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Kindle無料キャンペーン‼️5月1日ー5月5日まほろば物語Kindle3月20日に大船のカフェ楽庵で語りの会を開催しました。近くに木曽義高の碑が残されている場所。大姫の🪦と言われるところもあります。招かれたかのような…不思議な会になりました‼️3/10大船楽庵でよっくる一座朗読ライブよっくる一座ライブ大船楽庵作家谷よっくるさんが水曜日,3月202024に開催するイベントfacebook.comAmazonのリンクはこちら。まほろば物語鎌倉編谷
こんばんは^^今日は奈良で舞のお稽古があり、そのあと奈良国立博物館で空海特別展を見てきました~☀奈良のお稽古は毎回とても深く刺激を受け、目からうろこの気づきにあふれる、たいへんありがたい場所。今日もたいへん刺激を受けて帰ってきました。最近、いろいろと方向性でモヤモヤしていることがあって、舞の形だけやればいいのか?装束に水干を着れば白拍子なのか?所作や服装の必然がないのにやるなんておかしくない?とりあえず、姿勢と歩くことをまずしっかりやろう!あれ、そもそも
さて、建久九(一一九八)年二月二〇日に土御門天皇の即位の儀のために、父である後鳥羽上皇も、内裏の中に入れないにしても大内裏には行こうとしていたこと、そして、直前になって予定を白紙に戻したことは既に記したとおりである。まだ三歳である土御門天皇はさすがに自分がこれから何をするか深く理解できていなかったであろうが、それでも自分がこれから父の後を継ぐこと、そのための儀式が執り行われること、そしてその儀式が他ならぬ父によって直前に予定が乱れたことは理解できていたであろう。さて、先に、三月三日まで
忘れてはならないのは鎌倉幕府の存在である。源頼朝が遠く離れた相模国鎌倉にいながら、その距離を感じさせないレベルで京都内外の情報を収集していたことは後鳥羽上皇も知っている。そして、情報伝達経路というものは一方通行ではなく往復で利用可能である。つまり、源頼朝が鎌倉にいながら京都の情報を手に入れることができるということは、後鳥羽上皇にとっても京都にいながら鎌倉の情報を手に入れることが可能だということである。しかし、ここで一点の問題がある。鴨川東岸にある六波羅だ。かつて平家が根拠地として構え、源平合戦
康述は美濃国広瀬郷40数年の研究で広瀬氏族のルーツと歴史の概要を結集した貴重な情報です。金銭(著作権料一億円以上の評価)に換えられない成果です。記事は著作権法により保護されています。転載は出来ません。著作権侵害を確認しましたら、措置します。広瀬一族の先祖は、広瀬加賀守康述で鎌倉時代初期から代々続く美濃国広瀬郷(岐阜県揖斐郡揖斐川町)の地方豪族の家柄です。清和源氏の末裔と伝えられています。広瀬一族の先祖・広瀬康述は、鎌倉時代初期の1200年に美濃国広瀬郷広瀬村の領地を支配する地位(地頭)が与
それにしてもなぜ鳥羽か?過去三代の院政では鴨川の東に院政の根拠地を置くか、もしくは、平安京の真南にある鳥羽の地に身を寄せた。なぜ独自の根拠地を持たなければならないかというと、実は、上皇や法皇は内裏に入ることができないのである。平治の乱で藤原信頼によって後白河上皇が二条天皇とともに内裏に監禁されたことがあるが、これは例外中の例外で、天皇が内裏を離れて父や祖父や曾祖父のもとを、すなわち、上皇や法皇のもとに向かうことはできても、上皇や法皇が内裏にいる子や孫や曾孫のもとを、すなわち、天皇のもと
石清水八幡宮に到着した後、後鳥羽上皇がどのように過ごしたかの記録も残っている。すなわち、石清水八幡宮に参拝した後、巫女の里神楽を奉納し、大僧都弁暁が導師として経供養を行い、ついで浄衣で若宮に参ると、近習の人々や巫女三十人ほどが拝殿に集まり、乱舞に堪能の輩が白拍子を舞って、御幸の一日目が終わったというのがこのときの石清水八幡宮詣である。豪奢にして壮麗に感じるであろうし、緊縮財政論者が聞いたら卒倒する内容に感じられるであろうが、治天の君である上皇の参詣ならばこれぐらい当たり前である。ついでに言うと
・再読1回目、通読2回目。・NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』を見て購入(2年前)。・良心的値段である。・初読の時より本書を理解できたと思う。・巻末の朝日新書版参考文献に『承久の乱研究の最前線』(2021年刊行予定)とあるが、2024年4月28日現在刊行されていない。鈴木由美氏の論文「大江広元と三善康信」と細川重男氏の論文「伊賀光季の系譜と家」が未刊行の前掲書に収録されているらしい。買って読むので早く刊行してほしい。・後鳥羽上皇や三浦胤義、藤原秀康・秀澄兄弟など承久の乱で負けた側の
日を改めるともっと困惑する記事が出てくる。建久九(一一九八)年二月一四日、後鳥羽上皇が石清水八幡宮へ御幸することとなった。これだけならば問題ない。上皇が石清水八幡宮へ参ること自体は珍しい話ではなく、後鳥羽上皇の行動は前例踏襲である。しかし、規模が前例のない壮麗さ、そして、スケジュールが綿密でないとなると、周囲の人はただただ振り回されることとなる。このときの石清水八幡宮への御幸について、後鳥羽上皇が綿密なスケジュールを立てずに行き当たりばったりで行動するつもりだとするのが当時の人の出発前
・再読二回目、通読三回目。・今更ながら関幸彦氏の『刀伊の入寇』(中公新書)の参考文献に本書が挙げられていた事を思い出す。・次は書店にあった『伝説の将軍藤原秀郷』を買って読むべきか。『源氏と坂東武士』を注文して読むべきか。
藤原定家が呈している苦言の全てを受け入れるわけにはいかないが、受け入れなければならない苦言もある。院政開始前から周囲に人を集めていたこともあって、一九歳にして治天の君となった瞬間に、後鳥羽上皇の周囲には後鳥羽上皇の意のままに動く人材が揃っていた。その多くは自らの不遇からの一発逆転を狙って院政に自らの未来を託した野心家である。その野心家の全てを後鳥羽上皇は周囲として迎え入れたのではない。後鳥羽上皇は自らの周囲に集った人材に競争させたのである。ここまではいい。問題はどのように競争す
☆奈良県葛城市の当麻寺で「中将姫展」最古の中将姫像掛け軸など凜とした姿見て-5月6日まで奈良県葛城市当麻の当麻寺中之坊・霊宝殿で、春季特別展「中将姫展」がきょう13日から始まる。修理前最後の公開となる、最古の中将姫像の掛け軸「中将姫廿九才像」(鎌倉時代・県有形文化財)などを展示する。5月6日まで。(4月13日(土)奈良新聞〈一部抜粋〉)写真は以前のもの當麻寺中之坊住所:葛城市當麻1263電話:0745-48-2001
檪谷七野神社は、賀茂斎院跡といわれています。平安鎌倉時代、賀茂社に斎王が奉仕していました。斎王(皇族の女性)の居住地『いつきのみや』といいます。即ち、賀茂斎院です。
もっとも、実際の後鳥羽上皇はそれなりに政務も執っていたはずであり、藤原定家がこうした後鳥羽天皇の日常の過ごし方について苦言を呈しつつ書き記しているのも、上皇としてのあるべき姿、すなわち、上皇としての政務を執っている姿は特筆すべきことではなかったからであろう。藤原定家の日記を紐解くと、建久九(一一九八)年二月三日に後鳥羽上皇が殷富門院のもとへ御幸したことの記録が出てくる。藤原定家はその御幸の様子があまりにも壮麗であり、卑近な言葉で言えばどんちゃん騒ぎを繰り返したことを非難している。また、後鳥
さて、ここまで後鳥羽上皇ではなく後鳥羽院と記してきたのには理由がある。実は、天皇を退位すると同時に上皇となるのではない。天皇退位の後に太上天皇の尊号が奉られてはじめて上皇となるのである。ゆえに、退位してから上皇となるまでの間は、後鳥羽院と記すことならばできても後鳥羽上皇とは記せないのである。また、どんなに用意周到な譲位ではあっても、退位と同時に上皇として院政を開始できるわけではない。このあたりは、衆議院の総選挙で次期首相が決まったとしても、正式に総理大臣に就任するのは国会での指名の後で
土御門天皇の治世が始まったことで新帝の外祖父となり、院政を始めた後鳥羽院の院司となった土御門通親こと源通親の権勢は頂点を極めるはずであった。しかし、後鳥羽院はまだ一九歳という若さながら既に老獪さの片鱗を披露するようになっていたのである。土御門通親の権勢の根幹は、天皇の外祖父であることと、後鳥羽院の院司別当、つまり、後鳥羽院に仕える貴族や役人達のトップであることの二点である。そして、この二点とも永続する要素ではない。どういうことか?替えが効くのだ。後鳥羽院にとっては自分の
残酷な鎌倉幕府のテーゼ。義経を滅ぼした頼朝も、からの頼家、実朝も、執権北条氏もやがて残酷な天使のテーゼ。
・通読二回目。良い本である。・163㌻3行末~4行初め石工集団がが当地にとあるが石工集団が当地にではないか。「が」が一字多い。既に他の方が指摘しているかもしれないが、念の為記す。
東京都福生市より東京都青梅市に移動してきました。ここは塩船寺さんで青梅市吹上菖蒲園も近く良いお天気なので立ち寄らせていただきました。参拝させて頂き違う場所に移動します。青梅市にある宗泉寺さんに移動してこのあたりの少し高台の場所から青梅市の風景を眺めようと思います。こちらには東京都天然記念物に指定された宗泉寺のカヤの木があります。宗泉寺さんの本殿
🌛訪問ありがとうございます「写本では分からない定家の思考を知ることができる貴重な史料」定家の自筆本見つかるという記事です。鎌倉時代初期の歌人、藤原定家(1162〜1241年)の自筆による古今和歌集の注釈書「顕注密勘」が見つかった。顕注密勘は、平安時代末期の僧、ありがとう顕昭による古今和歌集の注釈に対し、定家が自説の注釈を加えた書物。写本は確認されていたが、自筆本は、初めてで古今和歌集の解釈を伝える「古今伝授」で冷泉家が使う文章を入れた木箱の中にあった。(2024.4.20
バルス!目がー目がー!ムスカの寺田農さんも帰らぬ人に。それでもバルスはつづきます。
【流石、冷泉家】藤原定家直筆の「古今和歌集」注釈書が見つかる[R6/4/20]※自演防止@jien1:第13艦隊◆IpxlQ2BXrcdb:24/04/20(土)13:33:14ID:???鎌倉時代を代表する歌人、藤原定家(1162~1241年)が記した古今和歌集の注釈書「顕注密勘(けんちゅうみっかん)」の原本が、定家の流れをくむ冷泉(れいぜい)家(京都市)で見つかった。公益財団法人「冷泉家時雨亭文庫」(同)が18日、発表した。写本が重要文化財に指定されているが、直筆書が確認
ネタなしなので本日はいも壱店主ワタクシ城のルーツを紐解くと題し貴重な1ページをむだにしたいと思いますウィキペディアの一説には城氏(じょうし)は、鎌倉時代から安土桃山時代に肥後国に割拠した国人豪族。菊池氏の一族。菊池氏の一族で、菊池能隆の子の隆経を祖とする。南北朝時代の『菊池武士書状』や『太平記』に菊池氏の一族として城氏の名がある。懐良親王に仕えた菊池武光に属し、各地の戦で活躍した。室町時代以降は赤星氏・隈部氏と共に菊池氏の三家老家の一つに数えられた。と、あり、また隈本城主時代…キリシタン
同日、後鳥羽天皇が退位して為仁親王に帝位を譲ったのである。土御門天皇の治世のスタートであり、後鳥羽院の院政のスタートの瞬間でもあった。土御門天皇はまだ三歳であるため、天皇としての政務を執ることは期待できず摂政が必要となる。土御門天皇の治世のスタートに合わせて関白近衛基通は関白を一旦辞任し、改めて土御門天皇の摂政に任命された。摂政にしろ、関白にしろ、自動的に就任できる役職ではなく天皇によってその都度任命される役職であるという建前は変わることない。そして注意すべきは、摂政近衛基通が土御門天
読売新聞より「国宝級」藤原定家直筆の古今和歌集の注釈書、冷泉家の蔵から見つかる…推敲の跡も生々しく「国宝級」藤原定家直筆の古今和歌集の注釈書、冷泉家の蔵から見つかる…推敲の跡も生々しく【読売新聞】鎌倉時代を代表する歌人、藤原定家(1162~1241年)が記した古今和歌集の注釈書「顕注密勘(けんちゅうみっかん)」が、定家の流れをくむ冷泉家(京都市)で見つかった。公益財団法人「冷泉家時雨亭文庫」(同)が1www.yomiuri.co.jp訪問して下さった方、【いいね】をして下さっ
建久九(一一九八)年一月五日、権大納言土御門通親が後院別当に就任することが発表された。後院別当とは、字義だけを捉えれば天皇の退位後の住まいの管理人であるが、そのような字義で捉える者などいない。院政という概念が誕生した後の後院別当とは間もなく始まる院政のキーパーソンに任命されたことを意味する。土御門通親の後院別当就任により、間もなく後鳥羽天皇が退位すること、退位して後鳥羽院政が始まること、後鳥羽院政において土御門通親が重用されることが決まったのだ。そして、次期天皇が事実上公表された。建久
1日目の6番目の札所は・・・五十番繁多寺(はんたじ)札所境内、正面が本堂。境内に鳥居がある札所。大師堂五十一番石手時(いしてじ)規模の大きな札所です。門も大きい!門は鎌倉時代の建立で国宝だそうです。外国の方も、大勢お参りされていました。吽形像阿形像仁王様も躍動感があって力強そうです!三重の塔(鎌倉時代の建立で重要文化財との事)本堂と手前参道にある大きな五鈷杵!本堂背後の山頂には弘法大師!お金かかってますね~
後鳥羽天皇の即位の状況はこの時代の人であれば誰もが知っている。ゆえに、帝位に就く資格を有しながら弟に追い抜かれた守貞親王と惟明親王のことは、この時代の人であれば誰もが知っている。これは平家物語の延慶本の伝えるところであるが、どうやら源頼朝は守貞親王を後鳥羽天皇の次の天皇と目論んでいたようなのである。ただし、源頼朝が守貞親王をわかりやすい形で推していたのではなく、文覚を通じて守貞親王の即位の後援をしていたというのが平家物語の記載だ。ただ、これは平家物語の過剰反応とも言える。守貞親王と文覚
奈良市の西大寺石落神社(しゃくらくじんじゃ)には、八重桜が一本あります。それか満開です。石落神社は、隣にマンションがあり、全景を取るのはちょっと…な近さです。また、神社の由緒は、鎌倉時代に西大寺を再興した叡尊上人が、石落神=少彦名命を祭ったと伝わっているのだそうです。現存の祠は、室町時代のものです。おしまい。
建久八(一一九七)年の年末時点での鎌倉幕府の継承は理論上の話であったが、それよりはるかに大きな継承、すなわち、皇位継承は現実味を帯びてきていた。かなりの可能性で、後鳥羽天皇は退位して上皇となり、院政を敷くという未来が見えてきたのである。建久七年の政変時、後鳥羽院政は可能性の一つとして考えられはしたものの、現実味を帯びた話ではなかった。それが一年近くの時間経過で現実味を帯びるようになってきた。源頼朝は情報の重要性を強く認識していた人であるから例外に近いが、源頼家が従五位上右近衛権少将に任命さ