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こんばんは3月10日(日)、滋賀県の飯室不動尊に行きました。行ったのは、1月28日(日)から2回目です。比叡山飯室谷不動尊所在地滋賀県大津市坂本本町飯室谷アクセスJR湖西線比叡山坂本駅より、行事開催日に無料送迎車あり。(9時〜10時40分の間ピストン運行)毎月第二日曜日と28日11時より護摩供があります。その時には、駅より無料送迎車があります。本尊不動尊こちらは外に祀られてました。左の狛獅子右の狛獅子不動尊様お参りしましたこちらは、お堂中には、金色の観音様がズラ
3/18はお誘い頂いて比叡山延暦寺飯室谷不動堂の『八千枚大護摩供』の8座と最終の9座に参加してきました2日間にわたり9座の護摩供養をお勤めなさった藤波大阿闍梨様は、1か月前から五穀と塩を断って、この八千枚大護摩供に臨んでおられたとのこと。大変な行(ぎょう)であり誠に有難く参加できたことに感謝致しますそして暖かった昨日とはうって変わり寒さの厳しい日でした。護摩木をくべられると炎がいろいろな形に変わり火が爆ぜ、鳳凰の形になったり龍のようになったり炎が
阿闍梨【外伝】❖信じる道を歩み続ける修行~藤波源信・比叡山飯室不動堂長寿院住職引用PHP言志録2018年09月28日公開2023年10月04日更新自分の信じた生き方を貫き通す千日回峰行は、比叡山の峰々を巡礼する修行です。志半ばで挫折すればみずから命を絶つという掟があり、天台宗の修行の中でも最も厳しい荒行として知られています。歩く距離は、一日30キロメートル。その合計は地球一周に相当します。行の中で最大の難関である「堂入り」は、9日間、不眠・不臥・断食・断水をしながら、十万
◇酒井雄哉大阿闍梨の仏縁【導きの師匠】小林隆彰師【学びの師匠】小寺文潁師【行の師匠】箱崎文應師【良き理解者】第二五三世天台座主・山田恵諦師【家族】【行の場】霊山院飯室谷不動堂【比叡山】一日一生(朝日新書)Amazon(アマゾン)続・一日一生(朝日新書)Amazon(アマゾン)この世に命を授かりもうして(幻冬舎文庫)Amazon(アマゾン)
◇行き道はいずこの里の土まんじゅう、、(天台宗五箇門跡三千院)いよいよ千日回峰行をすることになったとき、師事した箱崎師が僕に回峰行についていろいろ教えてくれながら、こんな句を贈ってくれたんだ。『行き道はいずこの里の土まんじゅう』どんな意味ですかときくと、『昔は、どこでも土葬だったから、人は死ぬと土に埋めただろう、あれを土まんじゅうと言ったもんなんだ』という。『お前が歩くこの先の道は、いつどこで土まんじゅうになってもかなわないという覚悟がいる。ここがお前の墓場かもしれないという気
傘マークで遠出は無理リードくんで近場をウロウロ坂本の滋賀院門跡から日吉台の奥へ琵琶湖が見えます。季節ハズレの桜?!その反対側にはあらうんど日吉台–千野・天満神社|hiyoshidai.nethiyoshidai.netそこから北へ西教寺を越えて着いたのは比叡山飯室谷不動堂(藤波源信大阿闍梨)祈祷と千日回峰の比叡山飯室谷不動堂(藤波源信大阿闍梨)。www.eizan-imuro.comいい感じのお寺さん護摩行をされてたので護摩木を寄進してお参り。そこからまた
2023/11/10(金)世界文化遺産「比叡山延暦寺」比叡山(標高848m)は、京都府と滋賀県の境にそびえ、山頂からは西に京都市街地、東に琵琶湖を望むことができます。同行したJ&BのUさん(寺院に関するデータベースをブログ「お寺の風景と陶芸」でアップされている)の説明とパンフをもとに改めて延暦寺の歴史などをおさらいした。古代より神山として崇められていたこの山に伝教大師最澄が788年に創建され、「日本仏教の母山」と呼ばれている。それは、ここで修業した多
◇いまここに立っているのは、経験、苦難を経てきたからこそ、(飯室谷長寿院水かけ観音)なぜ比叡山ではそんなに厳しい行ばかりさせるのか、とよく聞かれる。仏さんは厳しい状況に身を置いて四六時中、自らの欲望を絶ち、衆生のために尽くされたわけだから、自分たちもその仏さんに準じて、やはり欲望を経って、同じ境地に立たなければならない。同じ境地に立って、一体とならなければならない。仏さんの境涯にならなかったら、人を救うことはできない、というわけですな。それにしても、お釈迦様は、まだ王子様だったころから苦
◇【外伝】箱崎文應大阿闍梨③荒れ果ていた飯室谷長寿院に『箱崎阿闍梨』は入った。太平洋戦争が日本に不利になり始めた頃である。田んぼで米を作り、畑を耕す。精力的に箱崎師は動いた。北嶺大行満大阿闍梨となれば比叡山の高僧の仲間入りである。悠々自適の生活を送ることも出来るのだか、現実は厳しい。弟子も居なければ寺の住職として認められてないからであった。日々の生活に追われながらも、一方で再び「回峰行」を始めた。昭和十七年、大峯回峰にのぞんでいる。大峯山は女人禁制の修験の根本道場で厳しい修行ひとすじの山で
坂本ケーブルで比叡山に登ろうとしたら(今回は登山なしなのでw)上娘が大好きな京都アニメーションさんのアニメヴァイオレットエヴァーガーデンとコラボしてるらしくポスターや記念乗車券がありおおお~!と写真を撮ってLINEで娘に送りました快晴ではないからボヤボヤだけどwな比叡山からの琵琶湖宿泊者は無料だったけどここで巡拝料を払います宿坊(というかホテルだけどw)に行き荷物をおいて身軽になりまずはお義父さんお義母さんの三回忌のご回向に道すがらあった石碑阿
◇生き残ったのは、生き「残された」ということ、、(飯室谷長寿院)昔から勉強が嫌いでな。落ちこぼれだったんだ。小学校はさぼってばかり。出席日数も卒業するには半年くらい足りなかったんじゃないかな。まあ義務教育だから卒業さしてもらえんだよ。次に中学校入ろうと思って麻布中学を受けたら落っこちゃった。しょうがないから慶應義塾商業高校(夜学校)に入れてもらった。学校には入れたけど、相変わらず勉強に身が入らないから、案の定落第生でね。当時は太平洋戦争まっただ中。だんだん空襲も激しくなってきて、学校もい
☆感謝の気持ちと誠意があれば、どんなこともうまくいく、、(酒井雄哉大阿闍梨)飯室谷の由来になった飯櫃童子(はんきどうじ)は、外護者を大切にする総大将で有名なんだな。外護者を大切にするという意味では、誰にでもあてはまると思うよ。誰かがいるおかげで、商売でも、家族でも、人生でも成り立ってるということだからね。商売だったら、自分のことを応援している人のおかげで、いろんな商談ができるということになる。それは、自分のとこの商品がおいしいからだからとか、評判がいいからというのと意味合いが全然違うんだよな
☆【外伝】『高倉健と二人の阿闍梨』酒井雄哉阿闍梨と『魂の交流』、、御前様永らく御無沙汰致しました。半年振りに仕事をする事になり今日京都に着き御会い出来るのを楽しみに来ましたが御不在なので残念です。留守中なのに御瀧を受けさて戴きます。御許し下さい。御身体になにかあったのではないかと案じて居ります。近日中に又参ります。その時を楽しみに。六月二十五日夜八時半高倉健この手紙を、ヤッさんがおよそ四十五年ぶりに目にしたのは、健さ
☆【外伝】高倉健と二人の阿闍梨京都に、西村泰治(敬称略)という実業家がいる。酒井雄哉大阿闍梨が二千日回峰行をする時に『京都大廻り』の際に、先導を勤めた人である。その破天荒な人生は、前の記述で紹介したが、酒井阿闍梨に心酔した一人である。通称「ヤッさん」、昭和のスーパースター、「高倉健」の付き人を四十年以上つとめてきた男でもあり、芸能界の裏側を知り尽くした男でもある。令和二年、高倉健七回忌にあたり、ベストセラー・フリーライターである山平重樹が著した、『高倉健からアホーと呼ばれた男西村泰
◇幻の中の堂入り、、(酒井雄哉大阿闍梨)勝手知ったる峰道を歩く、酒井阿闍梨の二千日回峰は順調に満行を重ねていた。昭和五十六年十月十三日、千二百日満行、五十七年は春と秋二回歩き、十月十三日に千四百日満行、五十八年七月四日に千五百日満行。そしてこの年の十一月二十三日に十万枚大護摩供も満行したのだった。酒井阿闍梨は翌五十九年、三月二十八日から歩いて十月十三日に千七百日を満行した。そして、二度目の「堂入り」を迎えたのである。今回の堂入りは、毎日お勤めをしている不動堂で行われるが、なんといっても憂
◇火焔の十万枚大護摩供、、(酒井雄哉大阿闍梨)紅蓮の炎が燃え上がり、酒井阿闍梨が祈禱しながら護摩木を投じると、火焔はさらに天井まで焼きつくすかのように凄まじい火勢でめらめらという音をたてた。「ナーマクサーマンダーバーサラナンセンダンマーカーロシャナソワタヤウンタラターカンマン」信者たちが唱和する真言が、一大合唱となってそれに和する。一つひとつ護摩木に込められた衆生の祈願を声に出して読みあげ、それを火焔の中に投じる阿闍梨の顔は、真っ赤に炎にそまり、さながら生きた不動明王を彷
◇「ナーマクサーマンダーバーサラナンセンダン、、」(酒井雄哉大阿闍梨)「ぼくにはお師匠さんが三人いるわけよ。小林先生、小寺先生、それからおじいさん(箱崎師)。最初に小林先生のところにいったんだけど、弟子はとらないからって、小寺先生に紹介されたわけね。小林先生のあずかり弟子というかたちで、霊山院に住み込んだ。それから飯室谷にきて、今度はおじいさんといっしょに住むことになった。三人の師匠は、それぞれ立派な人で、その点、ぼくは恵まれているわけ。相談ごとがあると、いまだって小林先生のところにい
◇飯室回峰出峰へ、、(ローマ教皇に謁見する、酒井雄哉大阿闍梨)比叡山の荒行、千日回峰行とはいかなるものであろうか。慈覚大師円仁が約十年におよぶ入唐求法の旅から帰国して、東塔の前唐院に住んでいた頃、一人の若い僧が目にふれた。十七、八歳の若い僧は毎夕、人知れず静寂な山中に入ると美しい花を摘んでは、根本中堂の薬師如来にお供えし、五体投地して一心不乱に拝んでいる。円仁がその様子を黙って見ていると、若い僧は雨の日も風の日も雪の日も一日として欠かさず、その礼拝を続け、七年の歳月が過ぎていった。この僧
◇箱崎文應師と再会、小僧に戻る、、(酒井雄哉大阿闍梨)酒井阿闍梨は、無動寺谷宝珠院の住職のまま、飯室谷長寿院の箱崎師の弟子となり、昭和四十九年八月に東塔から横川へ移って来た。まさに「仏縁」だと、酒井阿闍梨は不思議な見えない糸を思った。得度する前に、役行者(えんのぎょうじゃ)の仏像を持ってきて、「お御霊」を抜いてもらい、そしてまた入れてもらったことがあった。箱崎師から、そんなもの持っていると、裏山をのそのそ歩くようになるぞ、と怒鳴られたが、それでも「お御霊」を入れてもらった役行者の仏像を手元
◇飯室谷へいく、②(酒井雄哉大阿闍梨)飯室谷とは。酒井阿闍梨に深い関係をもつ飯室谷、第三世天台座主、慈覚大師円仁が、自らの隠棲修行の場所として開いた谷で、もともと比叡山では歴史と由緒がある谷である。円仁は十五歳で最澄の門に入り、最澄が入寂するまでの十四年間、その膝下で学問修行した高弟の一人で、承和五年(八三八年)から十四年(八四七年)まで約十年間、唐にわたり、五台山で念仏三昧法(五会念仏)を相承した。さらにこの入唐求法の旅で、最澄が果たせなかった天台密教の充実をはかった。この円仁に次いで
◇飯室谷にいく、、①(酒井雄哉大阿闍梨護摩行)酒井阿闍梨の千日回峰行は認められた。が、一つ条件がつけられた。これはすでに、酒井阿闍梨が叡山学院研究科を卒業したあと、本山交衆への加入を認めるかどうか、年齢が問題になって一山会議が開かれ、比叡山の規則が変更されたときからついていた「ただし書き」だった。特例を認める代わりに「ただし書き」をつけた。その内容は、「将来は飯室谷(いむろだに)の箱崎文應師のもとで、起居する」というものである。先達会議は、酒井阿闍梨の千日回峰を認めると同時に、この「ただ
◇酒井阿闍梨、滝を作る、、(信者の為に揮毫する、酒井雄哉大阿闍梨)画像行道に生きるより再び「役行者像」に御霊を入れてもらい、部屋に戻った酒井阿闍梨、箱崎師の心情など知るべくもない。むしろ、比叡山に通う今、自分の手もとに役行者の仏像が戻ってきたことの不思議さを思った。幼い頃に亡くなった祖父の記憶はないが、信心深い人で奈良の大峰山にもよく行っていた、と聞かされたことがあった。「西の覗(のぞき)」、ゴツゴツとした岩状の盛り上がりに突きあたり、先は、300メートルほどの谷へ落ち込んでいる。わが
箱崎文應③(酒井雄哉大阿闍梨)荒れ果ていた飯室谷長寿院に『箱崎阿闍梨』は入った。太平洋戦争が日本に不利になり始めた頃である。田んぼで米を作り、畑を耕す。精力的に箱崎師は動いた。北嶺大行満大阿闍梨となれば比叡山の高僧の仲間入りである。悠々自適の生活を送ることも出来るのだか、現実は厳しい。弟子も居なければ寺の住職として認められてないからであった。(大峯山)日々の生活に追われながらも、一方で再び「回峰行」を始めた。昭和17年、大峯回峰にのぞんでいる。大峯山は女人禁制の修験の根本道場で厳しい
◇箱崎文應②(堂入り酒井雄哉大阿闍梨)「俺は坊主にもなれない人間なのだろうか。この山の坊主は、どうして俺の気持ちをわかってくれないのだろう。もう俺には帰る所がないんだ。もしこの山で坊主になれなければ、、」中山玄雄師によって無動寺谷宝珠院につれられて『奥野玄順大阿闍梨』に引き合わされた箱崎師、「寺男」として使ってもらえることになった。寺の雑役である。三千日回峰行中に足を痛めた奥野大阿闍梨は、籠で毎日三十キロの山道を歩くことになり、箱崎師は、奥野師の乗った籠の先棒をかついで回峰道を歩く役
◇役行者像(酒井雄哉大阿闍梨)酒井阿闍梨が初めて目にした「比叡山無動寺谷」、戦後初めての千日回峰行者・叡南祖賢阿闍梨、戦後二人目の葉上照澄阿闍梨、勧修寺信忍阿闍梨、祖賢師の養子である、叡南覚照師はこの時期、千日回峰行を継続しており、その後も、光永澄道師、内海俊照師も無動寺回峰と呼ばれる千日回峰を叡南祖賢阿闍梨の法流のもとで厳しい修行を重ねた場所である。この数年後には、酒井阿闍梨も出家して、この無動寺谷の宝珠院の住職となり、やがて飯室谷に移り、無動寺回峰とは異なる飯室回峰を復興させて九人目の
ご縁を頂き、3/18比叡山延暦寺の飯堂谷(いむろだに)不動堂の八千枚大護摩供養に参加してきましたご本尊が『不動明王立像』様で、最近よく『不動明王』というワードを聞いたり目にしたりしていたので、ご縁を頂き感謝しています(お写真はありません)この3月に行われる護摩供養が、1年で1番大きな護摩供養だそうです。わたしも、自分の家族と娘家族、実母の分の護摩木をお願いしました藤波大阿闍梨様が、2日間に亘り9座の護摩供養をお勤めされました。これにあたり、1か月前から五穀と塩を断ってこの
ご訪問ありがとうございます。ちょこっとの京都案内ができましたら、と思います。またもや写真が入らない昨日でしたが日曜日は比叡山の阿闍梨さまのお寺にお参り正直深い信仰心ではないのですが(神さまごめんなさい!)白浜からお参りに来るjyunkoさんと伺うようになって10年、いやもっとやなぁ今頃・・なんか守られてたんかなぁ・・・と思うで、今夜お客様お持ち込みのワインです
2022年8月21日滋賀大津ぶらり旅、比良の郷に続いて飯室谷不動堂に行ってきましたスマホのマップには表示されたものの、ナビには出なかったので、当たりを付けて自力で向かいました。と言っても、分岐では近くの安楽律院への看板が出てくるので、大丈夫です雰囲気の良いところでしたが、Instagramで見た鳥居がないので、最初、めっちゃ凹みました。が、最終的には見つけられたので、良かったです千手堂護摩堂不動堂赤山大明神地蔵堂弁財天左から飯櫃童子霊石、日吉権現十禅師、稲荷明神魔王権現
【始まりの日】新月浄化ウォーキングレポ①『【始まりの日】新月浄化ウォーキングレポ①』本日いて座新月そしてマヤ暦では始まりの日だそうです。初雪が舞った今日は近江おごとハーブガーデンさん主催の新月ウォーキングに参加してきました♪…ameblo.jp【飯室谷不動堂】新月浄化ウォーキングレポ②『【飯室谷不動堂】新月浄化ウォーキングレポ②』【始まりの日】新月浄化ウォーキングレポ①『【始まりの日】新月浄化ウォーキングレポ①』本日いて座新月そして
【始まりの日】新月浄化ウォーキングレポ①『【始まりの日】新月浄化ウォーキングレポ①』本日いて座新月そしてマヤ暦では始まりの日だそうです。初雪が舞った今日は近江おごとハーブガーデンさん主催の新月ウォーキングに参加してきました♪…ameblo.jpより続きます。記憶と受け取った感覚の備忘録です。お付き合いください(*´艸`)新月期は月がどんどん膨らんでいく=エネルギーを蓄えていく時期なので、運動はあまり激しいものでなく軽いもの