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高校の時にお世話になった先生に用事があるので今から母校へ行きます。卒業式以来であり浪人生となってから初めて会うので少し緊張しています。本当は大学生になって会いに行きたかったですね泣、来年こそはそれと朝は雨のおかげで涼しく過ごしやすかったですがやはり昼になると猛暑ですね。。地球温暖化によるものなのかは分かりませんが間違いなく日本人にさすがにこれやばくね?って危機感を感じさせていると思います。危機感を感じている国民に行動へ移させる何かしらのアクションを政府にはして欲しいですね〜国民1人が何か
結論I-即自と対自、形而上学的概観今や我々は、結論を下すことができる。我々は本書の緒論以来、意識を「存在脱落としての存在」、すなわち対自として定義し、この意識は意識の対象たる即自存在を、直接に、指し示す。けれども即自と対自について記述したのち、両者の間にきずなをうち立てることが困難であるように思われた。すなわち、そこには根抵的に異なる二つの存在様相があるように思われたのである。我々の研究は、まず次のことを明かした。すなわち、対自と即自とは、対自それ自身に他ならない一つの綜合的
「持つ」「ある」「為す」「持つ」「ある」「為す」は、人間存在の基本的なカテゴリーである。人間のあらゆる営みは、この三つのカテゴリーのいずれかに包摂される。例えば、「知る」(認識する)は「持つ」の一様相である。また、それら三つのカテゴリーは、互いに結びつきなしに存在するのではない。それにしても、反実体論的な傾向が現代哲学で勝利を占めて以来、多くの思想家たちは、前代の思想家が物理学において実体に代えるに単なる運動をもってしたのを、人間的な営みの領域においても模倣しようと試みた。道徳の
(E)私の死一般に死は、《壁》の向こう側に存在するものであるから、この上もなく非人間的なことだと思われているが、一変して、これを別の観点から考察した人もいないわけではないし、それも理由のないことではない。というのも、死は一つの端であり、あらゆる端は端であるかぎりにおいて、双面の扉であるからである。例えばある音楽の終符は、当の音楽を限っている「存在の無」に付着させることもできるし、系列のうちにある最後の過程とみなすこともできる。そういうわけで、死を、それが限るところの系列のうちから、
実に面白かった。サルトルやメルロ・ポンティ、ボーボワールらが、戦前・戦中・戦後と激動する情勢の下で、懸命に自分が信じた思想と行動の一致を目指して生きた姿を、パリでの交流などを盛り込んで、丁寧に描いた作品。ノンフィクションならではの面白さが充満している作品だった。社会科の「現代社会」や「倫理社会」などに名前が出てきて、その業績を数行読んだだけの彼ら有名人に加えて、彼らと直接間接的に同じ時代の空気を吸って、なんらかの影響をあたえた、ハイデッガー、ヤスパース、フッサール、そしてカミュなどの生活ぶ
『ミセス・ハリス、パリへ行く』(上映中~12/8:J-MAXシアターとやま)公式サイト:https://www.universalpictures.jp/micro/mrsharris1950年代後半のロンドン。戦争未亡人の家政婦ミセス・ハリスは、勤め先のマダムの家で見たクリスチャン・ディオールのドレスに魅せられ、パリまでドレスを買いに行くことを決意する・・・という物語です。いや~、とても素敵な映画でした。で終わってもいいぐらい素敵でした。アメリカの人気作家ポール・ギャリ
「ある」と「為す」、行動の第一条件としての自由(2)私の個別的な行為は、私の根原的な企てから出発してのみ解釈されうる。私は私の諸可能性のうちの一つに向かって自己を投企したのであるが、この諸可能性の根原的積分としての私の究極的全体的な可能性と、個別的な存在への私の出現と同時的に現れる全体性としての世界とは、厳密に相関した観念である。ところで、我々が個別的な対象を志向するとき、全体性としての世界は背景として側面的にとらえられるのだから、この根原的な企てから演繹される全ての派生的な企てに
(D)私の隣人私の隣人によってつきまとわれている一つの世界の中に生きるということは、ただ単に、道のすべての曲がり角で他人に出会うことができるというだけのことではない。それは私がただなかにいるところの、この世界が、すでに他者によって意味を持たされたものとして存在するということである。事実、もし私が一つの世界に属していて、この世界のもろもろの意味が、単に私自身の諸目的の光のもとにおいて現れるならば、万事はきわめて単純なものになるであろう。世界のあらゆる意味はすべて私一人によってもたらされる
II-「為す」と「持つ」-所有(1)存在論がもろもろの行為や欲求について獲得しうる情報は、実存的精神分析にとって、原理として役立つはずである。というのもあらゆる対自の経験は、即自との存在論的関係であるからである。それでは存在論は、我々に何を教えてくれるだろうか?我々が先に見たように、欲求は存在欠如である。このかぎりにおいて、欲求は自分に欠如している存在の方に、直接向けられている。この存在は「即自-対自」であり、「実体となった意識」であり、「神=人」である。それゆえ、人間存
心「構造主義は実に多様に使われていて、どこを切り取るかによって、答えが違ってきます。そういう意味ではyoutubeというのは危険もありますね。今回、いくつか見たのですが、わかりやすいということは、それだけ象の足を象だと思ってしまうということがいくらでも起こってしまいます」裁判官「コンコンコンコン!その話はまたにしてください。横道にそれるでしょう。あなたは原告ではなくて、被告代理人なのですから。検察官、反対尋問はありますか」検察官「いえ、まだ、なにゆえに、伝統的な算命学を改ざん
「為す」と「持つ」I-実存的精神分析ここまでの研究では、対自がその目的へ向かって自己を投企するときの飛躍という角度のもとにおいてしか、対自を考察しなかった。いまや、この目的そのものを検討するべき時であるだろう。まず注意しておかなければならないのは、この研究において、我々は、くれぐれも実体論的錯覚に陥ることがないようにしなければならないということである。例えば欲望を、ある対象の観念をその内に含むものとして記述したり、ある個別的な心理事実が、抽象的普遍的な心理法則の交叉によって生
ここまでの記述から、人間存在にとって「ある」とは、「為す」に帰着するものであることがわかる。人間存在とは〈所与〉ではない。むしろ、人間存在は〈所与〉から絶縁することによって、また「いまだあらぬものであり、自己がそれであるべきところのもの」の光によって〈所与〉を照らすことによって、〈所与〉を「そこに存在する」ようにさせる存在であり、不断の行為である。人間存在は、現に存在する〈所与〉からの自己解放であると同時に、目的へ向かって自己拘束する存在である。この内的否定は、自己自身に対して常に距離を
女優であり、作家としてもご活躍の岸恵子さん。永い間、パリと日本を行ったり来たりの生活をされているそうですが、ご幼少の頃から今も我が町白楽にお住まいだということはご存じでしょうか?私は以前から彼女のエッセーが好きで、何冊か本棚に並んでいます。すると娘までファンになったようで、自分で買って来るように。実は今の土地を買う前、不動産屋さんから、もう少ししたら、岸恵子さんの隣の土地が売りに出されるという話を小耳に挟んだのでした。以前から憧れている方のお隣さんになれたらなんて素敵なのでしょう。