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「8年です。その間、キャンディにはキャンディの人生があった。僕にも僕の人生があった。それは当たり前のことです。……あの時、僕たちは別れるしかなかった……それも分かっています」ポニー先生の表情がわずかに変わった。「僕を庇って人生が変わった彼女をあのままにして、僕たちだけが幸せになることはできませんでした。キャンディも同じことを思った……。だからキャンディが帰ると言ったとき、その意味が分かったから止めませんでした……いえ、止められませんでした」テリィはゆっくり息を吐いた。「今になって、あれが
ポニーの家へ戻った頃には、午後の陽が傾き始めていた。キャンディは子どもたちに呼び止められ、そのまま庭の向こうへ連れていかれた。「テリィ、先に戻っていて!」振り返りながらそう叫ぶキャンディに、テリィは片手を上げた。「ああ」子どもたちに囲まれていく後ろ姿を、しばらく見送る。ここへ来てから、何度こんなキャンディを見ただろう。自分の知らないキャンディ。この村を歩けば、いたるところに彼女が過ごしてきた時間が残っていた。診療所では、マーチン医師が看護婦として働くキャンディのことを話してくれた。
畑を後にすると、二人はカートライト牧場へ向かった。夏の陽射しの下、緑の草原が広がっていた。キャンディは迷うことなく道を歩いていく。「ポニーの家は昔からカートライトさんにお世話になってるのよ」「へえ」テリィが興味を示す。「じゃあ、そこでも子どもの頃のきみの話も聞けそうだな」キャンディが足を止めた。「余計なこと聞かなくていいからね」「なんで?」「なんでも!」テリィは笑った。その反応だけで、聞かれて困る話がいくつもありそうだった。牧場へ着くと、カートライトは二人を温かく迎えてくれ
港へ着く頃には、空はすっかり冬らしい青さを見せていた。風は冷たいけれど陽射しは穏やかだった。フェリー乗り場には多くの人々が集まっている。観光客や家族連れ。恋人たち。そして仕事の合間に訪れたらしい人々。誰もが思い思いの時間を過ごしていた。テリィはチケットを買い、キャンディのところへ戻る。「待たせた」「ありがとう」自然な会話だった。フェリーへ乗り込む。甲板へ出ると海風が頬を打った。「わぁ、寒い!」キャンディが肩をすくめる。テリィは思わず笑った。「だから言っただろ」そう言いな
礼拝堂の中で、キャンディは両手を固く組んだ。蝋燭の火が、小さく揺れる。その揺らぎが、まるで自分の心のようだと思った。祈りながら、キャンディの頬に静かに涙が伝った。誰にも言えない罪悪感。誰にも見せられない弱さ。そして、誰よりも深く愛してしまった人への想い。そのすべてを抱えたまま、キャンディは闇の中で赦しを求めていた。「キャンディ。そんな薄着で……風邪を引きますよ」静かな声が、礼拝堂の闇に溶けるように響いた。キャンディははっとして振り返った。入口には、ランプを手にしたポニー先生が立っていた。
「キャンディがまだ小さかった頃な。畑の向こうに大きなリンゴの木があって――」「その話は駄目!」キャンディが慌てて遮る。テリィはイタズラっぽい瞳を向ける。「どうして?」「え?な、なんとなく」「そりゃ、ますます聞きたいな」「テリィ!」男性はニヤリと笑うと構わず続けた。「一番上の枝になってるリンゴが一番甘いって言い張って、するする木に登っていったんだ」テリィがキャンディを見る。「……きみならやりそうだ」「昔の話よ!」「ところが、登ったはいいが降りられなくなってな」「まだ、その
キャンディはしばらくその背中を見送っていた。そして何事もなかったように歩き出す。テリィも隣を歩いた。数歩進んだところで、彼が言った。「キャンディ」「なあに?」「どうして手を離した?」キャンディの足が一瞬止まりそうになる。「……え?」「さっき、俺の手を解いただろ」「……ああ」明らかに分かっている顔だった。「別に、なんでもないわ」「別に?」「ほら、挨拶するから、ね」「手を繋いだままでも挨拶はできる」「それは……そうだけど」テリィは横から彼女の顔を覗き込んだ。「俺と手
ハムレットの夜から、ロンドンは変わった。次の日の朝、新聞売り場には早くから人だかりができ、劇評欄にはまるで申し合わせたように同じ名前が躍っていた。『新たなハムレット』『ブロードウェイのスター、英国を沈黙させる』『王子の再来』『帝王、誕生』オールドウィッチ劇場の前では、前夜の余韻に酔った人々が足を止め、「あの“Tobe”を聞いたか」「いや、“尼寺へ行け”だ」「あんな沈黙は初めてだった」と興奮気味に語り合い、その熱はロンドンの街角から街角へと波のように広がっていった。そして、二週間にわたる
スザナの脚本が上演されているのは、小さな劇場だった。ブロードウェイの華やかな通りから、少し外れたオフ・ブロードウェイにある煉瓦造りの建物。入口には、手描きのポスター。少し歪んでいて、色も派手ではない。だが、その前には、子どもたちが集まっていた。手を引かれ、笑い、落ち着きなく動き回っている。「……こんなに来てくれるなんて」入り口前の子供たちを見ていたスザナが、小さく息を吐くように言うと、キャップで変装したテリュースが、隣で答えた。「満員だな」その声には、舞台前の緊張ではなく、私的な
【K】KeptintheDark(知らされないままの真実)夜の公演を終えた劇場には、まだ熱の名残が漂っていた。舞台の照明は落ちているのに、空気だけがどこか張り詰めたまま、ゆっくりと冷めていく。奥まった休憩スペースのテーブルには、誰かが置いた新聞と雑誌が無造作に積まれていた。その一冊を、マイケルが何気なく手に取る。ぱらりとページをめくると、すぐに目に入ったのは見慣れた姿だった。「……ああ、これか」小さくこぼれた声に、隣にいたケビンが身を寄せる。「その記事か。今日やたら回ってたや
六月末、大きな拍手に包まれて千穐楽を迎えた。劇場には最後まで熱気が残り、終演後も取材や支援者への挨拶が続いた。主演として舞台に立ち続けたテリィにとって、それは充実した日々であると同時に、次なる大作『ロミオとジュリエット』への助走でもあった。その本格的な稽古が始まるまで、テリィたちのチームは2週間ほどの休暇が与えられていた。プロポーズのあとも、二人は以前と同じように手紙を交わした。仕事の予定を確かめ合い、まずはポニー先生とレイン先生へ、自分たちの口から婚約を報告したいという手紙を重ねなが
夜明けは音もなく忍び寄っていた。ランプの炎がほんの少しだけ頼りなく揺れた頃、窓の向こう側の闇がいつも間にか薄い灰色に変わっていることに、キャンディは気づいた。一晩中座り続けていたはずなのに、立ち上がった時、足の感覚は不思議なほど確かだった。その時。廊下の奥から足音が聞こえた。慌てないように自制しているが、だがかなり急いでいる足音。執事のクルーズの声が重なる。「先生、こちらでございます」ノックが聞こえ、扉が開いた。「先生がいらっしゃいました」主治医
午後のブロードウェイは、冬の光に満ちていた。通りには観劇客や買い物客が行き交い、ショーウィンドウにはクリスマスシーズンの名残がまだ色濃く残っている。古物屋の軒先には真鍮の燭台や古い時計、小道具に使えそうな銀器が並び、雑貨屋の店内には舞台衣装に使えそうな布地が山積みにされていた。スザナは杖をつきながら、ゆっくりと歩いていた。隣には脚本補佐のマデリーンがいる。「このアンティークのランプ、二幕に使えそうじゃない?」「ええ……でも少し大きいかもしれないわ」そんな会話を交わしながら、ふたりは通り
長い救護活動を終え、ようやく自宅の扉を開けた。玄関を閉めた瞬間、耳にこびりついていたサイレンや人々の叫び声が、まだ頭の奥でこだまする。静けさが返ってきたはずの家が、むしろ不気味に思えた。マーサが振り返り、小声で「おかえりなさいませ」と言ってくれる。その目に浮かんでいたのは安堵と心配。彼女は眠る子を見守ったまま、気遣うように静かに立ち去った。ここは安全な場所だ。そうわかっているのに、胸の鼓動は荒く、肩は強張ったままだった。寝室へ入ると、ベビーベッドの中で長男が小さな寝息を立てていた。
ニューヨークの夜は、静かに更けていた。ペントハウスの窓の向こう、街の灯りが星座のように瞬いている。テリィはキャンディに答え続けた時間に、約束通りに稽古から戻った。キャンディの用意した小さなバースデーサプライズは、彼がドアを開けた瞬間から始まり、――気がつけば、時計の針は0時を少し回っていた。「……二十九日、になっちゃったわね」キャンディがぽつりと呟く。ほんの少しだけ寂しさが混じっていた。テリィは何も言わず、彼女の肩を抱き寄せる。誕生日を祝われることよりも、こうして自分のことを考
夕食を終えた二人は、リビングでソファに並んで座っていた。暖炉の火が静かに揺れ、窓の外にはニューヨークの夜景が広がっている。キャンディは紅茶のカップを両手で包みながら、思い出したように笑った。「そうそう、今日ね、占いをしてもらったの」「占い?」テリィが少し意外そうに眉を上げる。「街で見つけたの。評判のお店かと思ったら違ったみたい。」「違った?」「本物は行列ができてたのに、私は待たなくていいほうへ入っちゃったの」「……きみらしいな」テリィが吹き出す。「でしょう?」キャンディも
ロンドンの夜は、雨上がりだった。濡れた舗道には劇場の灯りが幾筋も伸び、馬車の車輪が石畳を滑るように音を立てて通り過ぎていくたび、その光は揺れ、砕け、また濡れた黒の中に戻っていった。ロンドン、オールドウィッチ劇場。ストラトフォード・アポン・エイボンの静けさとは違う。ここには街の熱があった。批評家たちの鋭い視線、招待客たちの囁き、新聞記者の気配、演劇学校の学生たちの息を詰めた期待、上流階級の夫人たちの香水と絹擦れの音、そして何より、ジュリアン・リードのハムレットを観るはずだった観客たちの、失望
ジョシュアは何も言えなかった。彼女が信じていたのは、都合のいい未来ではない。傷つくことも、苦しむことも知った上で、それでも前へ進むという自分自身の覚悟だった。その強さだけは、痛いほど伝わってきた。キャンディはそんなジョシュアを、優しく見つめる。「でもね、ジョシュア」その声は、今度は彼へ向けられていた。「あなたも今は、信じられる人たちに囲まれているでしょう?」ジョシュアが顔を上げる。「メイがいるし、ポニー先生も、レイン先生もいるわ」キャンディは穏やかに微笑んだ。「マーチン先生
ブロードウェイ。ストラスフォード劇団。稽古場の噂は、音もなく広がっていた。最初は、照明係のひとりが言い出した。「……昨日の稽古、観たか?」それだけだった。だが、翌日には、音響室で、舞台袖で、スタッフルームの片隅で、同じ言葉が何度も繰り返されるようになった。「芝居が始まってないのに、テリュースが入ってきた途端、空気が変わるんだ」「台詞を言う前からもうハムレットだ」「あの間が怖い。あんなのはじめてみたよ」照明チーフが、プラン表を指で叩きながら言った。「フォロースポット、正直追いづ
港には、薄い霧が漂っていた。春の終わりの海風は、岸壁に並ぶ人々の薄手の洋服の裾を静かに揺らしている。巨大な客船がゆっくりと汽笛を鳴らした。低く長い音が海へ溶けていく。甲板の手すりに寄りかかりながら、キャンディはゆっくりと遠ざかるアメリカの海岸線を見つめていた。シカゴ。ポニーの家。アルバート。アニー。ステア。アーチー。パティ。たくさんの人たち。たくさんの思い出。嬉しかったことも。苦しかったことも。全部があの大陸の向こうへ残っている。けれど不思議だった。胸は痛むのに
数日後。RSC公開稽古の日。客席には、いつもの劇団員だけではなく、演劇学校の講師、地方劇場の関係者、批評家の卵たちまで座っていた。薄暗い客席には、独特の緊張が漂っている。RSCの公開稽古は、単なる“見学”ではない。ここでは、俳優がどう壊れ、どう作り直されているかまで見られる。演じる過程をすべて丸裸にされる。つまり、未完成も、失敗も、沈黙も、すべて晒される。それがシェイクスピアの研究機関としてのRSCの役目でもあった。舞台袖で、テリュースは静かに呼吸を整えていた。指先が冷たい。『マク
ニューヨークからポニーの家へ戻ってからも、キャンディの胸には、まだ夢の中にいるような幸福感が残っていた。テリィからのプロポーズ。何度思い返しても、胸の奥が温かくなる。けれど、その幸福の片隅には、ニューヨークからの帰りの列車で胸に蘇った、もう一つの想いも残っていた。――スザナとの約束を、私は破った。テリィと結婚したい。その気持ちに迷いはなかった。それでも、幸せを思うたび、心のどこかで小さな痛みが疼いた。その日も、診療が終わったあと、戸棚の奥に積まれていた古い雑誌や新聞をまとめていた。何気
マーチン医師への挨拶を終え、診療所を出た頃には、陽はずいぶん高くなっていた。「次はカートライトさんのところ?」テリィが尋ねると、キャンディは少し考えてから首を振った。「まだ時間があるわ。少し遠回りしていい?」「いいよ」「せっかく来たんだもの。村を案内してあげる」そう言って歩き出したキャンディの足取りは、どこか弾んでいた。少し歩いたところで、テリィは自然にキャンディの手を取った。キャンディは一瞬だけ彼を見上げたものの、何も言わず、その手を握り返した。二人はそのまま、のんびりと村の
7月。ロサンゼルス駅のホームに汽笛の余韻が響く。長旅を終えた客たちが次々と降り立ち、スーツケースの金具や革靴の音がタイル張りの床に反射する。ポーターが荷台に載せたのは、深い艶を帯びた革張りのトランクが二つ。それは結婚式直後、エレノアから贈られたペアのルイ・ヴィトン製トランクだった。贈られたときは、蓋を開けると色とりどりの花があふれ出し、部屋中に香りが満ちた——それ以来、二人はこのトランクを「フラワートランク」と呼んでいる。今は衣類や旅の荷物が詰まっているが、革の香りと金具の輝きは、あ
仕事終わりにテレビ見て、また地震のニュースに驚きました。被害がひどくなりませんように。訪問ありがとうございます😊子育て終わりのアラカンです。春夏秋はガーデニングメイン、冬は弘前の暮らしの四方山話を書いてます。弘前公園の桜に魅せられて、転勤族⇒Iターン移住しました。行ってきました動き出す浮世絵展https://share.google/GV1bRYOkMQ1269l8W青森丨動き出す浮世絵展|UkiyoeImmersiveArtExhibition立体映像空間で浮
木立の向こうから聞こえてきた会話は、最初は偶然だった。立ち去ろうと思えば、いつでも立ち去れた。だが、一歩を踏み出そうとしたその瞬間――テリィは、その場を動けなかった。「テリィに私は傷つけられていない。寧ろ、その逆……私が彼を傷つけたの」その言葉が、足を止めた。胸の奥で、何かが音を立てて崩れていく。――違う。思わずそう叫びたくなった。傷つけたのは俺だ。ずっと、そう思ってきた。スザナの事故、責任。あの日、キャンディは「私帰るね」と静かに言った。別れる、とは言わなかった。それでも分
応接間には、穏やかな静けさが流れていた。窓から吹き込む初夏の風が、白いレースのカーテンをゆっくりと揺らしている。庭では幼い子どもたちの笑い声が遠くに聞こえた。その穏やかな空気の中で、テリィは静かに姿勢を正した。舞台の上なら、何千という観客の前でも臆することはない。けれど、この日だけは違った。胸の鼓動が、自分でもはっきりわかるほど早い。隣を見る。キャンディも少し緊張した面持ちで膝の上へ両手を重ねていた。ふと目が合い、小さく微笑み合う。その笑顔だけで、不思議と肩の力が抜けた。テリィは
スザナの葬儀から、数か月が過ぎていた。春が近づき、街の空気は少しずつ柔らかくなっていたが、テリィの周囲にはまだ、どこか冬の残り香のような静けさが残っていた。劇場の稽古場では、次の作品の準備が進んでいた。長いロングランを終えたばかりの彼にとって、新しい舞台は新たな出発でもあった。その日、劇団の一室で次作の発表会見が開かれていた。テリュース・グレアム主演、新作舞台。劇団にとっても大きな作品になる。フラッシュが焚かれ、記者たちの質問が続いた。「今回の役柄について教えてください」「前作の
プロポーズから、ひと月ほどが過ぎた。6月のニューヨークは、日に日に夏の気配を濃くしていた。その日、昼公演を終えたテリィは、楽屋へ戻ると壁の時計を見上げた。夜公演までは、まだ時間がある。着替えを済ませ、鞄を手に取ったところで、マネージャーのフランクが声をかけた。「今日も行くのか?」「ああ」「ずいぶん熱心だな」その言葉に、テリィは少し照れたように笑った。「彼女はニューヨークの人でないから。それに、1️⃣度しかないことだからな」フランクは呆れたように肩を竦めながらも、その顔には笑みが浮か
教会を見て回るようになってから、テリィの手紙には少し変わった話題が増えた。舞台のことや劇団の仲間のこと、ニューヨークで見かけた出来事などは、以前からよく書いていた。けれど最近は、その中に必ずと言っていいほど、二人の結婚についての話が混じるようになった。――キャンディへ。今日、また教会を見てきた。夜公演まで少し時間があったんだ。マネージャーに候補をいくつか調べてもらって、俺は人の少ない時間に中を見てる。誰かに知られて新聞にでも書かれたら面倒だから、結婚式のことはまだ伏せてもらってる。