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北条泰時から鎌倉に送られた戦勝報告が鎌倉に到着したのは、承久三(一二二一)年六月二三日の未明、丑刻というから今で言うと夜中の二時頃である。息子から届けられた戦勝報告を読んだ北条義時は喜びを爆発させたという。五月二二日に北条泰時らを派遣させてからの北条義時は、戦勝と平穏を祈る祈祷を、鶴岡八幡宮、勝長寿院、永福寺、大慈寺で開催させており、六月八日には北条義時の邸宅の建物の一つに雷が落ちて、その建物で働いていた者が一人亡くなったという事故が起こっており、これを凶事と考えた北条義時に対して大江広元
ママス&パパスMondayMonday1966鎌倉時代のサイゼリヤグーグル社の好待遇毎日食事代その他が無料なのは、年間でかなり凄い差を生む。年収・生活レベルの早見表メッキを直す塗装もひとつの方法ニッケルメッキの剥離方法
鎌倉へ書状を送ったのは、第一報が承久三(一二二一)年六月一六日、第二報、すなわち交名(きょうみょう)が六月一八日である。できる限り早急に鎌倉に届けるとしても、鎌倉からの返信が来るのは早くても月末、順当に行ったとしても七月初頭である。つまり、鎌倉から戦後処分についての指令を記した書状が来る前に、北条泰時と北条時房は、京都でできる範囲について動き始めなければならなかった。残党討伐は当然であるが、鎌倉方の支配下に置かれることとなった面々についての処遇も決めなければならない。これが普通の戦いで
2024-08-102024年ほうふ縁めぐりをしました。防府市内の18の寺社をめぐって御朱印をいただくというイベントです。😊鎌倉時代の正治元年(1199)の創建。御祭神は応神天皇、仲哀天皇、神功皇后。手入れされた境内で、お笑講発祥の地の石碑がありました。
あれってそれってどんな味噌なの〜金山寺味噌(キンザンジーミソ)ー※地方調味料内容含み頂き物で頂いて、、美味しかったので上しく調べてみました、、調味料と云うより、おかずのような感じで頂きました。--甘味噌มิโซะหวาน/Misoah̄wān※G先生作タイの「甘味噌」เต้าเจี้ยว/タオチオ[固名]
この交名(きょうみょう)を吾妻鏡は詳細に書き記す。六月十四日宇治合戰討敵人々秩父平次五郎〔一人不知名〕小笠原四郎長清〔一人付絃袋〕佐々木又太郎右衛門尉〔同〕奈良五郎高家〔一人〕横溝五郎〔一人〕佐竹六郎〔二人内一人手討〕押垂三郎兵衛尉〔一人郎等討之〕冨田小太郎〔一人〕戸村三郎〔三人内生虜一人勅使左衛門尉入道〕浦太郎〔三人〕嶋津三郎兵衛尉〔七人内僧一人生虜二人〕若狹兵衛入道の部下〔三人〕宮木小四郎〔一人野次郎左衛門尉〕大井左衛門三郎〔一人〕品河小三郎〔二人〕品
北条泰時は戦勝者として京都と目と鼻の先の六波羅に入った。現在の六波羅は京都の一部であるが、この時代の六波羅は平安京の外であるために厳密に言うと京都ではない。そのため、平安京内の武装は正式な武官や検非違使のみに許されるというルールを北条泰時は守っていることになる。ただ、今後も平安京の中に軍隊が攻め寄せないことを意味するものではない。鴨川を渡った六波羅に詰めかけている大軍がいつでも平安京の中に突入できる状態が続いているため、戦いで敗れた者の命運は北条泰時ら鎌倉方の手に握られることとなったのであ
・まずは磨崖仏のさらに石段を登りきった場所にある熊野権現神社へ。と言っても・特に何があるというわけでもなく、すぐに折り返して国内最大級の摩崖仏へ。・平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて造られたとされており、国の重要文化財・および史跡に指定されているとのこと。高さ約8mの不動明王像と高さ約6.7mの・大日如来像が岩壁に刻み込まれています。これは厚肉彫りということ。不動明王の表情はユーモラス、大日如来像は端正な顔立ちが特徴とのこと。・降りてきたすぐ脇にある国東六郷満山胎蔵寺は摩崖仏と
去年の今頃の話ですが、「シャトレーゼ」に行ったら"金平糖"が売っていまして。「信長が好きだった金平糖じゃん」と購入して、久しぶりに食べてみたら美味しかったんです。でも、次に行ってみたらもう売っていなくて、ションボリ。それ以来全く見なくなったのですが、先日行ってみたら、また販売していたのです。どうやら、ひな祭り時期だけの、期間限定販売・催事物扱いみたいですねー。さっそく購入しました…が…ひな祭りにコンペイトウって常識なん…?聞いたことないような。まぁ、家庭円満・子孫繁
これから鎌倉武士がやってくる。京都を守る武士はもういない。北条泰時は、後鳥羽上皇らによって捕縛されていた西園寺公経の邸宅については守ると布告したものの、その他については何も記していない。戦々恐々とした情勢の中、朝廷にできるのは鎌倉方に対して、限界まで譲歩を重ねた上で講和条件を結ぶことだけであった。承久三(一二二一)年六月一五日の辰刻、現在の時制に直して午前七時から八時頃に、朝廷からの勅使の小槻国宗が、官掌二名、使部二〇名などの下級役人を伴い、仲恭天皇の名で発給された勅定を携えて
「また武士に生まれ変わってくれよ。未来ではどの家に生まれても、きっと仲良くなれるから」源義経(みなもとのよしつね)役早乙女大和(さおとめやまと)【高居茉央→早乙女大和】今回の相手役うううう!!いつも振り回してごめんねの気持ちと着いてきてくれてありがとうの気持ちでいっぱいです。私より若いのに経験豊富で、しっかりしてて、甘えてばっかりなのにそれを受け入れてくれる懐の深さが本当に尊敬します。お稽古場でたまーにぼーっとしてる時の顔がツボです😎殺陣ではばちばちにかっこいい
「俺たち坂東武士の実力を、しかと見せつけるのだ!」源頼朝(みなもとのよりとも)役古田龍(ふるたりゅう)【姉﨑凌→古田龍】ワイルドバンチの御大将そして我らが頼れる兄上!去年の夏に他団体さんの舞台で共演させていただいてから何故か可愛がってもらってますいつもありがとうございますこの方ははとにかく芝居も殺陣も熱い劇場でこの熱量を是非感じてほしいですそして龍さんが演じますは源頼朝頭がキレてカリスマ性があり何より強い、まさに完璧超人!そんな兄上に範頼はずっと着いていきますよ
宇治を突破した北条泰時らは、鵜飼瀬、木幡、伏見を経て深草河原に陣を敷いた。もはや京都は目と鼻の先である。鎌倉方が間近に迫っていることを知った京都方は、西園寺公経を通じて北条泰時のもとに三善長衡を使者として送り込むこととした。捕縛状態にあった西園寺公経を解き放つことでようやく後鳥羽上皇と北条泰時との間にコンタクトを取る手段が確立されたわけであるが、それはあまりにも遅すぎた。情勢は決着していたのである。北条泰時から三善長衡への返答は二点に集約できた。明日、入京する。南条時員に命じ、
本日発売の週刊大衆。歴史偉人「裏素顔」は、鎌倉時代に将軍を傀儡としていたと言われる長崎円喜の特集です。原作/跡部蛮イラスト/萩山明日香次回掲載は、3月9日です。歴史偉人「裏素顔」をよろしくお願い致します。
Imaginetheeternalhistoryofthingsbylookingatthingsfromathousandyearsagoある仏師が言った言葉だが、「千年前を振り返り、千年後を考え仏像を彫る」と。聞いた時はピンと来なかったが心に響く言葉だった。文字や画像で千年前の平安時代を想像することはできるが、実際当時に使われていたモノなどのを観ることで歴史の事実を認識する。それは補修修復されたモノではなく、千年前のそのままを確認できるのは仏像の中からよく出
「室町幕府」のナンバー2「管領」を務めることができる3つの家「三管」。これまで「斯波氏」「畠山氏」をやってきたので、今回は最後の「細川氏」について語って行きます。なお、「細川氏」といえば以前、こんなブログをやったことがありました。系図で見てみよう(細川家/細川護熙サン)(参考)https://ameblo.jp/gonchunagon/entry-11750197395.html「日本新党」党首にして内閣総理大臣・細川護熙サンまでやるのは、さすがに行き過ぎでもあり(笑)
名称:池上氏館城郭:平城築城年:鎌倉時代築城主:池上宗仲主要城主:池上氏所在地:大田区池上2-10-5「大坊本行寺」池上氏館跡
この頃になると京都方は次々と渡河してくる鎌倉方に取り囲まれるようになり、ある者は討ち取られ、ある者は戦場から逃走した。なお、このときの戦闘で興味深い記録がある。百錬抄の六月一三日の記録によると、京都方の兵士達が兵糧を守ろうとし、鎌倉方の武士達が京都方の兵糧を奪おうとし、それが戦闘の勝敗を決めたというのである。おそらく鎌倉方の兵糧はギリギリなところであり、ここで京都方の兵糧を奪わなければ戦いは継続できなくなっていたであろうこと、それは京都方も同じで、ここで兵糧を奪われたならばもはや抵
名称:石神井城城郭:連郭式平山城築城年:鎌倉時代後期築城主:豊嶋氏主要城主:豊嶋氏所在地:練馬区石神井台1-26-1指定文化財:都指定史跡主郭へ主郭空堀土塁三宝池
承久三(一二二一)年六月一四日早朝、北条泰時は攻撃開始を命じた。芝田兼義、春日貞幸らにまずは宇治川を渡らせ、佐々木信綱、中山重継、安東忠家らがそれに続く。鎌倉方が宇治川の中洲を見つけたと知った京都方は矢を射かけて防戦し、さらにここに増水した宇治川の水流が加わる。渡河しようとする鎌倉方の少なくない者が宇治川の流れに流されて命を落とした。これを見た北条泰時は、息子の北条時氏を呼び寄せて渡河を命じ、北条時氏は佐久間家盛、南条時員ら六騎を率いて川を渡った。また、三浦泰村も主従五騎で川を渡った。
お金とは「りんごと交換できる券」を配っているだけ、という話これって要するに、今のお金の仕組みをものすごく単純にすると、こういうことだと思う。---りんごと交換券の例え今は、りんごを交換する際に、実際のりんごは5個しかないでも「りんごと交換できる券」は10枚あるそんな状態に近い。だから、りんごを交換しようとしても、券がいくらあっても実際にりんごを手に入れられるのは5人だけ残りの5枚の券は、りんごと交換できない以上、無価値になるもしくは、りんご1個を手に入れるため
アニメ「歎異抄をひらく」をみた。たまには、こういう話をみるのも面白かろう、と。学生時代に鎌倉時代に興った仏教の一つである浄土真宗の開祖である親鸞について勉強した。親鸞が「善人なおもて往生す。まして悪人においておや」という悪人正機を説いた、と。そのときは、ただの勉強で頭で理解したレベルだ。歎異抄って、親鸞が書いたのかと思ったら彼の弟子の唯円が著したということを知った。この話の主人公がその唯円だった。今年、私も62歳。今世の事象に一喜一
宇治に向かった北条泰時らは当初、まずは宇治に向かう途中で陣を張り、翌朝に宇治に向かって行軍して戦闘を開始する予定であった。そして、実際に全軍に対して陣を敷くよう命令した。なお、北条泰時らがどこで陣を張ったのかの記録は一定ではない。吾妻鏡によると栗小山であるとしている一方、承久記では岩橋に陣を張ったとしている。どちらも翌朝の宇治への攻撃を考えれば適切な地点だ。また、この日は雨が降っており、行軍に必ずしも適した天候であるとは言えなかったことから陣を張って夜が明けるのを待つのは定石と言える。しか
鎌倉〜南北朝__鍍金が蓮(弁)座のところなどに確認できます。高さ:約8、6cm
以前にも語りましたが、「三管四職(さんかんししき)」とは、室町時代の家柄を表す言葉。室町幕府のナンバー1は「将軍」で、ナンバー2は「管領(かんれい)」。「管領」になれる家は「細川」「斯波」「畠山」の3家だけ。人呼んで「三管」(「三管領」)。管領に次ぐ重職、室町幕府の軍事機構「侍所」の長官「所司」になれる家は「京極」「山名」「赤松」「一色」の4家だけ。名付けて「四職」。で、先日「三管」の一角である「斯波氏」を特集したので、どうせなら他の2家もやってしまおうよ…と、思い立ちま
承久三(一一二一)年六月一三日、休息を終えた鎌倉方が一気に動き出した。北条時房率いる軍勢が瀬田へ、北条泰時率いる軍勢が宇治へ、毛利季光と三浦義村がそれぞれ淀と芋洗へ向けて出陣した。最初に戦闘が繰り広げられたのは瀬田である。瀬田は琵琶湖の付け根の土地であり、大阪湾へと流れる瀬田川の始まりの土地でもある。東海道や東山道から陸路で京都に向かうには瀬田の橋を渡るのが一般的であり、京都方は瀬田の西岸に陣を構えると同時に瀬田橋の板を外すことで渡らせなくさせていた。この瀬田を守っていたのが、美濃
承久三(一二二一)年六月八日、北陸道軍と京都方と激突のうち最大の激戦が起こった。北条朝時、結城朝広、佐々木信実らの率いる鎌倉方の軍勢が、越中国の在国武士達を率いた宮崎定範、糟屋有長、仁科盛朝、友野遠久らの京都方と激突し勝利したとの記録が残っている。ただし、この時点ではまだ北陸道軍の居場所が越中国であり、東海道軍と東山道軍の合流にさらに加わるとすれば、加賀国、越前国を経て近江国に入らなければならない。これは一日や二日でどうこうなる話ではない。もっとも、鎌倉を出発した後の距離を考えれば順当か、ある
これまた20年以上前の講演を収録したモノだ。恐らく年月が経てば忘れてしまうだろうから再発行するのだろう。生き方を問う。まず、この本が出版される直前に「ジャニーズ問題についてどう思いますか?」と尋ねられたようだ。そんなもん知るか!って話で終わってしまう。私的にも到底、養老孟司教授が、そんな下らん話題に首を突っ込むはずもあるまいとは思っていたんだけど。講演していると話に耳を傾ける。その情報は脳に入り目で文字を書く。つまりメモを取っている。耳から入る情報と目から入る情報がイコー
静嘉堂美術館「たたかう仏像」勇ましい形相恐ろしい形相それらは守るための威嚇であったり戒めであったりするこちらの4体は十二神将立像鎌倉時代1228年の作品12の神は干支の神子神像午神像丑神像卯神像中国の唐時代8世紀に中国のお墓の前には俑(よう)と呼ばれる像が置かれていた。お墓を敵から守るためでどの俑も厳しい表情どこか子供っぽくてカワイイ怒り顔広目天眷属立像(こうもくてんりつりゅうぞう)気迫に目を奪われた!最後に菩薩像の微笑みに癒されて…
昨日のことになりますが、千葉の方に行って参りました。目的は千葉市立郷土博物館で開催されている特別展「千葉氏と城館」の見学です。千葉氏というと源頼朝と関係が深い武士団であり、当然千葉城(猪鼻城)も千葉氏の本拠地として頼朝と関係している城とされていました。が、近年の研究成果と実証主義に基づくと千葉城と源頼朝の関連が見いだせないという話になり、学術界で論争段階に入っていたわけです。この疑問に関して、千葉氏の研究といえば千葉市郷土博物館ですから、まずここの公式見解は如何ということで、文字道理「城