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おはようございます、永島恵です。ブログに訪問頂きありがとうございます😊ふと思ったのですが…「おひとり様で乳がん闘病してる」って聞いてどう思いますか?「大変そう」とか「かわいそう」って思うのでしょうか…?まだ放射線治療が残ってますけど抗がん剤治療、手術を経て思うのは、不便だけど不幸じゃないなって事です。おひとり様か否かより、環境や経験、病状の影響の方が大きいと思います。1番は自分の気持ち不便は不便ですよ〜💦病院の方々も「家族ありき」で話しかけますからね。検査や入退院、手術
もう病院は暗く、看護師さんもあまりいませんでした。先生は若い先生でした。消化器内科です。先生は私たちが二人だけであることに驚いていました。兄たちや親戚は来ていませんでした。まさか検査当日中に最終告知までされるとは思っていなかったからです。そして告知が始まりました。母の腹部の各部のCT画像を見せながら、一気に説明されました。①進行したすい臓ガン。②肝臓にも転移、かなり進んでいる。③肺にも転移の可能性。④多発転移のため手術は不可能、抗がん剤治療になる
動き出すやはり、結論は変わらないステージ4の耳下腺がん術後の病理検査にて確定する私のがんの種類・・・顔面神経は残せず、全て摘出するため麻痺は確定多分、神経の断端は見つからないだろうから移植は無理だろう顔の半分は動かなくなるから、表情もつくれない開口障害や味覚障害、合併症や後遺症を挙げたらきりがないさて、どうする?!悩む時間も選択肢も私には残されていないことはわかってる「手術しか方法はないのです
「残念ながら、ステージⅣの進行がんです。治療は手術しかありません。」そのひとことを聞いた時、私は正直ほっとしました。なぜなら、もう手の施しようがありません、と言われる覚悟をしていたから・・・いつものように何ごともない顔で仕事を続けなければいけない環境でも、実は毎日眠れずに苦しみながら過ごす毎日に疲れきっていた私は本当に嬉しかった。だって、まだ戦う余地があると思えたから次に悩んだことは命を託すことになる病院と医師をどう選べば良いのか、ということでした。短い時間に決め
妹の会社は毎月1日〜10日がとても仕事が忙しいです。けれど、1月5日は私は病院の予約が元々入っていた為、妹に母のホームに行ってもらう事になっていました。忙しい妹は当初5日は姪っ子に母のお世話を頼んでいて、段取りを把握してもらう為にあらかじめホームに姪っ子を連れて来て、赤ちゃんや子供のお世話も全くした事がない姪っ子に妹が食事を介助する様子を見てもらったりして、備えていました。ところが、4日に母が誤嚥を起こした為、もしも5日に母の容態が急変するような突
今日は去年から始めている抗がん剤点滴の16回目でした。今はペメトレキセド、テセントリクと吐き気止めのデキサートを点滴しています。点滴治療を始めた頃はカルボプラチンもあったので、点滴に時間が掛かりましたが、今はカルボプラチンがなくなったので、点滴も1時間と少しと早く終わるようになりました。がんで治療を開始するまで、あまり病院にお世話になることはなかったので、注射は平気な方だと思っていましたが、血液検査や点滴で注射をする機会が増え、注射は好きじゃないなと思うようになりました。最近は注射をし
手術を受けるためにはたくさんの検査や説明を受けたり、同意書のサインなどなど事前にすることがたくさんあるんですね~💦今までありがたいことに病気知らずでインフルエンザにかかったこともありませんでした。それがいかに奇跡みたいなことかがんになって初めて知りましたさて。手術前に受けた検査の数々。血液検査造影CTMRI心電図レントゲン肺活量(尿検査もしたかな?)あとアレルギーとかせき喘息があるから、呼吸器内科の診察を受けたり。MRIは工事みたいな大きい音がする
もうすぐお迎えがくるころだろう。吐き気が止めどなくやってくる…休日ということもあり、古い古い邦画が流れている。たまたまだが、地方公務員が公園を建てる話だ。(調べたところ、黒澤明監督の「生きる」だった)私の父は公務員、町内の公園を設立していたがそんな篩話はどうでもいい。そして、医者の見立てでは、そろそろおむかえがくるころなのだ。そうだね、担当医の悲しげな顔を見てから、3年くらい経つのだもの。何故だか腹の底から笑いがでるくらい、辛いのが、滑稽なのだ。そう、腹の底から気持ち悪い癖に
病室を出たわたしはエレベーター前で家族の代表1人と合流し手術室のあるフロアへと向かっていく静かにドアがひらき、看護師が先導する後ろを一緒に手術室の入り口を目指して歩くあゆみは若干遅めにお互い無口でもそれぞれの覚悟が伝わる「がんばれよ」「うん、頑張ってくる」にわかに点滴棒を携えた同じ術衣をまとったたくさんの仲間と大勢の看護師の姿人だかりが見えるああ、ここね。大きな総合受付のような待合に到着辿り着くと患者の
ひと段落こんにちは。やっと戻って来られました・・・というのも、治療に専念し過ぎて・・・治療一色の生活を送っていました無我夢中とは、きっとこういうこと今年は年明けに頸が腫れて、検査を受けて告知から手術、そして放射線治療とあっという間に8か月が過ぎていこうとしています1年て早いなぁ・・・これからどうしたら良いかどうすべきなのか治療がひと段落した今、考える時にきたんだなと思います現状としては、開口障害・味覚障害・唾液がでない・涙目・角膜性乱視、皮
乳腺外科からの電話以来、癌なのはほぼ間違いなさそうだし、半年も前から咳が出ていて水まで溜まっているんだからけっこう進行しているんじゃないかと不安だったネットにはいくらでも情報が溢れているから、不用意に調べてしまうと見たくない情報も目に入ってしまうのが怖くて、病院の先生の話以外は聞かないようにした。仕事を休むので職場にはもちろん報告したけど、「肺がんかもしれない」ということ以外、骨とリンパにまで広がっていることははっきり伝えなかった。私がネットを見ないようにしていても、職場の人は私が
手術を終えて病室に戻りどれくらい経ったのか異常な口の渇きに目が覚めましたどう表現したら良いかわからないほど口からのど、全体が砂漠のようくちびるから舌、のどが干上がり歯や舌の裏まで一滴のうるおいもない!!カラカラ過ぎて、苦しくて干上がってしまったのどの奥が痛む何とか少しでも唾が出てこないものかと咳払いをしてみても、くちびるを舐めてみても、もう、どうにもこうにも、おおげさではなく一滴の唾もでないうるおいが恋しい・・・とにかく少しで良いか
今日が11/9が11月の診察日だったのでした。(だいぶ前やんw)咳は相変わらず止まらないのですが、咳こんだときに喉の神経を痛めたのでは、とのこと。あとは、数値は落ち着きつつあるとのこと。で、来月が年末のため、イレギュラーなスケジュールになりますよ、とのこと。「まあ、年末ですもんね」と言ったところ、「僕と腐れ茸さんの仲じゃないですか~、宜しくお願いしますよ~」ん?ん??ワケワカメだぞ???まあ、年齢は近いが…ちなみに、私はBBAだが、わけぇオノコが好きだぞい(歳上とはほとんど
2017年の10月半ばくらい、腹痛が強くなってから1ヶ月以上たった頃、母はやっと病院に行きました。行き先はすい嚢腫を「問題なし」と判断した例のかかりつけの病院でした。診断は「お腹が痛いんですね?胃腸の疲れでしょうね!薬を飲んで様子を見ましょう。」で終わりました。薬はただの胃腸薬で、膵臓とは全く無関係のものだったので効くはずはありませんでした。痛みは緩和されないまま、薬を飲んで様子を見るということで貴重な時間が過ぎていきました。そしてある日、母は友達と泊まりで
こんばんは今日はなんだか眠れなくて。桜の開花のニュースを聞き春を感じるこの季節2年前のこの時期を思うと、眠れなくなる夜があります耳下腺癌cT2N2bMO第1に唾液腺導管がんを疑いますそんな表記から始まる同意文章でした強そうで、怖そうな、そんな名前・・・既にリンパ節に複数転移しており絵には大きな印が複数ありました全摘、そしてS字切開の説明図私はかなり大きく開かなくてはならず頸部郭清と顔面神経麻痺再建術は可能な状態であればとの注釈付き、気管切開の可能性など様々書
コロナ禍に重なり始まった、私の闘病少しずつ思い起こしながら、書いていきたいと思いますリンパの腫れに気付いてから宣告を受けるまでの期間が約3か月宣告から手術までの期間が約10日余りある朝いつものように起きて洗面所に向かい歯磨きをしながらふと鏡を見ると・・・「あれ?首筋のリンパが腫れている。何これ??昨日はなかったのに」枝豆大の腫れを見て直観的に「これは・・・」と思った、忘れられないあの朝でも、もしかしたら感染症や炎症による一時的なものかもしれないそう信じたかった私は
現在、家族(夫と子供)がいる外国にいますが、明後日の金曜日の便で日本へ戻らないといけません。去年5月より日本で続けている抗がん剤の点滴治療が次の月曜日にあるからです。現在、抗がん剤の点滴は3-4週間に一度のペースで進めています。その合間に都合がつけば、家族に会いに外国に行くというパターンになります。一昨年の8月に肺腺癌ステージ4が分かり、最初は家族がいる国で治療を受けていましたが、去年(2023年)4月より、日本の実家に滞在し、日本で治療を受けることにしました。完治の可能性はほぼ
本日より入院します。病名は乳癌です。記録すべきかなと思い久しぶりにブログを書いてます。鳥さんの事を書こうと始めたブログなのにまさかねこんな記事を書くか事になるとは…今日の昼食はこんな感じでしたポークビーンズキャベツをごまドレ和えツナポテトお品書きには「成人小」と書かれ米飯150gわたしには足りないなぁこの機会にダイエット開始だな今日は誕生日です手術前検査の注射が痛いとにかく痛い医師に「痛みに強いんですか?皆さん痛みで叫ばれますよ」って痛すぎて声が出ないだけ
りこ母の直腸がん闘病年表はじめに日付序章■ブログを書き綴るにあたって■癌が分かるまでの母の私生活直腸がん闘病年表【要約】2017年5月4日~2017年5月16日■母が倒れるなんておかしい!セカンドオピニオンへ!2017年5月23日~2017年5月31日■セカンドオピニオンの結果直腸がん闘病年表【詳細】2017年5月4日火祭りの日の夜中12:30頃、倒れる。後に貧血だったと分かる。■真夜中に倒れた母2017年5月5日【中央病院】CTとレントゲン検査をす
明朝の手術室への入室予定時間は朝8:30前日に入院PCR検査や様々なひとの訪問を受けて除毛に剃毛、そしてパスの説明時間は刻々と過ぎていく日没をゆっくりと眺めいつの間にか夜景になった外の景色を見ながら術後の自分を想像し、必要そうなものを使いやすく配置ああ、こんなこと昔もあったなぁ・・・あの頃をふと思い出すそう、思い起こせば30代前半私は甲状腺乳頭がんでこの病院で手術を受けた忘れもしないクリスマスシーズン人生初6日間の入院でした18時になると今回初の
新しい主治医との出会い通い慣れたはずの病院の景色が・・・歪んで見える涙目になっているんだな、私。ドキドキしながら受付を済ませて順番を待つだって10年も前から知っていた「腫瘍」の存在良性だから問題ないって・・・大きさも変わらず変化はない主治医のことばを信じ過ぎた私。。。自分の甘すぎる判断をぐるぐると後悔しながら物思いに耽るどのくらい経ったか、呼び出しがかかったドアをノックして、さあ初対面
2023年4月、私自身のがん治療のため、日本での生活を再スタートしてから、3回、自分の家族が住んでいる外国へ行きました。3回目は2023年10月でした。今、2024年1月、4回目の家族再会を楽しんでいます。約3カ月ぶりです。やっぱりビデオコールだけでなく、実際に自分の家族に会うことはいいですね。うつで不登校の高校生の子供も、大学生の子供も、少し大人に成長していると感じました。家の中も細かいことを見なければ、まあまあ大丈夫な状態に保たれていて、一安心です。今回は家族で旅行して、精神科医の
硬化性苔癬のことから話そうと思っていたのに、先日の婦人科の先生の診察でショックな一言を言われてしまい…それについて書きたくなっちゃった…私は今、婦人科、形成外科、皮膚科の三人の先生に診てもらってるんですが、がんの告知を受けたのは形成外科の先生から。話し方も穏やかで、手術だけで済みそうだということで本当にホッとしました。気持ちをしっかり持って、頑張っていこうと思えました。でも…今日、婦人科の先生に「がんは死ぬ病気だから」って言われた!!!私は香港在住20年、香港で正社員として仕事
私の身近には今まで癌の人が少なかった。唯一、身近で癌になったのは母方の祖母ですが脳腫瘍により告知から7ヶ月で亡くなりました。だからこそ、癌=死というイメージが強かったのかもしれません。祖母の異変に気づいたのは、高校生だった私でした。過去にミス〇〇にも選ばれた美人でおしゃれなおばあちゃんでした。(私は父方に似ていますが..)おばあちゃんとデパートでご飯を食べる約束をしていたので、待ち合わせをするとそこに現れたおばあちゃんは服を後ろと前反対に着ていました。一緒に歩いているとどんどん私の方
2023年12月14日明日から抗がん剤点滴2クール目始まります。前日の今日は夕方から娘を見に行く日娘が風邪ひいて今日は学校休んてるとのこと心配なので、14時過ぎにスーパーでバナナとお粥とばら寿司買って娘を見に行く。まさかの娘にお家の中に入ってこんといてと言われる風邪が移ったらあかんからとなんとか買ってきたものだけ置いていくと言い、お家の中に入れてもらって、バナナとお粥、ばら寿司、何でもいいから食べれる時に食べるようにと、本当にしんどくなったら電話してくるように約束するお家出た所
母のがん発病は2016年の秋頃、ちょうどそれと同じ頃合いに母は「もう一つ」病気をしていました。「バセドウ病」甲状腺ホルモンが過剰に作られるため新陳代謝が活発になり過ぎ、疲れやすく、体重が減り、動悸がするようになります。母は急激に痩せたのにびっくりして「ガンではないか」と心配しました。検査の結果、ガンではなくバセドウ病だと診断されたので、みんな非常に安堵しました。幸い薬がよく効き、すぐ体重が戻り出しました。この時、私はこのバセドウ病が母の生涯で一番重い病気になるだろうと思って
たくさんの方に読んで頂いてありがとうございます困っている仲間にどうか届きますように。。。情報を集めようと思った時、どこに行っても誰に聞いても、欲しい情報に出会えずに彷徨いました自身の異変に気付き、検査を重ね、結果が出るまで私には、この期間が一番苦しかったです手術という一筋の光、可能性を信じて現実と向き合い、手術をするという選択をし病院と未来を託す医師を決めて歩み出すまでが二番目に苦しかったです「宣告」を受けたその日、私はその場で決意し、手術の承諾書を書き、前
チャンスの女神は前髪しかないレオナルド・ダヴィンチ今日の通院を以下に報告いたします放射線科受診の予約時間午前11時の10分ほど前に受付し問診表の記入を終えてトイレを済ましたら予約時間に呼び出され診察室へ入室担当医と挨拶をかわしさっそく「胸部への放射線治療説明文書」にて説明がありました今回のやっぱり「少しずつガッカリ」でも改めて「ダラダラと生き延びましょう」|あんべさん♪(ameb
怒涛の検査ラッシュそして仕事や様々な手続き・・・落ち着かない中で「やっておけばよかった」と反省したことがいくつかあります。まず、一番は歯科治療私は歯が弱く、かぶせてある歯、いわゆる「銀歯」が多いまた、虫歯の治療がそのままになっていたこともすっかり忘れていましたしかし、挿管することもあり術後に放射線治療をすることも想定され開口障害のことも考えると・・・時間のかかる治療を断念しリスクを伴う歯と判断された歯を半分抜歯することになってしまいました(泣)
事の始まりは…2018年ごろいつも右舌の裏、同じところにできる口内炎。この頃、歯のクリーニングついでに歯医者に相談デキサルチン口腔用軟膏とアズノールうがい液を処方してもらった。これをぬって治れば!悪いものじゃないから…と。言われるまま塗って、うがいして気づいたら治ってる。またできる、薬塗って、治る。治るんならいいか、と…痛みって慢性化してくるとついつい忘れちゃうのと、慣れてくる。そう、慣れてくるから忘れちゃうのか。薬塗れば治るんならほっときゃ治るでしょって。