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大河ドラマ「べらぼう」第48回、最終回「蔦重栄華乃夢噺(つたじゅうえいがのゆめばなし)」の感想の続きです。脚気になって、死を予感する蔦重。仕事仲間に死が迫っていることを話す。そう言われても、南畝たちは信じられねぇ。「死んだ後に、こう言われてぇのでごぜえます。「死の間際まで、書を以て世を耕し続けた。」って。」それを受けて、馬琴は「黄表紙の名作で、お主の花道を飾ってやる!待っておれ!」と
先日終わった大河ドラマ『べらぼう』小芝風花が好きです。水野美紀の眉ソリ姿もかっこよかった。冨永愛さんも、好き安達裕実は、「〜金をくれ」が抜けない(私のなかで)はじめの2ヶ月〜3ヶ月は、時々観ては…う~むハマらないてな感じでした。が。徐々に登場人物が増えて、悪役と思ってた『田沼意次意知親子』に萌え今まで知らなかった『恋川春町』『山東京伝』と、色々調べてみたら面白くなっちゃった。何もないところから、作り上げた作品たち📕📘📙名前だけ知ってる登場人物。ドラマで日本史を学びます。
今年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」最終回9月に「べらぼう」の世界観を体感できる展示イベント全国巡回展㏌愛知に出かけてTV画面越しでなく様々なリアル展示品を見て楽しめました拙著の黄表紙??なぁ~んてねどさくさに紛れて宣伝どうぞ皆さま御一読下さいませ昨年の「光る君へ」と共に平和そして書籍に関する内容ここ2年は特に私自身は共感を覚える場面やセリフが多く毎週楽しみでした
ついに、大河ドラマ「べらぼう」が、最終回を迎えましたね。「東洲斎写楽=斉藤十郎兵衛」という説にも、辻褄を合わせて来ましたね。「写楽工房説」は、いわゆる第一期の絵だけで、後の写楽の絵は、斉藤十郎兵衛が描いたという流れ。これは、「写楽複数説」も含んでいる。阿波国に送られることになった一橋治斉。今後、どうなるのかと思ったら、旅の途中で、脱走を試みて、雷に撃たれて、死んでしまった。あの世に居る平賀源内からの、天罰、と言った感じにしていましたね。源内の投獄には、治斉が関わっているよう
大河ドラマ「べらぼう」第47回「饅頭こわい」の感想の続きです。仇討ち成功後、定信は白河へ帰る前に耕書堂を訪れた。そこで、蔦重と話し、話は斎藤のことに及んだ。蔦重:「斎藤様、うまくおやりで?」替え玉として、突然、将軍の父となった斎藤。~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~定信の会話が続く。<回想城内の斎藤>定信:「元家老であった田沼の甥などを内々に入れるよう計ら
歴史が好き。キムです!いつもブログを見てくださってありがとうございます。今日は、少し個人的な懺悔から始めさせてください(笑)。🙇♀️【お詫びから始める】老中・松平定信公、ごめんなさい。彼の胸中にあった「黄表紙」への深い愛と葛藤実は以前、私はこのブログで、松平定信公(寛政の改革で有名な老中)について、「ただのケチで厳しいお堅い人」だと、ちょっとバカにしたような、軽はずみな記事を書いてしまいました。定信公、本当に申し訳ありませんでした🙇♀️『【歴史】べらぼうと私〜サクッと読める
昨日の観ました?大河ドラマ「べらぼう」越中守さまのツンデレぶりがたまらなく可愛らしかったですよねwまぁあいかわらず自分の思い通りにいくものと思い込んでるトコも憎めず蔦重に諭される時のちょーっとイラついた眼差しもチョー素敵に見えてしまうほどでしたw思わず「べらぼう」のInstagramに『いいね』しちゃいましたぁ来たくてたまらなかった耕書堂に初めて訪れることが出来た時の怪しげなマニアックな笑顔w黄表紙を端から手に取っての大人買いに笑っちゃいましたただ恥ずかし
大河ドラマ「べらぼう」第44回の紀行で、十返舎一九の作品などが出てきましたね。(続きです。)十返舎一九は30歳の頃江戸に入り、蔦重と出会った。================ドラマではこんな風に出会いました。================耕書堂に居候し、作品を作る手伝いをしていた一九は絵心があったため、山東京伝の作品に挿絵を描きました。(初役金烏帽子魚・は
蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう、1750〜1797)は、江戸時代後期の出版プロデューサー(版元)で、浮世絵・戯作・黄表紙・洒落本などの江戸文化を世界的なレベルに引き上げた「史上最強のエンタテインメント・プロデューサー」と言われています。彼の主な功績をまとめると以下の通りです。喜多川歌麿をスーパースターにしたそれまで無名に近かった歌麿を発掘し、大判錦絵の美人画という新ジャンルを確立。「歌麿ブーム」を作り出し、現代でも「浮世絵=美人画」のイメージの基礎を作った。東洲斎写楽をデビューさせた
江東区三好にある一乗院墓苑に、朋誠堂喜三二の墓参りに行きました。朋誠堂喜三二は、大河ドラマべらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜では尾美としのりさんが演じました。朋誠堂喜三二江戸後期の戯作者。本名平沢常富、通称平格、平荷、俳号月成、狂歌に手柄岡持を用いる。寄合衆佐藤豊信の家士西村久義の3子で、秋田藩江戸邸平沢氏に養子入り。俳諧を馬場存義、佐藤朝四に、漢学を関思恭に学ぶ。近習役から留守居役に昇進、役職がら遊里戯場で政界の社交を身につけ、若き日宝暦の色男と称した。1777年(安永6)『親敵打腹鞁』などで
言葉をうまく使える人、スゴイなと思います柏市で自称日本一短い商店街の理容室です隣にぎょうざやさんがありますこちらアラフォーぬか床理容師が日々をゆるく綴ってますこちらお店のホームページです⬇️ヘアーサロン男爵https://dansyaku-kashiwa.jimdofree.com/当店は近畿大学経営学部中谷ゼミと共同開発した。「潤う頭皮美髪水CareL(ケアル)」の取扱店舗です。「潤う頭皮美髪水CareL(ケアル)本日の一枚!今日は立冬です冬の始まりです。ふ〜ゆ
あなたの好きな日本の文化は?▼本日限定!ブログスタンプ國學院大学の文学部で学んだくらいですから、もちろん日本文化が大好き╰(*´︶`*)╯♡文学だけでなく、日本の美術、工芸、書、祭り、風景、園芸、食文化、音楽、宗教、民俗、芸能…なんでも大好きです。日本の文化を語るとき、平安時代の前を「上代」、平安時代を「中古」と呼びます。普通の歴史区分の呼び方とは異なるんです。そのくらい、日本文学研究のメインは平安時代なんですよね。私は中古より上代の文学が好きで、特に万葉集に惚れ込んでいます。
さてさて…天明年間に入り…山東京伝(北尾政演)は、戯作の執筆を本格化させていました🆕彼のキャリアのスタートは、浮世絵師北尾重政(きたおしげまさ)の弟子としての活動で…草双紙や冨本正本、吉原細見の挿絵を手掛けていました🆕注文依頼先の版元としては、師である重政のビジネスパートナーである蔦重の仕事が多く…そうした関係性から、蔦重も当初は絵師として政演(京伝)を起用していました🎵その一方、京伝は蔦重のライバルである鶴屋喜右衛門(つるやきえもん)のほぼ専属として
さてさて…筆禍事件を経験して…山東京伝の心中に…自由気ままに、戯作を書く日常に対しての疑問が生じ始めていた❕という話を前回のブログでいたしました(^w^)先輩の戯作者だった喜三二や春町が…幕府からの圧力により筆を折らざるを得なくなったことも…京伝に自分の人生ついて内省させる機会を与えたと思われますが…やはり最大の要因は…❔相思相愛の間柄だった菊園こと菊との結婚であったことは、論を俟たないでしょう(^w^)結婚生活を軌道に乗せるために不可
レビュー一覧1~5回6~10回11~15回16~20回21~25回26~30回31~35回キャスト一覧『べらぼうキャスト一覧2025年』大河ドラマ「べらぼう」キャスト一覧ドラマ視聴のための参考です。更に詳細はコチラキャスト蔦屋と駿河屋蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう)横浜流星駿河屋市右衛門…ameblo.jp感想ていの諫言も空しく、我が道を行く蔦重。遂に目を付けられた。それは三冊の黄表紙絶版の沙汰。そのあおりで喜三二や春町もお咎めを受ける。だが春町は深刻だった
かなり以前ですが、NHK-Eテレの知恵泉で曲亭馬琴のことをやっていましたね。(続きです。)「黄表紙でナンバーワンの作家に弟子入りしよう!」と決心した馬琴。その作家の名は山東京伝。馬琴より6歳年上でした。山東京伝は10年ほど前から黄表紙を次々とヒットさせている。この道の第一人者です。しかし、京伝は馬琴を弟子にとることを断ります。本を書くということは、ほかに仕事があって、半分趣味でやることです。
2つ前の記事から続きです。古書ミュージアム岩瀬文庫100回目の企画展示(後期)岩橋文庫の蔵書を通して蔦屋重三郎が当時の人々を魅了した書物が紹介されています。確か…左の短冊は蔦重の字体だと思います。2つ前の記事に続きます。チャレンジした様々な商売の中から、翻字にチャレンジしたのは、この商売大きな湯船を作って水練場を開く話です。秀作と言われない蔦重が手掛けたこの作品「本樹真猿浮気噺」ワタシには一番クスクスと笑えた作品でした。今回、受講した「黄表紙を読んでみよう」五作品の翻
かなり以前ですが、NHK-Eテレの知恵泉で曲亭馬琴のことをやっていましたね。そもそも馬琴は武家の出身でした。本名、滝沢興邦。とはいってもいわゆる下級武士で、質素な暮らしぶりだったといいます。子どもの頃から絵草子を読んだり、句を詠むなど、文学的才能の片りんは見せていたそうです。しかし、性格にやや問題があり、「人に指図されるのがどうしても嫌だった。」仕える相手を替えるものの、どれも長続きせず……。
べらぼう江戸たいとう大河ドラマ館の続きです大河ドラマべらぼうの衣装や小道具の展示や映像コンテンツが見られるテーマ館です(※パンフレットの写真です)五十間ゾーンの耕書堂セット五十間道ゴジッケンミチは吉原大門から外に100m続くS字に曲がった通りです蔦重が20代で耕書堂を開きました係りの方がご親切に4人での記念撮影して下さいましたアリガトウゴザイマス店内の板の間に腰掛けOKでした宮沢氷魚さん演じる田沼意知仇討ちの為に蔦重達が
教養文庫の『江戸の戯作絵本(一)初期黄表紙集』を読み終えました。江戸の戯作絵本1初期黄表紙集(現代教養文庫1037)Amazon(アマゾン)↑私が持ってるのはこちらの今はない教養文庫。江戸の戯作絵本1(ちくま学芸文庫コ-10-22)Amazon(アマゾン)↑最近ちくま学芸文庫で復刊されてます。こちらの方が図版などは綺麗になってるみたいですよ。実は私もこちらのちくま学芸文庫、気になります。教養文庫の方だと影印の絵の中の文字とかつぶれて読みづらいんですよ。活字に翻刻
前記事に続きます。愛知県西尾市岩瀬文庫古文書講座「黄表紙を読んでみよう」を受講しました。担当学芸員さんの告知通り予定時間を超え休憩無し1時間50分程度の受講になりましたが、あっという間の楽しい時間でした。大河では「黄表紙」と呼ばれていますが、実際にそう呼ばれる様になったのは明治以降の事なんだそうです。黄表紙は、青本から派生したもので、藁色に変色していくことから黄表紙と呼ばれる様になったと伺いました。浮世絵と同じく、黄表紙を読むことで、当時の日常、風俗を知る事は楽しいですが令
【重田貞一(しげたさだかつ)/のちの十返舎一九(じっぺんしゃいっく)】井上芳雄明和二年~天保二年(1765-1831)駿河国府中(←つまり駿府ね☝️)の両替町辺りで武士の子として生まれる。千人同心の子とも代官の子とも伝わるが定かではない。ただ駿府町奉行だった重田氏に養われたのは確かで本名を重田貞一(しげたさだかつ)という。幼名を市九(←戯名の一九の由来と伝わる)。通称を与七のち幾五郎、また駿河屋市次郎。別号を十遍斎、酔斎など。のち大坂に出て武家奉公する(大坂町奉行<のちに江戸北町
愛知県西尾市岩瀬文庫2ヶ月ぶりに訪ねました。以下、原文のまま資料より抜粋西尾市岩瀬文庫は、明治41年に西尾市須田町の実業家・岩瀬弥助が、本を通した社会貢献を志して創設した私立図書館として誕生しました。戦後に西尾市の施設となり、平成15年4月に日本初の「古書の博物館」としてリニューアルしました。前期に続き企画展100回記念特別展後期開催中です。この日の目的は開催日の2日前の昼休憩中の事でした。ちょうど🍱お弁当を食べ終えた時、画面に着信表示が📱📲岩瀬文庫のスタッフの方からでした
市内にある県立美術館では、只今「葛飾北斎・後期」をやっています。島根県津和野町出身の北斎研究者の永田生慈さんの膨大なコレクション(2398件・2017年島根県に寄贈)の展覧会です。今回は2回に分けて展示されており、後期46歳からの作品です。北斎は、46歳から大ブレイクし、60歳ごろまでの「葛飾北斎期」「戴斗期」、61歳から90歳までの「偽一期」「画狂老人卍期」と区分されています。今回は「葛飾北斎期」(450件)、「戴斗期」(200件)の作品で錦絵、摺物(
大河ドラマ「べらぼう」第38回「地本問屋仲間事之始」の感想の続きです。<江戸城定信&長谷川平蔵宣以>定信:「田沼病に冒された者たちらを放り込み、療治する寄せ場を作ることとしたい。」定信は町奉行の職を与えることをえさにして、気の進まない長谷川にこの仕事を押し付ける。<歌麿宅>歌麿はずっと、きよの絵を描いている。<耕書堂>歌麿の弟子・菊麿は蔦重に報告する。鶴屋が蔦重を迎えに来たので、蔦重は店
大河ドラマべらぼうコラボ日本橋エリア細見・浮世絵スタンプラリー&耕書堂しおり集めました浮世絵みたいに6回スタンプを重ねると絵ができるスタンプラリー【スタンプ設置スポット】・日本橋案内所・タロー書房・日本橋歴史アーカイブス・十思スクエア蔦重ギャラリー・蔦重通油町ギャラリー・イチマス田源7月週末にスタンプラリーしたら週末にはオープンしてない平日のみだったり、平日夜のみだったりするところもあって1日で完成せず・蔦重通油町ギャラリーにいた方が町内
大河ドラマ「べらぼう」第37回「地獄に京伝」の感想の続きです。<吉原扇屋>扇屋主人、女郎、政演が話しているところに蔦重が怒りの声をあげ飛び込んでくる。「政演!どこだ!出てこい!」政演は逃げ惑う。蔦重は政演が「心学早染草」でふんどしを担いでいるとして、怒り狂う。政演を捕まえ、振り回す。(階段から突き落とすかと思ったが……)政演の「心学早染草」が面白いことは認めるようである。
でも民主主義のため、黄表紙の火は消さない・・・ふんどしは天日に干しておいてやれ・・・干しておけばそのうちごわごわになって・・干上がるんDONEべぇや・・どこの言葉か分かんねえが方言なんてどこでもよ官兵衛ぇ・・
いつもお付き合いくださり、ありがとうございます。だんだん蔦重が生意気な野郎に見えてきました。笑まあ、最初の頃の純粋な重三郎のままであるはずがなく、偉くなって、お金もたくさん持てるようになってきたわけですし、政治にも口を出せるような立場になっちゃったから仕方ないんですけど。蔦重の店蔦屋は「ふんどしの守」定信の節約令により、大ピンチです。蔦重の本を支えてくれた作家さんたちがどんどん消えていきます。恋川春町さんは自害し、喜三二さんも、そのショックもあって江戸を去ってしま
大河ドラマ「べらぼう」第37回「地獄に京伝」の感想の続きです。松平定信の倹約統制。中洲の取り壊しを受けて、中洲の岡場所から、吉原に移る女たちが増えた。しかも、24文で身を売る女もいた。りつと蔦重はその様子を見て嘆く。<吉原の会合>蔦重:「ここでは一切百文以下じゃ売っちゃなんねえってしたらどうです?」「倹約倹約で皆、物も買わなくなっただろ。」景気が悪くて、「札差が頼みの綱だったわけ