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1973年4月20日の群馬県吉井町体育館の興行を最後に日本プロレスは興行を停止しました。事実上の崩壊だね日本プロレス社長の芳の里は崩壊を見考して残っている選手を力道山家を通して全日本プロレスで預かってもらおうと動いていたのだ。そして力道山家や日本テレビ等々の仲介で全日本プロレスへの合流が決まった。日本プロレス残党の受け入れはジャイアント馬場さんとしては迷惑な話しかなかった。しかし、日本テレビや力道山家のバックアップを受けている立場として渋々受け入れた。馬場さん、全然笑ってないね馬場
取り上げるのが遅くなったが、『KAMINOGE』最新号にテリー・ファンクと天龍源一郎の対談記事が掲載されていて、とても興味深く読ませてもらった。(その他、葛西純のインタビュー記事は白眉だった)天龍のプロレス入りの動機が、1976年6月に蔵前国技館での「テリーvsジャンボ鶴田」のNWA戦だったり(私もこの試合でテリーの格好良さに魅了された一人です)、テリーがNWA王者時代にはジャック・ブリスコもテキサス州アマリロのファンク道場でコーチ役を務めていたり、興味深い話が盛り沢山だった。中でも、一
ジャイアント馬場と並んだらよくわかります。力道山が実寸176㎝だったのを180㎝を公称としたために回りのレスラーも4㎝サバを読むようになりそれが後々まで続きました。馬場も実寸は205㎝という事になりますが、坂口はプロレス界では非常に稀な実寸を公称としています。196㎝に4㎝足して200㎝にしても良かったんじゃないでしょうか?201㎝公称のハルクホーガンと並んだ時も一緒でしたし、200㎝公称のボブサップの方が低かったということがありました。体重もサバを読むプロレス界において坂口は公称125
少し前のブログに載せた、故・ジャイアント馬場さん&アントニオ猪木さんの画像です。猪木さんのブリーフタイプのタイツが黒じゃないことから、半世紀くらいより前って推測されます。、いや~、若いな!なんて思いながら、ライティングと股間を見て想像力を働かせました。体に比例してそう!猪木さんが190㎝くらいかな?んで、倍賞美津子さんとの子作りは出来ています。股間が体に比例してたら?そこから、都市伝説として馬場さんにゲイ疑惑が生まれます。んなこと言ってたら、画像の若きアンドレ・ザ・ジャイアント
『チャンピオン・カーニバル2024』の開幕戦となるこの後楽園ホール大会。一言でいえば、やっぱり面白い!その理由は簡単明瞭、若き新世代勢が成長&台頭し、リング上に活気が漲っている。元々、現在の日本マットで唯一、嘘偽りない本物のヘビー級が集結しているこの全日本プロレス。そこにフリー及び外国人のヘビー級の猛者たちもやってきているのだから、これで面白くならないはずがない。この年の公式戦初試合となった諏訪魔vs斉藤レイなどは、ヘビー級ならではの迫力あるぶつかり合いを随所で見せていた。単純なタック
日本プロレスの末期、つまりジャイアント馬場が抜けた後の真のエースは誰だったのか?坂口征二という声が圧倒的ですが、少数ながら大木金太郎という意見もあります。また坂口と大木の二枚看板だったと言われることもあります。本当は誰だったのか?これは昭和48年正月の東京スポーツです。表紙は前世界チャンピオンジンキニスキーと戦う坂口。2枚目は広告で日本プロレスの新年の記念撮影。前列に注目。左に吉村右に大木を従えて坂口が真ん中じゃないですか!これで坂口征二が大エースだとハッキリしました。前年のワールドリ
このところ週末になると雨ばかりで、我々サンデーアングラーはなかなか釣りに行けませんね。今日も雨なので、YouTubeを見ながらゴロゴロしています(笑)僕は釣り以外にも昭和のプロレスが大好きなんですが、馬場と猪木で育った世代としては、その全盛期はいかなるものだったのかが気になるところです。そんな感じで今日もYouTubeで古いプロレスを見ていたのですが、せっかくなので今回は馬場と猪木の全盛期について少し書いてみようと思います。一般的にジャイアント馬場の全盛期は、日本プロレス時代のインターナ
こんにちは。北陸地方公式アンバサダー、「頭隠して腹隠さず」のふみです。北陸地方ってなんなの?歴史を紐解くと、北陸の名称は古代の律令制時代(7世紀後期〜10世紀)の地方行政区画である五畿七道の一つである「北陸道(ほくろくどう)」に由来します。この北陸道は、現在の北陸4県にあたる若狭、越前(福井県)、加賀、能登(石川県)、越中(富山県)、越後、佐渡(新潟県)の7か国から構成されていたようです。現今の都道府県では、石川、富山、福井の3つを「北陸3県」、これに新潟を加えて「北陸4県」と呼ば
何だかパンツの話が止まらなくなっちゃって…なんか気づいたらパンツ3部作になってるし…もう少しだけお付き合いください私ねえ、もうこの件についてはどうでも良くなりましたそりゃ、最初は傷つきましたよ悲しくもなりましたでも、時が経ち馬鹿らしくなった…というか女がマウントとる為に夫にやらせているのかもしれないしそうではなくて夫自身が私とはもう他人だ!戸籍で繋がっていようと自分は夫婦だとは思っていない!そんなアピールかもしれません(たかが、パンツでちっちぇな…)だけど、
馬場さんがフライング・ヘッドシザースをやっている。私、何度も見た。極端に言うと、わが心の名勝負は試合内容2割、雰囲気8割だと私は思っている。つまり、雰囲気は、どんなに映像を見ても無駄、無駄、無駄。その場、現場にいないと、わからない。ミスター日テレ。私は、そう思っている。原章(はらあきら)さん。昔、取材したことがあるが、年齢は私より19歳も上。その原さんがご健在で、このように話が聞けることを今回、Gスピリッツを見るまで、まったく知らなかった。プロレス界にも原さんは多いので、親しい人
ジャイアント馬場といえば、プロレス界でも有名な食通です。その逸話は数知れず。そんな馬場さんが、マクドナルドのフィレオフィッシュが大好きだったというのもまた有名な話です。食通の馬場さんにしては、庶民的な物が好きなんだなと思ってました。確かテレビ朝日の「リングの魂」の初期で大量のフィレオフィッシュを手土産に出演交渉に行く企画がありましたよね。馬場さんのフィレオフィッシュ好き、プロレスファンの多くが知っている既成事実でしたが、一体どんなきっかけだったんだろうと思ってました。
昨日に引き続き、ミル・マスカラス初来日の噺です。ネットで調べていると、このダイナミックビッグシリーズ、昭和46年3月2日のインターナショナルタッグ選手権戦、ネットで観戦できるではないか!びっくりしたなぁ、もう~あっと驚く為五郎である。この試合、ジャイアント馬場さんのキラーぶりが確認できる。これがプロレスの醍醐味、感情をむき出した場面、面白かったんだなぁ、これが、、このシリーズエースは、スパイロス・アリオンかと思いきや、コールはマスカラスのほうが後この試合
久しぶりの投稿がいきなり馬場ネタで恐縮なんですが、最近YouTubeを見ていたら、馬場ファンとしては凄く嬉しい動画がアップされていたので、とても嬉しく思って今回ブログの記事にしてみました。僕が物心ついた昭和50年頃、ジャイアント馬場はもはや峠を過ぎたレスラーと言われており、すでにお笑い芸人のネタなどに利用されていて、この人ホントに強いのかいな?と言うのが正直なところでした。今思えばこの頃はまだまだ体力もあって良く動けていたと思うのですが、ライバルのアントニオ猪木は当時全盛時代ということで、そ
初の日本武道館といえば、音楽であればビートルズですが、、、プロレスでは、1966(昭和41)年12月3日のジャイアント馬場Vsフリッツ・フォン・エリックのインターナショナル選手権である。最近ではYouTubeでもこの試合の映像をみることができる。現在、上映中の映画「アイアンクロー」の宣材によれば、1980年初頭、熾烈な競争のプロレス界に歴史を刻んだ“鉄の爪”フォン・エリック一家。父フリッツに育てられた息子の長男ケビン、次男デビッド、三男ケリー、四男マイク(スタンリー・シ
【#プロレス今日は何の日】1983年4.28京都府立体育館スタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディvsジャイアント馬場&ジャンボ鶴田っ!「10万ドル争奪」ってね、当日のレートで約2,400万円ですわっ!当時の物価を考えたら現在のいくらぐらいの感覚でしょうかね~😅ジャンボが先発でハッスルするも、超獣コンビのタッチワークの良さに若い鶴田が捕まるっ!馬場、16文で超獣たちを蹴散らすっ!反撃の超獣コンビ、馬場鶴田に容赦無し!先に馬場を痛め鶴田に絞る作戦か!しかしみんな活き活きしててほんま
おーっとっと、忘れてました。前回、新潟県三条市が月曜日暑かったと書きましたが、その夜NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」というTV番組で新潟県三条市が出てました。笑福亭鶴瓶と中条あやみが三条市を訪れて、いろいろ訪問してました。あのよく通る道に、鶴瓶や中条あやみがいたなんて!!三条市といえば、ジャイアント馬場とか俳優の高橋克実、作家の相場英雄とか有名です。三条市長は年齢が30代半ばで若いです。産業は金物、モノ作りなどが有名です。新幹線の燕三条駅は燕市と三条市の境界にあります。番組ロケに来てたのは3月
U-NEXTのリトライキャンペーン(リトライは2回目、計3度目の31日間無料トライアル)、見放題のの中にあった千葉真一主演の「やくざ刑事」シリーズを見始めた。前回書いた文章と重複、そしてまた次も同じ説明を書かなきゃいけないんだけど…このシリーズは全部で4作あるのに、なぜかU-NEXTでは1~2作目と4作目の3作品しか配信しておらず、Amazonだとちゃんと4作揃ってます。ただし有料配信、または別途、オプションチャンネル“JUNKFILMbyTOEI”への加入が必要になると。そんなわけで2作
●藤波さん、デビューの頃のパンフレット発見!1971年、日本プロレス「ゴールデンシリーズ」「ドラゴンへの道」藤波さん物語(番外編)藤波さんがデビューしたのは、1971年(昭和46年)5月9日日本プロレスの「ワールドリーグ戦シリーズ」でした。このシリーズ中に、岐阜市民体育館大会でデビューをするのですが、写真のパンフレットは、その次のシリーズ「ゴールデンシリーズ」のものです。表紙は馬場と猪木。28センチ×28センチの大きなパンフレットです。昔の「LPレコー
【#プロレス今日は何の日】1981年4.27愛知県体育館ジャイアント馬場vsブルーザー・ブロディっ!インターナショナル・ヘビー級王座争奪トーナメント準決勝!大迫力で突き進み観客をザザ〜っと二分させるブロディ!さながらモーゼの如くですわっ!至宝の海外流出をなんとしても防いで欲しい!と実況松永さん、解説竹内さんに応援される馬場御大っ!ブロディとタックルでぶつかり合っても互角の馬場さん!場外では鉄柱にぶつけ、まさに脳天唐竹割りでブロディの額を割っちゃう!😵更に16文をガッツガツ喰らわ
高身長の男以外は必要ないわ!と力強く語る方が多いので、まずはジャイアント馬場を超えるのが、男に課せられた使命だ!大艦巨砲主義がなんと、体感デカい主義に変わる、驚きのビッグなエロスを感じる!その場合はプロレス的には、ババファックという、新しい体位を作る必要が???—伊佐君美(@yizuojunme3991)2024年4月20日夫のちんぽが入らない(1)(ヤングマガジンコミックス)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}
ボクシングの二大リングアナといえばマイケル・バッファーとジミー・レノンJr.。左バッファー、右レノン。レノン「It'sshowtime!!!!」バッファー「Let'sgetreadytorumble!!!!」コールの際の決め台詞、格好良すぎます。ボクシングの歴史に残るビッグマッチのコールをしてきた二人。この二人が同時にリングアナをしたことがありました。2002年6月8日、レノックス・ルイスvsマイクタイソン戦。乱闘を防ぐべく両コ
先日ブログにアップしたレイスvsアンドレのNWA世界戦で、レイスがアンドレをボディスラムで投げてますが、こんな動画を発見。アンドレをボディスラムで投げたレスラーたちをまとめたものです。この動画にラインナップされているレスラーは以下のとおり。①ストロング小林②ブッチャー・バション③ハルク・ホーガン④スタン・ハンセン⑤カネック⑥カマラ⑦アントニオ猪木⑧長州力⑨ビッグ・ジョン・スタッド&ケン・パテラ⑩アルティメット・ウォリアー小林とバションはアンドレ・ザ
ジャイアント馬場さんのタッグパートナー、今回は、アンドレ・ザ・ジャイアントでたぁ〜、大巨人コンビだぁ〜アンドレは初来日は国際プロレス、その後、WWF(現在のWWE)と提携している新日本プロレスに上がり、馬場さんとは、ほとんど接点がありませんでした。アメリカのマットでバトルロイヤルでわずかに遭遇したことがあるね1990年にWWFが日本進出を図り、それを制するため実現したのが新日本、全日本、WWFの共同開催の日米レスリングサミット。開催場所は東京ドーム。ここで馬場さんはアンドレと初めて