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【A】Anchor(支えられて……仲間への感謝)ハムレットの千穐楽は、これ以上ないほどの熱狂の中で幕を閉じた。鳴り止まない拍手の余韻を背に、テリュース・グレアムは最後まで深く頭を下げ続けていた。三ヶ月の予定だった公演は半年へと延び、それでもなお終わりではなく、一ヶ月の休みを狭み再演が決まっている。マンハッタンの夜景を見下ろすホテルの上階、会員制バーの入口で、ケビンとマイケルは所在なげに立っている。「……なあ、ほんとにここなのか?」「うん、住所も店の名も合ってるけど」「俺らが入っていい場
ポニーの家に続く道は、以前とはまるで違って見えた。ポニー先生がようやく退院してきた。医師からは、まだ無理はしないようにと何度も言われている。歩く距離も限られ、外へ出るときには車椅子を使うようにと念を押された。それでも、この場所に戻ってこられたことが、何よりも嬉しかった。子どもたちの声。風の匂い。見慣れた木々の揺れ。どれもが、変わらずそこにあった。久しぶりに外へ出る今日、この道を進むことを、ポニー先生は楽しみにしていた。小さな石が転がり、雨が降ればぬかるんでいたはずのその道は、今はきれ
ブロードウェイ。ストラスフォード劇団。稽古場の噂は、音もなく広がっていた。最初は、照明係のひとりが言い出した。「……昨日の稽古、観たか?」それだけだった。だが、翌日には、音響室で、舞台袖で、スタッフルームの片隅で、同じ言葉が何度も繰り返されるようになった。「芝居が始まってないのに、テリュースが入ってきた途端、空気が変わるんだ」「台詞を言う前からもうハムレットだ」「あの間が怖い。あんなのはじめてみたよ」照明チーフが、プラン表を指で叩きながら言った。「フォロースポット、正直追いづ
足元に敷かれた白いバージンロードには、ところどころにそっと添えられた花びら。その一つひとつが、彼女の人生の断片のようだった。キャンディが一歩目を踏み出すと――冬の雪景色が広がった。0歳の彼女は、ポニーの家の前に置かれていた。扉を開けたポニー先生とレイン先生の、涙と笑顔がまじった表情が、目の前に浮かぶようだった。小さな命を抱きしめるその腕のぬくもり。――あの時から、私は愛されていた。次の一歩。別れの日、アニーが馬車に乗り込むとき、窓越しに小さく手を振ったあの涙の瞳。“まゆ
ニューヨークに着いた日から、まだ一週間も経っていなかった。ペントハウスの窓から見える街は、昼も夜もざわめきを止めることがない。車のクラクション、新聞売りの声、路面電車のきしむ音。どこを見ても活気に満ちているのに、キャンディにはその喧騒がどこか遠く感じられていた。新しい生活。そして、新しい街。ポニーの丘の静けさが恋しくなるときもあったが、テリィがそばにいると思うだけで、心はすぐに穏やかになった。その日の午後は、彼は仕事の準備で書斎にこもっていた。キャンディは食料棚を見て、小さく首を傾げ
ある朝。キャンディがキッチンでホットミルクを温めていると、ドアの開く音とともに、テリィがランニングから帰ってきた。「おかえり、汗すごいね」「……風が強かった」タオルで首を拭きながら、水を一気に飲み干すテリィ。その額には、玉のような汗が浮かんでいたが、どこか顔色が悪い。「ちょっと、顔赤いよ。大丈夫?」「いや、ちょっと頭がぼーっとして……まぁ、いつものことだ。すぐ治る」「“いつものこと”って、それ、本当に大丈夫なやつ?」キャンディは真顔になって、彼の手首を取った。「脈、ちょっと早
時刻は夜の8時をまわっていた。インディアナポリス中心部にある老舗ホテル、その最上階のスイートルームへと、ようやく長旅を終えたテリィの車が滑り込んだ。ここに今夜は宿泊し明日ニューヨークへ向かう。テリィが先に降り、ドアマンに小さく頭を下げると、手を差し出し、キャンディを優しく迎えた。重厚な回転扉を抜けると、ホテルのロビーは、絹のドレスの裾を引くような静けさに包まれている。絨毯は足音を吸い、壁に並ぶガス灯風の照明が、やわらかい黄金の光を灯していた。年季の入った真鍮のエレベーターが、静かに上昇を
わ。1925年1月28日。ニューヨークの冬は冷たく、吐く息が白く空に溶ける。午後5時過ぎ、『人間ぎらい』の稽古が早めに終わった日、劇場近くのカフェの前で待っていたキャンディは、顔を真っ赤にして手を振った。淡いグレーのコートに白いマフラー、足元はローヒールのブーツ。「おつかれさま!今日は連れて行きたいところがあるの」「ほう、誘拐か?」「そう。誕生日誘拐」悪戯っぽく笑ってタクシーを止めるキャンディに、テリィは素直に乗り込んだ。着いたのは、マンハッタンの中心から少し外れた通り。入口
ニューヨークの夏は、街の匂いが濃くなる。果物の甘い香り、土の匂い、焼きたてのパンの熱気。通りには人の声が溢れ、どこを歩いても活気に満ちている。八百屋の店先には、色とりどりの野菜や果物が並んでいた。トマトの赤、レモンの黄色、葉物野菜の深い緑。キャンディはかごを片手に、一つひとつ手に取っては確かめる。今夜の献立を思い浮かべながら、ゆっくりと選んでいく時間が、どこか楽しかった。ふと、店の奥に目がいった。隅のほうに、小さく花が置かれている。雑多にまとめられたそれは、決して特別なものではない。市
長いテーブルの中央には、初夏の陽差しに照らされた銀器が柔らかな光を反射していた。アードレー家の専属シェフが腕を振るったという温かなロースト料理とスープが並び、クラシックなBGMが心地よく流れている。テリィはキャンディの隣に、向かいにはアルバートとアニー、そしてアーチーが並んでいた。ジョルジュも控えていたが、家族の時間を尊重して早々に席を外している。「うちに来るのは初めてだったよね、テリィ。どう?豪華すぎて落ち着かないとか?」アーチーがからかい気味に笑う。「いや、思ったより…あたたかい
7月。劇団本部の会議室は、外の夏の陽気とは裏腹に、冷ややかな空気を帯びていた。長机の上には、次シーズンの公演予定表と分厚い台本候補が並び、壁際の黒板にはチームごとの年間スケジュールが書き込まれている。この日の議題は、秋公演の演目決定。担当はチームW――テリィが所属するチームだ。候補として挙がっていたのは、軽快な喜劇と、家族向けにアレンジされた歴史劇の二本。いずれもこの季節にふさわしい明るい作品で、既に舞台美術のラフ案までできあがっていた。「それでは、最終的にどちらにするか――」進
ポニーの家では、7月の挙式に向けて村ぐるみの準備が本格化していた。礼拝堂の修繕、食堂の整備、椅子やベンチの塗り直し。一つひとつの作業を、村の大人たちも子どもたちも手伝っている。「すごいわねぇ、若いのに手際がいいわ」「ほら、見て、あの動き!村の男衆でもなかなかあそこまでやらないわよ」「しかも無駄口ひとつ叩かずに、丁寧にやってくれて…」昼食の片付けをしながら、村の奥さまたちは感心しきりだった。「それにしても、キャンディの婚約者は、ニューヨークから来るって聞いたけど…」「そうそう、レイ
決勝前の稽古は、スキャンダル記事とは裏腹に緊迫した雰囲気の中進んでいた。劇団のホールは、前方に幹部や演出家、俳優たち座り、それ以外は静まり返っていた。稽古だというのに、客席全体を覆う空気は本番さながらの緊張感を帯びている。舞台中央には長椅子と、ジュリエット役を務める若い女優が立っていた。「では……テリュース・グレアムから」演出家の声が響くと、舞台袖の照明だけが二人を浮かび上がらせた。ジュリエット役の女優が細い肩越しに見せる微笑み――その輪郭が、キャンディと重なる。「ロミオ、もしあな
ジュスト・ジャカン監督によるフランスの官能映画。出演はコリンヌ・クレリー、ウド・キア、アンソニー・スティール。<あらすじ>“O”は恋人のルネに命じられ、ロワシーの館に入った。そこでOは衣服を脱がされ、裸のまま首輪と腕輪をかけられると、男たちに鞭で打たれ、犯される。ルネはそれを見守っていた。Oは恐怖とともになぜか甘美な思いを抱く。館から出たOは、ルネからステファン卿を紹介される。兄弟同然の仲だというルネとステファン卿は、Oを共有し、思いのまま自由に扱う。次第にOはステファン卿に惹かれ
午後の光がやわらいで、街の喧騒がひとつ外套を脱いだように静まるころ。セントラルパークは、別の時間をまといはじめる。ブロードウェイの電飾も、クラクションも、ここまでは追ってこない。風が梢を撫で、赤や金に色づいた葉がゆっくりと舞い落ちる。石のテラスには午後の陽が斜めに差し、影は長く、やわらかい。ベンチに並んで腰かけるふたり。彼の帽子のつばに、ひとひらの葉が落ちる。「似合ってるわ」キャンディが笑う。テリィはわざと気づかないふりをして、しばらくそのままにする。遠くを、黒塗りの馬車がゆ
5月7日。春公演の合間の休演日。夕食後、テリィはどこかいたずらっぽい笑みを浮かべて言った。「さて……ここからが本番だ」テーブルの上に置かれた小さな包み。そのカードには一文字――“I”。「部屋のあちこちに隠してある。全部で八つ。探してごらん」キャンディは驚きつつも笑みを浮かべ、宝探しを始めた。①本棚の間から出てきた花模様のしおり(L)「おまえ、読書してるとき夢中になってページを折るだろ。だから代わりに」キャンディは赤くなって「そんな癖まで見てたの?」と笑った。②食器棚の奥にあ
これから先は『ロミオとジュリエット』のお話になっていきます。『ロミオとジュリエット』といえば、はじめてテリィが主演をした演目ですが、その頃には人生を左右する出来事がありました。それは、私たちキャンディキャンディファンにとっても、衝撃的な出来事でした。何があったかは、ここではそれは省略しますが、それによってテリィはキャンディではなく、スザナのそばにいると決めました。彼は、スザナのそばにいた理由を「責任」と「贖罪」だと自覚していて、彼女の痛みはあまりに大きく、自分がつらいなどと言うことは許
ストラトフォード・アポン・エイボン滞在最終日。夕暮れの川面は金色に染まり、シェイクスピア記念劇場の前には人々の笑顔が溢れていた。その名を世界に轟かせるシェイクスピア・メモリアル・シアター・カンパニー(SMT)は、最高峰の演技と演出をもって、時を超えた物語を舞台に蘇らせていた。この舞台に立つことは、多くの俳優にとって到達点であり、夢の証明でもあった。「…まさか父上からチケットが届くとはな」テリィが封筒を指先で弾く。そこにはグランチェスター家の紋章とともに、“Weddinggift
テリィがポニー先生たちに、結婚の挨拶のために訪れてから1週間ほど過ぎた二月のある日。食堂には、いつものあたたかな灯りがともり、テーブルには湯気の立つお茶が用意されている。ポニー先生とレイン先生が向かい合って座り、その前にキャンディが少し背筋を伸ばして腰を下ろしていた。「どうしたの、キャンディ。改まって」ポニー先生がやわらかく微笑む。その声に、キャンディは一瞬だけ言葉を選ぶように視線を落とし、それから顔を上げた。「……あの、今日はお願いがあって」「どうしたのです?」レイン先生が穏や
アルバートが柔らかな微笑みでテリィとキャンディに頷いたそのとき、応接間の扉の向こうで、控えめにノックの音が響いた。「…アーチーボルト様とアニー様が到着されました」扉が開いた瞬間、ジョルジュの横をすり抜けるようにして――駆け込んできたのはアニーだった。「よかった、間に合ったぁ…!」息を切らしながら部屋の中央まで小走りに進み、続いて現れたアーチーがゆったりとした足取りで追いついてきた。「ふう、予想以上に早く着いたんだな。…もう終わったのか?」アニーが部屋の中央にまで進んだそのとき、
祭壇での誓い。拍手に包まれた祝福の時間。白いチャペルの光が、まだ瞼の裏に残っている。テリィがバスルームから戻るとキャンディがバルコニーから戻ってきた。テリィは静かに近づいていく。シャツの袖をまくりながら、少しだけ息をつめたような顔。「……綺麗だったよ。今日の、おまえ全部」「ありがとう。でも緊張してたのよ?」「知ってたよ、手が震えてた」キャンディは照れたようにうつむき、テリィはその頬に手を添える。「緊張、ほどいていい?」潤む瞳が彼を見つめている、答える前にそっと唇が重なった。最