ブログ記事2,474件
こんにちは。北陸地方公式アンバサダー、「頭隠して腹隠さず」のふみです。北陸地方ってなんなの?歴史を紐解くと、北陸の名称は古代の律令制時代(7世紀後期〜10世紀)の地方行政区画である五畿七道の一つである「北陸道(ほくろくどう)」に由来します。この北陸道は、現在の北陸4県にあたる若狭、越前(福井県)、加賀、能登(石川県)、越中(富山県)、越後、佐渡(新潟県)の7か国から構成されていたようです。現今の都道府県では、石川、富山、福井の3つを「北陸3県」、これに新潟を加えて「北陸4県」と呼ば
「衝撃を受けた」と言うより、嬉しいニュースなんですが。元プロレスラーのタイガー・ジェット・シンさんが、今回の春の叙勲で、「外国人叙勲」の枠で旭日双光章が贈られることが決まりました。😀ジェット・シンさんと言えば、新日本プロレス草創期の悪役レスラーとして活躍、故アントニオ猪木さんとの抗争を繰り広げ、人気を博しました。ターバン姿に片手にサーベルという出で立ちで入場し、毎回のように場外乱闘、反則を繰り返し、相手を流血に追い込む。そんな全盛期を見ていた自分は、ちょっと怖さを感じていました。(((
都市伝説の答えパート1から読みたい方々は【とある都市伝説の答え!?】として1月16日のアメブロにあります!※当然パート2はその後にあります笑
初の日本武道館といえば、音楽であればビートルズですが、、、プロレスでは、1966(昭和41)年12月3日のジャイアント馬場Vsフリッツ・フォン・エリックのインターナショナル選手権である。最近ではYouTubeでもこの試合の映像をみることができる。現在、上映中の映画「アイアンクロー」の宣材によれば、1980年初頭、熾烈な競争のプロレス界に歴史を刻んだ“鉄の爪”フォン・エリック一家。父フリッツに育てられた息子の長男ケビン、次男デビッド、三男ケリー、四男マイク(スタンリー・シ
昭和と聞いて思い浮かぶのは?『個性派揃い』昭和と聞いて思い浮かぶのは?鉄の爪フリッツ・フォン・エリック生傷男ディック・ザ・ブルーザー殺人狂キラー・コワルスキー人間台風ドン・レオ・ジョナサン写真…ameblo.jp偶然にもフリッツ・フォン・エリックとそのファミリーを描いた映画「アイアン・クロー」が公開かれましたが、予告編を見ただけでも、レスラーを演じた役者たちの熱演がわかりますし、特にフリッツの立ち居振る舞いは,昭和40年台の白黒テレビでフリッツと馬場の死闘に熱くなった子どもとしては
4月28日日曜日。新潟市に到着して、新潟日報のビルでジャイアント馬場没後25年イベント開場を待つ。過去のポスター。大半が亡くなった選手ばかり。入場料も今と違い、安い❗️ほどなくして、10時になりイベントスペースで展示物を見る。葉巻とマッチ。右➡️腕立て伏せのバー。名刺。リングシューズ。PWFベルト(純金製)歩いて新潟駅へ。お土産売り場で、笹団子、久保田碧寿、越乃景虎を買い金沢へUターン。眠くならないように、寄り道して夜に帰宅。
4月28日日曜日。午前4時起床。洗顔して、伸びた髭剃り🪒神棚の水を替えて、手を合わせる。4時半頃に出発❗️目指すは新潟県へ。富山県と新潟県の境目のPAまで行き、メンチカツバーガー🍔で朝ごはん。名立谷浜(なだちたにはま)SAで、飲み物を購入して新潟市を目指します❗️会場の新潟日報ホールには、9時半頃に到着。時間があるので、フレッシュネスバーガーでアイスコーヒーを飲む。20階の展望フロアにて。大きい川は、信濃川❗️懐かしいポスター。ポスターを見たりして、開場の10時まで待
『チャンピオン・カーニバル2024』の開幕戦となるこの後楽園ホール大会。一言でいえば、やっぱり面白い!その理由は簡単明瞭、若き新世代勢が成長&台頭し、リング上に活気が漲っている。元々、現在の日本マットで唯一、嘘偽りない本物のヘビー級が集結しているこの全日本プロレス。そこにフリー及び外国人のヘビー級の猛者たちもやってきているのだから、これで面白くならないはずがない。この年の公式戦初試合となった諏訪魔vs斉藤レイなどは、ヘビー級ならではの迫力あるぶつかり合いを随所で見せていた。単純なタック
馬場さんがフライング・ヘッドシザースをやっている。私、何度も見た。極端に言うと、わが心の名勝負は試合内容2割、雰囲気8割だと私は思っている。つまり、雰囲気は、どんなに映像を見ても無駄、無駄、無駄。その場、現場にいないと、わからない。ミスター日テレ。私は、そう思っている。原章(はらあきら)さん。昔、取材したことがあるが、年齢は私より19歳も上。その原さんがご健在で、このように話が聞けることを今回、Gスピリッツを見るまで、まったく知らなかった。プロレス界にも原さんは多いので、親しい人
新桃太郎伝説でジャイアント馬場様に会いました・・・ああ・・・伝説のプロレスラー・・・感動・・・なんて、でか太朗の事ですけどね。けどジャイアント馬場様は新桃太郎伝説の世界で永遠に生きていますよね。
えげつないプロレス関係者とプロレス・マスゴミジャイアント馬場がアントニオ猪木に「完ちゃん、取っておけよ」とロサンゼルスで数百ドルを渡した話が蔓延しています。出所は、どうやら新間寿のようで、1976年当時、ジャイアント馬場を強烈にヨイショする目的で噂を流したのでしょう。問題はプロレス・マスゴミです。裏どりもろくろくしないで、プロレス関係者の話をそのまま記事や本に書いてしまうのですから、話になりません。最低限の裏どりをするのは文書を生業にする者の最低限のルールです。
節約のためにもなるたけ家にいるようにしていますが籠れば籠るほど《引きこもり》になってしまう気持ちというか原因が解りつつあるような気がします“月影先生!もう少しで引きこもりの気持ちを掴めそうです!!”その前に仕事というか、今後のことはどうにかしないといけませんねご心配おかけしていますがちゃんと少しずつ行動していますので安心してください今日は今後の事とついでにも1つ用事を済ませてこようと思ってます🚩🚩2024年26本目の劇場公開作品を紹介します『アイアンクロー』📒日本でもジャイアント
高身長の男以外は必要ないわ!と力強く語る方が多いので、まずはジャイアント馬場を超えるのが、男に課せられた使命だ!大艦巨砲主義がなんと、体感デカい主義に変わる、驚きのビッグなエロスを感じる!その場合はプロレス的には、ババファックという、新しい体位を作る必要が???—伊佐君美(@yizuojunme3991)2024年4月20日夫のちんぽが入らない(1)(ヤングマガジンコミックス)Amazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}
ジャイアント馬場の故郷新潟県三条市に来ました身長209センチ愛車はキャデラックです(^^)東京から新幹線で2時間かかりませんあっという間に着きます
カウンセリングをしている時や僧侶となって相談を受ける時に『こうなりたかった』『ああなりたかった』と言う人がたくさんいます。あなたも普通の主婦になるのではなく『歌手になりたかった』『女優になりたかった』『モデルになりたかった』なんて思っていたかもしれません。実は、私、子供の頃、タイガーマスクのようなプロレスラーになりたかった(笑)中学、高校は勉強もせず毎日、ケンカ空手といわれる団体の道場に通っていて指導者になり選手権大会にも出たのですよ。そして高校卒業後、プロレスラーになる
月に一度のお楽しみ、プロレスクラシック~伝承~が今月もやってきます!今回はいつものように、その発表になったラインナップをここでご紹介していきましょう!まずはともあれ、そのカードをご覧ください。プロレスクラシック~伝承~第40回『大巨人コンビ再び』放送ラインナップ■1990年9月29日東京・後楽園ホールG馬場、A・ジャイアント、R木村vs永源遙、大熊元司、渕正信J鶴田、田上明vsT・ゴディ、S・ウイリアムス■1990年10月4日宮城・塩釜市体育館ダイナマイト
おーっとっと、忘れてました。前回、新潟県三条市が月曜日暑かったと書きましたが、その夜NHKの「鶴瓶の家族に乾杯」というTV番組で新潟県三条市が出てました。笑福亭鶴瓶と中条あやみが三条市を訪れて、いろいろ訪問してました。あのよく通る道に、鶴瓶や中条あやみがいたなんて!!三条市といえば、ジャイアント馬場とか俳優の高橋克実、作家の相場英雄とか有名です。三条市長は年齢が30代半ばで若いです。産業は金物、モノ作りなどが有名です。新幹線の燕三条駅は燕市と三条市の境界にあります。番組ロケに来てたのは3月
画面左上のタイトル“公式にゃんたのむにゃブロぉ~”をクリックすると、常にブログの最新記事が一気に3つみられるよ~♪どんどん、暖かくなってるよね(;^ω^)車内で暑い際は、もうエアコンで冷房を点けてるもんね。---------------------------------昭和58年の歌。上田馬之助:プロレスラー。大相撲出身で、廃業後に日本プロレスに入団。同期に馬場・猪木。日本プロレス崩壊後、“インドの狂える虎”、“狂虎”タイガージェット・シンと組み、大暴れ。「金髪のまだら狼」と呼ばれた
燕三条とひとくくりにされることが多いものの、実際は燕市と三条市の総称で、この両市は何かと比較されることでライバル視される面も多いとか。◆科学教育センターや図書館などが入っている三条市の複合施設「まちやま」。デザインを見てそれっぽいなあと思ってたらやはり隈研吾氏の設計でした。◆1階の多くのスペースを占める鍛冶屋ミュージアム。金属製品の中でも、包丁やなた、散髪用のはさみなど鍛造技術により造られる製品にスポットがあてられていました。また「まちやま道具箱」と言って、図書館で本を借りるように
プロレス界のレジェンド・ジャイアント馬場は、元プロ野球選手です。読売ジャイアンツで投手として活躍していましたが、肘の怪我が原因で引退。その後、プロレスラーに転身したのです。レジェンドですから当然名勝負も数多いのですが、それらを収めたDVDは長く発売されませんでした。1999年の逝去から20年経った2019年にようやく発売されました。予測ですが、夫人がDVD発売を許可しなかったのだろうと思っています。事実、夫人が亡くなってすぐにDVDが発売されましたので。
随分と反響を呼んだ、甲府宇宙人接触事件の分析随分と反響を呼んだ、甲府宇宙人接触事件の分析の一部です。関係者の一部からは強い反発を招き、親しい税理士先生からは「細川先生、UFOを捕まえたとか、宇宙人を観たとか、あまり書かない方が良いですよ。他の真面目な投稿が台無しなので・・・」と忠告を受けました。ジャイアント馬場がアントニオ猪木にロサンゼルスで大金を渡した話も同様かもしれません。私が大嫌いなのは、虫唾が走るのは、ジャイアント馬場ではなくて、馬場をヨイショする関係者、それを裏を取
好きな相棒・名コンビといえば?BI砲‼️写真はお借りしました猪木の東京プロレス崩壊における日本プロレス復帰を受けて結成されたダッグチームで、60年代末から70年代にかけてインターナショナルタッグタイトル保持チームとして全盛を迎えたが、ザ・ファンクスに敗れ王座を陥落してから、猪木の除名処分、馬場の独立と続く騒動でチームは解散したが、1979年東京スポーツ主催の夢のオールスター戦で一夜限りの復活を果たした。猪木の若くスピーディな動きと、全盛期の馬場の重量感溢れるパワフルな動きがマッチして
大量の紙幣を渡すときは・・・よく読むと、嘘ばかり「3月28日にダウンタウンのリトル・トーキョーで馬場、豊登、ミスター・モトと合流。直後に日本に帰国する馬場は、この時に大量のドル紙幣をムンズと掴み、『俺はもう使わないから、完ちゃん、取っておけよ』と言いながら猪木のポケットに突っ込んだ。」(110頁)大量のドル紙幣をムンズと鷲掴みに掴んだら、それを相手のポケットに入れるのは難しい。「大量のドル紙幣をムンズと掴み」も流智美の創作であろうか。現場に居合わせていない新間寿が、ジャイアント
僕の身長への悩みは消えつつある。僕はチビではないし、周囲との比較で巨人にも見えたりする。一日に身長が縮むと言っても、ごく僅かであろう。僕をデカイだとか、プロレスラーだとか、ジャイアント馬場だとか、言われたりするし。デカッと驚かれる事もあった。最近は驚かれるのも少なくなったがそれは単に外出の機会が減ったからか、周囲が慣れてきたからであろう。如何に巨人であっても、出会った都度驚くのはおよそ大人のする事ではない。それも周囲は分かっているのかも知れない。そもそも僕の見聞が、幻聴でない可能性もある。僕は
大反響、「僕はもう使わないから完ちゃん、取っておけよ」とジャイアント馬場「僕はもう使わないから完ちゃん、取っておけよ」とジャイアント馬場がロサンゼルスで帰国直前にアントニオ猪木に数百ドルを渡したという逸話は作り話である。金額に具体性がなく、「猪木も忘れていた。」という部分にフィクションの匂いがするのである。よくよく読んでみると、アントニオ猪木ではなく、新間寿が「・・・と猪木が言っていた」と証言しているだけである。新間寿は、1976年頃にジャイアント馬場を強烈にヨイショする必要があったのだろ
キン肉マンと新日本プロレスの選手によるコラボティシャツが販売されていたのは前から知っていたけど、全日本系のレジェンドレスラーとの商品もあったんだね。ということでちょっとご紹介!キン肉マン×三沢光晴コラボレーションTシャツキン肉マンソルジャー-CONVICTwww.convict.jp5,500円商品を見る小橋建太Tシャツキン肉マン全日本プロレスNoahチャンピオン三沢光晴|フリマアプリラクマ小橋建太とキン肉マンのコラボTシャツです。カラー=ブラック黒サイズ=
第64代横綱の曙は力士時代に同期入門の若花田、貴花田としのぎを削り、幕内優勝11回を飾りました。格闘家に転向後、K−1に出場し、当時の人気者だったボブ・サップと闘い、プロレスラーとしては武藤敬司社長時代の全日本プロレスでチャンピオン・カーニバル優勝、大仁田厚とは電流爆破マッチで闘いました。そして私の曙の思い出は2006年3月19日に行われた新日本プロレス両国国技館大会のメインイベントでブロック・レスナーとのIWGP戦です。この大会は新日本プロレスが迷走している時の大会で集客も少なく、CTU
なんか変だ、「僕はもう使わないから完ちゃん、取っておけよ」とジャイアント馬場(内容を精査して再掲)私はジャイアント馬場が嫌いなのではありません。ジャイアント馬場をヨイショする話に虫唾が走るのです。ジャンボ鶴田とジャイアント馬場の不仲は有名な話、SWSの引き抜きに遭ったとき「裏切るより、裏切られる人間になった方が良い」なんて、ジャイアント馬場がジャンボ鶴田に言うわけがないのです。「僕はもう使わないから完ちゃん、取っておけよ」とジャイアント馬場がロサンゼルスで帰国直前にアントニオ
これも亡父譲りの好みなのだが、小学校高学年のころ、プロレスに没頭していた。亡父の場合は初期の力道山、すなわち、力道山・木村政彦VSシャープ兄弟に熱中していた口である。しかし、有名な新橋の雑踏街頭テレビで観ていたわけではない。変なことにだけあたまがまわる父は、日本テレビ麹町社屋のロビーで観られることを発見した。旧麹町社屋のそばに生家があったのである。それは、いまでいうパブリック・ビューイングに近いもので、チケットを買えば椅子席でゆったりと大きな画面で観られる。そこで戦勝国の鬼畜米英ーシャー
みなさんこんにちはかつて、ジャイアント馬場や、アントニオ猪木と、死闘を繰り広げた、恐怖の鉄の爪、フリッツ・フォン・エリック、プロレスの一時代を築き、エリック王国で、自分の息子たちに、自分が成しえなかった、当時の、プロレスの最高峰、NWA世界ヘビー級チャンピオンに、戴冠させようと、奮闘した一家の物語です。フリッツには、5人の息子がいましたが(本当は6人)、4人(本当は4人)に、不運が降り注ぎ、亡くなってしまいました。呪われた一家と、世間では言われたのでした。フリッツ(ホルト・マッ