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七月も半ばを迎えたシカゴは、強い陽射しの中に夏の気配を濃くしていた。街路樹の葉は深い緑に染まり、石造りの建物の壁には、午後の光が白く反射している。行き交う馬車や自動車の音、人々の話し声。大きな街の喧騒が絶え間なく続いていた。テリィにとって、シカゴは初めて訪れる街ではなく、劇団の地方公演で、これまでにも何度か滞在している。それに私的にはつい数ヶ月前にキャンディとシカゴで会った。テリィは数日前、シカゴで借りた自動車を走らせ、インディアナのポニーの家へ向かった。ポニー先生とレイン先生へ、キ
「……ファンから逃げたときだよ」「逃げたとき?」「劇場を出たところで見つかってさ。やっと振り切って駐車場まで来たと思ったら、別の連中が向こうから来た。また見つかったら面倒だと思って、隠れる場所を探したんだけど――」テリィは自分たちが座っている枝を軽く叩いた。「ちょうどいい木があった」キャンディは想像してしまった。ニューヨークの街で、大勢の女性たちから逃げ回り、最後には木の上へ避難しているテリィ。「あはは……それおかしい!」「俺は必死だったんだ」「それで?見つからなかった?」「
朝食を終えると、ポニーの家にはいつもの朝が始まった。子どもたちは食器を片づける者、庭へ飛び出していく者、先生に呼び止められて渋々部屋へ戻る者。それぞれが思い思いに動き始める。キャンディはその様子を眺めながら、エプロンを外した。今日は夜勤、出勤まで先生たちの手伝いをしてから診療所へ向かうつもりでいる。それまでには、まだ時間があった。「先生、ちょっと丘へ行ってきます」ポニー先生が笑顔で送り出す。キャンディは外へ出た。朝の空気には、まだ少し涼しさが残っている。慣れた道を歩き、草の斜面を登っ
「8年です。その間、キャンディにはキャンディの人生があった。僕にも僕の人生があった。それは当たり前のことです。……あの時、僕たちは別れるしかなかった……それも分かっています」ポニー先生の表情がわずかに変わった。「僕を庇って人生が変わった彼女をあのままにして、僕たちだけが幸せになることはできませんでした。キャンディも同じことを思った……。だからキャンディが帰ると言ったとき、その意味が分かったから止めませんでした……いえ、止められませんでした」テリィはゆっくり息を吐いた。「今になって、あれが
ポニーの家へ戻った頃には、午後の陽が傾き始めていた。キャンディは子どもたちに呼び止められ、そのまま庭の向こうへ連れていかれた。「テリィ、先に戻っていて!」振り返りながらそう叫ぶキャンディに、テリィは片手を上げた。「ああ」子どもたちに囲まれていく後ろ姿を、しばらく見送る。ここへ来てから、何度こんなキャンディを見ただろう。自分の知らないキャンディ。この村を歩けば、いたるところに彼女が過ごしてきた時間が残っていた。診療所では、マーチン医師が看護婦として働くキャンディのことを話してくれた。
畑を後にすると、二人はカートライト牧場へ向かった。夏の陽射しの下、緑の草原が広がっていた。キャンディは迷うことなく道を歩いていく。「ポニーの家は昔からカートライトさんにお世話になってるのよ」「へえ」テリィが興味を示す。「じゃあ、そこでも子どもの頃のきみの話も聞けそうだな」キャンディが足を止めた。「余計なこと聞かなくていいからね」「なんで?」「なんでも!」テリィは笑った。その反応だけで、聞かれて困る話がいくつもありそうだった。牧場へ着くと、カートライトは二人を温かく迎えてくれ
「キャンディがまだ小さかった頃な。畑の向こうに大きなリンゴの木があって――」「その話は駄目!」キャンディが慌てて遮る。テリィはイタズラっぽい瞳を向ける。「どうして?」「え?な、なんとなく」「そりゃ、ますます聞きたいな」「テリィ!」男性はニヤリと笑うと構わず続けた。「一番上の枝になってるリンゴが一番甘いって言い張って、するする木に登っていったんだ」テリィがキャンディを見る。「……きみならやりそうだ」「昔の話よ!」「ところが、登ったはいいが降りられなくなってな」「まだ、その
キャンディはしばらくその背中を見送っていた。そして何事もなかったように歩き出す。テリィも隣を歩いた。数歩進んだところで、彼が言った。「キャンディ」「なあに?」「どうして手を離した?」キャンディの足が一瞬止まりそうになる。「……え?」「さっき、俺の手を解いただろ」「……ああ」明らかに分かっている顔だった。「別に、なんでもないわ」「別に?」「ほら、挨拶するから、ね」「手を繋いだままでも挨拶はできる」「それは……そうだけど」テリィは横から彼女の顔を覗き込んだ。「俺と手
マーチン医師への挨拶を終え、診療所を出た頃には、陽はずいぶん高くなっていた。「次はカートライトさんのところ?」テリィが尋ねると、キャンディは少し考えてから首を振った。「まだ時間があるわ。少し遠回りしていい?」「いいよ」「せっかく来たんだもの。村を案内してあげる」そう言って歩き出したキャンディの足取りは、どこか弾んでいた。少し歩いたところで、テリィは自然にキャンディの手を取った。キャンディは一瞬だけ彼を見上げたものの、何も言わず、その手を握り返した。二人はそのまま、のんびりと村の
ポニーの家へ来てから、三日目の朝を迎えていた。6月末に公演を終え、次の仕事が始まるまでの短い休暇。その限られた時間の中でポニー先生とレイン先生へ婚約を報告し、キャンディとともに過ごし、その後はシカゴへ向かってアルバートにも正式に挨拶をする予定になっている。だから、のんびりしているようで、時間はいくらあっても足りなかった。朝食を終えたキャンディが、テリィへ声をかけた。「今日。マーチン先生と、カートライトさんの都合は良いそうよ」「そっか。じゃあ行こう」どちらもテリィには馴染みのある名前
夜更け。ポニーの家は静かな眠りに包まれていた。子どもたちの寝息だけが、廊下の向こうからかすかに聞こえてくる。ジョシュアは眠れなかった。キャンディから聞いた言葉が、何度も胸の中で繰り返される。――私は、ジョシュアを信じてる。――みんな、あなたに幸せになってほしいって願ってる。うれしかった。それなのに、胸は苦しかった。喉の渇きを覚え、静かに部屋を出る。キッチンの扉を開けると、窓辺に一人の男が立っていた。月明かりに照らされた横顔。テリィだった。テリィが人の気配に気づき振り返る。「君も…
木立の向こうから聞こえてきた会話は、最初は偶然だった。立ち去ろうと思えば、いつでも立ち去れた。だが、一歩を踏み出そうとしたその瞬間――テリィは、その場を動けなかった。「テリィに私は傷つけられていない。寧ろ、その逆……私が彼を傷つけたの」その言葉が、足を止めた。胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。――違う。思わずそう叫びたくなった。傷つけたのは俺だ。ずっと、そう思ってきた。スザナの事故、責任。あの日、キャンディは「私帰るね」と静かに言った。別れる、とは言わなかった。それでも分
ジョシュアは何も言えなかった。彼女が信じていたのは、都合のいい未来ではない。傷つくことも、苦しむことも知った上で、それでも前へ進むという自分自身の覚悟だった。その強さだけは、痛いほど伝わってきた。キャンディはそんなジョシュアを、優しく見つめる。「でもね、ジョシュア」その声は、今度は彼へ向けられていた。「あなたも今は、信じられる人たちに囲まれているでしょう?」ジョシュアが顔を上げる。「メイがいるし、ポニー先生も、レイン先生もいるわ」キャンディは穏やかに微笑んだ。「マーチン先生
翌日。夕暮れの光が、ポニーの家の庭をやさしく染めていた。子どもたちは食堂の窓から聞こえてくる夕食の支度の音に誘われるように、元気よく駆け回っている。キャンディは洗濯物を取り込み終え、籠を抱えながら玄関へ向かっていた。「キャンディ」後ろから声がした。振り返ると、ジョシュアが立っていた。「ジョシュア、どうしたの?」「少しだけ、話せる?」いつもの穏やかな笑顔ではなかった。どこか思いつめたような表情に、キャンディは静かに頷く。「いいわよ」二人は庭の端にある古いベンチへ腰を下ろした。少し離
応接室の方から、ポニー先生がキャンディとともに歩いてきた。ジョシュアは、キャンディの数歩後ろを歩くその男から目を離せなかった。その男は、背が高く、仕立てのよい黒いスーツを、長年着慣れているもののように自然に着こなしている。初夏の陽射しを受けた栗色の髪が、揺れていた。整った顔立ちには、都会で暮らす人間特有の洗練された雰囲気がある。けれど、それだけではなかった。立っているだけで、どこか人の目を引く。村では、まず見かけることのない種類の男だった。誰だ。なぜ、キャンディの隣にいる。その問いが
ポニーの家には、ジョシュアという青年がいる。彼は、この家では少し特別な存在だった。ポニーの家は、本来なら幼い子どもたちが暮らす場所である。13歳だったジョシュアは、年齢だけを考えれば受け入れられるはずではなかった。だが7年前、まだ2歳だった妹メイがポニーの家へ預けられることになった時、幼い妹は兄から離れようとしなかった。年齢を理由に兄妹を引き離すことだけはしたくない――。そう願ったポニー先生とレイン先生は、村人たちへ何度も頭を下げ、理解を求めた。そして村の人々もまた、その願いを受け入れ
《《セントポール学院にて》》文化祭の催し物、キャンディのクラスはお化け屋敷。キャンディが受付係をしていると、他校の男子たちが次々誘ってくる。でもキャンディはそれに気が付かず、お化け屋敷が賑わっていると思っている。🍀キャンディヘルプ😭受付一人足りない💦🐴テリィわかった。待ってろ。10分後。テリィが受付へ入ると、状況は一変した。「えっ……テリュース!」「ほんとだ!あの人が受付やってる!」その声はあっという間に校内へ広がった。制服姿の
応接間には、穏やかな静けさが流れていた。窓から吹き込む初夏の風が、白いレースのカーテンをゆっくりと揺らしている。庭では幼い子どもたちの笑い声が遠くに聞こえた。その穏やかな空気の中で、テリィは静かに姿勢を正した。舞台の上なら、何千という観客の前でも臆することはない。けれど、この日だけは違った。胸の鼓動が、自分でもはっきりわかるほど早い。隣を見る。キャンディも少し緊張した面持ちで膝の上へ両手を重ねていた。ふと目が合い、小さく微笑み合う。その笑顔だけで、不思議と肩の力が抜けた。テリィは
六月末、大きな拍手に包まれて千穐楽を迎えた。劇場には最後まで熱気が残り、終演後も取材や支援者への挨拶が続いた。主演として舞台に立ち続けたテリィにとって、それは充実した日々であると同時に、次なる大作『ロミオとジュリエット』への助走でもあった。その本格的な稽古が始まるまで、テリィたちのチームは2週間ほどの休暇が与えられていた。プロポーズのあとも、二人は以前と同じように手紙を交わした。仕事の予定を確かめ合い、まずはポニー先生とレイン先生へ、自分たちの口から婚約を報告したいという手紙を重ねなが
教会を見て回るようになってから、テリィの手紙には少し変わった話題が増えた。舞台のことや劇団の仲間のこと、ニューヨークで見かけた出来事などは、以前からよく書いていた。けれど最近は、その中に必ずと言っていいほど、二人の結婚についての話が混じるようになった。――キャンディへ。今日、また教会を見てきた。夜公演まで少し時間があったんだ。マネージャーに候補をいくつか調べてもらって、俺は人の少ない時間に中を見てる。誰かに知られて新聞にでも書かれたら面倒だから、結婚式のことはまだ伏せてもらってる。
プロポーズから、ひと月ほどが過ぎた。6月のニューヨークは、日に日に夏の気配を濃くしていた。その日、昼公演を終えたテリィは、楽屋へ戻ると壁の時計を見上げた。夜公演までは、まだ時間がある。着替えを済ませ、鞄を手に取ったところで、マネージャーのフランクが声をかけた。「今日も行くのか?」「ああ」「ずいぶん熱心だな」その言葉に、テリィは少し照れたように笑った。「彼女はニューヨークの人でないから。それに、1️⃣度しかないことだからな」フランクは呆れたように肩を竦めながらも、その顔には笑みが浮か
婚約してから数日後。稽古を終えたテリィは、マンハッタンの法律事務所を訪れていた。古い煉瓦造りの建物の二階。ここへ来るのは、初めてではない。あの日、テリィはロンドンから忽然と姿を消した。それはキャンディを学院に残すためだった。二人は罠にはめられたが、キャンディだけが退学になる可能性があった。アードレー家の養女としてロンドンへ留学していた彼女にとって、学院を追われることは、単に学校を辞めるというだけでは済まない。自分が退学になる代わりに、キャンディを残してほしい。そのために、テリィは自分が
翌朝。キャンディが目を覚ましたとき、窓の外にはやわらかな朝の光が広がっていた。昨夜降りていた冷たい空気はどこか遠のき、風が白いカーテンを静かに揺らしている。しばらく、ぼんやりと天井を見つめた。胸の奥を探るように、ゆっくり息を吸う。不思議だった。まだ悲しみが消えたわけではない。スザナのことを思えば、胸は今でも痛む。テリィと離れていた長い年月を思えば、切なさも残っている。けれど昨夜までのように、心が締めつけられる感覚はなかった。まるで長い間、固く結ばれていたものが、少しだけほどけたよ
その言葉に、キャンディの目から新しい涙が零れた。前へ進んでもいい。ポニー先生の言葉は、確かにキャンディの心を軽くしていた。テリィを愛していることを、罪のように思わなくてもいい。スザナを忘れなくても、あの日の自分を否定しなくても、彼と生きる未来を選んでいい。そう思えた。けれどひとつだけ、まだ心に残っていることがあった。キャンディは涙を拭うと、しばらく俯いていた。「先生……あのときの私たちは……どうして、あんなふうに別れなければならなかったのでしょう」ポニー先生は黙ってキャンディを見つめた
「ポニー先生……」キャンディは縋るように尋ねた。「先生……運命って……あるのですか?」ポニー先生はしばらく黙っていた。揺れる蝋燭の火を見つめながら、静かに言う。「そうですね……」小さく微笑む。「神様が最初から結末を決めておられたのかどうか、それは私にはわかりません」キャンディは目を見開いた。運命を信じる人なら、もっとはっきり答えると思っていたからだ。「ですが――」ポニー先生は続ける。「あなたとテリュースさんのお話を聞いていて、私は思うのです」礼拝堂の静寂の中、声だけが穏や
礼拝堂の中で、キャンディは両手を固く組んだ。蝋燭の火が、小さく揺れる。その揺らぎが、まるで自分の心のようだと思った。祈りながら、キャンディの頬に静かに涙が伝った。誰にも言えない罪悪感。誰にも見せられない弱さ。そして、誰よりも深く愛してしまった人への想い。そのすべてを抱えたまま、キャンディは闇の中で赦しを求めていた。「キャンディ。そんな薄着で……風邪を引きますよ」静かな声が、礼拝堂の闇に溶けるように響いた。キャンディははっとして振り返った。入口には、ランプを手にしたポニー先生が立っていた。
ニューヨークからポニーの家へ戻ってからも、キャンディの胸には、まだ夢の中にいるような幸福感が残っていた。テリィからのプロポーズ。何度思い返しても、胸の奥が温かくなる。けれど、その幸福の片隅には、ニューヨークからの帰りの列車で胸に蘇った、もう一つの想いも残っていた。――スザナとの約束を、私は破った。テリィと結婚したい。その気持ちに迷いはなかった。それでも、幸せを思うたび、心のどこかで小さな痛みが疼いた。その日も、診療が終わったあと、戸棚の奥に積まれていた古い雑誌や新聞をまとめていた。何気
列車がニューヨークを離れてから、どれくらい経ったのだろう。キャンディは窓辺に頬杖をつき、流れていく景色をぼんやりと眺めていた。建物が少しずつ低くなり、やがて街並みも遠ざかっていく。駅のホームで最後まで手を振ってくれた姿が、まだ瞼の裏に残っている。左手を膝の上へ置く。薬指には指輪があった。窓から差し込む光を受けて、小さく輝いている。キャンディはそっと指先で触れた。――婚約したのね、私たち。そう思うだけで胸がいっぱいになる。何度も名前を呼ばれたこと。「愛してる」と言ってくれたこと。そ
列車がゆっくりとホームを離れていく。テリィはその場から動かなかった。窓越しに見える金色の髪が、少しずつ遠ざかっていく。キャンディは最後まで手を振っていた。テリィも手を上げたまま、その姿を追い続ける。やがて列車は小さくなり、人影も見えなくなった。それでもしばらく、テリィは線路の先を見つめていた。ついさっきまで、そこにいたのに。「……行っちまったな」誰に聞かせるでもなく呟く。寂しかった。けれど、不思議と以前のような寂しさではない。次にいつ会えるのか分からない別れではない。キャンディは、
窓が閉まると、途端に夜風が遮られ、部屋の温かさが身体を包んだ。「まったく……」テリィはキャンディの両腕を擦る。「看護婦のくせに、自分のことになると適当なんだから」「そんなに寒くなかったもの」「こんなに身体冷えてるだろ」「テリィが温めてくれればいいじゃない」何気なく言ったあと、キャンディは自分で少し照れた。テリィも一瞬黙る。「え?いや、その……」テリィは笑い、キャンディを自分の胸へ引き寄せた。「では、お言葉に甘えて」少しイタズラっぽく言う彼。キャンディは小さく微笑んだ。シャ