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❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者73『我れ生れて自り此来、口に蠱言(そごん)なく、手に笞罰(ちばつ)せず、今我が同法、童子を打たずんば、我が為に大恩なり、努力(つと)めよ努力よ』傳教大師の遺訓である。私は常に荒々しいことばを慎み、竹の鞭で打ったりしたことは一度もなかった。子どもはわれわれの後継者だ。同法(弟子)の人たちよ。子どもをたたいてくれるな、辛抱づよく導いてほしい。私はそれを大恩だと思う、という意味でである。「あんまり理屈を言うことはな
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者69雄哉は動揺した。「堂に入っても、もう明らかにいつものドキン、ドキンと違ってね。何かもう心臓がとまっちゃうような苦しさなの。それがいつまでも治らず、これはもうあかんと思った」三十分以上たっても心臓の異常はおさまらず、ますます呼吸が苦しくなった。これはもうだめだ、と直感した。堂入りの最中に死ねば、みんなに迷惑をかける。どうせ死ぬなら、いつも体を清めてもらった滝で『自害』しようと最後の覚悟を決めた。あたりの様子をみ
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者68雄哉は午前三時、十時、午後五時の時間がくると、内陣で法華経を読誦し、そのあとは外陣の籠り所でひたすら真言を唱えた。光永澄道師によると、最初のうちは「一日に一万遍も唱えられるものではない」と明かしているが、とにかく出堂するまでに十万回唱えなければならない。数珠の珠をソロバン代わりに使って数えるのは同じである。この点は二回目なので、スムーズにいっている。午前二時、最初の『取水』の時間がきた。無動寺の場合は、「閼伽
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者67現在、記録として残っているのは、東塔、無動寺谷宝珠院の奥野玄順大僧正が一九二〇年(大正七年)に千日満行、同十五年に二千日、一九三四年(昭和九年)に三千日を満行しているのが最後だ。比叡山にたどり着き、寺男として雇われた箱崎文應老師が、三千日を目指して回峰中の玄順を駕籠から振り落として首になり、その後、行一筋に生きた。そしてその系譜を継ぎ宝珠院住職を兼ねる雄哉が同じ道を歩んでいる。勝手知ったる峰道を歩く、雄哉の二
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者66三日目が過ぎ、四日目になると、雄哉の額と頬は赤く焼けただれたようになり、唇は乾いて裂け、火炉に直接かざす手は赤黒く変色していった。それでも気力は凛々として、護摩木を読み上げる声の張りは衰えない。信者たちはそこにまさしく生きた不動明王の姿をみて、「ナーマクサーマンダーバーサラナン‥‥‥」とひときわ高く真言を唱和し、そのうねりが飯室谷にいつまでもこだましていた。不眠、不臥、断食、断水に挑んで八日目午前九時、雄
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者65『火あぶり地獄』といわれる大護摩供は、雄哉でさえ「堂入りしながら護摩焚いているようなもの」という苛酷極まりない炎の行で、さらにその前に百日間の厳しい前行が加わる。それは『五穀断ち』というもので、百日間、五穀と塩を断つのである。五穀とは米、麦、粟、豆、稗(ひえ)をさすが『五穀断ち手文』はさらに茄子、柿、西瓜、梅、桃、海苔、昆布、ひじきなどの果物、海草類も一切禁じている。阿闍梨はこの年の八月九日から十一月十六日ま
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者64『ナーマクサーマンダーバーサラナンセンダンマーカーロシャナソワタヤウンタラターカンマン』信者たちが唱和する真言が、一大合唱となってそれに和する。一つひとつ護摩木に込められた衆生の祈願を声に出して読みあげ、それを火焔の中に投じる雄哉の顔は、真っ赤に炎にそまり、さながら生きた不動明王を彷彿させていた。紅蓮の炎が燃え上がり、祈禱しながら護摩木を投じると、火焔はさらに天井まで焼きつくすかのように凄まじ
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者63雄哉は独自の表現で『行』を『砦』に例える。「昔流の言葉で言えば、行はわしの人生の砦だからね。勉強してもだめだ。仕事やってもだめだ、なにやっても人間失格で、最後にたどりついたお山で行の砦をもつことができた。その砦を守れるかどうかということは、自分が捨て身になって、全力投球しなくちゃならん。砦を破られたら殺されるしかないから、討死を覚悟ですべての力、自分にあるかぎりのエネルギーを行にそそぐということや。最後の命が
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨三章酒井雄哉生々流転の行者62毎日歩く。歩いていると、さまざまな光景と出遭う楽しみがある。雄哉にとって、歩くということは『生』の一部であり、『生』の証しとなっているのだ。出峰して一步を踏みだしたとき、全コースの道の状態が鮮やかに脳裡に描きだされるのだろう。毎日歩いていると、動物とおんなじなの。石ころも道の窪みも、体と足が知ってる。だから、藪のなかの道を歩いても、足跡はおんなじ所をちゃんと踏んでいる。行者道とは、雄哉一人しか通らない所もある
こんにちは百花ももはなです近江おごとハーブガーデンの新月の遠足に参加しましたずいぶん昔に友人と来て以来です今回の遠足は以前から気になっていた横川の飯室谷へのコースなのでタイミングが合って良かったです🙌とても楽しみでしたご挨拶をすると特製ハーブの新月ドリンクをいただきましたスギナと色々出発までキョロキョロガーデンも今から本番ですハーブやアロマも詳しくはありませんが好きなので見ているだけで楽しいです
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者12文應のいる飯室谷長寿院に出入りし、『滝』を作った青年・酒井忠雄。次の再会が師弟の契りを交わす時になるとは夢にも思っていなかったがその日は意外と早く訪れた。一九七三年(四十八年)の八月、暑い夏であった。出家得度した酒井忠雄は酒井雄哉と名を変えていた。年齢制限がある天台宗規を異例の変更に尽力したのも、文應の下で修行経験のあり雄哉の仏門入りの恩人・師である小林隆彰師、それを認めたのも、千日回峰行後不遇の身にあった
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者⑪『比良回峰』『比良八講』を再興した文應の行は壮絶を極めた。年末から正月にかけて、九日間の断食・断水行を三十六回遂行。ある年などは、仮死状態となっているところを引きずり出されたが、瞳孔が開き、死臭がしていたという。晩年は足が弱ったものの、毎日午前四時からの滝行と勤行は欠かさなかった。六十歳を過ぎた頃はさすがの文應も視力が弱り、回峰行中に負傷した脚もかなり悪くなったがそれでも行に対する情熱の炎はいささかも衰えるこ
❖大阿闍梨の道比叡山に取り憑かれた三人の阿闍梨二章箱崎文應一行三昧の鬼行者⑦飯室谷飯室谷とは。第三世天台座主、慈覚大師円仁が、自らの隠棲修行の場所として開いた谷で、もともと比叡山では歴史と由緒がある谷である。円仁は十五歳で最澄の門に入り、最澄が入寂するまでの十四年間、その膝下で学問修行した高弟の一人で、八三八年(承和五年)から八四七年(同十四年)まで約十年間、唐にわたり、五台山で念仏三昧法(五会念仏)を相承した。さらにこの入唐求法の旅で、最澄が果たせなかった天台密教の充実をはかった
大晦日の夜氏神神社である長谷八幡宮の御旅所のお掃除を一緒している方に誘っていただき、比叡山延暦寺五大堂の一つ(根本中堂、釈迦堂、横川中堂、無動寺明王堂と並ぶ)不動明王さまが御本尊の『飯室谷(いむろだに)不動堂』へ、大晦日の23:30から2024年最後のご祈祷に参加しそのあと、除夜の鐘をつかせて頂き、引続き新年元旦初護摩供に参加してきました飯室谷不動堂は滋賀県の日吉大社からもっと山奥に進み幽玄と静寂の中にあるお寺です。こちらの御守りを頂
【比叡山飯室谷不動堂】を訪れて動画を作成しましたのでご案内です🌟飯室谷(いむろだに)不動堂は根本中堂、釈迦堂、横川中堂、無動寺明王堂と並ぶ延暦寺五大堂の一つで別所飯室谷の山腹に位置している、天台宗のお寺。御本尊は不動明王立像です。千日回峰行を2度満行した酒井雄哉大阿闍梨が、かつて住職を務められた場所でもあります。現在の住職は2003年に千日回峰行を満行された藤波源信大阿闍梨です。◼️護摩供は毎月第2日曜日、28日開催(12月28日は無し)護摩供の後に阿闍梨様から御加持が受けれる
❖阿闍梨【歩く】◆『奈良坂・中尾坂』西教寺から飯室谷をへて横川へ慈忍和尚廟から飯室谷不動堂へ続く道◇西教寺から飯室谷をへて横川へ無動寺谷と並ぶもうひとつの本拠地である飯室谷を通り、横川の覚超僧都廟の南側に登りつく道。西教寺は天台真盛宗の総本山で、聖徳太子創建と伝わる古刹。比叡山で長く修行した真盛上人が入寺し不断念仏の道場として栄えた。西教寺の前から左の道で北上すると山際に石道標が見える。『松禅院参道近道』の道標。すぐ先には『飯室奈良坂』と刻まれた道標。いずれからでも先で合流する。
酒井雄哉大阿闍梨【口伝】❖阿闍梨の呟き1◆自分でも気づかぬところに「因縁」がある、◇自分でも気づかぬところに「因縁」がある僕は、五つくらいのときまで大阪の玉造っていうところで暮らしていた。その家には母方のおばさんたちが住んでいて、お山(比叡山)に上がるようになる前にそこを訪ねたときに面白いものを見つけたんだ。神棚に、虫食いだらけの変な仏像が置いてある。それが妙に気にかかって、おばさんに「これ、なに?」って訊いたらね、「あんたのお父さんが、事業に失敗して東京に逃げていったときに置いていっ
❖人生の羅針盤酒井雄哉大阿闍梨遷化から十一年「ただ、感謝だな……」最後に酒井さんにお会いしたのは、亡くなる3日前の9月20日だ。酒井さんが住職を務める大津市坂本本町の比叡山飯室(いむろ)不動堂長寿院を訪ねると、座椅子に腰を掛け、目を閉じていた。声をかけると、目を開き、ニコニコとほほ笑み、ひと言、ひと言、ゆっくり、ゆっくりと話された。「思考力がなくなってきたんだよなあ。痛みもなんもないんだよ。人間の体はうまくできてんねえ」いま、どんなことが頭に浮かぶかと聞いてみると、「そ
阿闍梨【外伝】一隅を照らす❖仏さまのお顔引用天台宗公式サイト法話集飯室谷不動堂長寿院仏さまのお顔(問)お寺巡りをしていると時々とても怖い顔をした仏さまにお目にかかることがあります。仏さまのような、といえば優しさの代名詞のようにいわれるのにどうして恐い顔をした仏さまがいるのですか。(答)そうですね。恐いお顔の代表としてよくお目にかかるのは「お不動さま」と呼ばれる不動明王(ふどうみょうおう)でしょうか。眼をカッと見開き、牙をむいた忿怒(ふんぬ)の相で、手には剣と綱を持ち背後には真
こんばんは3月10日(日)、滋賀県の飯室不動尊に行きました。行ったのは、1月28日(日)から2回目です。比叡山飯室谷不動尊所在地滋賀県大津市坂本本町飯室谷アクセスJR湖西線比叡山坂本駅より、行事開催日に無料送迎車あり。(9時〜10時40分の間ピストン運行)毎月第二日曜日と28日11時より護摩供があります。その時には、駅より無料送迎車があります。本尊不動尊こちらは外に祀られてました。左の狛獅子右の狛獅子不動尊様お参りしましたこちらは、お堂中には、金色の観音様がズラ
3/18はお誘い頂いて比叡山延暦寺飯室谷不動堂の『八千枚大護摩供』の8座と最終の9座に参加してきました2日間にわたり9座の護摩供養をお勤めなさった藤波大阿闍梨様は、1か月前から五穀と塩を断って、この八千枚大護摩供に臨んでおられたとのこと。大変な行(ぎょう)であり誠に有難く参加できたことに感謝致しますそして暖かった昨日とはうって変わり寒さの厳しい日でした。護摩木をくべられると炎がいろいろな形に変わり火が爆ぜ、鳳凰の形になったり龍のようになったり炎が
阿闍梨【外伝】❖信じる道を歩み続ける修行~藤波源信・比叡山飯室不動堂長寿院住職引用PHP言志録2018年09月28日公開2023年10月04日更新自分の信じた生き方を貫き通す千日回峰行は、比叡山の峰々を巡礼する修行です。志半ばで挫折すればみずから命を絶つという掟があり、天台宗の修行の中でも最も厳しい荒行として知られています。歩く距離は、一日30キロメートル。その合計は地球一周に相当します。行の中で最大の難関である「堂入り」は、9日間、不眠・不臥・断食・断水をしながら、十万
◇酒井雄哉大阿闍梨の仏縁【導きの師匠】小林隆彰師【学びの師匠】小寺文潁師【行の師匠】箱崎文應師【良き理解者】第二五三世天台座主・山田恵諦師【家族】【行の場】霊山院飯室谷不動堂【比叡山】一日一生(朝日新書)Amazon(アマゾン)続・一日一生(朝日新書)Amazon(アマゾン)この世に命を授かりもうして(幻冬舎文庫)Amazon(アマゾン)
◇行き道はいずこの里の土まんじゅう、、(天台宗五箇門跡三千院)いよいよ千日回峰行をすることになったとき、師事した箱崎師が僕に回峰行についていろいろ教えてくれながら、こんな句を贈ってくれたんだ。『行き道はいずこの里の土まんじゅう』どんな意味ですかときくと、『昔は、どこでも土葬だったから、人は死ぬと土に埋めただろう、あれを土まんじゅうと言ったもんなんだ』という。『お前が歩くこの先の道は、いつどこで土まんじゅうになってもかなわないという覚悟がいる。ここがお前の墓場かもしれないという気
傘マークで遠出は無理リードくんで近場をウロウロ坂本の滋賀院門跡から日吉台の奥へ琵琶湖が見えます。季節ハズレの桜?!その反対側にはあらうんど日吉台–千野・天満神社|hiyoshidai.nethiyoshidai.netそこから北へ西教寺を越えて着いたのは比叡山飯室谷不動堂(藤波源信大阿闍梨)祈祷と千日回峰の比叡山飯室谷不動堂(藤波源信大阿闍梨)。www.eizan-imuro.comいい感じのお寺さん護摩行をされてたので護摩木を寄進してお参り。そこからまた
2023/11/10(金)世界文化遺産「比叡山延暦寺」比叡山(標高848m)は、京都府と滋賀県の境にそびえ、山頂からは西に京都市街地、東に琵琶湖を望むことができます。同行したJ&BのUさん(寺院に関するデータベースをブログ「お寺の風景と陶芸」でアップされている)の説明とパンフをもとに改めて延暦寺の歴史などをおさらいした。古代より神山として崇められていたこの山に伝教大師最澄が788年に創建され、「日本仏教の母山」と呼ばれている。それは、ここで修業した多
◇いまここに立っているのは、経験、苦難を経てきたからこそ、(飯室谷長寿院水かけ観音)なぜ比叡山ではそんなに厳しい行ばかりさせるのか、とよく聞かれる。仏さんは厳しい状況に身を置いて四六時中、自らの欲望を絶ち、衆生のために尽くされたわけだから、自分たちもその仏さんに準じて、やはり欲望を経って、同じ境地に立たなければならない。同じ境地に立って、一体とならなければならない。仏さんの境涯にならなかったら、人を救うことはできない、というわけですな。それにしても、お釈迦様は、まだ王子様だったころから苦
◇【外伝】箱崎文應大阿闍梨③荒れ果ていた飯室谷長寿院に『箱崎阿闍梨』は入った。太平洋戦争が日本に不利になり始めた頃である。田んぼで米を作り、畑を耕す。精力的に箱崎師は動いた。北嶺大行満大阿闍梨となれば比叡山の高僧の仲間入りである。悠々自適の生活を送ることも出来るのだか、現実は厳しい。弟子も居なければ寺の住職として認められてないからであった。日々の生活に追われながらも、一方で再び「回峰行」を始めた。昭和十七年、大峯回峰にのぞんでいる。大峯山は女人禁制の修験の根本道場で厳しい修行ひとすじの山で
坂本ケーブルで比叡山に登ろうとしたら(今回は登山なしなのでw)上娘が大好きな京都アニメーションさんのアニメヴァイオレットエヴァーガーデンとコラボしてるらしくポスターや記念乗車券がありおおお~!と写真を撮ってLINEで娘に送りました快晴ではないからボヤボヤだけどwな比叡山からの琵琶湖宿泊者は無料だったけどここで巡拝料を払います宿坊(というかホテルだけどw)に行き荷物をおいて身軽になりまずはお義父さんお義母さんの三回忌のご回向に道すがらあった石碑阿
◇生き残ったのは、生き「残された」ということ、、(飯室谷長寿院)昔から勉強が嫌いでな。落ちこぼれだったんだ。小学校はさぼってばかり。出席日数も卒業するには半年くらい足りなかったんじゃないかな。まあ義務教育だから卒業さしてもらえんだよ。次に中学校入ろうと思って麻布中学を受けたら落っこちゃった。しょうがないから慶應義塾商業高校(夜学校)に入れてもらった。学校には入れたけど、相変わらず勉強に身が入らないから、案の定落第生でね。当時は太平洋戦争まっただ中。だんだん空襲も激しくなってきて、学校もい