ブログ記事1,531件
大地震後、初めて、断水が解消した家庭の映像で、特に印象に残っているのは、おばあさんが、水道の蛇口に向かって、手を合わせて、お礼を言っていた姿です。…もともと、信心深い方なのでしょうが、水の有り難さ、それも、蛇口をひねればいつでも水が出てくる有難さが、身に染みた末の、「水道の蛇口への礼拝」だったのでしょう。蛇口に向かって手を合わせる、おばあさんの謙虚な姿を見て、ハッと気付かされることが、ありました。~失ってみて初めてその有り難さが分かる~その最たるものが
〈Gー2肝移植手術に向けて〉移植手術三週間前になり、手術に向けて、家族と移植医との面談が、行われました。今回の手術の中心となる、血管外科のO医師は、よく通る声で、説明を始めました。「今回の移植では、ドナーの年齢が、56歳ということで、まだ、そんなお年ではありませんが、肝移植の世界では、40歳以上の方を、高齢者ドナーと呼んでいます」「次に、今回の手術は、通常よりも、長時間になります。成功率も、下がります。ちなみに、この病院で、術後、一年以内に
「ああ、これこそが、失ってみて初めて健康の有り難さが分かるっていうことなんだなあ」…そう、しみじみと感じました。私が、2度のドナー体験で得た、最大の収穫だったのかもしれません。10年前(2014年)の私は、とにかく必死でした。その必死さは、「なんとしてでも、夫の命を救いたい!」という、執念にも似ていたので、断られても断られても、諦めずに、食い下がり続けました。そんな10年前の、なりふり構わなかった自分を、今はなんだか、「いじらしい」と感じています。明
ブログ友達の皆様。いつも、妻に想いを寄せて頂き、ありがとうございます。残念ながら妻は2020年5月5日午前1:17分天国に旅立ちました。お知らせが遅くなり申し訳ございません。妻が亡くなって、もうすぐ2年。3回忌を迎えるにあたり、新たなプロジェクトに挑戦させて頂く決意をしました。入院中、どんなに辛くても弱音を吐かず周りを照らし続けた妻。そんな妻の生きた証を残したくて今回のプロジェクトに挑戦します。骨髄バンクのドナー登録が増えれば、患者は治療に家族は看病に安心して専念する事ができ
〈Gー3肝移植手術に向けて〉他にも、この最終面談で、判明したことが、二つあります。「肝移植手術の際に、支障があるため、レシピエントと、ドナー双方の胆のうが、摘出される」ということと、「肝臓は、切り取られても、数か月で、元の大きさに、復元する」という、驚くべき事実です。こうして、緊張と驚きの最終面談を終えると、その後は、手術日に向け、医師からは、「くれぐれも、体調を崩さないようにしてください。お二人のどちらかが、体調を悪くしても、移植は出来ま
〈Fー6最後の賭け〉「メリットは、二つ。お二人の血液型が、同じA型だということ。もう一つは、再発の可能性は、0%だということです」「先生、移植が成功したら、主人は、元通りの生活が送れるのですか?」「それはもう、激変します。夢のような再生が起きます」『夢のような再生』…この言葉が、以後、移植に挑む私の、エネルギー源となったのです。◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇この10日余りのドタバタ劇で、医師と向き合った私が、感じたことが、三
〈Aー3はじめに〉早いもので、夫が55歳の時に、「肝硬変非代償期」と診断され、入院してから、6年が過ぎました。その後、肝硬変の恐ろしさと闘いながら、ぎりぎりのタイミングで、生体肝移植に漕ぎつけ、15時間半に及ぶ手術が、成功しました。けれども、肝移植の成功を喜んだのも束の間、夫は、病院内での細菌感染から、敗血症を起こし、再び「生死五分五分」の、危険な状況下に、戻ってしまいました。急激な腎機能低下(急性腎不全)により、人工透析が必要となり、シャ
〈Fー3最後の賭け〉「馬鹿なことを言っちゃいけません。ご主人の今の状態では、空港にすら行けませんよ。仮に、行けたとしても、飛行機に、絶対搭乗させてもらえません。私だって、外国で治療を受けさせて、患者を連れ帰ったことが、あるんですよ。可能ならそうしますが、無理です」「でも、そうするしかありません。このまま死を待つことは、できません」「奥さん、ほとんど全ての方が、移植を待ちながら、亡くなっている。それが現状なんですよ」…未成年ドナーは駄目。海外移
〈Aー4はじめに〉それでも、退院後は、日々の外出歩行訓練で、体力をつけ、肝移植から、1年4カ月後、今度は、生体腎移植を受け、人工透析からの離脱を果たしました。その生体腎移植から一年後、夫の社会復帰が、可能になり、再就職活動を開始。58歳という年齢でしたが、それまでのキャリアが評価され、フルタイムで、勤務することになりました。新たな仕事人生がスタートしてから、三年が過ぎた現在、元気に出勤する夫のスーツ姿を見て、「一級の身体障害者手帳」所持者だと、気
〈Bー4初めての入院〉▼次男から、入院中の夫に届いたメッセージ病状を聞いたよ。重度の肝硬変らしいね。父は、仕事とも病気とも、青二才の自分には理解できないほど、つらい目に遭いながら、奮闘しているのに、苦労もしないで、タダ飯を食っている自分が、情けない…病状が、厳しくなったならば、いつでも自分が、肝移植のドナーになるからね。父には、長生きして欲しいし、おいしいものも、もっと食べて欲しいから、肝移植は、そのうち絶対に受けてもらうよ。早死
〈Fー1最後の賭け〉いよいよ、追い詰められた私は、主治医がいる消化器外科に、電話をして、「もう一度、面談をお願いしたい」と、申し出ました。決定権があると思われる、S医師との三回目の面談で、S医師は、「どのようなお話でしょうか」と、私に、話を促しました。「息子は、未成年なのですが、当初から『ドナーになる』と、言っています。息子に、ドナー検査を、していただけませんか?」「20歳未満は駄目です。息子さんは、おいくつですか。17歳では駄目です。認めら
〈Bー5初めての入院〉当時、16歳で、県外の寮で生活していた、息子の言葉は、利尿剤が効いて、お腹が、ペッタンコになった夫を、見ていた私たちには、「なんとまあ、大げさな」と、感じる内容でした。ですが、病状を一番、的確に把握し、非代償性肝硬変に、至ってしまった、父親の病状は、不可逆的で、起死回生の一手は、生体肝移植しかない、と、分析できていた息子が、一番冷静な、家族だったようです。夫の初めての入院は、10日間で退院、という結果になり、また、元の
〈Fー2最後の賭け〉「えっ、本当ですか?いえ、今までも、これからも、10代のドナーを、許可するつもりはありません。そのホームページの内容も、知りません」「でも、臓器移植年齢は16歳以上と、移植学会の規定にはあります」「もし、それを許してしまったら、うちの病院に、ドナーが殺到するかもしれないし、17歳のドナーを認めるか否かは、我々の手を離れて、法医学の領域になり、そこでの検討議題に、上げてもらう必要がある。時間がかかるだけです。とても間に合いません」
〈Bー3初めての入院〉結果は、非代償性肝硬変(もう治ることのない肝硬変)との診断で、即入院。このころ夫は、まだバリバリ、仕事をしていましたから、病室に、パソコンを持ち込んで、半分、病人半分、仕事人状態でした。初めて投与された、利尿剤は、とてもよく効いて、一日ごとに、体重が500グラムずつ減り、それとともに、膨張していたお腹がへこんできて、「退院する日も近いね」と、二人で、喜び合っていました。日々、良くなっていく夫を、見舞うのは、うれしく、
〈Fー4最後の賭け〉「奥さんをドナーにして、やりましょう。それが一番、現実的です。急いで書類を作って、倫理委員会を通し、スケジュール調整をします」ついに、移植主治医が、重い決断をしてくれたのです。「ありがとうございます。本当に、ありがとうございます」夫の命を救うための、鉄の扉が開いた瞬間でした。その時、主治医が、「奥さんが、あんまり言うから…」と、ボソッとつぶやいたのです。私の必死の食い下がりがなければ、と思うと、怖いもの知らずの、
〈Bー2初めての入院〉全身に赤いボツボツが出現して以降、夫は暇さえあれば、ゴロゴロと横になるようになりました。昼食の休憩時間には、会社から自宅に戻り、昼食もろくに食べずに、ひたすらゴロンと横になり、また仕事に戻る、という日々。そんな状態でも、夫は頑なに、精密検査を拒み続けました。「悪いと分かっているから、病状告知が怖い」「入院、治療となれば、会社が立ち行かなくなる」という心理が、病院行きを妨げていました。黄疸とともに、夫のお腹が少しずつ、
〈Dー4肝臓の提供条件〉翌日、長女が「話がある」と、思い詰めた顔で言うので、「何?お父さんのこと」と、訊くと、「私が、ドナーになる」と、言います。「でも、妹がドナーになるって、言ってくれているよ」と、返すと、「ううん、私がなる。私がお姉ちゃんなんだから」と、言うのです。手の中のハンカチを、ギュッと握りしめて、下を向いて…。長女は、大変な怖がりで、全てに対して、慎重な道を選択する娘でしたから、崖から飛び降りるような、決断だったと思います。長
『皮膚の赤紫の斑点』にしても、『腹水』にしても、その時は、肝硬変から生じる症状とは、思いもせずに、皮膚科で処方された薬を、塗り続け、ワンサイズ大きいズボンをはいて、夫は毎日、出勤していました。改めて、その頃を思い返すと…夫の変化で、今でもよく覚えているのは、お昼休みに自宅に立ち寄って、ゴロンと横になっていた姿です。それまでは、朝、自宅を出れば、夜、帰宅するまで、自宅に立ち寄ることなど、ありませんでしたし、何よりも、お昼(ランチ)を2~3分で食べてすぐ、次
諦めきれずに、駅の時刻表をずっと見ていても、あるはずだった時刻の、列車運行は無く、次の列車は、2時間待ち…代替手段の、バスやSL列車もありません。年末年始ダイヤで、消されてしまったのか、直近のダイヤ改正で、運行列車が減らされたのか、はたまた、私のチェックミスなのか…「あ~あ、ショック、ショック」と言いながらも、どうすることも出来ません。~飲食店もなさそうだし、あっても、お正月だし、どこか参拝するところはないかな?~と、駅舎の横にある、『家山案内図』
「脳死ドナーがいるのに、移植が行われずに終わるケース」つまりは、臓器提供の意思を示しているドナーが、せっかく存在しているのに、「うちの病院では、臓器提供や臓器移植手術をする体制が、出来ていないので、残念ながら…」と、大切なドナーの意思も臓器も、待ちわびるレシピエント側に、届くことなく、立ち消えになってしまうケースが、多発しているという、移植医療施設の、体制未整備の問題。これも、早急に解消しなければならない、課題であることは、明らかです。言うまでもありま
当事者そっちのけの移植の正義を、発表するだけでは、現実の惨状を払拭することなど、とても出来ません。5学会の共同会見にしても、コメントの発出にしても、彼らの目線の先にあるのは、マスコミと世論であり、マスコミの情報発信力に便乗して、自分たちのまっとうさを、世間にアピールしているようにさえ、見えてしまいます。「臓器不全」という、重篤症状を抱えながら、「死の恐怖」と、向き合いながら、それでも「生きたい」「生きてほしい」と喘ぐ、患者と患者家族にとっては、一日一日
ここで、先日取り上げた、内閣府調査で用いられている、「意思表示カードの所持率」について、補足説明をしておきます。1997年の臓器移植法施行により、脳死ドナーになるためには、『本人の書面による意思表示が必要』と、なりました。そのため、統一書式の意思表示カードの普及が、急務の課題となり、当初置かれていた公的機関だけではなく、病院・薬局・郵便局、更には、1999年に入ると、コンビニエンスストアやスーパーにも、意思表示カードが、設置されるようになりました。その
雨はすごいし、こんな急な階段、踏み外さないかなあ。…心の中は、あとずさり状態なのですが、ここまで来たら、途中でやめるわけにもいかず、恐る恐る、鉄板階段を上り続け、やっと上り切ると、今度は、木の根っこが浮き出た、土の道に…雨で濡れた木の根っこは、スベる~スベる~キャーキャー言いながら、何とか転ばずに通過すると、その先すぐに、展望所がありました。展望所には、誰もいませんでしたが、我々より遅れること5分…こちらに向かう、ガサゴソした人の気配を感じたので、拍手
この旅行では…都会ではありえない、長い時間、次の電車やバスを待ちました。小銭を握りしめて、寒風の中、電車やバスを待っていました。ボーっと何も考えず、ひたすら、眼前の風景を眺める時間を、何度も過ごしました。「効率の良さ」ってそんなにも、人を幸せにすることなのかなあ?そんな、今更ながらの疑問や気付きを、お土産として、持ち帰ってきました。中でも、若き車掌くんの仕事ぶりは、忘れることができません。一番印象に残ったのは、彼の仕事のモチベーション、~大井川鐵道へ
『越すに越されぬ大井川』という、馬子唄のイメージからは、かけ離れた、大井川下流。土砂が堆積している、大井川下流は、お世辞にも、綺麗な川とは言えません。それでも、大きな河川沿いを走る、大井川鐵道本線は、独特の山林風景の中を走ります。車窓を流れる風景は、(言い古された表現ですが)古き良き日本の原風景です。さてさて、事前学習で学んだ、縁起の良い駅が、近づいてきたぞ。まずは、日切(ひぎり)駅。次に、合格(ごうかく)駅。そして、門出(かどで)駅。…この辺りの線路沿
昨日の抜けるような青空から一転して、今にも降り出しそうな、曇天の朝。事前学習したメモ用紙を、上着のポケットに入れ、寒さ対策のカイロも入れ、ホテルのビニール傘を借りて、出発!JR金谷(かなや)駅と、大井川鐵道の始発駅である金谷駅は、つながっていて、昔ながらの切符を、現金で購入し、駅員さんに、鋏を入れてもらい、まずは、2両編成の大井川本線の電車に、乗り込みます。乗客は、全部で10人程度。運行本数が少ないので、毎日欠かさず乗り降りする、地元の乗客らしき人は、
行きは、大ぶりの雨でしたが、帰りの赤いミニ列車が、奥大井湖上駅から、始発駅の千頭まで、行きとおなじルートで戻る頃には、天気は、雨から一気に晴れへ。2022年秋の、大規模な土砂災害で、不通区間となっている、大井川本線の、千頭(せんず)~家山(いえやま)の間は、電車に乗れないので、日に数本運行している、町営バスに乗って、やれやれやっと、家山駅に帰り着きました。「あとは、大井川本線の電車に乗れば、スタート地点の金谷(かなや)駅に戻れる」と、ここまで、予定通りの日
奥大井湖上駅周辺で、一番見晴らしが良かったのは、(枯れ草が生い茂った展望所ではなく)駅のすぐ後ろにある階段を、上ったところにある、ログハウス風の休憩所でした。私たちと同時に、湖上駅に降り立ったほとんどの乗客は、更に終点を目指して、次の電車に乗っていったので、残ったのは、わずか数人。数人しかいない休憩所で、帰りのミニ列車が来るまでの、小一時間、ボンヤリと、湖上駅の風景を眺め続けていました。快晴ではなかったけれど、小雨降る冷気の中で、南アルプス
ですが、両替の煩雑さは同時に、キャッシュレスから解放された感覚、~運賃と小銭が釣り合っていると、確認できる身体感覚~を、久しぶりに味わうことに繋がり、なんだか無性に、ほっこりしました。「効率重視の日常のせわしなさから、ひと時離れてみたい」と、心のどこかで願っている人々にとって、『旅をする』という、非日常体験は、「効率重視のせわしなさ」を、打ち砕くものであればあるほど、心に残るように思います。さあ、いよいよ楽しみにしていた、千頭駅始発の井川線専用の、幅の狭い
脳死ドナーや心臓死ドナーは、日本国内の至るところで、日々、発生しています。それなのに日本では、ただでさえ、貴重な!本当に貴重なドナーの意思を、みすみす無駄にしている現状が、放置され続けてきました。この現状を変えるためには、体制未整備の5類型施設を、一つでも多く、整備済みの5類型施設へと、グレードアップして、円滑な移植医療体制を、確立しておく必要があることは、誰の目にも明らかです。この問題(医療機関の体制整備)こそが、厚生労働省や関係学会が、連携して行わ