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第9夜軍直属の対空監視哨・後楽園球場(4年前のメモと)🪂詳細不明の豊島園の防空監視哨を調べている時に、監視哨が後楽園球場にもあったと知った。【第2夜練馬防空監視哨を調べる(4年前のメモより)】←警察監督下の民間防空監視施設【第6夜『紙の砦』勤労動員と防空監視】←軍需工場単体の監視施設後楽園球場(後楽園スタジアム)は昭和12年開場。昭和10年まで陸軍造兵廠東京工廠だった場所だ。名前は隣接地の小石川後楽園から。現代では読売ジャイアンツの印象がとても強いが、創立時の出資
第6夜『紙の砦』勤労動員と防空監視🪂手塚治虫の『紙の砦』という、戦時中の経験を描いた漫画がドラマ化された。この漫画は、私が豊島園にあったといわれている「練馬監視哨(防空監視哨)」を調べはじめた頃に出会っていた。民間人による防空監視というシステムの理解に私は追いつくのが難しく、とにかく資料を探しまくるという日々のなかの偶然だった。戦争末期には、学生達は授業はなく軍需工場などで働かされていた。そこで手塚治虫(作中は大寒鉄郎)はサボって漫画を描いていたので睨まれてしまい、工場にある高い櫓
第2夜練馬防空監視哨を調べる(4年前のメモより)🪂====================2022-09-03練馬監視哨とは、警察とは別だが警察の指揮監督下におかれた民間の防空監視哨の事である。「旭防空監視哨の記録」によれば、本土防空監視は軍と民間一体で行っており、民間は防空監視隊本部に報告、そこから軍司令部へ直結し防空警報の発令、解除、また防衛上の作戦を発していた。哨員は外地における戦闘要員確保の為、非戦闘員未成年の担当とされた。練馬においては青年学校の生徒だった。一般に監視
この絶景見れただけで大満足右奥に大山、鉢伏山、鷲峰山、魔尼山砂丘海岸、鳥取砂丘ラッキョウ畑三等三角点、防空監視哨監視哨の施設に一部でしょうか三等三角点最初は仏像を祀るお堂かと思った福部や岩美の人達が信仰の対象として崇めて来たと思われるこの監視哨跡は、内法の径3.1mの二重レンガ積構造で、床の四方向にはレンガ積みの方形壇が設けられ、その両側には二つの柱穴があり、中央の穴は、外に繋がる排水用になります鳥取県内の防空監視哨の多くは後世の改変を免れ、山中に今でもひっそりと遺されて
友人にもらった・・捨て子の紫陽花を庭に植えて五年目ずっと鮮やかな青だったのに、今年は半分紫混じりになってしまった変わった事といえば春にナメクジ除去剤を蒔いた。。(去年は毎日毎日5匹づつナメクジを手動で除去してた、疲れてしまった)本当に綺麗な、真っ青な株だったのに残念・・国道27号を走っていると獣臭くってびっくりした。。こんな臭うか?ってくらいの高レベル、明日、この森の中の巨大廃墟を見にきたのにいやだなぁ・・と思いながら走行ー赤煉瓦パーク!想像よりずっとかっこええ!元舞鶴
備忘録四国管内徳島部隊の変遷留守第五十五師団昭和16年9月24日~20年4月6日まで歩兵第百四十三連隊補充隊(西部第三十三部隊)昭和19年6月30日まで歩兵第百四十三連隊補充隊(中部第八十三部隊)昭和19年7月1日以降善通寺師管区昭和20年4月7日~6月20日まで善通寺師管区歩兵第二補充隊(中部第百五十部隊)四国軍管区昭和20年6月21日~11月1日、復員完結まで四国軍管区歩兵第二補充隊(四国第百五十部隊)徳島県史歩兵第百四十三連隊補充隊西部三十三部隊昭和16年
今回1年振りの再訪です、前回「突角」=聴音壕の在る防空監視哨跡と思っていたのですが戦後直ぐの航空写真を見ていたら監視哨に続く平坦地が在る事に気づき、改めて調べ直したところ陸軍監視所跡と言う事が分かり今回の再訪となりました。日和佐防空監視哨(民~軍)海部郡美波町奥河内旧海部郡日和佐町昭和16年末~昭和19年秋まで後山(うしろ山)頂上の大岩付近(民)標高203.4mの三角点から南西300mの尾根上聴音壕は直径約3.85m、深さ約1.85m、外壁高さ約1mドーナツ状当初、哨員は七
[厚木防空監視隊本部]川和防空監視哨神奈川県相模原市緑区中野字中村神奈川県の防空監視隊本部は、横浜、小田原、厚木に置かれた。津久井郡(当時)は厚木防空監視隊本部の所属で防空監視哨は3ヶ所。・青根(現・相模原市緑区青根)・與瀬(現・相模原市緑区与瀬)・川和(現・相模原市緑区中野)いづれも昭和16年以降に設置された、とのこと。防空法ソ連軍の脅威を背景に昭和12年4月5日に防空法が公布された。軍部の介入はなかったが、軍部が策定した地域に防空監視隊本部と防空監視隊が編成され、警察署
徳島県の防空監視哨巡り、本日で全21箇所全跡地確認事できました。のハズ。宍喰監視哨は冬になるのを待ち満を持して本日訪れたのですが、ダニはまだまだ沢山居てましたし、身の丈以上のシダ漕ぎ箇所が何箇所も有りとにかく行きつくのが大変でした。浅川では見つけられなかった三角点も今回は見つける事が出来ました。聴音壕は約3.3m程の直径で一部が石組みでセメンを練った玉砂利が隙間に入れられている箇所がありました。休憩所石垣に2箇所、立哨台石垣にボルトが1箇所残っており、退避壕の奥行きは約1.6m程で2名入っ
徳島県の防空監視哨巡りも残り県南の3件を残すのみとなりました。県南のダニは怖いので12月を過ぎもう大丈夫かと思い今回訪問したのですがシダは生き生きと茂っており、ダニも茶色いの黒いの、小さいの大きいのが生き生きとしており、シダ群を通り抜ける度に取り付かれていました。いつもは監視哨と付近の三角点はセットで撮るのですが今回三角点は断念しました。その他の画像は続・徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定にて追加で更新しています。↑20251217↑退避壕内部↑休憩所基礎部コンクリートブロッ
徳島県の防空監視哨巡り全21箇所訪問完了の方がアメブロ文字数制限に成り、こちらで引き続き補足します。宍喰防空監視哨(一番)海部郡海陽町宍喰浦(字)古目旧海部郡宍喰町古目遺構在り。徳島と高知の県境付近、水床トンネルの上、四等三角点「古目」130.77m宍喰町標高35mの弁天山に忠魂碑在り。↑監視哨跡米軍撮影1947/10/13(昭和22年)M552-299より抜粋拡大加筆↑20260126↑休憩所石垣↑立哨台石垣とそれに続く階段↑休憩所跡瓦が多数散乱↑南側
「真珠湾攻撃1階級特進」で検索すると1942年1月16日付の神戸新聞朝刊1面が出て来ると思います。その左下の方に三人の県人の名前が見受けられますが、その内の一人の立派な墓が防空監視哨の在った地に建っています。直ぐ傍には親族と思われる方の墓も有りそちらの方は陸軍で、私の叔父が戦死した場所と日も近くもしかすると知り合いだったかも知れません。さて、真珠湾攻撃で戦死された方ですが、昭和13年10月に第二期甲種飛行予科練習生として横須賀海軍航空隊に入隊を経て卒業するに当り海軍航空優等章を享し、以来航空母
前回の訪問より余り日が経っていませんが再再訪問です。前回、メモ用紙とメガネを紛失、今回メモ用紙は回収出来ましたがメガネは依然行方不明のままです。笹藪で弾き飛ばされてそのままです、涙。もし見つけられた方がいましたらそのままゴミとして処分して頂けましたら幸いです。今回、聴音壕跡の場所特定の写真を撮りに行って来ました。現在は完全に埋められていますが場所的に日和佐、鷲敷級の3メートル程の聴音壕であったと思われます。今回も12月も過ぎたのに散々ダニにたかられました。その他写真は徳島県の防空監視哨巡りたま
今回は再び川島監視哨へ訪れました。前回夏、旧傷痍軍人徳島療養所前から古墳を見つつ東禅寺山系を縦断していたのですが、藪が険しくなるにつれダニが増えるわ大きくなるわで大変でした、なんとか東禅寺山のピークまでたどり着いたのですがもう藪に入る気力、体力無くその日は調査終了。帰り際に脱水症と熱中症で倒れてしまい、通りすがりの方に救急車を呼んで頂き事無きを得ました、M様ありがとうございました。今回はその縦走の続きで東禅寺山奥まで進みましたがまだダニが多く居ました。引き返し聴音壕の在ったピーク付近で調査しまし
本日再訪、移転前の秋葉神社には初めて訪れました。毎年11月23日に子供相撲が行われている様です。今回、聴音壕付近に鹿が居て突然鳴き出してその大きな声に驚きました。更に前回と違い暑さは大丈夫でしたが、沢山のダニの洗礼を浴びる事となりました。鷲敷・那賀郡那賀町小仁字大坪旧那賀郡鷲敷町秋葉山上(移転前)昭和13年県の指示により設置、秋葉山上に哨舎を造る。移転前の位置ですが下記の米軍撮影の写真を基に現地調査したところピーク付近では無く神社境内で間違いないと思います。昭和14年小仁
今回は2件、橘監視哨と小野監視哨を巡って来ました。橘と小野、両方全く所在が分かりませんでしたが橘はまたまたサークルたまや様の調査を参考に、小野は地元在住のM様、S様より情報を頂きまして更に一緒に同行して頂きまして現地を確認する事が出来ました。その上、監視哨よりの眺望写真も御提供頂きました。この場になりますが大変ありがとうございました、引き続き宜しくお願い致します。眺望写真も含め、その他写真は徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定の方に追加で掲載しています。↑橘監視哨20251023
今回は眉山、山頂に在った徳島監視哨に行って来ました。監視哨は丁度パゴダの塔辺りに在りました。訪問の際は曇りで少し残念でしたが晴れた日にまた来たいです。哨員だった湯浅泰治氏の記録では7月3日夕方、5時頃8名でいつものごとく食料品、薪炭、飲料水等、各自背負い天神社より一時間弱かけて登り先の班と交替し灯火管制下の市内を見て立哨していたら21時頃高松が空襲されその後23時40分頃から徳島も猛爆され3時間ほど続いたそうです。その際は茂助ケ原に多くの人が避難してきたそうで、空が明るくなり下山していると
本日は池田、三名監視哨を巡って来ました。池田監視哨に関しては全く不明でしたが昨日たまたま「サークルたまや」様のネット記事を見つけ本日二件巡る事が出来ました、三名監視哨ですが地主のO様にお会いする事が出来、また、本日の地域のお祭にも参加させて頂きました。この場にてになりますがすが御両名の方、本当にありがとうございました。それと今回の三名監視哨ですが三名村史の記述に別途追加して記入しておきます。その他写真も徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定の方に記載していますので宜しければご参照ください。
本日、椿泊の防空監視哨へ行って来ました。監視哨としてネット初掲載です。コンクリート製の哨舎に退避壕、深い切り込み等の遺構が現存しています。聴音壕自体は見受けられませんでしたが、切り込みが聴音壕と退避壕を兼ねているのでは?その他の写真は徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定の方で掲載しています。↑20251002↑窓ガラス片↑一升瓶多分戦後品↑歩哨詰所基礎鉄筋↑入口足元
久々の日ノ峰山の訪問です、この地は本土決戦の重要地点の様で一帯に地下壕やトーチカが現存しています。菊水、護土部隊が展開、その辺は別途ブログに書いていますので興味有りましたら覗いて見てください。今回は監視哨調査と言う事を念頭に訪問、山頂の蛸壺陣地と思っていた大穴の跡、おそらくは聴音壕跡だと思います。大きさや雰囲気的に山城谷の大穴の跡とよく似ています。ここから下って三角堂跡付近に菊水旅団通信隊が展開、この三角堂ですが劔山本宮遥拝所(大正14年9月)の碑の隣の今は階段のみ残っている空き空間が三角堂跡と
本日、徳島県の防空監視哨二基、鷲敷と平谷の探索に行って来ました。鷲敷の方は先に徳島市立考古資料館様より戦争の記憶展で紹介されていました写真の通り現存する事は分かっていましたが、平谷の方は上那賀町誌に一言「役場裏山に平谷監視哨を設置」の文言を頼りに在るのか無いのか、はたまた何処に在ったのか全く何も分からない状態で探索、結果、平谷もその存在を確認する事が出来ました。日和佐や鷲敷の様なほぼ完全体に近い形では有りませんでしたが80年の歳月を考慮しても十分その形を留めている方では無いでしょうか?造りは先
今日は下関市豊浦町川棚の谷吉地区に残る防空監視哨の「聴音壕」を訪れます。地図で場所を示します。防空監視哨の説明は下記リンクにて。『山口県の戦争遺跡30-2~山口県下に残る防空監視哨』※2021年6月14日に投稿した記事を書き直し戦前・戦中にかけて山口県下には民間による「防空監視哨」が数多く設置されていたが、まずは「民防空」について説明す…ameblo.jp*****************************「聴音壕」は住宅が密集する谷吉団地の西側高地に残っています
※2021年6月14日に投稿した記事を書き直し戦前・戦中にかけて山口県下には民間による「防空監視哨」が数多く設置されていたが、まずは「民防空」について説明する。1.民防空について航空機は第一次世界大戦(1914-18,大正3-7年)で初めて登場したが、その後飛躍的な進化を遂げて戦略的に重要な役割を果たすようになったため、遠隔地から飛来する「空襲」への対策を講じる必要に迫られた。そこで軍部は本土を守るべく、高射砲や見張所を日本各地に置いて敵機を撃退する防空体制(軍防空)を確
[防空監視哨]神戸製鋼中津工場大分県中津市大字永添2065番地(永添運動公園)大分県中津市は明治期後期には繊維工業分野で栄えていた。北九州から比較的近く、交通の便も良いし、労働者も多くいたことから、戦時中は複数の軍需工場が点在していた、とのこと。昭和18年頃に三機工業中津工場、そして特に大きかったのは神戸製鋼中津工場(中津市大字永添2602番地)で、陸軍航空本部の要請で主に航空機用ジュラルミン板を生産していたようだ。工場内には引き込み線もあった。防空に関しては分厚い計画書が残って
徳島市立考古学資料館にて開催中です。当方、今回初見の新資料の展示にて非常に為になりました。眉山トーチカの写真はネット掲載上、最新です。撮影にあたり、付近を清掃したとの事で東西トーチカ区別用の青いビニールシートゴミは撤去されていました。当方が発見した金具類はその後どうなったのか気になる処ではありますが・・・。今回は徳島市に焦点を当て、他は省いたとの事です。考古学資料館の直ぐ西隣には横穴古墳が在り、大戦中は徳島連体区司令部(現国道11号線横の合同庁舎)が重要書類を疎開させ執務も行ったそうなので
今から丁度80年前の1945年7月4日の午前1時24分から3時19分にかけて徳島の町が焼き尽くされました。下記の図は復員者の為に約300部が作られ占領軍指定の引揚港を中心に大型の引揚船や各都道府県の引揚相談所当に複数配布された様です。国立公文書館デジタルアーカイブにて全国主要都市戦災概況図を見る事が出来ます。全国主要都市戦災概況図昭和20(1945)年12月、戦災の概況を復員帰還者に知らせるために、第一復員省資料課によって、全国主要都市戦災概況図は作成されました。まえがきには、当時帰還
備忘録昨日の撫養に引き続いて本日は三箇所回りました。山城はこの時期なので一部藪漕ぎする場所が有りましたが四駆車ならそのまま頂上迄一気に駆け上がる事が出来ると思います。二等三角点の直ぐ傍に直径3m程の穴が埋もれながらも残っていましたが聴音壕跡?他にも掘り込み跡が見受けられました。立派な建物は無く、土を高さ1メートル、直径3メートルほどのドーナツ型に固めた、ただそれだけの場所が監視哨だったそうです。三角点より手前の中央辺りにその監視哨が在った様ですが、直ぐ傍の大きな穴が気になるところではあ
2026年1月26日全21箇所跡地確認文字数制限に成りつつあるので続・徳島県の防空監視哨巡りたまに更新予定にても追加で更新します。備忘録徳島県の防空監視哨敵機発見の際は本部へ発見方向、敵見方の別、機種、機数、高度、進行方向を報告。平素の訓練成果は西部軍昭和19年7月以降では中部軍管轄下において撫養が最優秀。徳島本部は一番宍喰に始まる一九カ所の監視哨からの通信を受け、大阪の中部軍(大阪城本丸南に司令部)と善通寺本部(第十一師団)に指揮連絡や監視哨からの定時の気象情報を送る。徳
[青海島]高山防空監視哨整備された道。高山の山頂(319ⅿ)を目指して歩く。-山頂間近になると展望が開けるごろっとした岩を過ぎたら、右に厠(監視哨の付属?)、左に監視哨がみえる。-防空監視哨設置された看板太平洋戦争中、軍の命令で地元の学生たちがブロックなどの資材を運び積み上げて監視哨を作ったことや、学生たちが班に分かれて当番制で寝泊りをしながら夜通しで見張りを行い、敵の戦闘機が飛来した際には、光を照らしてその動きを追っていた・・・・「戦闘機が飛来してきた
長野原防空監視哨(聴音壕)群馬県吾妻郡長野原町大津72昭和16年12月16日、対空監視強化のために防空監視隊令が公布された。出典:内閣「防空監視隊令・御署名原本・昭和16年・勅令第1136号」敵機来襲の早期発見を担うのが防空監視隊。群馬県のホムペによれば「群馬県は防空計画を策定し、監視総本部を県庁に、防空監視隊本部を前橋・高崎・渋川に設置した」とのこと。県内に防空監視哨(聴音壕)を、諸説はあるが下記の一覧表によれば42ヶ所(前橋監視隊本部10ヶ所、高崎監視隊本部14ヶ所、渋川監視