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菊池川流域の古代史を考える上で、江田船山古墳の被葬者のことを考慮する必要がある。江田船山古墳は、菊池川中流域、菊鹿盆地と玉名平野の中間にあり、5世紀後半に作られたと考えられている。刀剣類、鏡、装身具、甲冑など出土しているが、それらはすべて国宝に指定されている。中でも文章が刻まれている銀象嵌銘大刀は、当時の状況を知る上で非常に重要なものと考えられている。出土品は中国や朝鮮半島からもたらされたものであり、被葬者は相当な権力者であったことは否めない。銀象嵌の文字は「台天下獲□□□鹵大王世、奉
ご訪問ありがとうございます。何度も訪れている浄土寺。ワンちゃんOK🆗👌だよ。となりの歓喜院の副住職が作られているおみくじが、目当てでした。ハンドメイドです。恐ろしく大きな阿弥陀様ごおられます。京都や奈良に行かなくてもここでよい。百済新羅高句麗の時代の建物だそうです。果てしなく昔。娘たち連れてまた来ます。
LALATVで于氏王后の放送が始まったので録画してみました予備知識ゼロで見始めたこのドラマまず女性がばっさぱっさと男性を倒していくシーンが冒頭にありそれがとにかくかっこいい!ただ・・・・仕事終わりの疲れた時にはあわない(笑)ということで週末とか時間があるときにまとめて見ようと思います出てくる人たちはこんな感じ↓高句麗のドラマなので衣装とかちょっと馴染みないかもでも王妃自ら刀を持ち戦うというのは珍しいので今後が楽しみです
武蔵野巡礼…聖天院から、是非寄り道したい場所があるのでそちらに向かいます聖天院の中門前で蕪をお持ち下さいの看板もう、でっかい蕪蕪を引っ張るおじいさん…よ〜いしょよいしょと聞こえて来そうなです遠慮なく、頂いて参りました欲張って大きなのを貰ったから、リュックが重い重い…🤣🤣さて、聖天院から10分ちょいの高麗神社に移動します🏃🏃🏃高麗神社には前々から行ってみたい場所でしたが、中々機会が有りませんでしたのでどんな場所なんだろう〜ちょっとワクワク😍高麗神社に着きました10分
【抄録&はじめに:熊津都督府の立場から見た朝鮮半島と倭国の外交・交流史】〈抄録〉663年の白村江敗戦後の日朝・日唐関係史には重層な研究史が存在するが、大半は倭国側の防衛や国家体制の整備からの視点であり、対象国もこの後半島を統一した新羅に重点が置かれた。しかしながら、白村江翌年の664年(戦後初)から665年・667年とたて続けて倭国に使節を派遣したのは、660年の百済滅亡後にその半島西南地域に置かれた唐の熊津都督府であった。なお旧百済地域は、6・7世紀以来肥後を含む北部
西暦600年代中頃現在の北朝鮮一帯にあった高句麗という国が唐・新羅連合軍によって滅亡した。高句麗はヤクザ・マフィア国家であったのだが、彼らの一部は朝鮮半島から海を越えて日本にやって来て小島が無数に存在する瀬戸内海に拠点を構える事となる。瀬戸内海の海賊集団である村上水軍の主戦力は彼ら高句麗の末裔(倭寇の一勢力)である可能性が高い。また童話「桃太郎」で鬼ヶ島に鬼退治に行くというストーリーは
今日は、私の好きな世界史講師の茂木誠先生のYouTubeチャンネル、もぎせかチャンネルと、進撃の信政という神社、古代史系のYouTubeチャンネルでコラボしていた埼玉県日高市の高麗神社(こまじんじゃ)さんへどちらのチャンネルも面白いのでオススメです自宅からは1.5時間くらいまぁ近いし、ここ以外には行く予定もないので、家を出たのは10:30すぎさぁ、こちらの由縁から説明しますかこの天下大将軍と地下女将軍のトーテムポール的なものまぁ日本の神社では見かけませんよね?こちら朝鮮半島の村落で
江戸時代の頃朝鮮半島は李王朝の時代であった。李王朝時代高句麗の末裔はペクチョン“白丁”と呼ばれ政治的権利・身分を取り上げられ「平地に住んではならない」「墓を持ってはならない」等の制約を受けていた。ゆえに彼らは“山賊”(山に住むヤクザ)として生計を立てたり離小島に住み“海賊”行為によって生活を成り立たせていたのである。
西暦600年代半ば北朝鮮一帯に高句麗と呼ばれる国が唐・新羅連合軍により滅ぼされた。そのため日本に亡命し関東一帯に入植した。そして実は瀬戸内海も高句麗(北朝鮮)の末裔の聖地である。瀬戸内海には無数の“小島”が存在しこの“小島”こそが彼ら高句麗(倭寇)の拠点であった。
高麗神社と高句麗(朝鮮半島)の関係今現在は埼玉日高市は、武蔵・高麗郡。ここに高麗神社というのがある。高麗神社の祭神が何故高麗若光王なのか?こま神社と呼ばれる所以----今ではこまとは読めないが、昔は高麗をこまと読んでいた朝鮮半島北部に最強の騎馬民族・高句麗(BC37-668)があった。610年頃の王は嬰陽王、在位は590-618。612:隋の煬帝第一次侵攻高句麗勝利613:隋の煬帝第二次侵攻高句麗勝利隋内乱614:隋の煬帝第三次侵攻高句麗勝利618隋滅亡
【7世紀の朝鮮半島の概観】朝鮮半島では7世紀の半ば以降、高句麗。百済・新羅の三国の勢力争いが継続し、新羅が唐に、高句麗と百済は倭国に援助を求めて激動の時代に突入した。以下は642年に高句麗と百済が連合して新羅の領土に進行してから、676年に唐と倭国を交えた朝鮮半島の戦乱を新羅が統一するまでの主な出来事を列挙した年表である。新羅が唐の協力を得て高句麗と百済を排除し、さらに朝鮮半島の支配権をめぐって唐をも排除して統一を実現した大きな流れがわかりやすく一覧できるようにした。百済と親
戦前、渋沢栄一は朝鮮支配の先鋒となって朝鮮銀行の頭取を務め、鉄道を敷くなど支配の陣頭指揮を行なっていた。渋沢栄一が率先して朝鮮支配に身を乗り出していたのは彼自身が高句麗(北朝鮮)由来の人物であるが故である。豊臣秀吉が朝鮮出兵してのも彼の血統(由来)が要因となっていたのであった。
西暦600年代中頃まで現在の北朝鮮一帯には高句麗と呼ばれる国が存在していた。高句麗は、唐・新羅連合軍によって滅ぼされることになるのだが、ヤクザ・マフィアの寄せ集まった無法者の国だった。ゆえに闘いを非常に得意としており700年程もの間国を存続させていたのである。その高句麗の民は、国が滅んだ為に母国の地を離れ日本へと逃げてきたのである。
大韓民国という国名のルーツは、益山(イクサン)から始まった「韓(ハン)」の歴史にあります📜✨馬韓・辰韓・弁韓を包み込む大いなる「韓(ハン)」。青銅器と鉄器文化がともに花開き、ここで「韓王」が誕生しました👑その歴史は、高句麗・百済・新羅へと受け継がれていきます🌿過去と現在をつなぐ、韓国の原点・益山。歴史を感じる旅へ、ぜひ注目してみてください😊💫
<ドラマ鉄の王キムスロ>ワンポイントコラム<韓国朝鮮歴史のトリビア>2.伽耶の名前を使う理由またもや歴史トリビアを一つ。ちょっとした蘊蓄です。伽耶をご存知ですか?高句麗、百済、新羅の三国時代、朝鮮南部に存在した小国で今も不明が多いナゾの王国です。名前の由来については本編「韓国・朝鮮歴史のトリビア」の1〜6を読んでいただきたいと思います。↓伽耶の名前の由来↓『N5.KARAって何の名前だったっけ?(百済・新羅などの名前の由来)』第1
一昔前の日本史では、古代朝鮮には百済と新羅、そして高句麗があった時代に朝鮮出兵があり、その一部に任那日本府があったと習った記憶がある。今ではそうした「日本書紀」に偏重して依存した記述は訂正され、加耶(かや)/任那(みまな)は3~6世紀に存在した朝鮮半島南部、今の大邱、釜山あたりの洛東江流域に存在した小国群名とされ、その中の一部地域には鉄製品入手を目的として日本からの移住拠点があり、そうした倭人の祖先を祀る前方後円墳も存在する、とされる。「日本書紀」ではそうした伽耶諸国を総称して任那と記し、百済
10其婚姻,壻往女家門外作屋、晨夕灑掃、經年而女不悅、卽驅之、相悅乃成婚。婚禮大抵與中國同。結婚するときは、男が女の家へ行き、門外に小屋を作り、朝夕掃除する。しばらくして女が喜ばなかったら取り壊し、女が喜べば成婚となる。日本古来の妻問い婚に似る。高句麗とも類似する。三国志魏書東夷高句麗伝に、彼らの風習では、婚姻をなす場合、約束ができると女の家では母屋の後ろに婿屋と呼ばれる小屋を建てる。婿となる男性が夕方に女の家にやってくると、戸外で名を名乗り、跪拝して女のもとで夜を過ごし
ほぼ【再掲】です。三国史記金武軾三国史記네이버블로그당신의모든기록을담는공간m.blog.naver.com三國史記보물삼국사기(三國史記):국가유산포털-국가유산청『삼국사기(三國史記)』는고려인종23년(1145)경김부식이신라·고구려·백제3국의정치적인흥망과변천을중심으로편찬한역사서이다.인종의명에따라김부식의주도하에…www.heritage.go.kr三国史記1(東洋文庫)Amazon(アマゾン
祖先の旅・特別編ⅢDNAが示す渡来以前の弓月の民―卑弥呼と同時代、朝鮮半島北部その2⸻―前回までのお話前回(その1)では、Y染色体ハプログループO2a2b1a2a(F444)が、現代の漢民族主流とは異なる系統であることを確認した。F444は、中央アジア・イリ盆地に集中して残り、モンゴル高原のバヤンボラク遺跡でも確認されている。この系統は、中央アジアから東へと連なる一本の移動の流れを示していた。では、その流れは、海を渡る直前、どこ
扶桑国の謎2026-1499年、南斉朝末期に高句麗人の僧侶と同じような名前の僧侶慧深が扶桑国という中国人が初めて聞く国から中国にやってきて、扶桑国やその他の国について語ったが、まず、慧深その人について多くの疑問がある。①まず、何のために梁にやってきたのかわからないのが最大の謎。斉の後の梁朝(南朝、502-557年)では、仏教は特に武帝(蕭衍)のもとで最盛期を迎え、「皇帝菩薩」と称されるほど深く信仰され、「仏教王朝」と呼べるほど栄えたが、慧深はその前にきている
高句麗の対倭外交-6世紀後半の高句麗の対倭外交開始と東アジア情勢-井上直樹敎授(京都府立大学)|第7次韓日歴史問題e-Conference-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。www.youtube.com
パク・ボゴム、奴隷剣闘士に変身…映画「剣:コドゥマクハンの剣」でチュウォン&チョン・ジェヨンらと共演写真=THEBLACKLABELパク・ボゴムが、キム・ハンミン監督の新作映画「剣:コドゥマクハンの剣」で主演を務める。映画「剣:コドゥマクハンの剣」は、高句麗(コグリョ)滅亡直後、記憶を失い奴隷となった一人の男が、伝説の剣を懸けた剣闘大会に身を投じることから始まる、ブロックバスター・アクション時代劇だ。本作は高句麗が滅亡した直後の668年、旧高句麗の地・遼東城(ウリホル)を舞台に、
令和8年(2026)となりました。今年もよろしくお願い申し上げます。毎年天候も自然災害も国際情勢も激しくなるばかりで、今年もその傾向は続くと思われます。私の場合は、このような時代、常に最悪のケースを考えながら生きていくという生き方を気に入っています。さてどうなりますか。スリル満点の、ヒリヒリするような1年でしょうか?それとも大したことは起きないですむのでしょうか?さて今回久しぶりの投稿は倭の五王についての話題です。そもそも倭の五王の国はどこにあったのか?についてまとめてみま
白村江の戦いは西暦663年親日の百済は新羅に負けたのだが、生き残った百済の人たちに懇願されて倭の国は朝鮮半島に兵を出したでも唐と新羅の連合軍にこっぴどく大敗そこで日本と朝鮮半島は縁が切れた当時、中大兄皇子たちは今の中国と新羅の強さを思い知った大和朝廷は新羅や中国の連合軍が日本に反撃してくるはずだと思い防人を設置でも、新羅は倭の国(日本)を攻めないで高句麗を攻め落とした今の台湾情勢は当時にそっくり歴史が繰り返されそうで怖い
「それは駄目だ!戦いもせずに領土を差し出すわけにはいかない!」太祖の時から北進政策が消えそうになっていた時期だった。高麗朝廷は契丹族の投人を巡り、和睦策と対抗策に意見が分かれ、激論がなされた。契丹は高麗が戦う気勢を見せるや総攻撃の命を下した。押し寄せてきた契丹軍は、安戎鎮(アンユンジン)で突然、前進を止めた。険しい山の稜線に築かれた安戎鎮は、高麗の軍隊一ヶ月守っていた。契丹軍80万人はこの安戎鎮を越えなければ一歩もて契丹軍は蟻の大群のように城壁によじ登り、攻撃を開始
久宝寺にある許麻(こま)神社。大狛(こま)連の祖神を祀った神社でかつて、この地は、巨麻(こま)荘と呼ばれていました。大狛連は高麗人(こまびと、こまじん)で688年の高句麗滅亡後、日本に渡ってきた渡来人です。第4代天台座主の安慧も、大狛氏の出身だといわれています。こちらの本殿には、ご祭神の牛頭天王、高麗王霊神素盞嗚命、許麻大神がお祀りされています。