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午後の授業が終わると、キャンディは教科書とノートを抱えて教室を出た。廊下の先に、テリィの姿が見えた。呼びかけようとして、口を閉じる。少し離れたところに、シスターが立っていた。テリィはそのまま図書室へ入っていった。明日、にせポニーの丘で会ったときに話せばいい。そう思ったのに、足が止まらなかった。今日のフランス語の授業で、もう一度、詩を暗唱した。今度は最後まで言えた。あの日、落ち込んでいた自分の話を聞いてくれたテリィに、早く伝えたかった。キャンディは掲示板の前で少し時間を置いてから
披露宴も後半に入り、宴会場の空気はすっかりやわらいでいた。その中で、イライザは先ほどから一人の男の姿を目で追っていた。ヴィクター・ラングフォード。ストラスフォード劇団でもテリュースと人気を二分する俳優で、イライザが以前から熱を上げている俳優。今日この披露宴へ来たのも、もちろんキャンディの結婚を祝うためではない。ヴィクターが出席する、そう思ったから、父が出席できないことを知ると自ら代理になると申し出た。少し離れたところで、ヴィクターは劇団の後援者らしい男と話している。時折笑い、グラスを傾ける
宴会場からテラスへ出ると、三月の午後の空気は少し冷たく、火照った頬に心地よかった。室内では楽団が再び演奏を始めている。扉一枚を隔てただけなのに、笑い声も音楽もここでは少し遠く、ガラス越しの灯りだけが華やかな披露宴の続きを伝えていた。「少し寒いわね」パティが肩をすくめた。三人がテラスへ出てきたのは、ほんの少し風に当たりたかっただけだった。アーチーも二人についてきて、手すりのそばに立っている。しばらくすると、パティが我慢できなくなったように笑った。「ねえ。さっきのあれ、そうよね?」「テ
アニーが静かに言った。「一時は、二人がどうなるのかと思ったけど……」その声には、先ほどまでの懐かしさとは違うものが混じっていた。「スザナさん……だったわよね。テリィと同じ劇団の女優さん」パティが頷く。「事故でテリィを庇って、大怪我をして……」「それは誰のせいでもなかった。でもスザナさんはテリィを好きだった」アニーは遠くを見るような目をした。「だからキャンディは、自分が身を引いたのよね」アーチーは黙っていた。あの頃のキャンディを思い出している。アニーの声が少し揺れた。「キャンデ
ヴィクターはグラスをテーブルへ置いた。「ただ、妙ですね」「何がです?」「あなたの話を聞けば聞くほど、俺は花嫁に興味が湧いてくる」イライザの笑顔が止まった。「……え?」「孤児院で育って、まったく違う世界の名家へ入った。そこで生きていくのは、子供には相当大変だったでしょうね」「それは……」「それでも看護婦になった?……」「ええ、まあ……」「自分で仕事を選んで、人の命に関わる仕事をしている」ヴィクターは会場の向こうを見る。そこには、招待客と笑いながら話しているキャンディがいた。
しばらくの間過去記事を回遊していただけると嬉しいです今さら・でも―キャンディキャンディいつもアクセスいただきありがとうございます©水木杏子/いがらしゆみこ画像お借りしますブログを最初から読む二次小説を最初から読む11年目のSONNET目次スピンオフ本編前本編後キャンディ雑談を読むFinalStoryの考察を読む考察①FinalStoryって?考察②新旧手紙の比較考察③あのひとは誰?考察④Finalと
港へ着く頃には、空はすっかり冬らしい青さを見せていた。風は冷たいけれど陽射しは穏やかだった。フェリー乗り場には多くの人々が集まっている。観光客や家族連れ。恋人たち。そして仕事の合間に訪れたらしい人々。誰もが思い思いの時間を過ごしていた。テリィはチケットを買い、キャンディのところへ戻る。「待たせた」「ありがとう」自然な会話だった。フェリーへ乗り込む。甲板へ出ると海風が頬を打った。「わぁ、寒い!」キャンディが肩をすくめる。テリィは思わず笑った。「だから言っただろ」そう言いな
ポニーの家の大きく開け放たれた窓からは、焼きたてのクッキーの甘い匂いが午後の風に乗って流れ、丸いテーブルには、湯気の立つ紅茶が静かに並べられている。そのテーブルを囲むように座っているのは、キャンディ、アニー、そしてパティの三人。それぞれが別々の場所で新しい時間を生き始めてから、以前のようにただ他愛もない話をしながら笑い合う時間は、いつの間にか少なくなっていた。だからこそ、こうして三人だけでゆっくり顔を合わせる午後が、たまらなく懐かしく感じられるのだ。ポニーの家の窓を揺らす風も、遠くから聞
「私は、その”ただのテリィ”が、一番好き」「キャンディ……」その言葉に、テリィは目を細め、一瞬だけ黙り込む。そして、口元がゆっくりと悪戯っぽく持ち上がった。「……それが一番?」「え?なにが?」「じゃあ、二番は?二番目に俺の好きなところは?」「えっ?」突然の質問に、キャンディは目をぱちくりさせる。「えっと……それは」真剣に考え始めた彼女を見て、テリィは笑いを堪えていた。「一番があるということは、三番もあるってことだよな。三番は?」「えっ、ちょっと待って!」「どうせなら五番く
【F】FarewellandForward(別れ、そして前へ)夕暮れの光が、やわらかく村を包み込んでいた。昼の名残をわずかに残した風が、草を揺らし、道の土の匂いを運んでくる。ポニーの家へと続く道は、かつての面影を残しながらも、今はきれいに整えられていた。村の人々の手によって直された石畳は、どこか誇らしげに光を受けている。キャンディは、その道をゆっくりと歩いていた。ひとつひとつを確かめるように、足を運ぶ。ここで走り回ったこと。ここで笑ったこと。ここで泣いたこと。どれもが、あたりま
夜はとうに更けていた。寝室のカーテンの隙間から、街の明かりが細く差し込んでいる。テリィは目を閉じたまま、しばらく眠ろうとしていた。隣からは、規則正しい寝息が聞こえている。テリィの頭の中では、帰宅後からずっと引っかかっていた言葉が何度も繰り返されていた。――私のこと、好き?あのときは、突然何を言い出すのかと思った。もちろん好きだと、何年待ったと思っている、と答えた。安心させるために言った言葉ではない。全部、本当のこと。けれど――。テリィは薄く目を開けた。思えば、キャンディがニューヨー
会場から小さな笑いが起こった。後援者の一人が言う。「あれ、学生じゃないか?」「確かに、そう見えるね」キャンディは笑えなかった。テリィが時計を見てすぐにしまう。まだ時間はあるようで、木にもたれたまま待つ。やがて退屈したらしく、上着のポケットへ手を入れ、煙草を一本を口にくわえ、今度はマッチを取り出すと、慣れた仕草で火をつけようとして――ふと、手が止まった。ほんの一瞬、口元にくわえた煙草を見る。それから、誰かに何かを言われたように、わずかに眉を寄せた。キャンディの胸の奥が、小さく跳ねた。覚え
【R】Recipe(あなたのためのレシピ)ニューヨークの夕暮れは、街全体がゆっくりと灯り始める時間が美しかった。劇場街のネオンが淡く滲み、窓の外には秋色の空が広がっている。そのころ、ペントハウスのキッチンでは、キャンディが真剣な顔で鍋を見つめていた。白い湯気が立ち上る。豆の甘い香りと、ベーコンを煮込んだ深い匂い。木べらを持つ手に、ほんの少しだけ力が入る。(……もう少し)小皿へ取って味を見る。けれど――「なんか……違う」小さく肩を落とした。ほんの少し前まで、ポニーの家で料理を手伝って
スザナの葬儀から、数か月が過ぎていた。春が近づき、街の空気は少しずつ柔らかくなっていたが、テリィの周囲にはまだ、どこか冬の残り香のような静けさが残っていた。劇場の稽古場では、次の作品の準備が進んでいた。長いロングランを終えたばかりの彼にとって、新しい舞台は新たな出発でもあった。その日、劇団の一室で次作の発表会見が開かれていた。テリュース・グレアム主演、新作舞台。劇団にとっても大きな作品になる。フラッシュが焚かれ、記者たちの質問が続いた。「今回の役柄について教えてください」「前作の
ホリデーシーズン最大の話題作として期待されるストラスフォード劇団『ロミオとジュリエット』。SMTで喝采を浴びたテリュース・グレアムと、新進気鋭の若手女優エヴリン・ハートが、舞台の外でも急接近していることが本紙の取材で分かった。掲載された写真には、深夜、稽古を終え劇場裏口から並んで歩く二人の姿。女優はテリュースの腕へ自然に手を添え、彼は優しい表情で彼女を見つめているようにも見える。古くから演劇界では、「ロミオとジュリエットを演じた俳優は、本当の恋に落ちやすい」と言われてきた。実際、ブ
昼休みになっても、フランス語の授業で言われたことが、キャンディの耳から離れなかった。その日の課題は、詩の暗唱だった。キャンディはフランス語は得意なほうではないため、人の何倍も練習していた。意味の分からない言葉を調べ、読み方に迷ったところはアニーとパティに聞き、声に出して何度も繰り返した。昨夜は教科書を閉じても最後まで言えるようになっていて、今朝も、身支度をしながら確かめた。今度は、ちゃんとできる、と。そう思っていたのに、指されて立った途端、覚えたはずの言葉が出てこなくなった。最初の一節は言
ブロードウェイの夜は、相変わらず賑やかだった。テリィはその流れの中を、ゆっくり歩いていた。胸の奥には、まだ信じられないような温かさが残っている。一昨日のことだった。久しぶりに会った彼女に、言葉を選ぶ余裕もなく、真っ直ぐにプロポーズをした。テリィは夜空を見上げた。劇場街の灯りの向こうに、わずかな星が見える。そのときだった。不意に、横から声がした。「あら!あのときのお兄さんじゃないか」テリィは振り向いた。通りの端。小さなテーブル。古い布。そして、水晶玉。一瞬、時間が戻ったような気がし。占い師
テリィはしばらく黙って、キャンディの指先に身を任せていた。やがて、目を閉じたまま口を開く。「……さっき車で話そうとしたことだけど」キャンディの手が、ほんのわずかに止まった。「ちゃんと話しておきたい」キャンディはまた髪を撫で始めた。「私、テリィのこと疑ってないわよ」「分かってる」「だったら」「それでも話したいんだ」その声は穏やかだった。「もちろん、記事に書かれてるようなことは、何もない」「うん」「食事に行ったこともない、劇場の外で二人きりで会ったこともない。最初の記事は、稽
ストラトフォード・アポン・エイヴォンの雨は、音を立てずに降る。窓を叩くほど強くはないが、いつまでも止まらない。今日も細い雨が石畳を濡らし、エイヴォン川の水面に細かな皺を作っていた。劇場裏口の鉄階段には水気が残り、踏みしめるたび、靴底が鈍く鳴った。RSC。建物は、今日も静かだった。だが、その静けさの奥には、獣の檻のような緊張がある。テリュースは煙草を指先で回しながら、裏口から劇場へ入った。廊下ですれ違う俳優たちは、軽く会釈するだけだ。誰も愛想よくはない。歓迎されていない。その事実だけは、日
空は、朝から重かった。低く垂れ込めた灰色の雲。霧混じりの風が、エイヴォン川から街へ流れ込んでくる。テリュース・グレアムは、劇場前で足を止めた。王立シェイクスピア劇団。RSC。重厚なゴシック建築の建物は、ブロードウェイとはまるで違う空気を纏っていた。派手な看板はない。スター俳優の巨大ポスターもない。客を煽るような明るい文字もない。ただ、長い年月の中で積み重ねられた“演劇そのもの”の重みだけがあった。入口脇のポスターには、『リア王』『十二夜』『マクベス』『ハムレット』の文字。そのどれもが静
【E】EveningTogether(夕暮れのふたり)夏の夕暮れは、なかなか終わろうとしない。昼の熱を含んだ空気が、街のあちこちに残っている。ビルの隙間を抜ける風も、どこか重たさを帯びていた。それでも陽はゆっくりと傾き、街は静かに夜へと向かっている。キャンディは、その境目に立っていた。エントランスのポストの前。手元の鍵を、何度目かに確かめるように触れる。(……そろそろ、かしら)夕方には帰るよと告げてくれた彼。けれど、正確な帰宅の時間はわからない。だから、待つしかなかった。部屋で
朝は、よく晴れていた。劇場の壁は陽射しに温められ、窓硝子には青空と流れる雲が映っていた。開いた窓からは風が入り、川の匂いを運んでくる。テリュースがRSCの稽古場へ入ると、すでに俳優たちが発声を始めていた。低い声が、木の床を伝って響く。感情を乗せるためではなく、呼吸を整えるためだった。吸う場所。吐く場所。音を強く落とす場所。言葉を流す場所。怒りより先に呼吸を。涙より先にリズムを。そうして、言葉を身体へ沈めていくのだ。テリュース・グレアムは、その光景にまだ馴染めずにいた。RSCでは、俳優の熱
数日後。RSC公開稽古の日。客席には、いつもの劇団員だけではなく、演劇学校の講師、地方劇場の関係者、批評家の卵たちまで座っていた。薄暗い客席には、独特の緊張が漂っている。RSCの公開稽古は、単なる“見学”ではない。ここでは、俳優がどう壊れ、どう作り直されているかまで見られる。演じる過程をすべて丸裸にされる。つまり、未完成も、失敗も、沈黙も、すべて晒される。それがシェイクスピアの研究機関としてのRSCの役目でもあった。舞台袖で、テリュースは静かに呼吸を整えていた。指先が冷たい。『マク
翌朝、テリュースは誰よりも早く稽古場に入った。木の床には、誰かの落としたペンが転がっていた。テリュースはそれを拾い、机の上に置く。そして窓際の椅子に腰掛け、『ロミオとジュリエット』の脚本を開いた。ロミオとジュリエット。その名前を見るたび、テリュースの胸の奥に痛みが走る。あの役は、美しい。若さがあるし、熱がある。言葉が光っている。だが、その光の奥には、死がある。テリュースは、ページをめくる指を止めた。ずっと以前なら、ロミオを演じることは怖くなかった。恋を語ることも、愛を誓うことも、相手の