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「桜田門外の変」で大老井伊直弼を襲撃した「桜田十八士」の一人、森五六郎は生まれた時に母親が難産だったというほど体が大きく、その恵まれた体格と、気性の激しさを買われ、襲撃時は先頭での攪乱役を務めています。襲撃で負傷しながら、他のメンバーと共に細川家(熊本藩)へ自訴した森は、稲葉家(豊後臼杵藩)、片桐家(大和小泉藩)へと預け替えとなった後、文久元年に同志とともに死罪となります。稲葉家家臣が森から聞いた事件の話を書き記した『森五六郎物語』は、当時を知る貴重な資料として今に伝わっています。
この記事は2022年に私が体験した事を「回想」として綴ったものです...富士山最古の登拝道「村山道」は、春夏秋冬様々な姿を見せてくれます。ふじ爺はこれまで何度も歩いていますので、これまでのベストショットを織り込みながら綴っていきます。7月30日...7月29日PM17:34に海抜0mの田子の浦鈴川海岸をスタートして、村山古道の「札打場」で、約13時間40分が経過しました。これから、村山古道沿いの天照教社へと歩を進めます。↑AM7:36..大ケヤキ札打場での札打ちを終え、天照
週末に水戸の二の丸角櫓(にのまるすみやぐら)を見学にいってきました天狗の乱のYouTubeから水戸の歴史を改めて見学したりしていますここは開発された綺麗な場所学校があるのでお城が復元されていないのは残念ですがなかなかそれも難しいのでしょう日曜日なのに無料駐車場は空いていました立派な大手門をくぐり学校の間に作られた細い路地をあるいていくと真新しい二の丸角櫓が見えてきました中に入るとまだ新しい木のにおいがします敵を見張ったり攻撃したり武器を仕舞ったりしてたのでしょうか観光
雑感。私達は江戸を生きた人から五代目にあたります。つまり、完全なる隔世の世代です。荷風や潤一郎のように、江戸のシッポもなければ、懐古も感傷もありません。(杉浦日向子1984年のエッセイより)確かにそのとおりとも思うのですが、同時に日本の近代の始まる動乱のこの時期から、いろいろなものが現代にまで実は繋がっているように思います。そしてそれらは幕末より150年余り経ち、金属疲労、もしくは老朽化している部分も多くなったとも。たまたまですが同世代の国会議
安政7年3月3日(1860年3月24日)に、江戸城桜田門外にて水戸藩脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が大老井伊直弼を暗殺した「桜田門外の変」が発生しますが、襲撃メンバーのうち、唯一現場で討死したのが稲田重蔵です。稲田重蔵は農民の出身で、水戸藩士田丸直諒に仕えて町方同心となり、後に金子孫二郎に見出されて郡吏を務めています。金子の影響を受けて尊攘思想に傾斜していった稲田は「安政の大獄」により徳川斉昭が永蟄居となり攘夷派が弾圧された事に怒り、金子らとともに暗殺計画に加担しています。襲撃で現場