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和光とコラボのフェイラーのハンカチが届いた。雪の夜の銀座の時計塔がモチーフだ。雪の結晶と月が輝いて素敵。和光って日曜日がお休みだった記憶がある。銀座で待ち合わせと言えば、学生時代までは和光の前だった。今は街角で待ち合わせることもなくなってしまって、レストランとかカフェとかホテルのロビーとかそんな場所ばかり。美しかったり楽しかったり、季節ごとに変わるショーウインドウを見ながら待っていたのが懐かしいなあ。和光でお買いものするのは両親と一緒のとき。そう言えば友人
いやはやいやはや・・・だいーぶ雪が積もりました・・・久しぶりかもしれません。こんな日はひとまず雪かきをしたあと、コタツに入ってお茶を飲みながら読書でもするインドア生活がいいですね。伊吹亜門さんの新刊です!!個人的に最近ちょこちょこミリタリづいてるわたしなのでグッドタイミングというか。二・二六事件を背景にした歴史ミステリーです。この頃って、本当に幕末の尊攘志士たちが斬り合いしていた頃と世相が似ています。蹶起した青年将校らのスローガンが「尊皇討奸」で。陸軍歩一・歩三
こんにちは。西きほこです。今日はこのあと引っ越しを控えていまして、興奮して朝早く目が覚めたので家族の寝室からそっと抜け出し、ブログを書いているところです。YouTubeに上げている動画を見てくださっている方は「西さんは最近、結婚したのだな」と知ってくださっているかもしれません。12月末に婚活アプリで出会った方と、3月に入籍しました。前の旦那さんとは、子供が2歳の時に離婚し、それから6年近く、シングルマザーとして懸命に歩んできました。そんな中での、突然の電撃結婚。人生
連休最終日は、これまで行きたいと思っていて未踏だった「江戸東京たてもの園」に足を運びました。小金井公園の一角にあり、都内の江戸時代~昭和中期までの文化的価値の高い建物を移築した、東京の明治村みたいなところです。武蔵小金井駅からバスで10分ほど(徒歩でも可)、涼しい日ではあったが、都内より気候がよいのか、小金井公園は木々も緑地も緑が深い。ウィーン周辺を思い出します。たてもの園は入場料400円、職員もボランティアの数も充実していてまめに声をかけてくれ、サービスは上々。展示物の写真撮影もOKで、ス
昭和時代には、二度ほど維新があった。一つは、1970年(昭和45年)11月25日三島由紀夫氏によるもの。もう一つが、1936年(昭和11年)2月26日の青年将校によるもの。未完となっているがその魂は永遠に語り継がれている。辞世我れ狂か愚か知らず一路遂に奔騰するのみ野中四郎(のなかしろう、1903年(明治36年)10月27日-1936年(昭和11年)2月29日)は、大日本帝国陸軍の軍人。最終階級は陸軍大尉。2・26事件自決。
昭和天皇は「朕ココニ緊急ノ必要アリト認メ枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ帝國憲法第八条第一項ニヨリ一定ノ地域ニ戒嚴令中必要ノ規定ヲ適用スルノ件ヲ裁可シヲ公布セシム」との緊急勅令のお考えを示し、これを受け枢密院は27日午前2時40分に戒嚴令施行を決定、午前3時50分をもって東京全市に“戒嚴令”が公布、午前8時20分に“奉勅命令”は天皇の允裁を得た。この戒嚴令は、同年7月18日午前0時をもって戒嚴が解かれるまでの142日間布かれることとなる。但し、「戒嚴司令官ハ三宅坂付近ヲ占據シアル將校以下ヲ以テ速ニ現
気づきや反省そして希望を与えてくれた一冊の本『置かれた場所で咲きなさい』元ノートルダム清心学園理事長のシスター渡辺和子さんの書かれている言葉が心に響きましたいつまでも忘れたくないその言葉にピンクの蛍光ペンで線を引きました本の中はピンクの線だらけになりました『置かれた場所で咲きなさい』の第4章に2%の余地という題名の箇所があります礼拝へ行き時々でも聖書を読んでいたけれど私はこの2%の余地を持てていなかったとあらためて気づかされ考えさせられま
「今夜、腹を切る」「覚悟はしておりました。お供をさせていただきとうございます」二・二六事件突発3日目の夜、事件に加わらなかった中尉30歳とその妻23歳。新婚という理由で、蜂起に声が掛からなかった。収束後には親友らを裁く立場になってしまう。いや、明日は討伐に出ることになるだろう。彼らに銃を向けるなんてことはできない。明朝発見された時に見苦しくないようにと、用意周到な様は健気でもあり、優雅でもある。そして、直前の「生」を心ゆくまで堪能する姿や、最後の実行シーンの描写。本を持つ
伊吹亜門という作家はまったく知らなかったのだが,新聞の書評欄の書評を読んで食指が動いた。早速図書館で検索してみると何と60人以上もの予約が入っていて,仕方なく購入することに。歴史上の実際の出来事をベースに虚実綯い交ぜになったミステリーで,結構好きなジャンルの物語である。1935年8月12日,陸軍歩兵中佐・相沢三郎が陸軍省軍務局長・永田鉄山少将を陸軍省の永田自身の部屋で斬殺した歴史上有名な事件が物語の発端である。そこから,1936年2月26日の青年将校たちの決起,つまり「二・二
風邪気味の時の仕事はしんどいなー。なんだかうまくできなかったー。なかなか元気出ないなー。明日休みたいなー。休まないけどー。……失礼しました💦こういう時は日常とまったく関係ないことを見たり考えたりして時を過ごそうと思います。(いつものことだけど💦)ということで、今回書こうと思っているのはこちら。河出文庫の『英霊の聲』は、他に『憂国』、戯曲『十月の菊』、随筆『二・二六事件と私』が収録されています。どれも前に読了していたけれど、歴史的な事実を知った上で
本日(5/15)は、今から79年前の、1932(昭和7)年5月15日、「五・一五事件」が発生した日である。この日(1932/5/15)、犬養毅(いぬかい・つよし)首相が、首相官邸で海軍青年将校に暗殺されるという、衝撃的な事件が起こった。その日付を取って、この大事件は「五・一五事件」と称されている。昨年(2020年)の2/26、私はこのブログで、「二・二六事件」についての記事を書いた。「五・一五事件」と「二・二六事件」は、何かと比較される事が多く、どちらも戦前の「昭和史」を語る上
現在、渋谷地方合同庁舎、渋谷区役所、渋谷区神南小学校のある辺り一画(渋谷区宇田川町)には、嘗て赤煉瓦塀に囲まれた東京陸軍刑務所があった。“二・二六事件”において蹶起した将校たちは勿論、起訴された者は71名におよび、首魁(首謀者)は事件終結後にここに収監され、今から88年前の昭和11年7月12日にその先組がここで刑場の露と消えた。先ずは、事件に至る背景あたりから触れてみたいと思う。昭和4年(1929年)10月に起こった世界恐慌の影響は、日本経済にも甚大な影響を及ぼし、とりわけ生糸の対米輸
2月26日と言えば、二・二六事件。1936年2月26日、陸軍青年将校らが決起しましたが、2月29日には鎮圧されたクーデター未遂事件。その二・二六事件の今も残る傷痕を、2年前の3月に見ることができました。場所は、1929年に建てられた総理大臣公邸(旧総理大臣官邸)!正面玄関ガラスの銃痕は、二・二六事件の際に襲撃された時についたもの。玄関入ってすぐの赤絨毯を捲ると焦げた跡も、押し入った将校らが、ドアを壊して入ったので寒さ凌ぎに、ここで火を焚いて暖をとった時についたものだそうです。国
~承前~三島由紀夫にとっての北一輝とはどういう人物だったのだろう。三島が昭和天皇に対する冷徹さを北一輝に嗅ぎとり、北から遠ざかろうとしていたことは、「豊饒の海」第二部の「奔馬」の主人公を、当初予定していた北一輝の息子「大輝」から、激越な国体論者である飯沼勲(大東塾の塾長影山正治氏がモデルと言われている)に変更したことに鑑み明らかである。「私は、北一輝の思想に影響を受けたこともなければ、北一輝によって何ものかに目覚めたこともない。ただ、私が興味を持つ昭和史の諸現象の背後にはいつも