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『ロミオとジュリエット』の千穐楽を観るためにニューヨークへやってきたキャンディは、その後二日をテリィと過ごした。二人でいくつかの教会を訪ね、3月14日に挙式する場所も決めた。ひとつ、またひとつ。これまで言葉だけだった未来が、少しずつ形になっていく。そしてキャンディは、また村へ戻って行った。二月初めにはニューヨークへ移り住む。あと一か月と少しだ。それなら、このままニューヨークにいてもよさそうなものだったが、キャンディには、村で終わらせなければならないことがたくさんあった。診療所の仕事に
昼を少し過ぎた頃、テリィとキャンディは車で教会を巡っていた。窓の外には、冬のニューヨークが流れていく。「ねえ、テリィ。今日一日で決めるって、そんな簡単に決められるかしら」「そうだよな。でも、どこでもいいというものでもないし、きみも見て決めてほしいと思う」テリィがそう答えるとキャンディは手にしていた紙へ目を落とした。そこには、事前にテリィが調べてもらった教会がいくつか書かれている。二人が結婚すると決めた日、3月14日まではもうそれほど時間はない。式は身内とごく親しい人だけで行う。新聞社にも
二人がようやく隣室へ戻った頃には、運ばれてきた朝食はすっかり食べ頃を過ぎていた。キャンディは呆れたように息を吐くと、パンへ手を伸ばした。「今日は教会を見に行くんでしょう?時間は大丈夫なの?」「大丈夫だよ。約束の時間には余裕があるから」テリィも向かいに腰を下ろし、コーヒーを口へ運ぶ。「はじめは教会なんて、どこもそんなに変わらないんじゃないかと思ったけど、調べるうちにそうじゃないんだなと思ったよ。そう思うと、俺たちの大事なことだからちゃんと選びたいと思った」何でもないことのように言われて
朝の光が、閉じたカーテンの隙間から細く差し込んでいた。キャンディはその眩しさに誘われるように、ゆっくりと目を開けた。見慣れない天井をぼんやりと眺め、ここがどこなのか分からずに瞬きをする。けれど、すぐそばから聞こえる穏やかな寝息と、自分を包む温もりに気づいた瞬間、昨夜の記憶が一気に蘇った。ここはニューヨークのホテル。そして隣には、テリィがいる。そっと顔を向けると、彼はまだ眠っていた。昨日まで舞台の上で何千もの観客を魅了していたロミオとは思えないほど、無防備で穏やかな寝顔をしている。キャン
「あっ!」突然声を上げる。暖炉の前にいたテリィが振り返った。「今度は何?」「ルームサービス!」「頼んだよ」「そうじゃなくて!」キャンディは慌てて自分の髪へ手をやった。乱れている。そしてベッドを見る。シーツも、とても人に見せられるような整い方ではない。「どうしよう……」「何が?」「だって、もうすぐホテルの人が来るんでしょう?」「朝飯を運んでくるんだから当然だろ」「だから困ってるのよ!」キャンディは大慌てで髪を手櫛で整え始めた。「こんな髪で、それに、このベッド……」そこま
《《セントポール学院にて》》体育祭。午後はいよいよ最後の種目、400メートルリレー。この結果で総合優勝が決まる。赤チームは現在二位。一位の青チームとはわずか数点差。リレーで一位になれば逆転優勝だった。赤チームのアンカーは、三年生・テリュース・G・グランチェスター。そして青チームのアンカーは、同じ三年のアーチーボルド・コーンウェル。恋のライバルでもある(どちらかといえばアーチーのほうが対抗意識あり)二人。リレー走者たちは、ウォーミングアップを始める頃。テリィのスマホが震える。🍀キャ
一月の終わり、『アントニーとクレオパトラ』は千穐楽を迎えた。ホリデーシーズンから続いた公演は盛況のうちに幕を閉じ、劇場にはしばらくその余韻が残っていた。終演後の楽屋口には花束を抱えた人々が集まり、新聞記者たちも俳優への短い取材を求めて待っていた。その中心にいるのは、テリュース・グレアム。SMTでロミオを演じ、帰国後に改めてアントニーとして舞台へ戻った彼は、以前にも増して注目を集めていた。ただ、本人はその熱をほとんど自分のものとして受け取っていない。拍手も、称賛も、花束も、すべて舞台へ返すべき
一方で、テリィ自身も最初はぎこちなかった。ロンドンを離れて何年になるだろう。身体は感覚を忘れかけている。慎重に一歩、二歩、三歩。やがて重心が馴染み始める。膝を柔らかく使い、足を滑らせる。次第に動きが滑らかになっていく。風を切る感覚、氷を押す感覚、身体が思い出していく。キャンディが思わず声を上げた。「テリィ!上手!」「思い出してきた」テリィは軽く笑う。そのままリンクを一周する。無駄のない滑り。大きな弧を描きながら戻ってくる姿は、どこか舞台で踊る俳優のようでもあった。「すごい
港には、薄い霧が漂っていた。春の終わりの海風は、岸壁に並ぶ人々の薄手の洋服の裾を静かに揺らしている。巨大な客船がゆっくりと汽笛を鳴らした。低く長い音が海へ溶けていく。甲板の手すりに寄りかかりながら、キャンディはゆっくりと遠ざかるアメリカの海岸線を見つめていた。シカゴ。ポニーの家。アルバート。アニー。ステア。アーチー。パティ。たくさんの人たち。たくさんの思い出。嬉しかったことも。苦しかったことも。全部があの大陸の向こうへ残っている。けれど不思議だった。胸は痛むのに
長い救護活動を終え、ようやく自宅の扉を開けた。玄関を閉めた瞬間、耳にこびりついていたサイレンや人々の叫び声が、まだ頭の奥でこだまする。静けさが返ってきたはずの家が、むしろ不気味に思えた。マーサが振り返り、小声で「おかえりなさいませ」と言ってくれる。その目に浮かんでいたのは安堵と心配。彼女は眠る子を見守ったまま、気遣うように静かに立ち去った。ここは安全な場所だ。そうわかっているのに、胸の鼓動は荒く、肩は強張ったままだった。寝室へ入ると、ベビーベッドの中で長男が小さな寝息を立てていた。
秋の風が、学院の石壁を撫でていた。中庭の木々がわずかに色づき始め、セントポール学院は、年に一度の文化祭を前に慌ただしくなっていた。彫刻科の生徒は像を削り、音楽部は練習を重ね、廊下には絵の具や木屑の匂いが満ちている。その中で、ただ一人、静かに窓辺に立っているのは、テリュース・G・グランチェスター。彼はスケッチブックを手にしながら、しばらく動かなかった。課題は「一人一作品の出品」。だが、彼の表情には興味の色がない。(絵なんて、誰のために描く?)教師に促されて参加するのは面倒だった。
インディアナ。午後になると空は薄く曇り始め、夕方には雪が降ることも珍しくない。その日も診療所の仕事を終えたキャンディは、ポニーの家の暖炉の近くへ置かれた新聞を何気なく手に取り、自室にいった。目に飛び込んできたのは、大きな舞台写真だった。思わず手が止まる。そこには見覚えのある横顔が写っていた。テリィだ。舞台衣装に身を包み、客席のどこかを見据えている。その表情は凛々しく、堂々としていて、まるで別人のようだった。記事には大きな見出しが躍っている。『SMT帰りの名優、ホリデーシーズンを席巻』『
昼休憩。午前中の稽古を終えたテリィは、自分の楽屋へ戻っていた。ほどなくしてマイケルも顔を出す。「今日は疲れるな」「そうだな、通しはやっぱり体力使う」そんな他愛もない話をしていると、廊下から勢いよく足音が近づいてきた。「おーい!」ドアが勢いよく開く。「いたいた!」現れたのはケビン、片手には、一冊の雑誌。「お前ら、見たか?」「何をだ?」ケビンは得意げな笑みを浮かべると、雑誌をひらひらと振った。「今月の『BroadwayMonthly』だよ!」マイケルが苦笑する。「劇評か?
ブロードウェイのスター俳優といえば、華やかなペントハウスや高級ホテル暮らしを思い浮かべる人も多いでしょう。テリュース・グレアムは家族が増えたのをきっかけに、マンハッタン中心部のペントハウスを離れ、アップタウンの一軒家を借りて暮らすようになりました。当時のニューヨーク、ミッドタウン以南は劇場街や歓楽街で活気に溢れていた一方、ギャングの抗争など治安面の不安もありました。その点、アップタウン(セントラルパーク以北のアッパー・ウエスト/アッパー・イースト)は落ち着いた住宅街です。アッパー・イース
最後の拍手は、いつまでも鳴りやまなかった。客席は総立ちとなり、劇場中が割れんばかりの歓声と拍手に包まれている。何度目になるのか分からないカーテンコール。ロミオとジュリエットが並んで一礼するたび、客席から惜しみない拍手が送られた。やがて緞帳がゆっくりと下りる。舞台袖へ戻った瞬間、それまで張り詰めていた空気が一気に解けた。「終わった!」誰かの声をきっかけに、劇団員たちの間から自然と笑顔が広がる。抱き合う者、握手を交わす者、肩を叩き合う者。俳優も裏方も関係なく、皆がこの数か月をやり遂げた
インディアナの冬は静かだった。朝になれば畑は白く霜をまとい、夕方には雪雲が空を覆う。診療所の窓から見える景色も日に日に冬らしさを増していた。キャンディは毎日忙しく働いていた。診療所へ来る患者は途切れない。風邪を引いた子ども、腰を痛めた農夫、転んで膝を擦りむいた少女。診察の補助をし、薬を準備し、時には泣く子どもをあやしながら一日を過ごす。けれど、どれほど忙しくしていても、心の片隅にはいつも同じことがあった。テリィからの手紙である。最初の手紙はすぐに届いた。その次も。だからこそ、今回もそうだと
秋のニューヨークは、どこか澄んでいる。空は高く、夕暮れの色はゆっくりと深まり、街路樹の葉は赤や金色に染まりながら静かに落ちていく。舞台の稽古を終えたテリィは、劇場街の喧騒を抜け、ペントハウスのある建物へ戻ってきた。エントランスは、夕方の光を受けてやわらかく影を落としている。扉を押して中へ入り、習慣のように一階の郵便受けを開けた。厚みのある封筒が、いくつかの通知や書類の間に挟まっている。舞台関係の封書、請求書、広告。いつもの顔ぶれの中に、ひとつだけ違う紙質が混じっていた。生成り色の、
7月。夜のグランド・セントラル・ターミナルには、初夏の爽やかな風が吹き込んでいた。大理石の床に光が反射し、天井の星座が青白く輝いている。構内の時計が午後七時を指す頃、ニューヨーク発シカゴ行きの特急列車……『20thCenturyLimited』が、静かに入線した。プラットフォームには赤いカーペットが敷かれ、制服姿のポーターたちが乗客を出迎えている。テリィは帽子を軽く押さえながら微笑んだ。「さあ、乗ろう」オリヴァーは列車を見て目を輝かせた。「わあ……ながい!いくつもおうちがつながっ
テリィはしばらく黙って、キャンディの指先に身を任せていた。やがて、目を閉じたまま口を開く。「……さっき車で話そうとしたことだけど」キャンディの手が、ほんのわずかに止まった。「ちゃんと話しておきたい」キャンディはまた髪を撫で始めた。「私、テリィのこと疑ってないわよ」「分かってる」「だったら」「それでも話したいんだ」その声は穏やかだった。「もちろん、記事に書かれてるようなことは、何もない」「うん」「食事に行ったこともない、劇場の外で二人きりで会ったこともない。最初の記事は、稽
冬の午後。校舎の鐘が鳴り終わったあとも、俺は授業には戻らず中庭を歩いていた。クリケットの練習など馬鹿げている。氷のような風の中、ボールを追いかけて何の意味がある。どうせ減点はつくが、構うものか。吐く息が白く広がる。石畳の上には新雪がうっすらと積もり、靴底を押し返すようにきしむ音を立てた。空は曇り、灰色の雲の間からちらちらと雪片が舞い落ちてくる。静寂、冷えきった空気の中で、自分の鼓動さえ聞こえそうだった。ふと、目の端に動く影が映った。校舎裏の中庭。そこは普段、生徒があまり立ち寄
スザナの葬儀から、数か月が過ぎていた。春が近づき、街の空気は少しずつ柔らかくなっていたが、テリィの周囲にはまだ、どこか冬の残り香のような静けさが残っていた。劇場の稽古場では、次の作品の準備が進んでいた。長いロングランを終えたばかりの彼にとって、新しい舞台は新たな出発でもあった。その日、劇団の一室で次作の発表会見が開かれていた。テリュース・グレアム主演、新作舞台。劇団にとっても大きな作品になる。フラッシュが焚かれ、記者たちの質問が続いた。「今回の役柄について教えてください」「前作の
車が走り出してからしばらくの間、二人はほとんど言葉を交わさなかった。窓の外を流れていくニューヨークの夜景。街灯の光。行き交う人々。時折聞こえるクラクション。それらが静かな車内を埋めている。テリィは運転しながら何度も隣を見た。キャンディは黙って前を向いている。疲れているのがわかった。無理もない。泥で汚れた裾。雨に濡れたドレス。顔色もあまりよくない。だが、それ以上に気になったのは、どこか張り詰めた表情だった。まるで気を抜いたら倒れてしまいそうな、そんな危うさがあった。「ホテルまで送るよ」よ