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先日の日曜日に横浜に用があり、生麦に先に行き、桜🌸がまだ見られるか掃部山公園(かもんやま)に寄りました。桜は終わりかけていましたが、まだ咲いていたので嬉しかった😊掃部山公園には名前のごとく井伊直弼(掃部頭)像が横浜の港に向けて設置されてます。井伊直弼は彦根藩主で、徳川幕府を水戸藩と支えていましたが、開国派の井伊直弼と尊王攘夷派の水戸藩で対立し、160年前の3月3日の将軍に挨拶する日の雪の日に大名行列にて、江戸城からわずか400メートルしか離れてない彦根藩屋敷から60名の大名を従えて、籠に
「桜田門外の変」で大老井伊直弼を襲撃した「桜田十八士」の一人、森五六郎は生まれた時に母親が難産だったというほど体が大きく、その恵まれた体格と、気性の激しさを買われ、襲撃時は先頭での攪乱役を務めています。襲撃で負傷しながら、他のメンバーと共に細川家(熊本藩)へ自訴した森は、稲葉家(豊後臼杵藩)、片桐家(大和小泉藩)へと預け替えとなった後、文久元年に同志とともに死罪となります。稲葉家家臣が森から聞いた事件の話を書き記した『森五六郎物語』は、当時を知る貴重な資料として今に伝わっています。
先日入った喫茶『楽屋』撮影させてもらった明治時代の落語家番付表を虫食いを補修するがごとく読んでいる。正にブラウジングだ協会発行ではない。ほぼ中央のそれぞれ古今亭志ん生春錦亭柳櫻桂文治に興味を惹かれた。真ん中、春錦亭柳櫻の上に四ッ谷なんとか例のアレかなってぇことは、つまり得意ネタを記してあるのだなと、そこまでは推測がつく。となると他の2人も根多が書いてあるはず。しかしながら志ん生、文治のが読めない5代目志ん生なら私もわかりそうなものだが、便覧に明治17年とあるからもちろん
雑感。私達は江戸を生きた人から五代目にあたります。つまり、完全なる隔世の世代です。荷風や潤一郎のように、江戸のシッポもなければ、懐古も感傷もありません。(杉浦日向子1984年のエッセイより)確かにそのとおりとも思うのですが、同時に日本の近代の始まる動乱のこの時期から、いろいろなものが現代にまで実は繋がっているように思います。そしてそれらは幕末より150年余り経ち、金属疲労、もしくは老朽化している部分も多くなったとも。たまたまですが同世代の国会議
どうも、みけねこです。「それで?ローニンの方は…」「どこまで進んだの?」「横浜編のラストイベント【桜田門外の変】で井伊直弼+青鬼と殺りあって…」「で、なんやかんやあって」「大久保利通や勝海舟等と知り合って」「そんで、徳川/江戸幕府と戦ってるってとこ」「ふ~ん…」「つーか、井伊直弼の剣術…」「見てると草生えるんですよね」「どうして?」「必死だったから、断言はできないが」「【パッと見幕末バージル】。これで伝わるだろ?」「あぁ、そりゃ草生えますわ」「戦国無双のキャラかな