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1935年の秋。木々が黄金色に染まり、エイヴォン川に白い靄が立つ頃、シェイクスピア・メモリアル・シアターは満員だった。白髪の劇評家たちは口を揃えた。「見事だ。実に正統派だ」「発声、間。どれも伝統の継承そのもの」客席からため息すら漏れるほどの見事な出来だった。だが、若い観客たちは正反対の言葉を交わしていた。「……すごいけど、驚きはなかったな」「毎年観てる感じの“いつものハムレット”」舞台は優雅で整っていた。だが、あまりに端正すぎた。新聞は礼儀正しく讃える一方で、若者たちの間で
初日の翌朝、劇場前にはすでに人の列ができていた。掲示板の横では前夜の観客たちが興奮冷めやらぬ様子で話し込んでいる。「席が空いたら何としてももう一度観たいの」「二度目はピアノの鍵盤をずっと見ていたい…」「いや、演技も見逃せない」——まるで名画の上映に通う映画ファンのように、観劇リピーターが続出していた。昼までには、初日の劇評が街の新聞売り場に並ぶ。大見出しに踊るのは、[グレアム、ショパンとして弾く]の文字。記事の中で、ある批評家はこう評した。「俳優としての存在感に加え、音楽家としての
夕方のニューヨークは、昼と夜のあわいにあった。西の空にはまだ淡い光が残り、ビルの谷間から反射した夕映えが、ペントハウスの窓ガラスにやさしく滲んでいる。キャンディはリビングのソファに腰かけ、窓の外を眺めていた。街が夜へ移ろうその一瞬が、彼女は好きだった。忙しなく動いていた昼の顔が静まり、灯りがひとつ、またひとつと灯っていく時間。(そろそろ、かしら)そう思ったとき、玄関の方で鍵の回る音がした。反射的に顔を上げる。「……テリィ?」呼びかける声は、自然と少しだけ弾んでいた。コートを脱
夜のニューヨークは、いつもより静かだった。ペントハウスの大きな窓の向こうで、街の灯りが無数の星のように瞬いている。キャンディはソファに腰を下ろし、膝の上で指を組んでいた。見出しだけを拾った新聞や夕刊の、あからさまな言葉。《テリュース・グレアムの妻は、アードレー家総長の養女》《不自然な年齢差の関係》《養父と養女、その真相は》すでに沈静化しつつあるとはいえ、胸の奥に残るざらつきは消えなかった。テリィは窓辺に立ち、グラスを持ったまま外を見ていた。背中越しに見えるその姿は、いつもより少
エイヴォン川は秋の光を反射し、金色の帯のように流れていた。SMTの石造りの建物は朝の冷気を抱いたまま、どこか張りつめた空気を孕んでいた。稽古場では俳優たちが硬い表情で台本を開いている。昨夜の新聞記事が、彼らに重くのしかかっていた。《ロンドンのハムレット、観客の度肝を抜く》《“王子はロンドンにいた”――劇評家が宣言》《若者の支持、ロンドン版に集中》《SMTの保守性が裏目に?》俳優のひとりが唇を噛む。「……まるで、俺たちが遅れた芝居やってるみたいじゃないか」別の俳優が新聞を握りつ
マーロウ邸の二階、客間の薄暗いランプの下で、テリュースはひとり椅子に座っていた。膝の上には開かれたままのハムレットのクォート1。だが、文字は全く入ってこない。「愛していると言って」と震える声。スザナの泣き顔。君のことを愛している。ずっと側にいる。テリュースは、自分の吐いた言葉の空洞に吐き気をもよおした。それは決して嘘ではない。だが絶対に真実でもなかった。(俺はどこまで卑怯になれる?)テリュースは指を組み、額に当てた。指先に、母を抱えた時のスミレと水仙の匂いがまだ残って
11月末、ストラスフォード第三劇場、『BeforeDawnアンコール公演』のこの日の公演を終え、まだメイクを落としていないケビンが、楽屋口からそっとテリィを呼び止めた。声はいつになく低く、真剣そのもの。「なぁ、テリィ……頼みがあるんだ」「ん?なんだ、妙に改まって」軽口で返そうとしたテリィだったが、その顔に冗談の影がないのを見て、歩調を緩めた。ケビンは一度、深呼吸をしてから口を開いた。「実はさ、公演中に……俺の恋人がニューヨークに来るんだ」テリィの足が止まる。「……恋人?」「
スコットランドの夏なのに、厚い雲が空を覆い、陽光はほとんど差さない。冷たい雨と霧が大地を濡らし、少年テリュースが寄宿させられた別荘の窓から見える景色は、重苦しい色合いに閉ざされていた。広い屋敷の周りに、彼の友となる同年代の子はひとりもいない。父や継母の子どもたちと一緒に過ごすことはなく、特に夏の季節は遊びに誘われることもなかった。付き添いの家庭教師もいたが、必要以上の会話をすることはなく、課題が終われば少年は取り残されるように沈黙の中に置かれた。その孤独を埋めたのは――屋敷の奥にある古
テリィに手を引かれ、キャンディは人通りの少ない石畳を歩く。立ち止まった先には、小さな看板がひとつ。「……ここなの?」問いかけに、彼は片眉を上げて笑った。「そうさ。入ってみろ」階段を降りて重い扉を押すと、レンガの壁と琥珀色のランプに照らされた地下の空間が広がった。低い天井、革張りのソファ、そして奥には黒光りするグランドピアノ。外の世界とは切り離された、秘密めいた空気が漂っている。カウンターに立っていたのは、白髪混じりの初老の男だった。「おや……テリュースじゃないか」「久しぶりで
その夜の舞台も、観客の熱気は凄まじかった。二幕、バルコニーの場面。ロミオがジュリエットを抱き寄せ、舞台の照明が二人を包む。――本来なら、唇は触れることなく、角度と影で「しているように見せる」だけの演出だ。ところがその瞬間、ジュリエット役の若手女優はほんの一瞬、迷いなく首を伸ばし、テリィの唇に自分の唇をかすめさせた。一秒にも満たぬ出来事。客席からは違いがわからない。だが触れた瞬間、テリィの瞳に一瞬だけ驚きが走った。次の台詞を逃すことなく、彼は即座にロミオに戻り、舞台を続けた。その
191X年9月。セントポール学院の空気は、例年とは違う熱を帯びていた。それまで男子の寄宿舎校として知られてきたこの学院に、初めて女生徒が入学を許されたのだ。格式あるレンガ造りの校舎のあちこちに、新しい制服のスカートの裾が揺れる。石畳の中庭を行き交う声はいつもより華やかで、男子生徒たちの視線は、どこか落ち着きを失っていた。「女子が廊下を歩いてるぞ」「信じられない……ここが本当に共学になるなんて」ざわめきは日ごとに大きくなり、ついに男女が顔を合わせる最初の機会、週末の礼拝の日が訪れた。
翌朝。5番街の高級ホテルのスイートルームが、臨時の撮影スタジオに変えられていた。厚いカーテンは半ば閉じられ、窓から差す自然光を柔らかく和らげる。大きなランプが三脚の上に据えられ、銀色のレフ板が幾つも立てかけられている。テリィが部屋に通されると、すでに数名のスタッフが慌ただしく準備を進めていた。「グレアム氏、こちらへどうぞ」エルメス専属のスタイリストが笑顔で迎える。ラックには最新コレクションのスーツがずらりと並び、その布地は一目で上質と分かる艶を帯びていた。「今日は三種類のルックを
あらためまして。新年おめでとうございます🍾㊗️本年もどうぞ、よろしくお願いいたします🙇♀️✨皆さま、新年はいかがお過ごしでしょうか。私はというと……もうなんとなく予想できるのかなと思うのですが、年末年始のご挨拶をしっかり投稿しておきながら……せっせとイメージビジュアルを作っていました💦←なにやってんねんどうやら年末も全力投球のようです(笑)さて、本日0:00にひっそりと『宝石箱の夜』というお話を投稿いたしましたお気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、その中にこっそりと、お
こんばんは♪あの〜、ちょっと聞いてもらっていいですかぁ(小声)😅突然なんですけどー、うちのマネージャーが(←え?誰のこと?自作自演??💦)「この人、テリィのイメージに合うと思うんですけど!」と言って、街でスカウトしてきたらしいんです(笑)というわけで。スカーレット・ピンパーネル/パーシー・ブレイクニーの衣装を着てもらい、勢いでスチール撮影してみました📸……はい。もう原作からどんどん遠ざかってる……もちろん自覚はあります😂でも、どうでしょう。このテリィ。正直、ちょっと…
稽古が始まってまだ10日。劇団の空気はすでに異様な熱気と緊張に満ちていた。稽古場の壁に貼られた新聞の切り抜きには、大きな文字でこう踊っていた。《春、ロンドンで二つのハムレットが激突!SMT本公演vsロンドン『アレックス劇団』挑戦者はテリュース・グレアム》アレックスが仕掛けた宣伝戦争だった。記事は煽るように書かれている。《英国の誇るSMTの真価が問われる。対するはアメリカの舞台を席巻してきた若きハムレット。ロンドンで歴史は塗り替えられるのか?》この見出しが出た日から、稽
秋の気配が忍び寄る午後。キャンディは買い物帰りに立ち寄った新聞売店で、見覚えのある名前に目を奪われた。『ロミオとジュリエット、現実の恋か――人気俳優テリュース、夜の街で“彼女”と』紙面に映るのは、劇場を出て歩くテリィと若い女優。切り取られた構図は、まるで恋人同士のように見える。キャンディは胸の奥がずきりと痛むのを感じた。「……違う、そんなはずないのに」そう自分に言い聞かせながらも、目は写真から離れなかった。家に戻ると、テーブルの上にそっと新聞を伏せた。やがて新聞を持って立ち、引
「グラティアーノ、第一代役。…テリュース・グレアム」名簿が読み上げられた稽古場に、一瞬だけ空気の張りが走った。それは称賛でもなければ、驚きでもない。沈黙という形でそれぞれが飲み込んだ反応だった。今年の本公演・ホリデーシーズンは、シェイクスピア『ヴェニスの商人』。物語の表と裏、友情と欺瞞、正義と復讐が絡み合う群像劇。キャストは本役のほかに、第一代役、第二代役まで細かく振り分けられるのが通例だった。代役の配役はオーディションではなく、劇団からの指名で決まる。ゆえに、その人選が発表され
テリィ―『コリオレイナス』最後に現れたのは、テリュース・グレアムだった。一歩、また一歩と舞台中央へ進み出るその姿に、場内の空気が変わる。客席から洩れる衣擦れの音さえ消え、ただ彼の足音だけが劇場を支配していた。幕が開き、暗闇の奥から一人の影が歩み出る。赤いマントが揺れ、革の胸甲が舞台の光を受けて鈍く輝いた。剣を腰に佩き、逞しい腕と鍛えられた脚を露わにして、テリィが現れる。場内が暗転し、太鼓が鳴り響いた。舞台に火花のような照明が走り、戦場のざわめきが流れ込む。鎧に身を包んだ兵士役
団長ロバートは、早朝の劇場にひとり佇んでいた。舞台上には、まだ昨夜のオーディションの気配が残っている。床に落ちたチョークの粉、動かされなかった椅子、閉じきらない暗幕。それらはすべて、決断が先延ばしにされてきた痕跡のようだった。ロバートは、客席の中央に立ち、舞台を見上げる。(ハムレット)十年ぶりの再演は、それだけでも重い。だが、今回は、それ以上に主演の選択が劇団の行く先を決める。「来ていたのか」背後から足音がした。振り返るとブライアンだっ
結婚した年の12月31日。夜気は澄み、冬のニューヨークの空は、どこか張りつめた静けさを帯びていた。ペントハウス最上階のバルコニーから見下ろす街は、宝石箱をひっくり返したように光を散らしている。その中でひときわ明るい場所があった。「あそこだな」テリィが指で示す。夜景の中心に、他よりも少し熱を持ったような輝きが集まっている場所。タイムズスクエアだ。「もうすぐ、あそこはお祭り騒ぎだろうな」「人で埋め尽くされて、すごいと聞いたわ」バルコニーの手すりに並び、二人は同じ方向を見ていた。
春公演『特別公演BeforeDawn』が終わり6月に入ったまもなく。テリィとキャンディはテリィの異母兄弟、弟のジョージの結婚式出席のため、イギリスへ向かう客船にいた。夜の海は深い紺に沈み、星明りだけが頼りだ。テリィはソファでのんびりと本を読んでいた。すると、甘い香りが漂ってくるとキャンディがミルクティーをテリィに差し出して隣に座った。「ねえ、テリィ。私、海を渡るたびに思い出すことがあるの。……あなたを追いかけてアメリカへ行ったときのこと、話してもいい?」テリィは横目で彼女を見た。「
1925年10月。テリィに内緒で、チケットはずっと前に手に入れていた。けれどテリィに「観に行く」とはどうしても言えなかった。彼がこの演目に向き合う理由を、私は知っているからだ。婚姻の報告で渡英したときに観た舞台。お父さまが勧めてくれたストラトフォード行き。あのときの客席で、彼の瞳が遠くを見ていたことを私は忘れない。秋公演が『ロミオとジュリエット』だと聞かされたときの、彼の事務的な言い方。その口調には、「これ以上触れないでほしい」という無言の壁があった。それからの日々。稽古から帰っ
翌日の午前、エレノアの愛車で向かったのは、ロサンゼルスの北側に広がる撮影所街だった。正門をくぐると、白壁の建物と木造の倉庫のようなスタジオが並び、あちこちで台車に乗せられた大道具が運ばれていく。中庭では、羽根飾りをつけたエキストラの女性たちが談笑し、背広姿の男たちが台本らしき束を小脇に抱えて歩いていた。「映画は初めてかしら?」エレノアが振り向くと、キャンディはうなずき、瞳をきらきらさせていた。「舞台と似てるようで全然違うんですね。こんなにたくさんの人が動いてるなんて」スタジオの中に入
アードレー邸の庭に着くころには、日が西の空を赤く染めていた。子どもたちが芝生の上を駆け回り、春夏の空気を楽しんでいる。アルバートがサロンでふたりを迎えた。「行ってきたんだね」「はい。ステアとアンソニー、ふたりにも報告をしてきました」キャンディが静かに答えると、アルバートの表情に微笑みが浮かんだ。「“別れ”をきちんと伝えるのは、本当に大切なことだよ。過去に礼を尽くせる人は、未来を恐れない」その言葉に、テリィも深く頷いた。「僕たちは明日、ここを発ちます。家族として送り出していただき感
麦の穂が風に揺れ、夏の陽ざしが白壁の教会をやさしく照らしていた。その前に一台の車が止まると、玄関口から小さなざわめきが広がった。子どもたちが駆け出し、門のところで立ち止まる。「……キャンディ!」ポニー先生が、変わらぬ温かな笑顔で立っていた。その隣には、レイン先生が涙を浮かべながらハンカチで口元を押さえている。「ただいま……先生!」声が震えた。8年前、花嫁姿で扉を出て行った自分が、今は二人の子どもの母となり、この場所に戻ってきたのだ。ポニー先生は、その変化を深く噛みしめるようにしばし
ロミオ役がテリュース・グレアムに決まった――。劇団が正式にその名を発表したのは、数日前のことだった。演劇ファンも記者も熱狂し、その舞台を待ち望んでいた。だが、その熱狂は芝居よりも、別の方向にも燃え広がっていた。少し前の夜。稽古帰りの団員たちが散りゆく中、シャッターの光に照らされたのは、外套の襟を立てて歩くテリィと、たまたま隣に並んだ若い女優の姿。彼女は驚いたように目を細め、すぐに微笑んだ。ほんの数秒の出来事。だが翌朝には、大きな見出しとなって街を駆け巡った。『現実のロミオとジュ
東京を出て旅も5日目。いよいよ出雲大社へやって来ました。がわたしは前日の夕方から体調が悪くなり起きられなくなっていました。オットと息子は早朝の誰もいない時間から「稲佐の浜」でお参りし砂を拾い…出雲大社へお参りに。途中から大雨だったみたいだけど、ここに限ってはそれもまたなんだか美しい。ホントに誰もいない2人はお昼には参道を歩いて出雲そばを食べに行きました。その間もわたしはひたすら「つ、辛いこれは救急行くレベルかしら」などと思いつつ眠って起きては水分摂ってまた眠る…の繰り返し。
第三場。舞台は暗転。静けさの中に、遠くから低い風の音が響く。ゆっくりと照明が戻り、舞台全体が冷たい青白い光に包まれる。背景には雪原を思わせる幕が広がり、粉雪のような白い紙片が上から静かに舞い落ちる。ショパン役のテリィは、舞台中央に立ち尽くしている。背はわずかに丸まり、肩を押さえて咳き込む仕草。客席は、その一瞬で彼の体の弱さと病の影を感じ取る。袖からピアノの序奏が始まる。曲は【英雄ポロネーズ】。冒頭の力強いリズムが響くたび、雪原の幕に光が走り、遠い戦場の太鼓の音のように観客の胸を打つ。
劇場の灯りがゆっくりと落ちていく。ざわめいていた客席も、次第に静けさに包まれた。プログラムを膝に置く手が固く握られ、誰もがこれから始まる時間に息を潜めている。幕の向こう、舞台袖では最後の小さな調整が続いていた。大道具のスタッフが袖を押さえ、衣装を整えられた俳優たちは緊張と昂揚を胸に深く息をつく。ピアノの蓋が開く音が、わずかに響いた。暗闇の中、合図のベルが三度鳴り響く。観客の視線が一斉に舞台に集まり、重たい緞帳が静かに引き上げられていった。そこに現れるのは、豪奢なサロン。きらめくシャンデリア、
1925年、去年に遡る。ストラスフォード劇場の事務棟二階。秋公演が「ロミオとジュリエット」に変更されると決まった翌週、会議室では、経営陣と制作責任者が集まっていた。壁際のカレンダーには翌年の春から夏までの枠が大きく空いている。「ロミオは本人の希望で変更。では、その次の春の本公演はどうする?」団長の問いに、制作部長が迷わず答えた。「『BeforeDawn』を提案します。彼の年齢と今の演技の深みを考えれば、まさに適任です。ロミオで熱狂を呼んだ後に、あの重厚な作品をぶつければ観客層の