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こんにちわ本来の光を見出すサポートスピリチュアル・セラピストのいしだようこですご訪問下さりありがとうございますプロフィール/体験会MENU/体験者様の声/お問い合わせ/アート一覧福井の桜の名所は足羽山、足羽川桜並木、丸岡城、西山公園……などありますが、本日は、丸岡城の桜を見に行ってきました♡昨日の雨風で散ってしまうかなぁ…と思っていましたが大丈夫でした少し葉桜になっていましたが見頃でしたねとても綺麗で満喫してきました広島
4月6日(土曜日)福島県内ようやくソメイヨシノの開花宣言が聞こえ始めました夫yoshidon今日は休日出勤なので独りカブでお花見に行って来ました前日までの天気予報では一日晴れだったのに・・・空は雲に覆われています遠くは諦め近場で何処かないかな?早咲きの河津桜まだ咲いてて良かった(^^♪道を進み下った先には色鮮やかなビタミンカラーの菜の花畑西谷棚田の北側にある龍泉寺さんへ初めて行ってみました目にとまった大きな桜の木てくてく歩いて高台
名称:二本松城(にほんまつじょう)別名:霞ヶ城、白旗城城郭:梯郭式平山城築城年:室町時代中期築城主:二本松満泰改修者:丹羽光重主要城主:二本松氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏所在地:二本松市郭内3指定文化財:国史跡日本100名城二本松少年隊像箕輪門本丸石垣案内図
名称:山形城別名:霞城、霞ヶ城城郭:輪郭式平城築城年:1356年築城主:斯波兼頼改修者:最上義光、鳥居忠政主要城主:最上氏,鳥居氏,堀田氏,秋元氏他所在地:山形市霞城町1指定文化財:国史跡日本100名城水堀二ノ丸北不明門二ノ丸東大手門土塁本丸一文字門大手橋本丸一文字門本丸堀、石垣伝移築書院(宝光院本堂)伝移築城門(萬松寺山門)
※2024年1月6日訪問※奥州探題【畠山氏墓所】を参拝させて頂きます✨正面が、初代高国から12代義継までを祀る畠山氏累代の墓碑非常に立派な墓碑で【奥州探題畠山家墓】と刻まれてます初代高国から12代義継までの歴代当主の名前が刻まれています✨こちらには、二本松氏を名乗った13代以降の名前が刻まれていました✨墓碑についての碑文も有りますね墓碑の両脇には、12代義継と共に『粟ノ巣の変』で散った二本松家の家臣達の墓石が整然と並んでおり、今でも畠山氏の側で主君を支えているようにも見えました✨
※2024年1月6日訪問※称念寺さんの本道西側に有る【畠山公墓所】へと向かいます✨【畠山公墓所参道】と彫られた石碑が建てられていますね✨石畳に沿って坂道を登って行きます🚶坂道を登りきった平場には【奥州探題畠山家墓所】の案内板が建てられていました✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼奥州探題畠山家墓所南北朝の頃、(1340)北朝方より奥州探題として入国した畠山高国公を初代城主とする畠山家は、その後11代義継公が伊達政宗と戦い討ち死に、翌年落城するまで約240年続きました。義継
※2024年1月6日訪問※福島県二本松市本町の【二松山称念寺】さんを訪れました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼1185年(文治元年)、尊道によって開山された。当初は法相宗の寺院であったが、後に時宗に転宗している。1586年(天正14年)の二本松城落城の際に、陸奥国信夫郡大森(現・福島市大森)に避難したが、江戸時代初期に二本松藩藩主丹羽光重の城下町整備の際に現在地に移転した。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲陸奥国・二松山称念寺(二本松市)畠山氏墓所▲①に続く
※2024年1月6日訪問※大手道のすぐ側には、三ノ丸への通用門として使用されたと考えられる【遠裡門】が建てられていました✨【遠裡門】の案内板が設置されていますね▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼遠裡門三ノ丸御殿跡の東辺にある門で、幕末期の絵図に「遠裡門」と記されており、三ノ丸への通用門として使用されたと思われる。この門の東側には本丸へ続く大手道が描かれている。調査の結果、花崗岩製の長方切石の階段が検出され、この部分が平場への出入口であったことが絵図から読み取れる。▲▲▲▲▲▲
※2024年1月6日訪問※元坂御殿跡の石垣下には、二本松城の【大手道】が通っていたようです▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼大手道現存の石階段に沿って通路の縁石が検出されたことから、箕輪門付近の大手道の位置がほぼ特定された。平成29年度に埋没石垣を露出させる整備を実施し、江戸期の景観を復元した。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲◆陸奥国・二本松城(霞ヶ城)遠裡門跡/国指定史跡◆に続く
※2024年1月6日訪問※二本松城南西部に位置していた【元坂御殿跡】まで降りて来ました遊歩道を降りて行く途中、何やら城郭建築のような建物を発見調べてみると、現在は使われていないようですが、鯱の乗ったその姿は、元坂御殿の遺構かと勘違いしてしまうような建物でした元坂御殿跡には立派な石垣も残されていますね✨近くには【元坂御殿と大手道】という案内板が設置されていました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼元坂御殿跡三ノ丸御殿跡の東方高台の平場にあり、通称「姫御殿」、幕末期の絵図には「新御
※2024年1月6日訪問※松森舘跡から遊歩道を降り、城跡の南東部へと歩いて行きます遊歩道の途中に【城内路】の案内板が建てられていたので確認してみましょう【城内路】▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼城内路急な斜面を登るため、つづら折りに造作された通路。寛文年間(1661~1663)引水の二合田用水により途中で寸断されているため、古い時期の通路であろう。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲分かりにくいかもしれませんが、画像の左、右、左といった形でつづら折りの道が上部に続いてい
※2024年1月6日訪問※二本松城の東の防備の要となっていた【松森舘跡】までやって来ました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼松森舘会津領時代、東城と西城がおかれた時の東城にあたる。上下2段の平場にわかれ、下段では周囲に掘立柱塀跡や桁行6間・梁間2間(116×72m)、南面と北面に庇がつく掘立柱建物跡が確認されたほか、多くの柱穴が切りあっていることから数回建て替えられたことがわかる。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲案内板の他に【松森館】の標柱も建てられていますね✨◆陸奥国
※2024年1月6日訪問※本町谷御庭~洗心亭~本宮舘~搦手門~新城舘~堀切~空堀~土塁と二本松城の西側と北側の遺構を回って来ましたこの後は二本松城の東側の遺構を見て行きたいと思います本丸跡の石垣を見ながら遊歩道を降り【煙硝蔵跡】へ🚶【煙硝蔵】の案内板が建てられていますので、確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼二本松城址煙硝蔵平成15年度の発掘調査で、直方体の花崗岩を長方形に並べた建物跡が発見されました。この内2棟(1.3号建物跡)は大きさに少し差がありま
※2024年1月6日訪問※空堀付近に残る【土塁】も見て行きましょう現在は低くなってしまっていますが、城の北側を守る堅固な土塁が築かれていたと推測されます✨【土塁】の標柱も建てられていますね✨ちなみにですが、初めて二本松城を訪れた際、二本松駅からタクシーを利用したのですが、この土塁脇の細い道を通って、本丸側の乙森跡で降ろして頂きました個人的に二本松城は難攻不落の《山城》というイメージだったので、搦手門付近やこの土塁周辺まで道路が整備されている事に少し驚きましたが、アクセスしやすいという意
※2024年1月6日訪問※本丸北側の堀切から更に北側へ🚶すると見えてくるのが【空堀】の標柱です案内板などは設置されていませんが、人工的に掘られた地形を確認する事が出来ました✨◆陸奥国・二本松城(霞ヶ城)土塁/国指定史跡◆に続く
※2024年1月6日訪問※【奥州探題畠山氏居城霞ヶ城址碑】を過ぎるとすぐに【本丸石垣】が見えて来ますほとんどの方がこの雄大な石垣を見学し、本丸跡へと登られますが、この本丸石垣は前回訪問時にじっくりと堪能させて頂きましたので、今回は本丸の北側にある堀切などの未訪問の遺構を優先的に見学して行きたいと思います壮大な石垣を眺めながら、城跡の北側へ🚶すると【堀切】の案内板が見えて来ました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼堀切本丸北側へ延びる尾根を切り、堀状にした敵の侵入を防ぐ為の施設。
※2024年1月6日訪問※新城舘跡から搦手門跡を経由して本丸へと登って行きます途中に見えてくる巨大な石碑は【奥州探題畠山氏居城霞ヶ城址碑】です▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼奥州探題畠山氏居城霞ヶ城址碑当記念碑は、昭和28年(1953)に施工された本丸入り口左側石垣修復を記念して、畠山氏末裔である二本松氏により、昭和30年に入り口左側に建立されました。平成7年(1995)本丸石垣修築復元工事の完成に伴い、当所に移設しました。▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲▲天正1
※2024年1月6日訪問※新城舘跡の北側には【二本松少年隊顕彰碑】が建てられています✨【二本松少年隊顕彰碑】の案内板が建てられていますので確認して行きましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼二本松少年隊顕彰碑この場所は「少年隊の丘」と呼ばれ、戊辰戦争直前まで少年たちが砲術の稽古を行った場所といわれています。当碑は、昭和15年(1940)の紀元2600年記念事業にあたり、出場した少年隊の顕彰を目的に、二本松町が建立したものです。碑表面は、旧二本松藩主丹羽家16代当主丹羽長徳の揮
※2024年1月6日訪問※二本松城の西の防備を担っていた【新城舘跡】までやって来ました▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼二本松城が会津の支城であった時代、城主に代わって城を守る城代が二人置かれていた時期がありました。慶長6年(1601)~寛永4年(1627)会津領主蒲生秀行・忠郷のときで、2城代がそれぞれ二本松城内の東城と西城に詰めていたと記録にあり、ここ「新城館」はその西城にあたります。平成10.11年度の発掘調査の結果、大規模な掘立柱建物跡や平場を取り囲む掘っ立て柱塀跡も確認
※2024年1月6日訪問※二本松城の【搦手門跡】を進んで行きます先程の案内板とは別の【搦手門跡】の案内板が建てられていました✨【搦手門跡】▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼搦手門跡城の裏面にあたる門のことで、現在は石垣および門柱を建てた礎石を残すばかりです。この門は、二本松城始築時の慶長初期(1590年頃)に建てられ、その後に何度が修改築されたことが絵図等でわかります。一般的に、城は敵に対する正面(大手)の防備は堅固ですが、裏面(搦手)はそれに比べて弱いところから、この語の起
※2024年1月6日訪問※霞ヶ城公園西側の遊歩道を登り【搦手門跡】まで登って来ました山の上に広大な石垣が詰まれている光景は圧巻です非常に立派な石垣です門跡の反対側にも石積を確認する事が出来ました✨【搦手門】の案内板が建てられていますので見てみましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼搦手門この場所は近世の搦手門があった場所です。城の正面を大手と呼ぶのに対して、裏手を搦手と呼びます。平成13年度発掘調査の結果、新旧2時期の門跡が確認されました。第一期は掘立柱の冠木門(
2月9日(金)🌞朝ん歩は久しぶりの丸岡城🍁は3回目かな撮影ポイント天守閣に入るには料金がかかります周囲散歩は無料丸岡城の別名は『霞ケ城』芝生をクンクン有馬家って何やろ?主な城主のひとつだったらしい🍁が楽しみにしていた錦鯉がいる日本庭園がなくなってた新しい施設を作ってるんだとさ🥲残念…力尽きた😪
※2024年1月6日訪問※二本松城の南西部に位置していた【本宮舘】です城の南西部を守る、一つの曲輪として、広大な平場が広がっています✨【本宮舘】の標柱と案内板が建てられていますので確認して行きましょう✨▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼本宮舘天正年間(1573~1592)、二本松城主畠山氏に仕えていた領内の本宮城(菅森城)の城主氏家新兵衛と遊佐丹波守が二本松城に詰める際の居館であったと伝えられています。発掘調査の結果、尾根の頂部を平坦に削り、東西側へ盛土整地して平場を造り、さ
※2024年1月6日訪問※洗心亭を見学し、さらに坂道を登って【丹羽霊祠殿】までやって来ました二本松城の南西部をとり囲む尾根上に位置する平場で、現在は、昭和16年に東京の旧二本松藩主丹羽邸宅から移された丹羽霊祠殿が建てられています歴代の二本松藩主が祀られている建物との事です◆陸奥国・二本松城(霞ヶ城)本宮舘跡/国指定史跡◆に続く
※2024年1月6日訪問※二本松市指定天然記念物の【霞ヶ城の傘マツ】です【ふくしま緑の百選霞ヶ城とカサマツ】の石碑も設置されていますね✨【霞ヶ城の傘マツ】の案内板が設置されていますので、見て行きましょう▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼▼八千代の松といわれるアカマツの巨木で、根元周囲3.0メートル、目通り幹囲3.9メートル、樹高約4.5メートルあり、地上1.6メートルで三枝している。南の支幹は枯死し、中央の支幹は周囲2.2メートル、北の支幹は1.5メートルあり、東西に約14メート
今日は所用で二本松市に所用はすぐ済んだんで二本松のシンボル・霞ヶ城をブラリいい天気だ戊辰戦争の悲話のある二本松少年隊の群像を見たり丹羽氏居城の霞ヶ城の箕輪門を見物したり。閑話休題ここ二本松では節分の時に「鬼はソト~」ってしない。お殿様が「丹羽(にわ)」様だから「おニワ、ソト~」は不敬だからと「おにぃ~、そと~」っていうそうだ。
こんにちわ~モンローママです(*'▽')ご訪問ありがとうございます2024年お出かけモンローブログのスタートは~11月の福島~茨城への旅行記を綴っていきたいと思います相変わらずお写真多めですがよろしかったら見てってくださーいまずは・・・この旅行の一番の目的でもあった場所へ~11月初め~東北の秋を彩る菊の祭典福島県二本松でこの時期開催されている、菊人形まつりへ行ってきました二本松
朝食白石城🏯場内でスタッフの方が親切でいろいろ説明してくれました車内で前日にパパのオススメで買った笹かま・大漁旗1個330円お高いけど美味しかったです二本松城🏯(霞ヶ城🏯)紅葉キレイでした🍁二本松の菊人形菊人形の今年のテーマは徳川家康キレイで見応えありました二本松へ旅行されるなら菊人形開催時オススメします磐梯熱海温泉ホテル華の湯🏨お部屋9階ロイヤルフロア檜風呂🛀シャワー🚿2ヶ所、洗面2台、トイレ2ヶ所、TV2台…大家族用のお部屋でした実は旅行の前にホテルから連絡が
2023.10.2.初二本松城へ奥州街道の要衝。慶応4(1868)年、戊辰戦争二本松の戦いで、二本松少年隊の悲話が有名です!少年隊と言えば、会津の白虎隊が有名ですが、それよりも若い14歳前後の子供達が、果敢に戦い戦死した!悲しい物語がココにはありました戊辰戦争。二本松の戦いにおいて、藩の兵力は仙台などの応援兵を合わせても僅かに約1千人、それに対して薩摩・長州・土佐などの西軍は約7千人、徹底抗戦の末、奥羽越列藩同盟の信義のために貫いた二本松藩の守信玉砕
二本松霞ヶ城に行く前に、新しくできた「二本松歴史館」に寄りました🏯二本松の歴史の勉強です🤗二本松ちょうちん祭り和紙の菊人形畠山氏の築城霞ヶ城の城下二本松藩丹羽家の家紋です「二本松少年隊」の悲劇火縄銃体験なんと「二本松県」が存在していたのは、わずか12日間だったそうです😲全景です