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日本100名城巡りの旅、本格的に暑くなる&梅雨に突入する前に東海エリアのお城に行ってきました。まずは、長篠城。おぉ、この方は「鳥居強右衛門」(とりいすねえもん)ではないか去年の大河ドラマを見て、この方をはじめて知りました。「援軍がくるぞー」って叫んで、貼り付けになった人ですね(超ざっくりな記憶。笑)長篠城、緑がキレイです写真じゃ見づらいのですが、遠くに石碑があって、あの場所から叫んだと言われてます。本当にあんな遠くから聞こ
こんばんは😁今日も元気Hickeyです😁いや〜沖縄・奄美が梅雨入りしたようだね☔️まだ梅雨入りしてないはずの豊橋も蒸し蒸し😅💦暑い分には構わんのだが蒸し蒸しは嫌だな😅💦汗をかくにしてもサラっとした汗は気持ちいいけどジト〜って汗は気持ち悪いから嫌だよな😅💦仕事途中でポロシャツを着替えなきゃならんしな👕そういえば昨日のブログを更新したすぐあとに『雨に濡れて風邪ひかなかった❓明日になり症状がでるかも😅くれぐれも御自愛くださいね🙏』こうフォロワーさんからDMをいただきました‼️
昨日の旅行3日目(1日遊べる最終日)移動日〜2日目は、こちら↓『関西お出掛け〜』昨日は、久しぶりに関西地方へ(イヤ、中部地方)ここ最近、会社で嫌な事ばかりだったので、ある意味良い息抜き朝は、かなり早くに出発🚘前回、娘のお迎え来た時に、出勤…ameblo.jp『洗車とバッテリー交換』只今、お出掛けちゅう移動日の話『関西お出掛け〜』昨日は、久しぶりに関西地方へ(イヤ、中部地方)ここ最近、会社で嫌な事ばかりだったので、ある意味良い息抜き朝は…ameblo.jp最終日は、朝早くにホテルを出
武田勝頼は,西暦1575年の新暦5月20日に1万5000の兵で長篠城を包囲した。長篠城を本格的に攻撃し始めたのは新暦6月19日からである。長篠城を守備したのは徳川方の武将奥平貞昌で,その兵力はわずか500でしかなかった。武田方は,城方の三十倍の兵で長篠城をおよそ10日間攻め立てたが,落城させることはできなかった。長篠城は,豊川と宇連川の合流する三角形部分を城とし,その三辺のうち二辺は断崖である。長篠城は,その正面だけに守備兵力を集中できる要害堅固な城なのである。長篠城(旗があるところ
2024.4.1.鳥居強右衛門の墓所が在る『新昌寺』創建は天文8年(1539年)長篠医王寺四世月傳太隋大和尚による。創建当時は「喜船庵」と称された。天正3年(1575年)の長篠合戦では、「喜船庵」のある有海の地は戦場となり、特に篠場野の地には奥平家忠義の臣・鳥居強右衛門勝商の礫死跡があり碑が立っている。合戦後、強右衛門は「喜船庵」に埋葬された。「喜船庵」は萬治3年(1660年)新昌寺に改められ、寛政3年(1791年)には興国山新昌寺に改められた。鳥居強
2024.4.1.長篠城の後は、こちら設楽原古戦場へ天正3年5月21日、三河国長篠城をめぐり、織田信長・徳川家康連合軍3万8000と、武田勝頼軍1万5000との間で行われた戦い超有名な戦いですね~当時、無敵を誇った武田の騎馬に対し、織田&徳川軍は約3000挺の鉄砲を主力に用いた戦いでした三段撃ちが有名ですね通説では、鉄砲隊を3列に並べ順番に撃ったとされるが(時間的に撃ち終わる方が早く弾込めが間に合わないとのこと)現在では数人の班で数挺を扱い弾込め射撃と役割分担をしていたのでは?と
このシリーズも長くなりましたが…………もうちょっと続きます(笑)(・∀・)ヒッパルヨー何とか無事に琴森さんまで到着しました👍散歩中の第一ジモッティーの爺さん、車の宇都宮ナンバーにあからさまに訝しげな顔をしておりますwだってしょうがねぇよ🎵俺達見るからに胡散臭いもの💃ψ(・∀・)∀・)∀・)ψイーッヒッヒッヒッここで極道君、ちょっと悪ふざけしてたんだよねぇ………するとチクリ💥奉納されたノボリから出てた釘で、手をチクリとされてましたυ懲りないね君も💀長
本日は長篠合戦祭り😆😆😆昨日の夜に元々長篠城址に祀られてた白藪稲荷のお狐さんからお話が😆😅久しぶりに来ましたがやはりどうしても元の所に帰りたいとの事‼️そりゃそうですよね何で全然違う場所に移されてしまったのでしょう😅😅長らく長篠城をお守りして来たお稲荷さん❣️長篠城址の真ん中に鎮座して沢山の方がお参りして下さったのが、急に近くのお寺さんに移されて殆ど誰も来てくれなくなり🥲🥲🥲神様達は賑やかなのが好き‼️楽しいのが好きなのにひっそりと寂しく🥲一応祭事はされて
2024/04/2909:53乳岩峡最寄り駅「三河川合駅」に到着!飯田線は18きっぷシーズンじゃなくてもハイキング者に大人気ですこの先駐車場はありません!…けど、皆路駐されてましたよ何の看板か、ぱっと見では分かりません10:05昔は入口まで車で行けたみたいですが侵入不可になってますね。10:17徒歩数分で乳岩峡入口到着です。初めは巨大な岩の上を歩いて行きます。隣を流れる川は、当然メチャキレイです10:19乳
おかあもGWを楽しみたい。亭主殿が金曜日に制度休暇を申請したというので、愚息は亭主度に任せて、おかあはドライブに。行先は前々から気になっていた、長篠城。飯田山本で自動車道を降りて、ひたすら南下です。愛知県の方がガソリンが安いと思って、愛車を満タンにしないで出発したんですよねぇ。甘かった。愛知県に入っても行けども行けどもGSが見つからない。給油ランプが点滅を始めてようやく、人家らしきものが見えてきました。本来はお休みらしいのですが、臨時営業していたGSでようやく給油が出出来ました。そんな
2024.4.1.ずっと行きたかった「長篠城跡」へ長篠城と言えば!武田軍が包囲し、徳川軍と激しい攻城戦を繰り広げた舞台です現在残っている城の遺構は、ほんの少しだけど、歴史的に有名で、価値のある長篠城は想像も感情移入もしやすいね土塁と堀が素晴らしい線路が城域を、ぶち抜いてる土塁跡一番角っこの所(野牛曲輪)時間の関係も有って隅々までは見て回れなかったけど大満足そして、やっぱり鳥居強右衛門長篠城の英雄です有名な話ですが簡単に『武田
おはようございます崩れた天気で肌寒い四月下旬の朝ここは何処でしょう実は新城総合公園の展望広場から俯瞰した大海駅に到着する飯田線の電車なのです400mmで覗くとこんな感じ250mmだとこんな感じ手前の街は大海駅前の集落左上に長篠城の博物館が見えます上に見えるのは第二東名新城総合公園はお散歩するには最適な場所
高天神城攻城後菊川駅近くを通り島田市諏訪原城へここは2015年9月に来ており、藤枝市の知り合いの案内で訪れた思い出の場所となっております。堀切りの深さといい丸馬出し城とは石垣を積んで作るだけではなくこのような方法があるのかと初めて見た時はなるほど感心させられました。私の山城めぐりの観点を大きく変えた城であります。かの大坂城出丸真田丸もこの築城術が使われているのではないかと思います。諏訪原城攻城後新東名島田金谷IC→浜松浜北ICを使用して二俣城・鳥
今年は少し遅かった桜の開花。暖かさに誘われて信濃から三河へ飯田線の空撮旅に出かけました。(ドローンは現地でOKをもらえたときのみ飛行)残雪の峰々今回の旅の北端は、長野県・伊那谷。中央アルプスの山並みを一望します。ドローンを180°旋回すると、南アルプス・仙丈ヶ岳が顔をのぞかせます。天竜川へと注ぐ支流の鉄橋に差し掛かる下り普通列車。同じ鉄橋を46年前は河原から見上げました。長篠城そして旅の南端は、愛知県・長篠城。芝生広がる本丸跡の桜が満開でし
2024.4.1.~4.2.今月のお出かけは~と考えていたら!ちょっと思いがけず泊りで行ける事にと言うのも、春休みの息子が泊まりで遊びに行く日と重なり、どうせなら自分も泊りでって事に妻は一人でのんびり羽休めいろいろ行きたい候補地はあるけど、もし!雨降っても問題なく巡る事が出来る遠州へ新幹線を乗り継いで到着したのは「浜松」結局!めちゃ天気の日でした先ずは、やっぱり🏯浜松城へ浜松駅からは、レンタカーで巡ります徳川家康公の像浜松城の🏯天守は、模擬天守だけど
「強右衛門磔の図」徳川家康ファンの方や名古屋辺りにお住まいの方に人気とのこと。他地域の方は昨年の大河ドラマを思い出してね。設楽原歴史資料館から、なかなか来ない電車で長篠城駅に到着。では歩きましょう。駅を出てすぐ。まだ本丸から遠い場所に搦手門跡がある。やはり本格的な城であったようだ。徒歩8分で長篠城趾史跡保存館に着いた。長篠城を取るかどうかが戦いの鍵となった。武田軍にとってはここを織田軍に取られると背後を絶たれる。だから設楽原の戦いの前に1万5千の兵で500人が守る長篠城を
ずぅっと前に友達と来まして…久々に立ち寄ってみたちらほら観光客駐車場からすぐに向かったのは〜JR飯田線の線路っ右が本丸、左が野牛曲輪電車が来るといいなとアプリをcheckしたら〜7分後に豊橋方面の電車が長篠駅に到着する待てるじゃないっ地面に座り込んで、ポカポカに浸るとキターーーっ希望とは逆方面だけど、それならと、連写連写満足あとはぷ〜らぷらぷらっと本丸散歩して鳥居さんの磔供養塔をズームいいね、武田の文字武田巡りでこの辺りは何度も来てるほぼ見尽くしてい
昨日2024年3月30日。かねてより訪問したかった場所、いや訪問できそうもないと思っていた場所に出かけて来ました!出かけて来たのは、愛知県新城市。長篠・設楽原の戦いがあった場所♪関連史跡を歩いて巡って来ました!まずは、長篠の戦い、長篠城跡から、と言いつつ、「中央構造線長篠露頭」から笑日本列島の中央(関東から九州まで)を東西に走る断層である「中央構造線」の地層が露出している場所です!写真右手の黒い地層と、その上の地層とが分かれている様子がよく分かって、なかなか
馬場信房は武田信虎・信玄・勝頼に仕え、武田四天王の一人にも数えられた重臣だが、長篠の戦いで退却する勝頼を守って討ち死にした。墓は長篠城の西(新城市長篠西野々)にあり、首を埋めた場所だとされる。
所在地〒441-1633愛知県新城市乗本神出特徴長篠城攻めの際に武田氏が築いた砦の一つで、酒井忠次隊により落城した。城址まで車で行けるが、藪に埋もれた堀と低い土塁が確認できる程度。感想縄張りは単純かつ小規模で見所は少ない。
所在地〒441-1633愛知県新城市乗本椎ノ入特徴長篠城攻めの際に周辺に築かれた砦の一つだが、高速道路建設で消滅している。ただ、道路脇に公園が整備され、長篠方向の眺望が良好。鳶ヶ巣砦から車道もあるが道は狭い。
長篠城(野牛郭)跡今日は、昼の長さ軍と夜の長さ軍の時間がほぼ拮抗する「春分の日」。アプリの中でも、織田・徳川軍と武田軍の勢力がほぼ拮抗して非常に熱い戦いが繰り広げられています。そんな中、例によって今回も合戦にまつわる「よくある質問」をまとめましたので、初陣の方はもちろん、歴戦の兵の方々もぜひご一読頂ければと思います。損はしません。Q.総攻撃“2回ずつ”は何の回数?A.「長篠の戦い」では、総攻撃は“両軍ともに2回ずつ”と以前告知しています。これは軍単位で数えた
来週の「長篠の戦い」を前にして、今週は結果的に3回の更新すべてが合戦関連という告知ウィークとなりました。本日は総攻撃と大手柄武将のお知らせです!まず、総攻撃については両軍ともに2回ずつを予定しています。ご自身の部隊がいつ総攻撃に入るのか、常に総大将・部隊長の発言を注視しておいて下さい。次に大手柄武将について。「長篠の戦い」の大手柄武将は以下の通り、織田・徳川軍、武田軍ともに7名ずつとなります!!織田・徳川軍の大手柄武将織田信雄水野信元河尻秀隆佐々成政前田利家
合戦イベント「長篠の戦い」がいよいよ1週間後に迫って参りました!みなさんそろそろ具足をタンスから引っ張り出して臨戦態勢でお願いします。今日は合戦の論功行賞と最低必要軍功の予告です!全参戦者参戦者全員に、築城の限定建物「落合左平次道次背旗」を贈呈!勝利軍勝利軍全員、家臣団コレクションで「亀姫」の登用が可能に!軍功第一の部隊両軍通して軍功第一の部隊全員に、「10,000貫」を贈呈!軍功ランキング両軍軍功上位1~50位までの方へ、
名古屋市や愛知県の城跡、歴史史跡を散策する会で長篠城と周辺史跡を見学してきました。いろんな史跡がある中思ったのは、長篠城主・奥平氏よりも鳥居強右衛門(とりいすねえもん)の史跡が多いということです。令和五年(2023)NHK大河ドラマ・どうする家康では岡崎体育さんが鳥居強右衛門を演じて話題になりました。【インタビュー掲載】「どうする家康」鳥居強右衛門、磔どうなる?岡崎体育「まさか」の初大河獣の毛皮でビジュアル細部工夫―スポニチSponichiAnnex芸能https://
決戦か撤退か―。甲論乙駁の議論の末、武田勝頼が出した答えは織田・徳川との決戦であった。いまだ抵抗を続ける長篠城に抑えの兵を置いた勝頼は、残りの全軍を率いて設楽原へと転進した。対する信長・家康は、武田に恐れをなしたかそれとも弱敵を装い誘い込む戦略か、馬防柵の内に籠もったまま動く気配はない。戦端を開いたのは武田軍の一番手・山県昌景隊。押太鼓を打ち鳴らしながら徳川軍に襲い掛かり、瞬く間に戦場は馬蹄の響きと火縄銃の銃声に包まれた。主力と主力が激突する一大決戦!信玄以来の宿敵同士がついに雌
(長篠城遠景三方が宇連川・豊川の断崖となっている)かつての同僚デカちん氏とのセンチメンタルジャーニー初日の目的地は長篠合戦古戦場。朝5時過ぎに家を出て待ち合わせの豊橋に向かった。『最後のセンチメンタルジャーニーどこへ行こう』(長篠合戦古戦場織田・徳川連合軍の馬防柵跡)昨年、一昨年と東北でお世話になったかつての同僚デカちん(注:全体にデカいので私がそう呼んでいるだけで身体の部…ameblo.jp待ち合わせ場所はグーグルマップで調べて駅前のシャレた感じの喫茶店にした。
今回は愛知県新城市の長篠城のお話。上の画像中央部の川に挟まれた台地の先端部分が長篠城です。中学の時に習った長篠の戦いは強く印象に残っていましてこれを契機に織田信長という武将が脳裏に焼き付いてしまいました。長篠城は宇連川と豊川を天然の堀にした東三河の入り口に位置する正に要衝という名が相応しい砦です。思いの外、城はその痕跡を留めています。上の画像は見取図の「堀1」の部分。武田方から徳川に寝返った奥平貞正は500の兵力で15,000の武田勝頼の攻撃から城
up!の足回りの良さに改めて感心します。路面の凸凹があるとゴトゴトと鳴って硬めなのかなと思ってしまいますが、カーブを曲がる最中は外側が沈み過ぎたりフワフワする事がなく、良く踏ん張っているのが分かります。どうしたらこんな安定感のあるセッティングが出来るのだろうと不思議に思うほどです。以前乗っていた様な’70年代の車を同程度の安定感ある足回りにセッティングするにはかなりの手間と費用が掛かるでしょうし、或いはまた不可能かも知れません。金指から山吉田までの緩いカーブが続く区間でや
※こちらの記事は、令和3年7月22日に書かれたものです。皆さんこんばんは。今回は山岡荘八氏の大作『徳川家康』(全26巻)の第6巻「燃える土の巻」のご紹介です。個人的にはこの『徳川家康』は祖母が愛読していたということで、愛着のある作品です。読み始めたのは去る平成24年。今から9年前です。他の本に浮気しつつも全26巻を最初に読み終えたのが、2年後の平成26年ごろだったと思います。直後に2回目を読み始め、それが終わったのがまた2年後の平成28年ごろ。またすぐに3回目を読み始めて今は23巻