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『ロミオとジュリエット』の千穐楽を観るためにニューヨークへやってきたキャンディは、その後二日をテリィと過ごした。二人でいくつかの教会を訪ね、3月14日に挙式する場所も決めた。ひとつ、またひとつ。これまで言葉だけだった未来が、少しずつ形になっていく。そしてキャンディは、また村へ戻って行った。二月初めにはニューヨークへ移り住む。あと一か月と少しだ。それなら、このままニューヨークにいてもよさそうなものだったが、キャンディには、村で終わらせなければならないことがたくさんあった。診療所の仕事に
『ロミオとジュリエット』の千穐楽から一週間後。ストラスフォード劇団では、新しい公演へ向けた準備が始まろうとしていた。そんな中、劇団員たちへ一つの通達が出された。制作部からの正式なものだった。そこには、先日の新聞報道について、簡潔に事実だけが記されていた。――テリュース・グレアムとエヴリン・ハートについて。一部新聞で交際を示唆する記事が掲載されているが、そのような事実はない。二人は『ロミオとジュリエット』で共演した俳優同士であり、劇団内では先輩と後輩という関係にある。そして、もう一
翌年。その日の若手俳優たちの稽古を終えたテリィが楽屋へ戻ると、いつものようにマイケルとケビンが楽屋にいた。テリィには、今日は二人へ話しておきたいことがあった。「お前たちに話がある」その声にマイケルが顔を上げた。ケビンも新聞から目を離す。「珍しいな。改まって」「挙式の日取りが決まった。3月14日、空けといてくれ」テリィの表情は、照れくさそうではあるが、それ以上にうれしそうだった。ケビンが立ち上がり、テリィの肩を軽く叩く。「わかった。おめでとう、テリィ」続いてマイケルも手を差し出した
1927年春。二月にキャンディと会い、次はキャンディの誕生日にポニーの家へ行くと話していたが、テリィが数日間もの休暇を取ることが難しくなってきた。何度も予定表を見返した末、諦めるしかないと結論づける。そこで、手紙に、「もし診療所の都合がつくなら、きみがニューヨークへ来ないか」と。休みが取れなければ無理をしなくていい。それも忘れずに書き添える。返事には、まとまった休暇を取れることになったという。到着は奇しくも5月6日、キャンディの誕生日前日だ。午前11時、ニューヨーク・セントラル駅に到着
「……ファンから逃げたときだよ」「逃げたとき?」「劇場を出たところで見つかってさ。やっと振り切って駐車場まで来たと思ったら、別の連中が向こうから来た。また見つかったら面倒だと思って、隠れる場所を探したんだけど――」テリィは自分たちが座っている枝を軽く叩いた。「ちょうどいい木があった」キャンディは想像してしまった。ニューヨークの街で、大勢の女性たちから逃げ回り、最後には木の上へ避難しているテリィ。「あはは……それおかしい!」「俺は必死だったんだ」「それで?見つからなかった?」「
昼を少し過ぎた頃、テリィとキャンディは車で教会を巡っていた。窓の外には、冬のニューヨークが流れていく。「ねえ、テリィ。今日一日で決めるって、そんな簡単に決められるかしら」「そうだよな。でも、どこでもいいというものでもないし、きみも見て決めてほしいと思う」テリィがそう答えるとキャンディは手にしていた紙へ目を落とした。そこには、事前にテリィが調べてもらった教会がいくつか書かれている。二人が結婚すると決めた日、3月14日まではもうそれほど時間はない。式は身内とごく親しい人だけで行う。新聞社にも
長い救護活動を終え、ようやく自宅の扉を開けた。玄関を閉めた瞬間、耳にこびりついていたサイレンや人々の叫び声が、まだ頭の奥でこだまする。静けさが返ってきたはずの家が、むしろ不気味に思えた。マーサが振り返り、小声で「おかえりなさいませ」と言ってくれる。その目に浮かんでいたのは安堵と心配。彼女は眠る子を見守ったまま、気遣うように静かに立ち去った。ここは安全な場所だ。そうわかっているのに、胸の鼓動は荒く、肩は強張ったままだった。寝室へ入ると、ベビーベッドの中で長男が小さな寝息を立てていた。
ホテル最上階のレストランでの食事は、思っていた以上にゆったりとした時間だった。窓一面に広がるマンハッタンの夜景を眺めながら、二人は語り合った。料理を分け合い、笑い合い、デザートの頃には互いの表情から緊張もすっかり消えていた。食事を終えると、会員だけが利用できる静かなバーへ少しだけ立ち寄った。重厚な木のカウンターと、柔らかな照明。流れるピアノの音色も、まるで今日という日を労ってくれているようだった。キャンディは温かなハーブティーを、テリィは軽くグラスを傾ける。舞台のこと、ポニーの家のこと
港には、薄い霧が漂っていた。春の終わりの海風は、岸壁に並ぶ人々の薄手の洋服の裾を静かに揺らしている。巨大な客船がゆっくりと汽笛を鳴らした。低く長い音が海へ溶けていく。甲板の手すりに寄りかかりながら、キャンディはゆっくりと遠ざかるアメリカの海岸線を見つめていた。シカゴ。ポニーの家。アルバート。アニー。ステア。アーチー。パティ。たくさんの人たち。たくさんの思い出。嬉しかったことも。苦しかったことも。全部があの大陸の向こうへ残っている。けれど不思議だった。胸は痛むのに
朝の淡い光が、カーテンの隙間から静かに差し込んでいた。夜の名残を残す部屋には、まだ深い静けさが満ちている。キャンディはゆっくりと目を覚まし、身体を動かそうとして、ふと止まる。昨夜、何度も抱きしめられた感覚が、まだ身体のあちこちに残っていた。腕に触れたぬくもりも、指を絡めた感触も、耳元で何度も囁かれた声も。思い出した途端、頬が熱くなる。キャンディは小さく息を吐き、そっと顔を上げると、思わず息を呑んだ。目の前に、テリィの顔があったからだ。テリィは静かに眠っている。長い栗色の髪が額へかかり、
キャンディはしばらくその背中を見送っていた。そして何事もなかったように歩き出す。テリィも隣を歩いた。数歩進んだところで、彼が言った。「キャンディ」「なあに?」「どうして手を離した?」キャンディの足が一瞬止まりそうになる。「……え?」「さっき、俺の手を解いただろ」「……ああ」明らかに分かっている顔だった。「別に、なんでもないわ」「別に?」「ほら、挨拶するから、ね」「手を繋いだままでも挨拶はできる」「それは……そうだけど」テリィは横から彼女の顔を覗き込んだ。「俺と手
「各艇、配置につけ!」舵取りの号令が響く。テリィたちは黙ってボートに乗り込み、木製の船体が水を押してゆっくりと進み出す。観客席からは、旗と歓声の波。その音が、緊張と誇りを同時に掻き立てる。寮対抗レガッタ、スタート直前。川岸の観覧エリアには、女生徒たちが並んでいた。陽光が制服の襟を照らし、風が帽子のつばを揺らす。「見て、テリィよ」誰かの囁きが、波紋のように広がった。水面の先、ボートに乗り込むテリィの姿が見える。白いシャツの袖をまくり、陽に透ける栗色の髪が光を跳ね返す。その列
ニューヨークの午後は、白いカーテン越しにやわらかな光が差し込み、家の中にほのかにパンの匂いが漂っていた。キッチンでは、キャンディとマーサが夕食前の下ごしらえをしている。といっても、まな板の上にはまだ野菜が数個。包丁を持ったまま、彼女はそっと手を止めた。なぜなら、リビングのほうから、「好きな料理」についての、ほっこりした声が聞こえてきたからだ。オリヴァーが、椅子に座って足を揺らしながら言う。「ぼくはね、ママの“ミートボールスープ”がだーいすき!」“ミートボールスープ”。キャンディが忙
ストラトフォード・アポン・エイヴォンの雨は、音を立てずに降る。窓を叩くほど強くはないが、いつまでも止まらない。今日も細い雨が石畳を濡らし、エイヴォン川の水面に細かな皺を作っていた。劇場裏口の鉄階段には水気が残り、踏みしめるたび、靴底が鈍く鳴った。RSC。建物は、今日も静かだった。だが、その静けさの奥には、獣の檻のような緊張がある。テリュースは煙草を指先で回しながら、裏口から劇場へ入った。廊下ですれ違う俳優たちは、軽く会釈するだけだ。誰も愛想よくはない。歓迎されていない。その事実だけは、日
朝の光が、閉じたカーテンの隙間から細く差し込んでいた。キャンディはその眩しさに誘われるように、ゆっくりと目を開けた。見慣れない天井をぼんやりと眺め、ここがどこなのか分からずに瞬きをする。けれど、すぐそばから聞こえる穏やかな寝息と、自分を包む温もりに気づいた瞬間、昨夜の記憶が一気に蘇った。ここはニューヨークのホテル。そして隣には、テリィがいる。そっと顔を向けると、彼はまだ眠っていた。昨日まで舞台の上で何千もの観客を魅了していたロミオとは思えないほど、無防備で穏やかな寝顔をしている。キャン
二人がようやく隣室へ戻った頃には、運ばれてきた朝食はすっかり食べ頃を過ぎていた。キャンディは呆れたように息を吐くと、パンへ手を伸ばした。「今日は教会を見に行くんでしょう?時間は大丈夫なの?」「大丈夫だよ。約束の時間には余裕があるから」テリィも向かいに腰を下ろし、コーヒーを口へ運ぶ。「はじめは教会なんて、どこもそんなに変わらないんじゃないかと思ったけど、調べるうちにそうじゃないんだなと思ったよ。そう思うと、俺たちの大事なことだからちゃんと選びたいと思った」何でもないことのように言われて
時計の針が9時を回ってしばらくした頃、ようやく玄関の鍵が回った。「ただいま……」聞こえてきた声に、キッチンにいたキャンディがすぐに顔を上げる。「おかえり、テリィ!」ぱたぱたと玄関へ向かうと、テリィはコートを脱ぎながら、いかにも疲れたという顔で立っていた。「遅くなったね」「ゲネプロ近いといつもこんな感じだよ」テリィは苦笑しながらコートを掛けると、ふわりと温かな香りが漂ってきた。「いい匂いだな……もしかしてこの匂い」キャンディとキッチンへ向かう。キャンディが笑う。「オニオンスープ
庭園から戻ると、テリィはジョルジュに案内されて一階の応接間へ移った。アルバートから、「きみが来てるのに申し訳ない。急な仕事を少しやらないとならなくて。ここはたくさん本があるから、少し待っていてくれ。夕食までには終わらせるから」テリィはソファへ腰を下ろし、アルバートとの会話を思い返していた。――キャンディの伴侶が君でよかった。ほっとした。正直に言えば、それが一番だった。アルバートなら反対することはないだろうと思ってはいた。それでも、キャンディの養父へ結婚の許しを願うというのは、舞台へ
スザナの葬儀から、数か月が過ぎていた。春が近づき、街の空気は少しずつ柔らかくなっていたが、テリィの周囲にはまだ、どこか冬の残り香のような静けさが残っていた。劇場の稽古場では、次の作品の準備が進んでいた。長いロングランを終えたばかりの彼にとって、新しい舞台は新たな出発でもあった。その日、劇団の一室で次作の発表会見が開かれていた。テリュース・グレアム主演、新作舞台。劇団にとっても大きな作品になる。フラッシュが焚かれ、記者たちの質問が続いた。「今回の役柄について教えてください」「前作の
国王と王太后の退席を合図に、大広間の奥の扉が開かれた。侍従たちの案内のもと、列席者たちは隣接する迎賓室へと順に進み、宮殿の夜は次の歓談のひとときへと移っていった。高い天井から吊るされた幾つものシャンデリアは変わらぬ光を降り注いでいたが、張りつめていた空気は少しずつほどけ、弦楽四重奏の穏やかな調べに重なるように、グラスの触れ合う澄んだ音や人々の談笑が、夜の宮殿へ再び華やぎを取り戻していた。それでも、その夜の視線が集まる先は一つしかなかった。王自らその名を呼び、グランチェスターの名を公に認めた
秋のニューヨークは、どこか澄んでいる。空は高く、夕暮れの色はゆっくりと深まり、街路樹の葉は赤や金色に染まりながら静かに落ちていく。舞台の稽古を終えたテリィは、劇場街の喧騒を抜け、ペントハウスのある建物へ戻ってきた。エントランスは、夕方の光を受けてやわらかく影を落としている。扉を押して中へ入り、習慣のように一階の郵便受けを開けた。厚みのある封筒が、いくつかの通知や書類の間に挟まっている。舞台関係の封書、請求書、広告。いつもの顔ぶれの中に、ひとつだけ違う紙質が混じっていた。生成り色の、
アメリカに戻ったキャンディ。ニューヨークに着いたのは、春の風が街のビルの谷間を吹き抜ける朝だった。港に停泊する客船の甲板から降りたとき、潮風が頬を刺した。キャンディは息を吸い込み、見慣れたニューヨークの雑踏に胸の奥がきゅっと締まるのを感じた。(急がなきゃ)トランクをひきずりながら、彼女は汽車に乗り換え、ポニー先生が入院しているシカゴのアードレー財団記念病院に向かった。列車の窓から広がる景色は、遠い昔に少女だった頃の旅路を思い出させた。◇病院に着いたとき、廊下には白い光が落ち、消毒
婚約してから数日後。稽古を終えたテリィは、マンハッタンの法律事務所を訪れていた。古い煉瓦造りの建物の二階。ここへ来るのは、初めてではない。あの日、テリィはロンドンから忽然と姿を消した。それはキャンディを学院に残すためだった。二人は罠にはめられたが、キャンディだけが退学になる可能性があった。アードレー家の養女としてロンドンへ留学していた彼女にとって、学院を追われることは、単に学校を辞めるというだけでは済まない。自分が退学になる代わりに、キャンディを残してほしい。そのために、テリィは自分が
キャンディを見送ってから数日が過ぎていた。ニューヨークの冬は相変わらず冷たかったが、テリィの心は不思議なくらい軽かった。もちろん寂しくないわけではない。むしろ逆だった。朝起きればキャンディのことを思い出し、夜になれば今頃どこで何をしているだろうと考える。手紙はまだ届いていない。投函しても届くのに数日かかるのだから。それでも郵便受けを見る回数が増えている自分に気づき、苦笑することもあった。そんなある朝、テリィはいつものように劇場へ向かった。ホリデーシーズンを控えた劇場街は活気に満ちている。
こんにちは、ロキソですお話を投稿し始めてから、何度目かの“テリィブーム”に突入している私ですが、みなさんはいかがお過ごしでしょうか?私は元来かなりの気分屋で、さらに飽きっぽい性格でもあるのですが、不思議と唯一飽きないのが『キャンディ・キャンディ』、そしてテリィという存在です。……とはいえ、やはり気持ちには波があって😅どっぷり浸かっている時期と、少し距離を置きたくなる時期が、繰り返されているのです。では、その波には何か理由があるのだろうか?と考えてみたところ、私の場合、“再燃”には毎回ト
「あれは、二か月くらい前のことなんだけど――」キャンディは少し照れくさそうに笑うと、テリィの髪を優しく撫でながら話し始めた。「その日ね、診療所がとっても忙しかったの。朝から患者さんが途切れなくて、お昼を食べる時間もないくらい。先生も私たちもみんな走り回っていてね」テリィは目を閉じたまま頷く。「容易に想像できる」「でしょう?」「それでね、ようやく落ち着いた頃に、お薬を病室へ届けに行ったの。その患者さん、とても気さくなおじいさんだったわ」キャンディはその時のことを思い出しながら笑う。
夕食を終え、それぞれが自室へ引き上げたあとも、テリィとアルバートはまだ応接間に残っていた。昼間の暑さはようやく和らいだ。庭では虫の声が途切れ途切れに聞こえ、薄いカーテンが風を受けて静かに揺れていた。アルバートがサイドテーブルに置かれたワインを手に取った。「もう少し付き合わないかい?」「もちろんです」テリィはグラスを差し出した。明日にはニューヨークへ戻る。そう思えば、こうしてアルバートとゆっくり話せる時間もしばらくはない。二人は窓辺に近いソファへ腰を下ろし、しばらくは他愛のない話を
翌朝。エントランスのほうから、重い足音が静かに響いた。グランチェスター公爵が姿を現した。彼はしばらく扉の前で立ち止まり、テリィの背中を見つめた。その瞳には、長年の厳しさも威厳もなく、ただ、ひとりの父親としての、不器用な痛みだけがあった。テリィは父の気配に気づかないほど、精神が深い海に沈んでいた。公爵はケビンに目で問いかける。ケビンは静かに首を振った。「僕には、もう支えきれません。……テリィは限界です。キャンディが……どこにいるのかもわからないままでは……」公爵は喉の奥で小さく息を呑ん
七月も半ばを迎えたシカゴは、強い陽射しの中に夏の気配を濃くしていた。街路樹の葉は深い緑に染まり、石造りの建物の壁には、午後の光が白く反射している。行き交う馬車や自動車の音、人々の話し声。大きな街の喧騒が絶え間なく続いていた。テリィにとって、シカゴは初めて訪れる街ではなく、劇団の地方公演で、これまでにも何度か滞在している。それに私的にはつい数ヶ月前にキャンディとシカゴで会った。テリィは数日前、シカゴで借りた自動車を走らせ、インディアナのポニーの家へ向かった。ポニー先生とレイン先生へ、キ