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1868年(慶応4年)のこの日(旧暦)、「戊辰戦争」(ぼしんせんそう)が始まった。名称はこの年の干支が「戊辰」であることに由来する。京都の鳥羽・伏見で、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦闘した。装備で劣る旧幕府軍は敗退し、1月6日夜、江戸幕府第15代将軍・徳川慶喜は自軍を捨てて、大坂城から海路で江戸へ退却した。一方、新政府軍は慶喜追討令を受けて江戸へ進撃した。同戦争は明治新政府の勝利で幕を閉じた。国内に他の交戦団体
池田屋事件の報を受けた長州藩では攘夷過激派が激昂し、新選組を使って同志を多く殺害した会津藩を断乎討つべしと主張、京都に戦乱を起こして朝敵の汚名を受けてはならないとする木戸孝允、高杉晋作らの穏健派を斥け、6月24日、兵を京都に進める。これを知った所司代の松平定敬は薩摩屋敷に淀への警備出動を要請するが、西郷はこれを「会津と長州の私戦」とみなして拒否し、禁裏守衛の役目に徹する姿勢を明確にした。西郷は、八月十八日の政変に加担した薩摩に対する長州の敵対感情をさらに悪化させることを避けたかったのだと思われる
今年もありがとうございました日をまたいで今年もよろしくお願いします。とうとう2024年が始まりました玄関に日の丸を掲げてお雑煮をいただきますあぁ日本に生まれ日本で育って良かった朝から餅を4つ食べすぎ晋作長州藩でございますくれぐれもですが年始は5日から良いお正月をお過ごしください
東洋さん@toyo1126Q17明治維新とフリーメイソン長州藩は明治時代に日本を植民地化するために利用されました。江戸幕府に不満を持つ若者たちを洗脳し幕府を倒すために、明治維新を起こさせたのはフリーメイソンであり、その背後にいたのは、英国のロスチャイルドでした。
元治元年(1864年)2月末、1年半に亘る過酷な流人の境涯を脱して鹿児島に帰り着いた西郷は、港から自宅までも歩いてゆけず、亡君斉彬の墓参にも駕籠を使わねばならないほど脚力が弱っていたという。藩はそんな状態の彼を僅か4日間の滞在の後、ただちに京都へ送り出した。薩摩藩にとっての京都の情勢はそれほどにも急を告げていたのである。3月14日、入京した西郷は在京中の久光に謁見して「軍賦役兼諸藩応接係」に任じられ、軍事および諸藩との折衝を担当することになる。以後、西郷は過去に類を見ない速度で昇進を遂げ、10月
吉田松陰は、この事を、金子重之助に黙ったまま、連れて行くのは、やはりできないと思い、金子重之助に告げる事にした。「実はな、金子君、君に言ってない事が、あるんじゃ」、「はい、何でしょうか?」、「驚いて、大きな声を出すじゃないぞ」、「はい、先生のやろうとする事では、もう、いちいち驚きません、言って下さい」、吉田松陰は、声を小さくし、「実はな金子君、ペリーの黒船に乗り込むのに成功したらじゃ、わしは、ペリーを・・・斬り殺すつもりじゃ」、吉田松陰は、ペリーを暗殺するつもりである事を知った金子
空と海のキャンバスAmazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}本日は「龍馬史」の紹介です。現存する手紙などから人物像を読み解いていく内容。「上士の後藤象二郎の手によって、同志の武市半平太が殺害される。しかし坂本龍馬は後藤と手を組む」理由は脱藩浪士の寄せ集めでは政府に勝てない為です。この辺りの行動は坂本龍馬らしい。坂本家「坂本家は元々、滋賀の坂本に住んでいた。土佐では質屋業を営み、事業が上手く行ってからは、酒造業や呉服商など事業を拡大、高知城下屈指の豪
久光の率兵上洛とそれに続く江戸下向が幕府を屈服させ、慶喜と春嶽の新体制を発足させることに成功したという事実は、幕府の独裁政治が事実上終わりを告げ、朝廷の許可なしにはいかなる政策も実行しえない時代の開幕を告げるものだった。そうなれば、中央政局への参加を望む諸藩の間に、薩摩に倣って京へ上り、有力公家を通じた朝廷工作を強化して変転極まりない朝幕関係の内側に食い入って、独自の発言権を確保しようとする動きが出てくるのは当然の成り行きというべきであった。こうして薩摩、長州、土佐などの有力諸大名は続々と京を目
「高杉晋作、功山寺挙兵」どんな時も自分の足で立つみなさん、おはようございます今週末は天候が荒れるようです皆さん気を付けてお出かけくださいニュースは天気用法だけは良く当たりますさあ、今日「12月16日」の國史を学びましょう「高杉晋作、功山寺挙兵」元治元年(1865年)高杉晋作は挙兵を決意しますが誰も駆けつけてくれません敵は徳川幕府8万に対したった一人で挙兵しました禁門の変、四か国連合艦隊の下関襲撃、長州征伐などにより長州藩をリードしてきた急
司馬遼太郎さんは国民的歴史小説家です📖👓️ベストセラーを何冊も刊行して、その多くが映像化されています🎉📺️今日はそんな司馬遼太郎さんの歴史小説本を二冊紹介したいと思います📕🎵①『花神』兵部大輔・大村益次郎の生涯を描いた長編歴史小説です💐大村益次郎は村田蔵六と名乗っていた周防国の百姓医から長州藩に招かれて兵制改革に着手して、幕府軍の第二次長州征伐では長州藩の指揮官となって幕府軍を撃ち破ります🔫💥その後江戸の彰義隊をわずか一日で壊滅させます💣️🔥そして新政府の兵部大輔として陸軍の改革を断行してい
文久2年(1862年)正月、久光は一日も早く「率兵上洛」を開始しなければすべてが水泡に帰しかねない重大な危機に直面していた。彼に先行して朝廷と幕府の関係修復を仲介する長州藩の努力が実を結ぶ寸前のところに達していたのである。「航海遠略策」と銘打った長州藩の仲介案は、朝廷の主張する「破約攘夷」は国際道義に反し、軍事的にも実行不可能であることを説き、むしろ開国を機に貿易を盛んにして国富を増し、強国となった後に「皇威を海外に振る」大攘夷を目指すべきだと説くものだった。これを受けて朝廷は、重要問題につい
三浦玄仲夫妻の墓墓の側面と裏側三浦玄仲は幕末期に諸外国と締結した不平等条約の改正に外務大臣として尽力した青木周蔵の実父である。玄仲は,長州藩領の僻地に住む医者にすぎなかったが、先進的な考えの持ち主で「翻訳書ニ依リ少シク泰西文明ノ學術ヲ解セシ」と記録にある。蘭学者の青木周弼・研藏兄弟による日本初の種痘が行われた長州藩では領内で種痘を実施していくにあたり人手不足解消のため、各地の優秀な医者を種痘医として登録しているが、玄仲もその中の一人であった。玄仲は後に戊辰戦争においても軍
日本🇯🇵の象徴である天皇家ある物理学者の本を読みましたが、初号原爆を積んだB29を天皇の神通力で消したその頃は、日本🇯🇵の天皇は凄い、と本気で思ってました。しかし、世の中の暴露が始まると、とんでも無い事実が分かって来ました明治維新の際に、本当の天皇は長州藩の奴らに斬首され、偽天皇が誕生しました。面白い画像がありますよ高齢になっても背が伸びるんですね流石ですXより拾いました。https://x.com/yosshiy_aki6/status/172876114147898
おはよ〜(*´∀`*)ノ"♡京都御所に行ってきました。行ってみて初めて判ったのですが、御所は二重の塀で囲まれてるのですね。そして敷地が広い!手荷物検査と許可証をいただいて中に入ります。御車寄諸大夫の間。参内者の控え室。新御車寄。約100年前の話ですね。つい最近ですよ。紫宸殿。昭和天皇は東京に居てもここで即位されたのですね。春興殿小御所外に出て、歴史上あまりにも有名な蛤御門に向かいます。長州藩が朝敵となった禁門の変=蛤御門の変の場所。弾痕があちこちに残ってました。天皇に
天園ハイキングコース。丁字路まで降りて、瑞泉寺方向とは逆の何も標示されていない方、「明王院口」に向かう。途中、右手の高台の上の、こちらに。↓何の標示も無いが、Googleマップによると、伝・大江広元墓。鎌倉幕府初期の重鎮・大江広元。鶴岡八幡宮の東側の山裾、源頼朝墓の近くの整備されたヤグラも、大江広元墓と呼ばれているが、あれは幕末の頃、相模湾警備を任されていた長州藩が、藩主・毛利家の御先祖の大江広元の墓を探し出した上に整備する為に来たそうだが、地元の人達に横柄な態度ばかり取っていた
萩城訪問レポートその2。今回は萩城下町をご紹介します。萩城下町は「明治日本の産業革命遺産」の構成要素の一つとして世界遺産にも登録されています。菊屋横丁旧萩城の外堀から外側に広がる城下町は、碁盤の目に区画され、家臣の屋敷が軒を連ねていました。現在でも町筋はそのままに残り、往時の面影をとどめています。特に白いなまこ壁の美しいこの菊屋横町は「日本の道100選」の一つに選ばれています。菊屋家住宅菊屋家は、毛利藩の御用商人として藩を支えてきた豪商です。屋敷は江戸初期の建築で、現存する大型町屋と
関ヶ原の戦いに敗れた毛利家は、日本海側の萩を居城地に定められたため、大内氏の時代に「西の京」とまで謳われた山口は、萩と三田尻を結ぶ萩往還に沿う「一寒村」に落ちていました。しかし、幕末の風雲急を告げる文久3年(1863)12月、長州藩は、藩庁を山口に移します。山口政治堂(山口藩庁)です。藩主:毛利敬親も萩から山口へ拠点を移し、翌文久4年には、御屋形と呼ばれる居館も建設します。文久3年とは、「八月十八日の政変」があった年で、七卿落ち、翌年には、池田屋事件、そして蛤御門の変と、事件が続き
下記は私が書いた小説です。良かったらどうぞ。空と海のキャンバスAmazon(アマゾン)${EVENT_LABEL_01_TEXT}道を間違えてしまい、無駄に坂道があるルートを通ってしまった。以前は八坂の塔へ向かう道が混むなんて有り得なかったのに、この混雑。ほぼ外国人でした。何とか間に合った。いつも時間ギリギリに辿り着く。祝詞(のりと)今回の目的は龍馬像のお披露目。長崎龍馬会など様々な場所から集まって来ていた。龍馬会には外国人も所属しているのか。私はどこにも所属していま
峠最後のサムライ2022年6月17日公開司馬遼太郎のベストセラー小説『峠』を、『雨あがる』の名匠・小泉堯史が映像化した歴史ドラマ。幕末・明治維新の動乱の中で、多勢の敵軍に対して決死の戦いを挑んだ“最後のサムライ”たちの知られざる姿を描く。あらすじ⚔️慶応3年(1867年)の大政奉還により、260年余りに及んだ徳川幕府は終わりを告げる。・東軍:会津藩など旧幕府勢力・西軍:薩摩藩・長州藩を中心とする新政府という構図が生まれ、諸藩は東軍と西軍に二分していく。そして慶応4年、鳥羽・伏見の
おはようございます。ふくろうさんからシェア。只今日本の政府は長州幕府で、自民党が母体。その長州幕府に歯向かった藩は原発を建て放射能と共に暮らすことを罰とした。列記します。泊原発→会津(斗南)藩の200戸が余市町に移住。大間、東通原発→下北半島に会津(斗南)藩は移される。その中心都市はむつ市である。—旧ふくろうの知恵袋(@koganemushiwa)November13,2023↑クリック許せん!ちょうしゅう!
山口郊外にある湯田温泉。風雲急を告げる幕末。長州藩は、日本海側の僻地の萩から山口に政庁を移しましたが、その頃、此処は重臣たちの屋敷地でした。高級役人の井上馨の実家が此処にあり、現在は、「井上公園」になっています。「八月十八日の政変」で「七卿落ち」した三条実美以下の公卿が井上家に寄宿していたことが有り、聞きつけた勤王の志士が集ったりしたので、井上家では、部屋を増築し「何遠亭」としました。瀟洒な建物が残されています。元治元年(1864)幕府と諸外国から攻められて長州藩が存亡
島根県を旅行したのは2017年8月…もう6年前なんですね~『島根~山口旅行④』須佐神社を出て、もう少し奥に車を走らせること5分八雲風穴に到着その涼しさたるや、天然の冷房との事この日の島根県の気温は31度…ameblo.jp石見銀山に行った時の事…何気に見たパンフレットに「毛利元就を祀る神社」と小さく記載されてました戦国時代随一の謀将と云われる毛利元就を祀る神社…これは参拝しないワケに
今年もリアル宝探し『玉兎と七枚の切符』に参加しています。これは7月21日から11月26日までの期間です。山口県内の6市と島根県津和野町の7ヶ所で謎を解きます。今の所6か所をクリアしているから26日までにはすべてクリアできそうです。さて、先日は宝探しで萩市に行きました。萩市は何度も行っているから、特に観光するところもないと思っていましたが、まだ行ってないところがありました。宝探しのおかげで、ここにこんなところがと発見がありました。今回は長州藩が大砲を鋳造していた郡
かつての城下町には、郊外の温泉地がセットになっていました。何かあると。療養するとか懇親会を開くとか。例えば、仙台藩の秋保温泉、会津藩の東山温泉などです。一方、長州藩山口政庁と湯田温泉は、より身近な印象です。松山藩の道後温泉と似ているかもしれません。長州藩の重臣だった井上馨の実家は湯田温泉にあり、現在、「井上公園」になっています。重臣の屋敷地だったようです。近くに、周布政之助の碑があり、周布家の屋敷があったのでしょう。政之助は、重役でありながら高杉晋作などの若手の理解を示しまし
兎に角、安倍ら一族が日本を破壊する理由は、明治に遡れば、理由がはっきりする。[日本の真相]💜鬼塚英昭[日本の真相]鬼塚英昭(おにづかひであき、1938年~2016年1月25日)鬼塚英昭byWikipediahttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AC%BC%E5%A1%9A%E8%8B%B1%E6%98%ADyoutu.be【歴史】明治天皇は、やはり大室寅之祐だった。北朝から南朝に戻った。-黒板五郎の徒然草(ブログ)【歴史】明治天皇は、やは
和文化・おもてなしマナー講師の安達和子です本日は【日本初のプール】について話しますね日新館の話をしていますがなんと日本最古のプールも日新館にあるようです私が泳げると言うと皆さんにビックリされますが…水練水馬池の「水連場」は日本で初めて作られたプールです池の周囲は85間(約135m)あり向井流という泳法と甲冑(かっちゅう)を付けての水練も学んだようです。今でいう「着衣水泳」のような泳法ですねでも、甲冑の重さは30㎏ほどあったようでその状態で水の中に入
長州藩士、山田市之允(山田顕義)の小説。この人を主人公にした小説は珍しいかも?山田市之允って、北越戊辰戦争の時に援軍を新潟に上陸させて、新潟港占拠により西軍勝利を決定づけた人。あとは、箱館戦争の時に長州の参謀として、薩摩の黒田了介と一緒に五稜郭を攻略した人。それから西南戦争の時に会津の山川浩(大蔵)の上官で、山川とひと悶着あった人。そこらへんが読めるのかなーと思って手に取りました。山田市之允はちっこい男で、でも類稀なる軍略家なので「小ナポレオン」と呼ばれていたと
まずは司馬さんの文章(世に棲む日々)から。いま防府という市に包含されてしまった三田尻港は、長州藩第二の商港であり、三百年来の藩の水軍基地であり、その港は、港口を向島という島に「ふた」をされ、内港は潮が淀み、磯の香りが濃い。・・・・・・更に、その頃の日本の塩の生産高が年間500石。そのうち長州藩の生産高が100石で、その殆どが三田尻産であるとも述べられています。さてこの「毛利重就公像」は、防府天満宮の「野村望東尼」像の奥にあります。「三田尻御茶屋(現在の英雲荘)が大好きで、天明2
防府天満宮の本・拝殿エリアの西門外に建つ「春風楼」です。江戸期文政年間に、長州藩第10代藩主:毛利斎煕公が「五重塔」として工事を始めるも、資金不足のために中断。明治6年に二層の楼閣様式として完成。祈願者の潔斎場とされました。途中で仕様変更されたものの、床下の木組みは、五重塔の1層目の木組みに予定されたもので、それとはなく、五重塔の面影が偲ばれます。楼からは、防府市街が一望出来ます。江戸期は、宿場町の「宮市」と港町の「三田尻」がありましたが、明治になり山陽本線が開通した後は、市街地
今回のブラタモリは「萩」を取り上げた回の再放送でした。萩には30年ほど前に訪れたことがあります。福岡で仕事があり、そのまま帰っても良かったのですが、週末に重なったこともあり…同僚が「せっかくだから萩や秋吉台なんかを観光がてら寄っていこう」ってことで…当時はまだ幕末の歴史に興味を持っていない頃であり…萩城や松下村塾、また古い街並みなどを見て廻っても「ホホ―こんな所なのか」と、単に名所を巡っただけの観光客。今思えば萩は長州藩の藩庁であり…討幕運動の中心として吉田松陰をはじめとし