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徳島県の防空監視哨巡りも残り県南の3件を残すのみとなりました。県南のダニは怖いので12月を過ぎもう大丈夫かと思い今回訪問したのですがシダは生き生きと茂っており、ダニも茶色いの黒いの、小さいの大きいのが生き生きとしており、シダ群を通り抜ける度に取り付かれていました。いつもは監視哨と付近の三角点はセットで撮るのですが今回三角点は断念しました。その他の画像は続・徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定にて追加で更新しています。↑20251217↑退避壕内部↑休憩所基礎部コンクリートブロッ
徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定の方がアメブロ文字数制限に成り、こちらで引き続き補足します。宍喰防空監視哨(一番)↑監視哨跡米軍撮影1947/10/13(昭和22年)M552-299より抜粋拡大加筆日和監防空視哨(民~軍)↑監視哨跡米軍撮影1947/10/13(昭和22年)USA-R528-1-2より抜粋拡大牟岐防空監視哨(民~軍)鷲敷防空監視哨↑米軍撮影1947/08/17(昭和22年)A-M414-34より抜粋拡大加筆右移転前左
「真珠湾攻撃1階級特進」で検索すると1942年1月16日付の神戸新聞朝刊1面が出て来ると思います。その左下の方に三人の県人の名前が見受けられますが、その内の一人の立派な墓が防空監視哨の在った地に建っています。直ぐ傍には親族と思われる方の墓も有りそちらの方は陸軍で、私の叔父が戦死した場所と日も近くもしかすると知り合いだったかも知れません。さて、真珠湾攻撃で戦死された方ですが、昭和13年10月に第二期甲種飛行予科練習生として横須賀海軍航空隊に入隊を経て卒業するに当り海軍航空優等章を享し、以来航空母
前回の訪問より余り日が経っていませんが再再訪問です。前回、メモ用紙とメガネを紛失、今回メモ用紙は回収出来ましたがメガネは依然行方不明のままです。笹藪で弾き飛ばされてそのままです、涙。もし見つけられた方がいましたらそのままゴミとして処分して頂けましたら幸いです。今回、聴音壕跡の場所特定の写真を撮りに行って来ました。現在は完全に埋められていますが場所的に日和佐、鷲敷級の3メートル程の聴音壕であったと思われます。今回も12月も過ぎたのに散々ダニにたかられました。その他写真は徳島県の防空監視哨巡りたま
今回は再び川島監視哨へ訪れました。前回夏、旧傷痍軍人徳島療養所前から古墳を見つつ東禅寺山系を縦断していたのですが、藪が険しくなるにつれダニが増えるわ大きくなるわで大変でした、なんとか東禅寺山のピークまでたどり着いたのですがもう藪に入る気力、体力無くその日は調査終了。帰り際に脱水症と熱中症で倒れてしまい、通りすがりの方に救急車を呼んで頂き事無きを得ました、M様ありがとうございました。今回はその縦走の続きで東禅寺山奥まで進みましたがまだダニが多く居ました。引き返し聴音壕の在ったピーク付近で調査しまし
本日再訪、移転前の秋葉神社には初めて訪れました。毎年11月23日に子供相撲が行われている様です。今回、聴音壕付近に鹿が居て突然鳴き出してその大きな声に驚きました。更に前回と違い暑さは大丈夫でしたが、沢山のダニの洗礼を浴びる事となりました。鷲敷・那賀郡那賀町小仁字大坪旧那賀郡鷲敷町秋葉山上(移転前)昭和13年県の指示により設置、秋葉山上に哨舎を造る。移転前の位置ですが下記の米軍撮影の写真を基に現地調査したところピーク付近では無く神社境内で間違いないと思います。昭和14年小仁
今回は2件、橘監視哨と小野監視哨を巡って来ました。橘と小野、両方全く所在が分かりませんでしたが橘はまたまたサークルたまや様の調査を参考に、小野は地元在住のM様、S様より情報を頂きまして更に一緒に同行して頂きまして現地を確認する事が出来ました。その上、監視哨よりの眺望写真も御提供頂きました。この場になりますが大変ありがとうございました、引き続き宜しくお願い致します。眺望写真も含め、その他写真は徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定の方に追加で掲載しています。↑橘監視哨20251023
今回は眉山、山頂に在った徳島監視哨に行って来ました。監視哨は丁度パゴダの塔辺りに在りました。訪問の際は曇りで少し残念でしたが晴れた日にまた来たいです。哨員だった湯浅泰治氏の記録では7月3日夕方、5時頃8名でいつものごとく食料品、薪炭、飲料水等、各自背負い天神社より一時間弱かけて登り先の班と交替し灯火管制下の市内を見て立哨していたら21時頃高松が空襲されその後23時40分頃から徳島も猛爆され3時間ほど続いたそうです。その際は茂助ケ原に多くの人が避難してきたそうで、空が明るくなり下山していると
本日は池田、三名監視哨を巡って来ました。池田監視哨に関しては全く不明でしたが昨日たまたま「サークルたまや」様のネット記事を見つけ本日二件巡る事が出来ました、三名監視哨ですが地主のO様にお会いする事が出来、また、本日の地域のお祭にも参加させて頂きました。この場にてになりますがすが御両名の方、本当にありがとうございました。それと今回の三名監視哨ですが三名村史の記述に別途追加して記入しておきます。その他写真も徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定の方に記載していますので宜しければご参照ください。
本日、椿泊の防空監視哨へ行って来ました。監視哨としてネット初掲載です。コンクリート製の哨舎に退避壕、深い切り込み等の遺構が現存しています。聴音壕自体は見受けられませんでしたが、切り込みが聴音壕と退避壕を兼ねているのでは?その他の写真は徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定の方で掲載しています。↑20251002↑窓ガラス片↑一升瓶多分戦後品↑歩哨詰所基礎鉄筋↑入口足元
久々の日ノ峰山の訪問です、この地は本土決戦の重要地点の様で一帯に地下壕やトーチカが現存しています。菊水、護土部隊が展開、その辺は別途ブログに書いていますので興味有りましたら覗いて見てください。今回は監視哨調査と言う事を念頭に訪問、山頂の蛸壺陣地と思っていた大穴の跡、おそらくは聴音壕跡だと思います。大きさや雰囲気的に山城谷の大穴の跡とよく似ています。ここから下って三角堂跡付近に菊水旅団通信隊が展開、この三角堂ですが劔山本宮遥拝所(大正14年9月)の碑の隣の今は階段のみ残っている空き空間が三角堂跡と
本日、徳島県の防空監視哨二基、鷲敷と平谷の探索に行って来ました。鷲敷の方は先に徳島市立考古資料館様より戦争の記憶展で紹介されていました写真の通り現存する事は分かっていましたが、平谷の方は上那賀町誌に一言「役場裏山に平谷監視哨を設置」の文言を頼りに在るのか無いのか、はたまた何処に在ったのか全く何も分からない状態で探索、結果、平谷もその存在を確認する事が出来ました。日和佐や鷲敷の様なほぼ完全体に近い形では有りませんでしたが80年の歳月を考慮しても十分その形を留めている方では無いでしょうか?造りは先
今日は下関市豊浦町川棚の谷吉地区に残る防空監視哨の「聴音壕」を訪れます。地図で場所を示します。防空監視哨の説明は下記リンクにて。『山口県の戦争遺跡30-2~山口県下に残る防空監視哨』※2021年6月14日に投稿した記事を書き直し戦前・戦中にかけて山口県下には民間による「防空監視哨」が数多く設置されていたが、まずは「民防空」について説明す…ameblo.jp*****************************「聴音壕」は住宅が密集する谷吉団地の西側高地に残っています
※2021年6月14日に投稿した記事を書き直し戦前・戦中にかけて山口県下には民間による「防空監視哨」が数多く設置されていたが、まずは「民防空」について説明する。1.民防空について航空機は第一次世界大戦(1914-18,大正3-7年)で初めて登場したが、その後飛躍的な進化を遂げて戦略的に重要な役割を果たすようになったため、遠隔地から飛来する「空襲」への対策を講じる必要に迫られた。そこで軍部は本土を守るべく、高射砲や見張所を日本各地に置いて敵機を撃退する防空体制(軍防空)を確
[防空監視哨]神戸製鋼中津工場大分県中津市大字永添2065番地(永添運動公園)大分県中津市は明治期後期には繊維工業分野で栄えていた。北九州から比較的近く、交通の便も良いし、労働者も多くいたことから、戦時中は複数の軍需工場が点在していた、とのこと。昭和18年頃に三機工業中津工場、そして特に大きかったのは神戸製鋼中津工場(中津市大字永添2602番地)で、陸軍航空本部の要請で主に航空機用ジュラルミン板を生産していたようだ。工場内には引き込み線もあった。防空に関しては分厚い計画書が残って
徳島市立考古学資料館にて開催中です。当方、今回初見の新資料の展示にて非常に為になりました。眉山トーチカの写真はネット掲載上、最新です。撮影にあたり、付近を清掃したとの事で東西トーチカ区別用の青いビニールシートゴミは撤去されていました。当方が発見した金具類はその後どうなったのか気になる処ではありますが・・・。今回は徳島市に焦点を当て、他は省いたとの事です。考古学資料館の直ぐ西隣には横穴古墳が在り、大戦中は徳島連体区司令部(現国道11号線横の合同庁舎)が重要書類を疎開させ執務も行ったそうなので
今から丁度80年前の1945年7月4日の午前1時24分から3時19分にかけて徳島の町が焼き尽くされました。下記の図は復員者の為に約300部が作られ占領軍指定の引揚港を中心に大型の引揚船や各都道府県の引揚相談所当に複数配布された様です。国立公文書館デジタルアーカイブにて全国主要都市戦災概況図を見る事が出来ます。全国主要都市戦災概況図昭和20(1945)年12月、戦災の概況を復員帰還者に知らせるために、第一復員省資料課によって、全国主要都市戦災概況図は作成されました。まえがきには、当時帰還
備忘録昨日の撫養に引き続いて本日は三箇所回りました。山城はこの時期なので一部藪漕ぎする場所が有りましたが四駆車ならそのまま頂上迄一気に駆け上がる事が出来ると思います。二等三角点の直ぐ傍に直径3m程の穴が埋もれながらも残っていましたが聴音壕跡?他にも掘り込み跡が見受けられました。立派な建物は無く、土を高さ1メートル、直径3メートルほどのドーナツ型に固めた、ただそれだけの場所が監視哨だったそうです。三角点より手前の中央辺りにその監視哨が在った様ですが、直ぐ傍の大きな穴が気になるところではあ
文字数制限に成りつつあるので続・徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定にても追加で更新します。備忘録徳島県の防空監視哨敵機発見の際は本部へ発見方向、敵見方の別、機種、機数、高度、進行方向を報告。平素の訓練成果は西部軍昭和19年7月以降では中部軍管轄下において撫養が最優秀。徳島本部は一番宍喰に始まる一九カ所の監視哨からの通信を受け、大阪の中部軍(大阪城本丸南に司令部)と善通寺本部(第十一師団)に指揮連絡や監視哨からの定時の気象情報を送る。徳島県には19箇所の防空監視哨が在った様です
[青海島]高山防空監視哨整備された道。高山の山頂(319ⅿ)を目指して歩く。-山頂間近になると展望が開けるごろっとした岩を過ぎたら、右に厠(監視哨の付属?)、左に監視哨がみえる。-防空監視哨設置された看板太平洋戦争中、軍の命令で地元の学生たちがブロックなどの資材を運び積み上げて監視哨を作ったことや、学生たちが班に分かれて当番制で寝泊りをしながら夜通しで見張りを行い、敵の戦闘機が飛来した際には、光を照らしてその動きを追っていた・・・・「戦闘機が飛来してきた
長野原防空監視哨(聴音壕)群馬県吾妻郡長野原町大津72昭和16年12月16日、対空監視強化のために防空監視隊令が公布された。出典:内閣「防空監視隊令・御署名原本・昭和16年・勅令第1136号」敵機来襲の早期発見を担うのが防空監視隊。群馬県のホムペによれば「群馬県は防空計画を策定し、監視総本部を県庁に、防空監視隊本部を前橋・高崎・渋川に設置した」とのこと。県内に防空監視哨(聴音壕)を、諸説はあるが下記の一覧表によれば42ヶ所(前橋監視隊本部10ヶ所、高崎監視隊本部14ヶ所、渋川監視
市内に残る戦争の跡今回は美作市内に残る戦争の遺産「防空監視哨」ついてご紹介しますみまちゃんネルhttp://www.tv.mima-chan.jp/youtu.be古町の鳥取道大原トンネルのところから尾根木、川東に抜ける道途中から急斜面を山頂に登ると、防空監視哨跡があります。
神奈川県「青根防空監視哨跡」に向かいますここが目印になりそうです「青根小学校」のシブい看板と、妙に低い「横断歩道の標識」の間に、「防空監視哨跡20分」とか書かれていますすぐに無料駐車場に着きますこのテのスポットは毎回、「車の置き場所」に困るのですが、これはありがたいですね!駐車場を出ると目の前に「小学校跡」があります向かって一番右の石柱が、木にめり込んで、傾いていますね?!少しだけ小学校、寄り道します裏根本からすぐ二手に分かれる不思議な木「開校記念」ではなく「閉校記念」の碑
【23年11月4日探索・12月11日公開】現在地はこの辺地理院地図では車道として描かれていないようだが、青根小学校跡の脇を上っていく道はしばらくは車道だった。森の中のポツンと一軒家を過ぎると・・・車道はここで終わりのようだ。車道ではないんだと思うが、石畳のような舗装になっていた。これ、監視哨建設の時からある道なのではないだろうか?しかし、しばらくしたら普通の山道になった。尾根筋に出た。監視哨跡まであと3分。また車道規格
[かねやす百貨店]防空監視哨福岡市北九州市小倉北区魚町3-1-10小倉の商業地に大正9年創業の「かねやす百貨店」があった。魚町の一角にあり、小倉を代表する百貨店のひとつであり、昭和11年11月には新たに鉄筋7階建で耐火造の新館が完成させている。この新館は小倉市街地で最も高い建物だった。出典:国土地理院1948/04/07(昭23)USAM895-1-6、抜粋・加工近くに小倉陸軍造兵廠があったことから、かねやす百貨店「新館ビル」の屋上に防空監視哨が設置された。当
八戸要塞(通称):種差防空監視哨(物見岩)出典:八戸地域の戦時遺構に関する研究、P.24より抜粋・加工葦毛崎。葦毛崎海軍電探基地、マイルポスト、鮫角砲台がある一帯の後方に「物見台」があるが、ここは(陸軍)種差防空監視哨だった。物見台の頂には祠の残骸?が置かれていたところで『昭和20年5月17日付け、東北軍管区陣地設定概見図』をみると、葦毛崎にはA(1)/12K(2)の印がある。『鮫臨時砲台』と呼ぶようだ。12K(2)=12センチ加農砲が2門、Aって
沖縄には、飛来する飛行機や襲来する艦船を見張る為に「防空監視哨」が存在した。11箇所あり、那覇・糸満・本部・金武・与那城・国頭・嘉手納・宮古・八重山・西表・久米島とされる。まずは、糸満市の防空監視哨を紹介する。沖縄本島最南端にある糸満市字糸満にある山巓毛(サンティンモウ)に、糸満防空監視哨はある。ちなみに、この山巓毛には南山王の墓や根人の墓など、歴史的スポットでもある。【沖縄地上戦】糸満防空監視哨(山巓毛)についてyoutu.be
船越防空監視哨秋田県男鹿市船越秋田県の男鹿半島の付け根、船越海岸に現存する防空監視哨。八郎潟の干拓事業で、八郎潟から流れ出る船越水道は河口の位置が変わっている。昭和23年5月米軍撮影出典:国土地理院1948/05/21(昭23)USAR147255↓2022年のGoogle秋田県戦争遺跡研究会編「秋田県の戦争遺跡」p.123秋田県戦争遺跡研究会編「秋田県の戦争遺跡」の123頁船越防空監視哨が紹介されている。同書によれば「男鹿半島の他の4監
阿武町奈古(あぶちょうなご)地区に聳える遠岳山(とおだけやま、標高416m)山頂に、大東亜戦争時の防空監視哨と思われる遺構が残っています。遺構確認済みの防空監視哨地図で場所を確認します。山頂の遺構について旧日本軍の砲台や監視所だとか海軍の石組とか説明している記述がありますが、現地を探索したところ砲台の造りには見えませんでしたし、山口県警察史には奈古地区に監視哨が配置されたことが書かれていますので、この遺構は防空監視哨の跡だと推測しています。防空監視哨の説明はこちらのリンクにて。