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長い朝鮮半島と中国と歴史のなかで、敢然と当時の中国と戦ったの国は、多くはありません。かっての古代朝鮮の領土を取り戻すために闘った初代高句麗王・チュモン(朱蒙)、その意志を引き継いだ高句麗の武将たちです。その後は、中国の王朝の無理難題を要求される脆弱な国家が続きました。他には、歴史的に見ても、武臣政権時代のキムジュン(金俊)だけでした。李氏朝鮮時代は、王になるためには、中国王朝(明や清)に冊封を受けねばならない体たらくでした。唐に負けなかった高句麗の武将もう何度も見ている映画
あさやんのロマンチックジャーニーさん、北朝鮮の国土は、かって高句麗と同じ令和八年丙午卯月廿ニ日丙寅合掌
最終日昨日のお昼ごはん昨年も行って美味しかったお店高句麗(コグリョ)というお店でした!アワビがゆとチキンをいただきました♥️
ご訪問ありがとうございます前回ぐらいから「百済本記」に依らない、国内の記事らしきもの(おそらくは各氏族の言い伝え)が増えてきています。何かしら、成文化されたものが残っていくのか…それとも半世紀後の「国記」「天皇記」で、採択されていくのか…(50年前なら言い伝えもけっこう正確でしょうし)記事の内容も細かくなっているように思います。ただ「欽明天皇紀」の前半部が、ほぼほぼ聖明王の関連で、欽明天皇の影はめちゃくちゃ薄いwということを考えると、この頃はまだ国内の政治の記録も外交の記録も残ってお
唐の李勣は、淵男生を先頭にして、高句麗に侵攻した。淵蓋蘇文の弟の淵浄土は、新羅に投降した。668年には。新羅が、唐軍に合流して、平壌の長安城を包囲した。1カ月間の包囲の後、同年9月21日、遂に、高句麗の宝蔵王は、降伏した。紀元前37年に、朱蒙の建国以来、705年間続いた、高句麗は、遂に滅亡したのである。文武王は、百済征討及び、高句麗征討戦に戦功の著しかった、伯父金庾信を遇するため、それまでの最高官位である、大角干の上に太大角干の位を設けて、任命した。また、全ての貴族に官位一
安市城グレート・バトル★★★★2017年韓国映画監督キム・グァンシク出演チョ・インソンナム・ジュヒョクパク・ソンウンペ・ソンウオム・テグソリョンソン・ドンイルパク・ビョンウンオ・デファン645年唐の皇帝・太宗(パク・ソンウン)は挑戦半島全土を支配下に置くべく20万人を超える大軍を率いて高句麗に攻め入るヨン・ゲンサム(ユ・オソン)率いる高句麗軍は反撃を開始しかし15万いた兵士はほとんど
高麗神社に隣接する高麗家住宅の枝垂れ桜です。(埼玉県日高市)推定樹齢400年、樹高16mと言われています。高麗神社の神職を勤めてきた旧家で、江戸時代初期の建物です。高句麗からの渡来人・高麗王若光を祀る高麗神社です。境内に咲く「ひがん桜」です。(推定樹齢300年)最後までご覧いただきましてありがとうございました。
ご訪問ありがとうございますまずは百済の王子の活躍から(^∇^)目次百済の王子餘昌内臣の救援軍聖明王の上表文百済の王子餘昌冬10月20日、百済の王子の餘昌ヨショウ明王=聖明王の子で、威徳王のことである。は、国中の兵をことごとく率いて高麗国(高句麗)へ行き、百合野ユリノ(黄海道黄州の蒜山サンザン)の塞ソコ=砦を築いて、兵士の中に混じって寝食を共にした。この夕方のこと遥かに遠くを見渡すと、大野は起伏しつつ肥え、平原は広く伸び、人の跡は稀で犬の声もしなかったが、俄にたちまち鼓と笛
ご訪問ありがとうございます今回は外交でいろいろ動きます目次百済の使い吉野寺の仏像百済救援王辰爾新羅と高句麗の謀議任那の長官目次を開く百済の使い14年春1月12日に、百済は上部ショウホウ徳率トクソチ科野シナノ次酒シシュ・杆率カンソチ禮塞敦ライソクトン等を遣わして出兵を要請した。13日に、百済の使者の中部チュウホウ杆率カンソチ木刕今敦モクラコムトン・河内部阿斯比多カワチベノアシヒタ等が百済に帰国した。前に来た使者が帰国する前に、重ねての援軍の要請ということは、百済はかなり切
【前回のあらすじ】天帝の息子・解慕漱(ヘモス)と水神の娘・柳花(ユファ)の間に生まれた朱蒙(チュモン)は、大きな卵から誕生しました。生まれながらの弓の名手として育ちましたが、その才能を恐れた金蛙王(クムワワン)の息子たちに命を狙われるようになりました。母・柳花(ユファ)の言葉に従い、信頼できる仲間とともに扶余(プヨ)を脱出した朱蒙(チュモン)は、南へと向かいました。【オープニング】逃げながら、それでも前へ進んだ男がいた。追手の足音が近づいてくる。前には大きな川が立ちはだかる。橋もなく
【前回のあらすじ】千五百年にわたって古朝鮮を治めた檀君王倹(タングンワンゴム)は、箕子(キジャ)の到来とともに王座を離れ、阿斯達(アサダル)の山へと入っていきました。死んだのではなく、山神(サンシン)へと変容し、永遠にこの大地を見守る存在となりました。こうして文献神話の最初の章である檀君神話が幕を閉じ、物語は次の建国神話へと移っていきます。【オープニング】古朝鮮の時代が幕を閉じた後、朝鮮半島には新たな時代が訪れた。様々な国が生まれ、競い合い、やがてその中から三つの大きな王国が姿を現した。
ご訪問ありがとうございます前回の高句麗の内乱は、百済にとってはちょっとラッキーな出来事でした。そのせいでしょうか?百済は新羅と組んで、551年にはかつての都、漢城を奪還することに成功します。そのせいか、任那への進出を倭国に認めさせようというあの手この手はちょっと鳴りを潜め、対倭国の要請が変わってきました。でも実をいうと、ここから百済の悲劇が始まるのかも…(ω-、)そして日本は…動乱と権力争いと、新しい日本への脱皮のための産みの苦しみが続きます。目次百済救援軍の要請馬津城の役
ご訪問ありがとうございます。ちょっと道草を食ってしまいましたが、「日本書紀」に戻って来ました。今回は東アジアの中の大きなうねりを見ていくことになります。特にこのころの東アジアにとっては、倭国なんて海の向こうにいる端っこの国でして、むしろ百済や新羅ですら半島の南端に貼り付いているようなもの、やはり中心は北朝と南朝に分かれている中国の王朝と、日本海沿岸から朝鮮半島の大部分を勢力下に置く高句麗の動向だったのです。そこで今回は高句麗の歴史を見ながら、当時の日本、すなわち倭国に及ぼした影響を見て
弥生三月、三寒四温を肌で感じる頃となり、温かな陽射しに誘われて高麗(こま)神社(埼玉県日高市)へ梅を見に行きました。高麗神社の梅は本殿の背後にある“高麗家(こまけ)住宅”の周りを囲むように紅梅と白梅が交互に植えられていてとてもきれいです。梅見とはいえ、先に参拝を済ませないことにはどうにも落ち着かないので、ひとまずいつものように一の鳥居から参道に入ります。一の鳥居の扁額は『大宮大明神』。“大宮”とは地域の重要な神社に特別に許された称号で、高麗神社は江戸時代まで高麗郡(こま
こちらの記事は埼玉県日高市【高麗(こま)神社】のINDEX記事です古事記や日本書紀の神々とは違う高麗の神社別称「出世明神」※記事の日時=更新日時です※画像や動画の流用は固くお断りします📍〒350-1243埼玉県日高市新堀833目次概要創建御祭神高麗王若光猿田彦命武内宿禰命境内御朱印アルバム2026年3月2023年3月関連記事埼玉県INDEX目次を開く概要創建奈良時代御祭神高麗王若光猿田彦命武内宿禰命境内御朱印花印を全種集め
ソドンヨ百済・新羅・高句麗が対立する三国時代。百済の王子に生まれながら、出生を知らずに平民として育ったチャン。母は、少年になったチャンを百済最高の技術士モッラスに預ける。宮廷の陰謀で、モッラスは新羅へ亡命。チャンは、そこで新羅の姫ソンファと運命の恋に落ちる。成長後も互いを忘れられなかった2人は、再会し、国籍と身分の違いを超えて愛し合う。だが、サテッギルによって2人は離れ離れに。やがて、自分が百済の王子だと知ったチャンは、いくつもの試練を乗り越え、百済再興と、ソンファとの恋慕をかなえるために奮闘
菊池川流域の古代史を考える上で、江田船山古墳の被葬者のことを考慮する必要がある。江田船山古墳は、菊池川中流域、菊鹿盆地と玉名平野の中間にあり、5世紀後半に作られたと考えられている。刀剣類、鏡、装身具、甲冑など出土しているが、それらはすべて国宝に指定されている。中でも文章が刻まれている銀象嵌銘大刀は、当時の状況を知る上で非常に重要なものだ。出土品は中国や朝鮮半島からもたらされたものであり、被葬者は相当な権力者であったことは否めない。銀象嵌の文字は「台天下獲□□□鹵大王世、奉事典曹人名无(
ご訪問ありがとうございます。何度も訪れている浄土寺。ワンちゃんOK🆗👌だよ。となりの歓喜院の副住職が作られているおみくじが、目当てでした。ハンドメイドです。恐ろしく大きな阿弥陀様ごおられます。京都や奈良に行かなくてもここでよい。百済新羅高句麗の時代の建物だそうです。果てしなく昔。娘たち連れてまた来ます。
LALATVで于氏王后の放送が始まったので録画してみました予備知識ゼロで見始めたこのドラマまず女性がばっさぱっさと男性を倒していくシーンが冒頭にありそれがとにかくかっこいい!ただ・・・・仕事終わりの疲れた時にはあわない(笑)ということで週末とか時間があるときにまとめて見ようと思います出てくる人たちはこんな感じ↓高句麗のドラマなので衣装とかちょっと馴染みないかもでも王妃自ら刀を持ち戦うというのは珍しいので今後が楽しみです
武蔵野巡礼…聖天院から、是非寄り道したい場所があるのでそちらに向かいます聖天院の中門前で蕪をお持ち下さいの看板もう、でっかい蕪蕪を引っ張るおじいさん…よ〜いしょよいしょと聞こえて来そうなです遠慮なく、頂いて参りました欲張って大きなのを貰ったから、リュックが重い重い…🤣🤣さて、聖天院から10分ちょいの高麗神社に移動します🏃🏃🏃高麗神社には前々から行ってみたい場所でしたが、中々機会が有りませんでしたのでどんな場所なんだろう〜ちょっとワクワク😍高麗神社に着きました10分
【抄録&はじめに:熊津都督府の立場から見た朝鮮半島と倭国の外交・交流史】〈抄録〉663年の白村江敗戦後の日朝・日唐関係史には重層な研究史が存在するが、大半は倭国側の防衛や国家体制の整備からの視点であり、対象国もこの後半島を統一した新羅に重点が置かれた。しかしながら、白村江翌年の664年(戦後初)から665年・667年とたて続けて倭国に使節を派遣したのは、660年の百済滅亡後にその半島西南地域に置かれた唐の熊津都督府であった。なお旧百済地域は、6・7世紀以来肥後を含む北部
NHKで放送された内容で気になったところを抜き出し。歴史探偵2026.2.25放送
西暦600年代中頃現在の北朝鮮一帯にあった高句麗という国が唐・新羅連合軍によって滅亡した。高句麗はヤクザ・マフィア国家であったのだが、彼らの一部は朝鮮半島から海を越えて日本にやって来て小島が無数に存在する瀬戸内海に拠点を構える事となる。瀬戸内海の海賊集団である村上水軍の主戦力は彼ら高句麗の末裔(倭寇の一勢力)である可能性が高い。また童話「桃太郎」で鬼ヶ島に鬼退治に行くというストーリーは
今日は、私の好きな世界史講師の茂木誠先生のYouTubeチャンネル、もぎせかチャンネルと、進撃の信政という神社、古代史系のYouTubeチャンネルでコラボしていた埼玉県日高市の高麗神社(こまじんじゃ)さんへどちらのチャンネルも面白いのでオススメです自宅からは1.5時間くらいまぁ近いし、ここ以外には行く予定もないので、家を出たのは10:30すぎさぁ、こちらの由縁から説明しますかこの天下大将軍と地下女将軍のトーテムポール的なものまぁ日本の神社では見かけませんよね?こちら朝鮮半島の村落で
江戸時代の頃朝鮮半島は李王朝の時代であった。李王朝時代高句麗の末裔はペクチョン“白丁”と呼ばれ政治的権利・身分を取り上げられ「平地に住んではならない」「墓を持ってはならない」等の制約を受けていた。ゆえに彼らは“山賊”(山に住むヤクザ)として生計を立てたり離小島に住み“海賊”行為によって生活を成り立たせていたのである。
西暦600年代半ば北朝鮮一帯に高句麗と呼ばれる国が唐・新羅連合軍により滅ぼされた。そのため日本に亡命し関東一帯に入植した。そして実は瀬戸内海も高句麗(北朝鮮)の末裔の聖地である。瀬戸内海には無数の“小島”が存在しこの“小島”こそが彼ら高句麗(倭寇)の拠点であった。
高麗神社と高句麗(朝鮮半島)の関係今現在は埼玉日高市は、武蔵・高麗郡。ここに高麗神社というのがある。高麗神社の祭神が何故高麗若光王なのか?こま神社と呼ばれる所以----今ではこまとは読めないが、昔は高麗をこまと読んでいた朝鮮半島北部に最強の騎馬民族・高句麗(BC37-668)があった。610年頃の王は嬰陽王、在位は590-618。612:隋の煬帝第一次侵攻高句麗勝利613:隋の煬帝第二次侵攻高句麗勝利隋内乱614:隋の煬帝第三次侵攻高句麗勝利618隋滅亡
【7世紀の朝鮮半島の概観】朝鮮半島では7世紀の半ば以降、高句麗。百済・新羅の三国の勢力争いが継続し、新羅が唐に、高句麗と百済は倭国に援助を求めて激動の時代に突入した。以下は642年に高句麗と百済が連合して新羅の領土に進行してから、676年に唐と倭国を交えた朝鮮半島の戦乱を新羅が統一するまでの主な出来事を列挙した年表である。新羅が唐の協力を得て高句麗と百済を排除し、さらに朝鮮半島の支配権をめぐって唐をも排除して統一を実現した大きな流れがわかりやすく一覧できるようにした。百済と親