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奥村玉蘭の筑前名所図会は驚くほど正確です。ただの古地図ではなく当時の景色までわかります。黒田長政公は筑前入国後に東からの攻撃に備えた防衛のために石堂川沿いに寺を集めました。当時のお寺は藩兵を集合させたり、博多から福岡城に攻め込まれる事を想定した砦としました。もしここを突破したら高さ10mの枡形門が今の赤煉瓦文化会館の辺りにあり福岡城への最後の侵入を防ぎます。以下の当方作製の画像はA4・A3に印刷してそのままルートマップとして使えます。上下カットしてつなげれば、博多東の寺町巡りを巻物
大河ドラマも面白いですが今年公開の戦国歴史映画もチェックですね~先ずは関東圏では公開されていますし近畿圏では5月に公開される「長篠」と言う映画ご存知でしょうか?(ちなみにこの作品の監督さんの前作の信虎と言う映画も観賞させて頂きましたが)この作品も前作同様ですが上映館も少なくあまり注目度は高く無いかも知れませんが武田氏側から見る長篠合戦面白い題材だと思います噂では騎馬にあえて日本在来馬を使うなどリアリティを重視した作品との事(合戦のシーンが
おはようございます。気温は17,8℃、雨が降っています。仲が悪い大名、その②は江戸時代初期のお話です。どちらも黒田藩がらみの話です。まずは豊前を領有していた黒田藩は、関ヶ原の功労で筑前博多に国替えとなりました。で、次の領主となる細川氏が豊前にやってきたのですが、米蔵の中のコメがすべて持って行かれたそうです。小倉城も、中津城も米がありません。何でも大名が領地を移動するときは、年貢米を残すのが慣例だったとか。そりゃ細川氏も怒るわけですね。さてその黒田家、かの有名な黒
※2025年10月20日訪問※三ノ丸の北東部【上之橋御門跡】までやって来ました藩政時代には、この上之橋を渡り、上之橋御門から登城するのが正式なルートだったようです福岡城の正門として使われていた上之橋御門は、高さ9.4mにおよぶ石垣の上に2階建ての門が建てられており、櫓門形式の立派な城門でしたが戦災で焼失上之橋御門は焼失前の古写真が残されているようなので、いつか復元して頂けるとお城ファンとしては嬉しいですね🎵福岡城散策の最後は上之橋から城の外へ🚶上之橋脇の雄大な水堀には、一面に蓮の葉が
安部龍太郎著「風の如く水の如く」を読みました。先日の「播磨灘物語」が黒田官兵衛孝高、後の黒田如水のお話でした。この「風の如く水の如く」はその嫡男、関ヶ原後は筑前52万石を賜った黒田長政についてのお話。物語の運びかたは、過去の回想という形で進む方法です。関ヶ原合戦後の論功行賞の過程で東西色々な方面からの密告を審議する家康の懐刀の一人、本多正純が黒田如水・長政親子の不穏な動きの密告の審議のために長政やその動きに関与したとされている関係者へ事情聴取、そしてそれに対して答弁される過程を描いて
※2025年10月20日訪問※福岡城むかし探訪館の展示の中でも、一際目を引くのが【福岡城復元模型】です🏯模型は400分の1スケールで、江戸時代後期の三の丸以内が再現されています✨非常に大きなこの復元模型は館内中央に展示されており、在りし日の福岡城の様子を見て取ることが出来ます【本丸跡周辺】【北西方向から】【北側から】【北東方向から】【南西方向から】櫓や問、御殿などの城郭建築から武家屋敷に至るまで精密復元されていますねちなみに、天守・中天守・小天守に関しては詳細な資料が見つかっ
※2025年10月20日訪問※福岡城三ノ丸を北東部に歩いて行くと【福岡城むかし探訪館】という施設が建てられています《官兵衛ゆかりの地・福岡》といういわゆる【顔出しパネル】が建てられていますね入場はなんと『無料』との事で、早速中にお邪魔してみたいと思います福岡藩主・黒田氏に関するパネル展示黒田官兵衛の兜のレプリカなども展示されていますね✨福岡城と黒田氏の歴史に関する予習にはぴったりです✨黒田官兵衛のゆかりの品で、織田信長から褒美として与えられた名刀「圧切(へしきり)長谷部」のレプリカ
※2025年10月20日訪問※東二ノ丸の東側には【炭櫓(高櫓)】と呼ばれる櫓がそびえていました東二ノ丸に置かれた二ノ丸御殿を防衛する為、二階建てではありますが、かなり大規模な櫓が建てられていたようです✨櫓に接続する形で、両脇には多聞櫓がつながっていたようですね✨◆筑前国・福岡城(舞鶴城)福岡城むかし探訪館/国指定史跡◆①に続く
※2025年10月20日訪問※東二ノ丸の北東部には【東御門】が設けられていました✨三ノ丸から侵入して来た敵兵は、門を突破したとしても、直角に曲げられた通路で勢いを削がれ、周囲の石垣上から攻撃されてしまいます門を囲む石垣も堅固に積まれていますね✨門の跡には【東御門跡】の石碑が設置されていました✨門跡の石段を降りた場所に【東御門】の案内板が建てられているので確認して見ましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼東御門は、三ノ丸から東二ノ丸へと続く櫓門です。門を入ると右手に直角に曲がる
※2025年10月20日訪問※東二ノ丸の北東部には【革櫓】と呼ばれる櫓が建てられて、隣接する東御門と共に、東二ノ丸の防備を担っていました革櫓の跡なのですが、櫓跡には【蜂火番所跡】の石碑が設置されていますね✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼1808年8月イギリスの軍艦フェートン号がオランダの国旗を揚げて国籍を偽り長崎港に入港。オランダ商館員を人質とし、その交換として水や食料、薪等を奪い取り立ち去るという事件が起きました。ペリー来航の45年前のことです。この事件の後、長崎から小倉
※2025年10月20日訪問※二ノ丸跡から扇坂御門跡を通って【東二ノ丸跡】までやってきました【東二ノ丸跡】の石碑が設置されています✨かつてはこの場所に【二ノ丸御殿】が建てられていて、その南側は水ノ手の貯水池になっていました現在は、二ノ丸御殿跡がラグビー場に、水ノ手跡が野球場になっていますが、非常に広大な面積を誇っていたことが分かります◆筑前国・福岡城(舞鶴城)東二ノ丸革櫓跡(蜂火番所跡)/国指定史跡◆に続く
※2025年10月20日訪問※整備された扇坂の石段を降りた先には東二ノ丸【扇坂御門】が建てられていました✨門の跡には【扇坂御門】の石碑が建てられていますね振り替えると扇坂の石段が見えています✨いわゆる【桝形】の形に造られており、容易には敵を寄せ付けない堅固な造りになっていたようです【扇坂・扇坂御門】の案内板が設置されているので、確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼東二ノ丸から西二ノ丸へ続く地点に、扇坂御門とよばれる門がありました。絵図から、この門の前には文字
1126)騙し討ち黒田官兵衛(孝高)とその息子の長政によって騙し討ちに遭った武将は、豊前国の城井鎮房。豊臣秀吉の九州平定後の領地替えに抵抗した城井氏を排除するため。中津城での謀殺天正16年(1588年)、黒田長政は城井鎮房を中津城に招き、酒宴の席で鎮房を直接殺害した。城の近くにある合元寺で待機していた鎮房の家臣たちも、黒田軍によって一斉に襲撃・殺害された。城井の館に残っていた鎮房の父や、人質となっていた13歳の嫡男・鶴千代ら一族も、官兵衛の命などによってことごとく処刑・殺害され、城井
※2025年10月20日訪問※本丸表御門跡から二ノ丸跡に降りて来ましたここから二ノ丸跡を東側に歩いて【東二ノ丸跡】へと向かいますが、その途中、何やら珍しい半円形の石段が見えて来ました🚶▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼「扇坂」はその名の通り、扇を広げたような形をしていることから名付けられたと言われています。このような形状の階段が城の中にあるというのは、全国でも非常に珍しいようです(仙台城にも「扇坂」が存在していたようですが、坂の下が扇状に広がっていて、福岡城とは形状が逆だったようです
※2025年10月20日訪問※本丸西側に位置していた裏御門跡から、本丸北側の【表御門跡】まで歩いて来ました🚶門の櫓台部分には【表御門櫓跡】の石碑が建てられていますね✨先程見学した裏御門は、藩士たちが日常的に使用した門でしたが、こちらの表御門は儀式などの特別な時にだけ使用された格式の高い門だったようです立派な石垣に囲まれ、門の形式も《櫓門》という重厚な建物が建てられていたようですね✨門跡から階段を降りた所に【本丸表御門】の案内板が設置されていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼
※2025年10月20日訪問※続いて訪れたのは、本丸の西側に位置していた【裏御門跡】です【裏御門跡】の石碑と【裏御門】の案内板が設置されていますね✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼特別な日に使用する表御門に対して、裏御門は、藩士たちが日常的に使用する門でした。門の左手には、古時打櫓と呼ばれる櫓があり、時刻を知らせる太鼓が設置されていました。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲◆筑前国・福岡城(舞鶴城)本丸表御門跡/国指定史跡◆に続く
※2025年10月20日訪問※福岡城の【本丸跡】の石碑です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本丸は、藩主が政務を行うとともに、住居としても使われた「本丸御殿」があり、天守台へと続く福岡城の中心部です。天守台への入口となる「鉄御門跡」が残っていますが、要衝の門にふさわしく、敵の侵入を防ぐため幅が狭くなっています。高く積まれた石垣の上に櫓や塀が張り巡らされ、上から攻撃できるようになっていました。この鉄御門跡の先には埋門跡があり、やはり狭い門となっています。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲
※2025年10月20日訪問※本丸の北西部には【御時櫓】が建てられていました✨本丸内部から見ると、基盤の石垣を確認することが出来ますね✨正保3年(1646年)に描かれた「正保福博惣図」には二層の櫓として描かれており、多聞櫓が裏御門まで続く構成だったようです櫓跡には【御時櫓跡】の石碑が設置されていましたこの御時櫓跡は本丸北西部から少し突き出した形になっているので、戦の際は、二ノ丸から侵入してくる敵を見張る役割も担っていたのでしょうね✨◆筑前国・福岡城(舞鶴城)本丸跡/国指定史跡◆に続
※2025年10月20日訪問※本丸の北側には【本丸御殿】が建てられていました【本丸御殿】の案内板が設置されているので見て行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本丸御殿は、初代藩主黒田長政が居所とし政務を行った場所であり、玄関だけでも32畳の広さがあった広大な御殿でした。二代目藩主以降は、三の丸に新しい御殿を建て、そちらで居所・政務を行うようになったため、この本丸御殿はもっぱら儀礼で使用されるようになります。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲現在は桜の木が植えられ、桜の
※2025年10月20日訪問※本丸月見櫓跡から石垣沿いを北上して行くと本丸【御祈念櫓跡】の石垣が見えて来ます【御祈念櫓跡】の石碑が設置されていますね✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼御祈念櫓は本丸の北東隅に位置しており、鬼門封じのために建立された二層の櫓です。棟札によって現在の建物は万延元年(1860)10月に竣工したことが判明しており、鬼門鎮護所として僧徒が交代で詰めたといわれています。大正中期に北九州八幡西区の大正寺の境内に観音堂として移築され、その後昭和58年(1983)福
※2025年10月20日訪問※本丸の月見櫓跡や小天守台跡からは眼下に野球場とラグビー場を臨むことが出来ます【水の手】についての案内板が建てられているので確認して見ましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼ここから眼下に広がるラグビー場と野球場には二の丸御殿と水の手がありました。水の手とは水源地のことです。敵方に城を攻められて長期間城内に立て籠ることになってしまった場合のために、飲料水として湧き水を貯めていたと考えられます。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲◆筑前国・福岡城(
※2025年10月20日訪問※続いては本丸東側に建てられていた【月見櫓跡】を散策小天守台から石段を降りて右手に歩いた場所に建てられていたのが月見櫓櫓の基盤だと思われる石列を確認することが出来ますね✨【月見櫓跡】の石碑が設置されています城内でも眺めの良い場所なので、文字通り月見などの宴に使用されていたのかもそれませんね✨◆筑前国・福岡城(舞鶴城)東二ノ丸水ノ手跡/国指定史跡◆に続く
※2025年10月20日訪問※天守台と中天守台の交わる位置には【相御殿跡】の石碑が建てられています▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼江戸時代は水鏡権現・聖照権現の2つの祭神を祀っていおり、相殿とは複数の祭神を祀ることを指すそうです。聖照権現(聖照宮)は、福岡藩初代藩主黒田長政を祭る神殿です。黒田家の血筋が自分の代で途絶えることになった六代藩主黒田継高は、本丸に祠を建て、長政の神霊を安置して、祖霊の祭祀を行うことを決めました。神殿には長政が軍陣で用いた鎧などや、長政所用を模して新たに
※2025年10月20日訪問※中天守台を堪能し、続いては【小天守台】へと向かいます✨小天守台へはこの階段を登って行きますが、急な勾配&一つ一つの石段が高いという城郭特有の登り辛さです上から階段を見ても急な勾配なのがお分かり頂けるかと思います階段を登った先には門が設けられていたようですね✨小天守台は本丸の東側に突き出た形で構成されていました小天守跡は、一面の芝生になっていますね✨小天守台からは眼下に水ノ手跡や東二ノ丸跡を臨むことが出来ました✨こちらは小天守台から奥に向かって門跡・中
昨年11月に関ヶ原に行った。関ヶ原の合戦の知識はほぼゼロで行って、ミュージアムの説明が面白くてちょいハマり。https://ameblo.jp/scamineurope/entry-12943067896.html『知識ゼロからの関ケ原』学生時代、世界史と日本史…どちらをとっていましたか?私は世界史をとっていまして、日本史にはあんまり興味がなかったんですけれども、最近コテンラジオのおかげでそ…ameblo.jpあれから学習漫画をチラホラ買って戦国武将のことを学んで、いつかまた行きたい
※2025年10月20日訪問※広大な天守台を堪能し、続いては【中天守台】へと向かいます✨中天守台には、天守と小天守を結ぶ二階建ての渡櫓が建てられていたと推測されています✨※画像は天守付近の推定復元CG※中天守台の石垣もゴツゴツとした武骨な石垣が積まれていますこちらは中天守台から見た天守台です天守の有無については、未だにはっきりとした詳細がわからない福岡城ですが、天守・中天守・小天守と3基の天守台が備えられている時点で、黒田氏の非常に巨大な威信を感じ取ることが出来ますね✨◆筑前国・福
※2025年10月20日訪問※本丸から天守台へと向かう途中には【鉄門】と呼ばれる門が建てられていました天守台から本丸へと降りて行く途中、非常に細い通路になっている部分に鉄門は建てられていたようです✨鉄門は、本丸から天守台にあがる小さな門で、鉄板を打ち付けた扉が二重に配置されていたとのこと大正4年6月に老朽化のため崩落したと伝えられています鉄門跡に向かう通路は、遺跡保護の観点からなのか、木製の階段や通路が整備されていました✨本丸側から天守台に登る通路になっているので、本丸側には【↑天守
3月20日の歴史黒田孝高死去(官兵衛・如水)慶長9年3月20日黒田官兵衛孝高が京・伏見屋敷で没す享年59播磨国(播州姫路)時代織田家家臣時代豊臣家家臣時代関ヶ原の合戦と多くの功績を残してきた知将であり名将軍師官兵衛伏見城(桃山城)伏見城武家地黒田長政下屋敷跡参考地黒田家伏見屋敷は現在の深草大亀谷ちょうど大亀谷に一番のぼりきった所葬儀は十字架を掲げられた葬列キリシタンの葬儀だったそうですが長政により仏教の葬儀も行われたのです
前にやった気がするが、見当たらない。ということはまだ吟味してなかったのか、それとも単に見つからんだけなのか……正直、興味が無さ過ぎてわからん。……ってか、この吟味需要あるのか?先ずは星5覇道者黒田官兵衛さん吟味済み。『【信長の野望20XX噺】名補佐の誉れ(前編)』星5が3人、星4が5人……これまたバラけるガチャが来たなぁ。さて、回すに値するか……。今回も人が多いので分ける。4人くらいまでにしたいのよね。先ずは20XXの…ameblo.jp〈一言二言〉スキルはそもそも魅力が無い。
※2025年10月20日訪問※福岡城の天守台は、東西約25m、南北約22m、高さ約10mの大規模なもので、天守が実際に存在した場合は、五層程度の天守であったのではと推測されています※画像は天守の推定復元CG※筑前黒田藩52万石の威信を示す為にも、立派な天守が建てられていたと思われてもおかしくない規模の天守台ですが、実はこれまで、天守が建てられていたという確かな記録が残っていないそうなのですここで論争になるのが、《福岡城に天守は有ったのか?無かったのか?》という疑問です黒田家は筑前入