま
―倭の五王―次は、倭の五王の話を。3世紀の邪馬台国から、5世紀の倭国の五王まで、(中国の事情もあり)倭国の記事が消えたように見えますが、消滅したわけではありません。それどころか、5世紀には巨大古墳が出現します。巨大古墳や灌漑設備の建築には、高度な工学や数学などが必要とされます。例えば、数10mの円を描くには、中心に棒を立て、ヒモをくくり、もう一方のヒモを動かしコンパスのように描いたのでしょう。ほかにも、巨石を運ぶ方法や、高さを計測
昔から、個人的に、関心を持っていた「広開土王碑(好太王碑)」に書かれた碑文。果たして、この「碑文」に書かれたことは、事実なのでしょうか。新・古代史:グローバルヒストリーで迫る邪馬台国、ヤマト王権(NHK出版新書735)Amazon(アマゾン)広開土王碑について。この広開土王碑は、414年に、高句麗の第19代の王、広開土王の功績を讃えるために、息子である第20代の王、長寿王が、建立したもの。この石碑があるのは、丸都という場所で、427年に、平壌に遷都をするまで、約
難波宮跡北西部に古墳時代の大倉庫群が確認されたのは、1987年からの旧大阪体育館跡地の発掘調査だった。上町台地北端では難波宮以前の建物遺構約200棟が検出されており、法円坂遺跡もそうした難波宮下層遺跡の1つになる。現在の大阪歴史博物館・NHK大阪放送局の敷地内に位置している。遺跡内では建物遺構として掘立柱の大型高床倉庫が計16棟検出されている。この倉庫16棟は東西2群(東6棟・西10棟)に分かれるが、いずれも正方位の真東西に並ぶという古墳時代の建物としては例のない配置になっているそうだ。倉庫各
ご訪問ありがとうございます。前回まで「日本書紀」の雄略天皇のところを読んでいましたが、外交関係の記事ではおよそ20年のズレがあり、允恭天皇の頃の出来事が「雄略天皇紀」に入っているということがわかりました。つまり「日本書紀」の編者たちは、外交についての史料、ほぼ「応神天皇紀」と「雄略天皇紀」に集約して、あまり綿密な考証は行わなかったと言うことが言えます。そういうことですから、「神功皇后紀」~「雄略天皇紀」について、倭の五王を大和王権の人物とすることは妥当とする一方で、「日本書紀」に基づ
【「岩波講座日本歴史第1巻原始・古代1」】「岩波講座日本歴史第1巻原始・古代1」(2013年発行)には、旧石器時代・縄文時代から始まり弥生時代、邪馬台国、古墳時代、倭の五王時代に至るまで、著名な研究者による九つの論文が掲載されている。列挙すると以下のようになる。古代史への招待大津透(東京大学教授)日本列島の成立と狩猟採集の社会佐藤宏之(東京大学教授)縄文時代から弥生時代へ設楽博己(東京大学教授)東アジアにおける弥生文化岩永省三
ご訪問ありがとうございます忍坂大中姫オシサカノオオナカヒメ、允恭天皇・安康天皇・雄略天皇の三天皇を、后として、母として支えていたこの女性にはどのようなバックがあったのか?今回はその実家について、考えてみたいと思います。まずはこの前の系図からあげてみます(*´∀`)つこれは「釈日本紀」という平安時代にできた、「日本書紀」の注釈書に引用された史料をもとに作った系図です。今は散逸してしまった「上宮記」という本から引用されているので、「上宮記逸文ジョウグウキイツブン」といいます。古代
図書館の本を読んで。『マンガ日本の歴史(1)秦・漢帝国と稲作を始める倭人』『マンガ日本の歴史(2)邪馬台国と卑弥呼のまつりごと』『マンガ日本の歴史(3)興亡する倭の五王と大嘗の祭』(石ノ森章太郎著中央公論社)石ノ森「マンガ日本の歴史」を読破しようと思う。
ご訪問ありがとうございます。今回からは允恭天皇の皇后で、木梨輕皇子・輕大娘、安康天皇、雄略天皇の母である忍坂大中姫オシサカノオオナカヒメとその本拠地と思われる忍坂宮について、見ていこうと思います。実は雄略天皇の崩御後、安康天皇と雄略天皇がライバルを粛清しまくったせいで、皇位継承者が激減してしまうという事態になりますΣ( ̄ロ ̄lll)そうして遂に継体天皇が越前か近江から呼び寄せられるのですが、その継体天皇の実家が、忍坂大中姫の実家なのです。この継体天皇は、天皇家の遠縁であると「古事記」「日
ご訪問ありがとうございます。雄略天皇、今回以降は外国関連の記事が増えていきます。夏四月、百濟の加須利君カスリノキシ蓋鹵コウロ王であるは、人伝に池津媛が焼き殺されたことを聞いて、適稽女郎チャッケイエハシトである相談して「昔、女性を献上して采女としたが既に無禮なことを行い、我が國の名を貶めた。今より以後は、女性を献上するのはやめよう。」と言った。そして其の弟である軍君コニキシ崑支コニキであるに「そなたが日本に行って、天皇に仕えよ。」と言った。軍君は「王の命に違うことはありません。願わく
世界遺産といえば、私は古墳群を思い浮かべます。関西に行くたびに飛行機から見える古墳群はかなり目立ちます。大阪府にある「百舌鳥(23/44基)・古市(26/123基)古墳群」が世界遺産に登録されたのは、2019年でした。()内は世界遺産古墳/古墳総数です。いずれも4世紀後半から6世紀にかけて造営されました。百舌鳥古墳群には大仙陵(伝:仁徳天皇)・上石津ミサンザイ(伝:履中天皇)・土師ニサンザイ(反正天皇の空墓とされる)・田出井山(伝:反正天皇)などがあり、古市古墳群には誉田御廟山(伝:
ご訪問ありがとうございます。「雄略天皇紀」はけっこう長いので、さっそく読み進めましょう。3年夏4月、阿閉臣アベノオミ國見クニミまたの名を磯特牛シコトヒが、𣑥幡タクハタ皇女(伊勢斎宮)と湯人ユエ(皇子女の養育の一族)の廬城部連イオキベノムラジ武彥タケヒコを誹謗中傷して「武彥が、皇女を犯して妊娠させました。」と言った。湯人ユエで武彥の父の枳莒喩キコユは、此の流言を聞いて、自分に禍いが及ぶのを恐れて、武彥を廬城イオキ河(三重県津市雲出川)に連れ出し、水に潜って魚を捕るように騙して、不意
ご訪問ありがとうございます。今回から雄略天皇の治世に入って行きますが、このお方、あんまり書かれ方が良くない(^^;)その理由はおいおい指摘して行きます。(雄略天皇)元年春3月3日、草香幡梭姬クサカノハタビヒメ皇女を立てて、皇后と為す。またの名橘姬皇女。えーと(;^_^A分注の橘姫皇女ですが、何かとヤマトタケルに戻って申し訳ないですが、雄略天皇がワカタケ、またはワカタケルという名前(大泊瀬幼武オオハツセノワカタケ天皇)なので、昔からヤマトタケルのモデルだと言われてまして、「古事記」
ご訪問ありがとうございます。今回は倭王武の上表文を通して、当時の東アジアの状況下で、倭国が何を目指し歩んでいたのかを見ていこうと思います。478年、武王は前年に遣使を行った兄の興の跡を受けて、宋に遣使をします。兄の急死を受けての事でした。倭国は邪馬台国の頃から、朝鮮半島の最南部に支配圏を広げていました。ですから高句麗が百済を一時的にせよ、滅ぼしたことは、そういった支配圏の安全保障もありますし、中国大陸への通交も遮断される恐れが十分にあったのです。興の遣使も15年ぶりに行われたというの
ご訪問ありがとうございます。今回は「宋書」に描かれる倭の五王の5人目、倭王武について見ていこうと思いますので、まずは大陸と半島の情勢を確認しておきましょう。倭国から、済王の死去を伝えて世子興が遣使した462年の前後、宋の北魏に対する劣勢はますます顕著になり、高句麗はあからさまに北魏への遣使を増やしていました。それに対して宋の方は、高句麗長寿王に車騎大将軍・開府儀同三司を叙爵して、最高の待遇を用意します。儀同三司は「光る君へ」にも出てきていて、皇后定子(高畑充希さん)の兄、伊周(三浦翔
ご訪問ありがとうございます。さて、のちの雄略天皇になる大泊瀬オオハツセ皇子の殺戮はまだまだ続きます。それだけ当時の皇位継承が大変だったかわかりますね(;^_^A冬10月1日、天皇(大泊瀬皇子)は、穴穗天皇=安康天皇が生前、市邊押磐皇子に皇位を伝え後事を託しておられたことを恨んで、使者を市邊押磐イチベノオシハ皇子のもとに送って、狩りをしようと偽って約束し、郊外に行くことを進めて「近江の佐々貴山君ササキヤマノキミ韓帒カラフクロが『今、近江の来田綿クタワタの蚊屋野カヤノに、猪や鹿がたくさ
ご訪問ありがとうございます。「雄略天皇紀」に描かれた眉輪王の変です。もう一度読み直しましょう。最初は褒め称えたいつものパターン大泊瀬幼武オオハツセノワカタケ天皇は、雄朝嬬稚子宿禰天皇=允恭天皇の第五子である。天皇は、生まれた時に神光が宮殿に満ち、長じて壮健であることは人に抜きん出ていた。慈しみ深いとか礼儀正しいとは書いてないのに注意(o´艸`o)♪3年8月、穴穗天皇は沐浴をしようと山の宮に行幸され、高楼に登って眺めを楽しみ、酒宴を催すように命じた。しばらくするうちに楽しさも極まって宴