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2025-11-23神功皇后神社巡り美祢市秋芳町別府の「壬生神社」ご祭神は、高龗神、神宮皇后、仁徳天皇石灯篭の上にシャチホコがいますよ(^^)/珍しいですね。初めてみました。見上げるような石段を上がりましょう。まあまあ、ありました(^-^;立派な拝殿がありますよ。社殿は東向きです。これも珍しいですね。しっかりお詣りしました👏
宇治神社の船着場の屋根をくぐって道路向かいにある宇治神社の鳥居をくぐります、Ⓒ武田綾乃・宝島社/『響け!ユーフォニアム』製作委員会中洲にあったしだれ桜のこともありますし今度は桜の季節にも来なければ、手水舎のうさぎⒸ武田綾乃・宝島社/『響け!ユーフォニアム』製作委員会こちらも登場していました。石段を上がって宇治神社の拝殿、桐原殿その先2つめの鳥居をくぐると本殿、ご祭神は菟道稚郎孑(うじのわきいらつこ)、応神天皇の子で仁徳天皇は異母兄、仁徳即位にあた
【大阪】数年ぶりに参拝させていただきました。【御幸森天神宮限定御朱印】今回は季節限定のステキな【御朱印】をいただきました。以前お受けした【御幸森天神宮御朱印】御幸森は仁徳天皇がこの地で鷹狩りや休憩をしていた森で「御幸の森」と呼ばれるようになった場所。天皇崩御の後の406年この森に
桜山八幡宮岐阜県高山市桜町178秋の高山祭が有名な神社主祭神応神天皇相殿神熱田大神番椎大神仁徳天皇の御代(377年頃)創建稲荷神社琴平神社御朱印
みなさんおはようございます~(^_^)生野御幸森天神社です御幸森天神宮のある地域は古くから猪飼野(いかいの)と呼ばれ、猪甘津(いかいのつ)と呼ばれる古代の港があったことに由来する猪甘部は朝廷への貢物として豚を飼育する役を司っていたまた付近は百済野と呼ばれ百済からの渡来人が多く住んでいた仁徳天皇が鷹狩や渡来人の様子を見聞する御幸に際して、度々この地の森で休憩したことから御幸の森と呼ばれるようになったとされる狛犬さんは岡崎型の初期祭神は仁徳天皇、少彦名命、忍坂彦命です扁
仁徳天皇(唱歌)唱歌教科書.教師用巻4(明35年)作詞作曲者:不詳玉の宮居は名のみにてあれにぞあれし大殿に三歳の月日凌ぎつつ民のかまどをにぎはし給ふその大御めぐみ雨降りしきるあしたにも風ふきすさぶ夕にも大御身の上は忘られて民のうへのみ思ほし給ふその大御心民の竈(かまど)とは、仁徳天皇四年二月六日、仁徳天皇が民の竈から煙が上がっていないのを高殿からご覧になり、民の窮乏を察し年貢の徴収を三年間禁止させる詔、「百姓(
祭日とは天皇がお隠れになられた日のことです。明治以前は旧暦のため宮内庁の定めた祭日が記載された「宮中祭祀」を参考にしています。☆「宮中祭祀」の本については、以下をご参照くださいませ『神代在今の国』このブログを始めた頃、1年間祭日について取り上げたのですが、その時に一番参照したのが『宮中祭祀連綿と続く天皇の祈り』中澤伸弘著、展転社発行です。これは薄い本…ameblo.jp御歴代の崩御された天皇が124代いらっしゃいますから、祭日の日数がどれだけあるのかと以前数えてみましたら1
今回の車中泊の旅は、10月30日(赤線)と31日(青線)に行ってきました。パソコンを変えたら切り取りが上手くゆかず、スマホのスクショにしたら、こんな大雑把になってしまいました。秋の旅は正倉院展の見学を恒例にしているので前売り券をネットで購入し、翌日参拝する西芳寺も往復はがきで申し込みしているので、変更はできませんので体調を整えて過ごしました。30日は良い天気で朝から晴れていて、家を6時半に出て東に見える金華山と岐阜城に駅前のビルと県警本部の建物に見送られながら長良川の右岸堤防道路を下流
新しくブログを更新しました。『タイトル:仁徳天皇陵古墳の巨大化要因に関する専門的検証:古代王権の政治的象徴と考古学の確立された見解』仁徳天皇陵古墳の巨大化要因に関する専門的検証:古代王権の政治的象徴と考古学の確立された見解第I部:問いかけの検証と主流学説の確立(論理的基盤の構築)1.序論:大仙古墳を巡る仮説と考古学の立場仁徳天皇陵古墳だいせんりょうこふん(学術名称:大仙古墳)は、エジプトのギザの三大ピラミッドと並び称される世界最大級の墳墓ふんぼであり、その..
石破さんが言っていた2万円は無くなっちゃったので、今はお米券が出るのを喉から手が出るほど待っているんですが、いつになったら貰えるんでしょう?我が家の米櫃は、もうすぐ底を尽きそうです。一言で言えば、「もうマジヤバいって!!」ん~、そんな感じですね(笑)いやいや、笑い事ではない。米5キロ一袋買ったら、二日分の食費が軽く飛んじゃうんだぜ?仁徳天皇は、居ないからなあ。(ノД`)・゜・。
熊襲は列島を席巻していた九州倭政権と「蛮族」の実像内倉武久1943年生まれ鹿児島県出身新聞記者として、奈良、京都、兵庫、島根、香川、福岡などで取材活動1987-92年版『朝日年鑑』「文化財・考古学」欄執筆本を読んで、自分が残しておきたいところのまとめ(青字)です熊襲の意味は熊はおぞましいの意味か、あるいは勇男いさおの意味熊襲の語義は「勇猛なる人」「熊」は「神聖な」意味神聖な氏族曽於「神」くまと読む「熊襲」は、本来「熊曽於」征服者
◆◆◆くじょうみやび日録第二期◆◆◆万博の終わった大阪へ行ってきました、後編。主な行先は「堺」です。◆仁徳天皇陵古墳一度は行っておきたかった、日本一の大古墳!理想的すぎる仁徳天皇(『週刊新マンガ日本史02』朝日新聞出版、2010年)少々細かい話をすると、「仁徳天皇陵古墳」の呼称は、天皇陵か否かをめぐる宮内庁と学者らとの折衷案だそうです(世界遺産の構成資産としてもこの呼称が使用されています)。まずは堺東駅すぐの市役所展望ロビー(無料)で古墳群
その男は、会社に何十年と勤め、それなりに大きな仕事もこなし、会社に利益をもたらし重役にまで進んだ。定年が近づいたころに社長が代わり、若いイキのいい連中が登用されるようになった。すると、その男のかつての功績も忘れられて、大きくなった会社はもともと大きかったのだと当然のように思われるようになってしまった。新社長と若い連中は、会社と自分の将来ばかりを見ていて、過去のことなど見ようともしない。会社はいくつもの山坂を乗り越え、風霜に耐え、いくつかの成功と失敗を繰り返しながら、奇跡的にいまにたどり着
呪われなかった塩の敦賀の塩の話が奈良大阪になってるその武烈天皇にたたれた豪族平群氏がの一族が唐に渡ってチャンパ王国に漂流して無事に日本に帰国して武烈天皇が日本書記では仁徳天皇ですから奈良大阪のどっかの天皇のための貴重な塩だったんですねチャンパ王国てベトナムだったんだ
石割峠からはもちろん下りになります。下りは楽ですが、雨上がりなので足元が悪く滑りやすいのでより注意して降りていきます。しばらくすると道標がありました。「右いせみち左原山」とあります。この先原山という所へ向かう道と分かれるようです。上田口、諸木野方面が、伊勢本海道です。まっすぐ行くと原山右手に下っていくと伊勢本海道の宿場上田口です。急な坂を下りていくと、舗装された道に出ます。しばらく歩くと、姫隠岩と書かれた大きな岩があります
今回は、第16代・仁徳天皇の継室・八田皇女(やたのひめみこ)について、歴史的事実に基づきながら、🐳と🦉が楽しくナビゲートします!兄の苦悩と遺言、嫉妬深い皇后、そして静かに流れる皇女の運命――八田皇女の生涯を、年表とともにじっくり解説します✨目次📜年表(八田皇女の主な出来事)第一章:皇女の誕生と血筋🏯応神天皇の娘として生まれて第二章:宮廷の嫉妬と静かな対立👸皇后・磐之媛命との確執第三章:皇后としての静かな時代八田皇女の名代とその影響🏘️名代とは?🧬八田部氏の系譜
昨日、郵便局から入金した絵が届きました。民のかまどはにぎわひにけり新古今集の仁徳天皇の歌絵です。この画題の掛け軸はたくさん見ます。ただ、多くが、平安時代の装束姿。田中訥言のと寺崎広業に師事した須田霞亭の仁徳天皇の歌絵は、上代の衣装姿、気に入っています。さて、総理大臣は、⋯⋯。民のかまどは、潤うでしょうか?桜耳のぶちが来ました。ぶちに、キャットフード。家内から下ろしたお茶で、一休みでした。では、また。
愛知県名古屋市中区栄別表神社県社仁徳天皇応神天皇武内宿禰命神道若宮八幡社に月詣りと御朱印を頂きました🙏
佐原の山車の巡行は、「予定では10時」からですが、地区により早い所もあったりします。東関戸地区の「大楠公」です。大人と一緒ですね。子供用の衣装があるのがすごい。こちらは上新町の「諏訪大神」です。各地区子供用の衣装があるんですね。まだ実施地区の「通行止め前」の時刻のため「交通整理」をしながらの巡行で、車も山車も安全確保に大変です。上中宿地区の「源為朝さん」です。こちらは「巡行前」でした。関係者出勤中です。お囃子も乗りっぱなしで大変です。南横宿地区の「仁徳天皇さん」です。前の
以下のブログ(愛知・一宮市立中学校長による)は、教育委員会からの指摘「神話をあたかも史実のように記述しており、削除すべき。」という指摘で削除されたというが、日本の国の形をよく説明されているので、転載させていただいた。確かに神話は、歴史上の事実とは、限らない。しかし、世代から世代に長く民族が語り伝えた神話は、真実を語る。大切な内容でなければ、誰が語り伝えるであろうか。校長先生、ありがとうございます。(愛知県一宮市の当時の教育委員会のこの決定を、杓子定規で無教養と言う。最初の文
地上約100mの眺望!【気球から世界遺産を見よう】百舌鳥・古市古墳群を一望👇-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。www.youtube.com2025/10/03堺市は、世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」を空から一望できる観光気球の運行を10月4日から開始します。発着点は大仙公園で、定員30人、地上約100メートルまで上昇し、大山古墳(仁徳天皇陵古墳)などを眺望
八幡市野尻の若宮八幡宮に行きました。木津川が横に流れていて、流れ橋に近いところです。初めて来ました。もみじが少し紅葉しかかっています。長い参道になっています。拝殿拝殿をくぐると本殿へと行くことができます。祭神は、八幡神(応神天皇)の子である仁徳天皇です。応神天皇、仁徳天皇、覚道雅印子命の三神が祭神です。本殿の裏の方は、竹藪になっています。裏は、八幡市の体育館があります。普通の神社なら狛犬がありますが、ここの神社は石塔が左右にありました。
境内の涌井戸の水面に映った月が綺麗だったことから「月見岡」と名付けられたと伝えられる。<主祭神>3柱応神天皇神功皇后仁徳天皇※こちらも仁徳天皇が祀られる!創建年は、源義家が奥州征伐の際に戦勝祈願をしたとのことで11世紀中ごろには存在していた。鳥居前狛犬は、向かって右が子獅子向かって左はシンプルに尾が綺麗1865年生まれつづく
創建年は、なんと西暦110年と言われかな~り古い。ヤマトタケルの東征に従った鹿島神宮の神裔がこの地にタケミカヅチを祀った。派手さ・華やかさはないがただならぬ雰囲気・空気感を感じる。霊木の存在感も半端ない。<主祭神>5柱そうそうたる面子です!仲哀天皇神功皇后応神天皇仁徳天皇タケミカヅチ※この地に、仁徳天皇を祀るとはやはりこの地はただものではない!まず、最初の鳥居をくぐったすぐに鎮座する狛犬木々に隠れて一見わかりにくい生まれ
彌栄神社の歴史…少しだけです🙇🏻文禄年間(1592年−1595年)に出雲国意宇郡の熊野大社から勧請したのが創建とされる🧐元々は「牛頭天王社」と呼ばれ旧・木野村(このむら)の氏神であったが明治5年(1872年)に「彌栄神社」に改称しまた村社に列格された明治43年(1910年)に旧・岡村の御館(みたて)神社(祭神・仁徳天皇)を合祀した《彌栄神社花御朱印》−境内風景−
私、この記事、怒りを通り越して、呆れ果てて、見るに見かねて書いてます。最初に言うておきます。この記事内容、絶対、僕みたいな、民間の人間が書く内容違います。正直、書いてて、アホらしくなります。こんな、語るまでもない大前提の事を、いちいち文章にしないといけない時点で、令和の日本は完全に末期です。私も、よっぽど、この記事をいちいち書くのを止めようかと、何回も手を止めて、ため息をその度に十回ぐらいつきながら、それでも、日本国在住の日本国民の皆様方に周知するが、使命かと思い、
仁徳天皇大和朝廷が飛騨討伐先住民族首領両面宿灘を難波根子武振熊命に退治させ難波根子武振熊命なんだこいつはとまたまた思うのです大阪だけにまた変なん排出しよったんか根子だから地下におるなんかわけわからんやつぽいのかなあ根子なんか熊なんか猫と熊で猫熊なのかもう少し分かりやすいのにしてほしい
『平城山(ならやま)』作詞〜北見志保子(1885〜1955)人恋(こ)うは悲しきものと平城山にもとおり来つつ耐え難かりき古(いにしえ)も夫(つま)に恋いつつ越えしとう平城山の路に涙落としぬ◇恋をすることは悲しきことであると平城山をさまよいながら耐え難い気持ちになった。。その昔仁徳天皇の皇后磐之媛命も夫に恋をしながら越えたと言われる平城山の路に私もまた涙を落とした。。昔も今も恋することは悲しきものなのかもしれませんね
今日もブログをご覧頂きありがとうございます難波神社⛩️にも行く事が出来ましたご祭神仁徳天皇にんとくてんのう大阪の翌日はこのように天気に恵まれました