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仁徳天皇(唱歌)唱歌教科書.教師用巻4(明35年)作詞作曲者:不詳玉の宮居は名のみにてあれにぞあれし大殿に三歳の月日凌ぎつつ民のかまどをにぎはし給ふその大御めぐみ雨降りしきるあしたにも風ふきすさぶ夕にも大御身の上は忘られて民のうへのみ思ほし給ふその大御心民の竈(かまど)とは、仁徳天皇四年二月六日、仁徳天皇が民の竈から煙が上がっていないのを高殿からご覧になり、民の窮乏を察し年貢の徴収を三年間禁止させる詔、「百姓(
この前の続きです。ヤマトタケルの子、仲哀天皇は西の方にある宝の国(朝鮮半島のようです。)をやろう」という神託を信じず、祟神の怒りを受けて亡くなりますほかにも「日本書紀」の別伝には「熊襲と戦って敗れた」ともあり、「戦死した」説もあるほどで、なんだか大変なことになったはずなのですが、残された皇后息長帯比売(オキナガタラシヒメ)は、身重の身でありながら新羅を攻めます。(正確には三韓征伐ではありません。飛鳥時代には日本は百済と親しくて、天武朝を除いて基本的に新羅が仮想敵国だったため対新羅戦が
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令和元年の初詣月である5月が終わり、6月に入りましたね。昨日は大阪出勤だったため、大阪市中央区にある難波神社へお参りしました。大阪メトロ御堂筋線「本町駅」より徒歩7分の場所にあります。境内には、アヤメが並べられています。上品な色合いで、美しいです。まるで天女の舞を見ているかのようです。境内にある大きなご神樹です。皆さん幹に手を当てています。桜井識子さんによると、手はパワーを出す場所なので、頭や身体を幹につける方がご神樹のパワーをもらえるそうです。ここの御祭神は、仁徳天
宇治神社は菟道稚郎子(うじわきのいらつこ)の鎮魂の神社でした。宇治上神社は世界文化遺産に登録されています。鳥居には「正一位離宮太神」↓明治時代までは、宇治神社と宇治上神社は二社一体で、1067年後冷泉天皇が宇治離宮明神と命名して以来この名前でした。だからこの燈籠は江戸以前の燈籠ですケヤキの大木樹齢300年らしい。結構パワーを感じる。大きな木はいいねー!パワースポット拝殿1215年頃に建てられた鎌倉時代の建物です。格子がきれいですね。また屋根の形も優美です。前には大きな円錐
諡号に「徳」という字を含む天皇は、4代懿徳天皇、16代仁徳天皇、36代孝徳天皇、48代称徳天皇、55代文徳天皇、75代崇徳天皇、81代安徳天皇、84代順徳天皇の8人を数えます。このうち、古代の懿徳、仁徳の両天皇を除く6人は、いずれも無念の死を遂げています。孝徳天皇は、蘇我氏を滅ぼした後に天皇となり、いわゆる「大化の改新」を行った人物ですが、皇太子である中大兄皇子(後の天智天皇)と対立し、中大兄が前天皇の皇極(中大兄の母・孝徳の姉)、孝徳の皇后である間人皇女(中大兄の妹)らを引き連れて
前回は、仁徳天皇の「民のかまど」のお話をしましたが、仁徳天皇の時代は、大きな開拓(かいたく)が行われた時代でもあります。みんながおなかいっぱい食べることができて安心、安全に暮らしていけるように古墳の周りはすべて田んぼでした昔から田んぼだったかといえば、そうではありません。大昔、そこは、雑木林(ぞうきばやし)であったり、荒れ地であったりしました。それを開拓して、田んぼにしました。田んぼは水をひいて稲を育てるので、でこぼこの土地を、平らにしなければなりません。それ