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斎藤美穂。東京墨田区常泉寺所属の法華講員です。昭和53年2月生まれ。平成3年破門時に創価学会につく。平成5年創価高校不合格。平成5年母が自死。平成8年創価大学不合格。平成9年創価大学不合格。平成10年創価大学不合格。平成10年某栄養学校入学。平成10年6月栄養学校中退。平成12年顕正会入信。平成13年顕正会退会。それからゆほびかにはまる。平成29年日蓮正宗勧戒。創価の学び舎に執着していましたね。実は池田さんの大ファンでした。だから創価学会は「池田大作ファンクラブ」
おはようございます😊マツネコです…さて、我が家には、顕正会男子部の方が、主に日曜日の午後見えたり、「顕正新聞」が届きます昨日も届きまして、なんと滋賀県に「彦根事務所入仏式」執り行ったと。顕正新聞には、「日目上人の尊き足跡刻まれた滋賀こそ…」と見出しが…
今回は以下のトチロ~さんの邪義を破折していきます。日寛上人戒壇の「事」「義」4(文底秘沈抄)以前の私の記事『「本尊の所在の処は即ち是れ義理、事の戒壇に当たるなり」――文意を誤らないための整理』「本尊の所在の処は即ち是れ義理、事の戒壇に当たるなり」――文意を誤らないための整理以下は、本尊の所在の処は即ち是れ義理、事の戒壇に当たるなりの一文が、「戒壇…ameblo.jp『三重秘伝を教判として日蓮正宗の誑惑を完全に裁断す』三重秘伝を教判として把握する意義——
日蓮正宗法華講員であるトチロ~氏のブログ「日蓮正宗改革愛好家氏の邪義を斬る」に対する反論です。彼はX(ツイッター)上で、議論前には「誤りが分かればそれぞれ組織を辞めろ」と威勢のよいことを言っていましたが、私がブログで論破文を掲載すると、ブロックして逃げてしまいました。そこで、こちらのブログで論破・破折を継続しているのです。彼はまず、一般論としての「ストローマン論法」を長々と紹介しています。私のブログ「トチロ~氏の論法について」では、彼のことをストローマン論法と評価していますが
三重秘伝を教判として把握する意義——二門八年・理同事勝・位相固定・成立要件を手がかりに——この記事の論証の目的は、三重秘伝(本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇)を、末法下種仏法の成立の可否を裁定する教判原理として再定位することにある。三重秘伝を「信行の要素」と見る限り、その意義は倫理的・観念的説明にとどまる。しかし、これを教判として把握する時、それは法体の成立条件を裁断する基準となる。この記事の主張は三点に集約される。第一に、二門八年が在世熟脱の説相構
私の記事『定義を固定すると即死する――正本堂をめぐる宗門教学の詭弁体系』【結論】宗門信徒がX上で展開している言説の多くは、「正本堂=御遺命の戒壇」問題で発生した自己矛盾を、矛盾のまま温存するための詭弁体系になっている。【なぜ“詭弁…ameblo.jp以下は上記の私の記事に対する難癖です。齋藤英通@hidemitsuhs返信先:@hidemitsuhsさん、@MyouOn3さん、@saigonimousubeさん大聖人は、三大秘法の題目、本尊は顕したが、本門の戒壇
――成立要因の構造分析――幸福の科学型宗教手法とバズり文化から読み解く政治現象政治現象としての「高市政権」は、いかなる構造で支持を集め、拡散し、そしてどのようなリスクを内包しているのか。本稿が扱うのは、政策の是非や思想の左右ではない。支持が生まれ、膨張していく「仕組み」そのものである。分析の軸は二つに絞る。一つは、大川隆法・幸福の科学に見られる宗教的動員と権威利用の手法。もう一つは、レペゼン地球やインフルエンサー文化に代表される、現代のバズり文化――すなわち「注意(アテンショ
光有る所に影が有る………一つの方向からしか見なければ他の形は見えない…例えば三角形の形はその目線を上から見れば正方形の三角柱………例えばキリスト教基本キリストを神として信仰心を持つ人々しかし基本キリスト教も沢山の派閥に別れそれぞれが信仰心の基礎をどう持つかによってその派閥の基礎は変わる。そしてその中から例えば統一教会の様な徒花…否カルトをも生みだす…正直日本現在の日本に於いて一大勢力とも言えるのは創価学会…だろう日
かなり昔、まだ携帯がなかった頃の事だけど、外出中に高校の時の同級生から自宅に電話かかって来たよ。俺が不在中にかかって来たけど、何度もしつこくかかって来たよ。そいつと同じ名字の奴は何人もいて、電話に出たら最初に思い浮かんだ奴とは別の奴だったよ。そいつとは同じクラスになった事がなくて、接点もなくて、親しくもなかったし、そんな奴もいたなって程度の奴だったよ。そんな奴が何で高校卒業してから何年も経って忘れた頃に何度もしつこく電話して来たのか不思議だったけど、久々に会おうって事になって、そいつと久
御書・六巻抄に照らして破折す細井管長の訓諭さきに法華講総講頭池田大作発願主となって、宗内僧俗一同の純信の供養により、昭和四十二年総本山に建立の工を起せる正本堂はここに五箇年を経て、その壮大なる雄姿を顕わし、本年十月、落成慶讃の大法要を迎うるに至る。日達、この時に当って正本堂の意義につき宗の内外にこれを闡明(せんめい)し、もって後代の誠証(じょうしょう)となす。正本堂は、一期弘法付嘱書並びに三大秘法抄の意義を含む現時における事の戒壇なり。即ち正本堂は広宣流布の暁に本門寺の戒壇たるべ
日霑上人の文言と、宗門現在の決定的断絶――「事の戒壇」をめぐる論理の崩壊――総本山第五十二世日霑上人は、『三大秘法談』において、次のように明言されている。「未だ広布の時至らず実の戒壇建立なしといえども、此の処則ち是れ本門事相の戒壇にして、此の砌に一度も詣ずるの輩は、無始の罪障忽(たちま)ちに消滅して、三業の悪を転じて三徳を成ぜんこと、経文並びに大聖人の御金言、毛頭疑いなきことでござる」この一文を正確に読むなら、結論は極めて明瞭である。日霑上人は、「広布の時は至っていない」
https://kenshokai.org/post-412/顕正会が主張する「御遺命の破壊」はあったのか?に対する反論顕正会が主張する「御遺命の破壊」はあったのか?【破折】「御遺命の破壊は無かった」と言うための、時間軸のすり替え本稿の相手文は、要するにこう言いたいだけである。「昔は正本堂を御遺命の戒壇と見る雰囲気があった。しかし昭和45年の顕正会の諌暁で“リセット”され、その後は宗門は一貫して否定的だった。だから“御遺命破壊”など存在しない。」しかし、この筋書き
日蓮正宗では一月は唱題行を積極的にやろうと推奨している。私がこの唱題行をやりだしたのはつい最近だ。正直、朝から五座の勤行やるだけでいっぱいいっぱいだった。それも、顕正会時代の〝こころ〟でやってしまう。顕正会時代の〝こころ〟とは、『やらねば罰が来るからやんなきゃ』ってこと。そんな恐怖信仰は、本当の意味での勤行じゃない。観念して御供養を申し上げる、『今日も頑張ります』と純粋な気持ちでするのが本当の勤行なのに、七年間の私の勤行は、顕正会時代の心持ちのままだった。そんな苦しい勤行を七
「事の一念三千」と「事の戒壇」を混ぜると話が壊れるここは一度、足場を固めておく。いま宗門信徒がやっている議論は、「事」という文字が同じだというだけで、別物を同じものとして扱う事で教義を惑わしている。こちらがそこに巻き込まれると、議論は一気にぐちゃぐちゃになる。(実際Xでの文証合戦はその「事」を巡るものだ)ついでに言わせて頂くと、ただ文証を引けばいいかの如く、御書をちらつかせる法華講員達だが、それが御書の御意、道理を分かっている証拠にはならない。御書を持っていながら、文証を引き
顕正会を脱会して八年目。ようやく日蓮正宗の信心に目覚めて来た感じがする。邪魔するんだよね、顕正会のときの間違った考え方が。亡くなった浅井会長の〝ご指導〟とやらが重なってしまって苦しかった。だからお寺に行くその足が重くて重くてくるしかったんだ。一聞すると同じように聞こえたりするから。だって、亡くなった浅井会長は正宗の真似をしているだけだから。でも、浅いんだよね、浅井会長だけに笑。もっと深く、しかも正しく腑に落とすには、正しい理解をするには、私はあまりにも未熟だったんだ。あとね、
正本堂の建立にあたって宗門が持ち出した「法体に約した事の戒壇」という表現は、単なる教学上の間違いなどではない。それは、訓諭という日蓮正宗に於いて最高権威の文書において、あらかじめ「二重の解釈」を可能にするよう精密に設計された、極めて政治的なレトリックであった。この表現の巧妙さは、一方で「御遺命の戒壇そのものである」という幻想を学会員に抱かせ、組織の士気を最大化させる一方で、他方では「実体は奉安殿(蔵)に過ぎない」という教学上の逃げ道を確保した点にある。すなわち、断定を意図的に回避し、一つの訓諭
定義を固定すると即死する――正本堂をめぐる宗門教学の詭弁体系【結論】宗門信徒がX上で展開している言説の多くは、「正本堂=御遺命の戒壇」問題で発生した自己矛盾を、矛盾のまま温存するための詭弁体系になっている。【なぜ“詭弁”が必然になるのか(構造)】宗門は、取り消せない履歴を背負っている。①発願式~昭和40年代:・創価学会と日蓮正宗は一体となって、正本堂を「事の戒壇」「本門戒壇」と公的に讃嘆・断定した(僧俗ともに)。②昭和47年訓諭:・しかしそこで定義が「法体に約
おはようございます😊マツネコです😊年末の話なのですが…なんと、マツネコは、顕正会の男子部員と、自宅の玄関先で対話致しました!相手の顕正会男子部員は、平成6年産まれで、急性白血病を、信仰で乗り越えた体験がありますので、マツネコは、「公明党と臍帯血移植」の話を致しました。それ以外の組織的な話はしていません。
明けましておめでとう御座います㊗️🎊そして今日で正法帰依してちょうど6年です。という事でYoutubeの方にも1年以上ぶりに顔出し配信動画を上げました!ゴジグラの活動の失敗で顕正会の謗法の害毒に気付き正法帰依して6年!人生が大きく変わり櫻井智姉さんのお塔婆供養も叶いました!【正法信心体験談】-YouTubeYouTubeでお気に入りの動画や音楽を楽しみ、オリジナルのコンテンツをアップロードして友だちや家族、世界中の人たちと共有しましょう。youtu.beタイトルにも
「五百万学会員を救わん」特集号3学会部分抜粋顕正新聞社出典:https://kenshoshimbun.com/issue/251005_5hnd-septendecillion3.html本日の総幹部会も一人ひとりの登壇に胸を打たれ、大感動いたしました。地涌の菩薩続々といま学会員が動執生疑・断疑生信する展開が至るところで起きております。このように学会員が続々と正義にめざめ、大歓喜で立ち上がってくる姿は未だかつて見ぬところです。これ、大聖人様が入阿鼻獄となる五百万学会員を救い
「秘伝」「血脈」を盾にした論点逸脱――日精上人文献の誤用と、戒壇論すり替えの破折近時、宗門側論者は、戒壇論において劣勢に立たされるや、突如として日精上人の文献を持ち出し、「秘伝」「血脈」「大石寺付嘱」なる語を並べ立てることで、あたかも議論の決着がついたかのように装う手法を繰り返している。しかし、これは論点の転換(すり替え)に他ならない。一、そもそもの争点は「戒壇の事と義」である現在の争点は一貫して明白である。それは、細井管長訓諭に見る「御本尊所住の処が、現時点で直ちに『事の戒
これは、論点が多層に絡み合った典型的な「論点すり替え型の誤読」です。感情論ではなく、構造をほどいて整理します。まず結論から。顕正会は「三大秘法が未完成」とは一切言っていません。ここがこの論の最大の虚偽です。①「事の戒壇=国が運営する建物」という前提自体が誤り顕正会が言う「国立戒壇」とは、国家が仏法を護持する立場に立つという政治的・社会的次元仏法の正義が国是となる事の広宣流布の到達点を指しており、「国家運営の施設を作れば完成」などという建築行政論ではありません。これは
『報恩抄』に示される「理同事勝」の誑惑構造と、学会・宗門の国立戒壇否定(正本堂問題)―構造類似性による破折―本稿は、『報恩抄』が破折する理同事勝の「誑惑の構造」を一つの型として捉え、細井管長以降の学会・宗門による国立戒壇否定を、両者を同一構造として、一貫した論理で立証することを目的とする。核心は、「事を理に溶かす/押し込める」という破壊手口にある。序論――否定によらず、了義を失効させる誑惑『報恩抄』において日蓮大聖人が破折されているのは、単に「真言は誤りである」という教義批判にと
本段は、奇瑞・霊験・権威といった外在的要素に依らず、法の邪正はあくまで「法そのもの」によって決定されるべきであるという判定基準を確立し、その帰結を題目肝心へ収斂させる部分である。ここに示される骨格は、徳相によって正邪は決しないこと、典拠と道理によって検証すべきこと、そして最終判定は了義たる法華経によること、この三点である。一「徳」による信の強要まず提示されるのは、弘法にまつわる諸徳・霊験を列挙し、それほどの徳ある人物がなぜ悪道に堕するのかという形で信を迫る論法である。しかしこの
「本尊の所在の処は即ち是れ義理、事の戒壇に当たるなり」――文意を誤らないための整理以下は、本尊の所在の処は即ち是れ義理、事の戒壇に当たるなりの一文が、「戒壇が義から事へ転換したことを決定づける根拠」と誤読されることを防ぐための整理である。一まず結論この一文は、「今すでに戒壇が事として成立した」ことを示す文ではない。日寛上人が「事の戒壇」と記されたのは、どの戒壇(どの範疇)の話題であるかを区別するためである。したがって、この文をもって「本尊の所在が直ちに事の戒壇となった」
ふ『報恩抄(その四)』要点整理――混淆の果報と末法の逆転(奇瑞・権威・世間の錯覚を破す)本段は、教義の誤りが「個人の見解の違い」で終わらず、社会全体の荒廃として噴き出す構造を、史実・譬喩・経文によって立証する段である。ここで焦点となるのは、正邪の基準が経文から外れ、「奇瑞」「権威」「制度」に置換されていく過程、および、その帰結としての末法の“評価の逆転”である。1)冒頭:叡山の系譜で観る「混ざり方」の進行伝教大師の時代を起点に、後代に進むほど「名目」と「法門」が乖離し、混淆が深まる様が
『報恩抄(その三)』要点整理――顕密混淆(真言優位)への転落を、証拠と矛盾によって解き明かされる段――本段において日蓮大聖人は、日本天台が「真言優位」へと傾斜していった過程を、感情的な非難によってではなく、厳密な証拠と論理の矛盾によって解体し、筋道立てて示されています。その論証の運びは畏れ多いですが、きわめて冷静論理的であり、立証の積み重ねによって結論へ至る迫力に圧倒されます。0)この段の主題本段は、「法華経こそ一切経の最上である」という確定(その二)を前提として、その原理が日