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東京国立博物館の北側庭園内には、「九条館」や「応挙館」、「六窓庵」、「転合庵」、「春草廬」など5棟の茶室があります。庭園茶室ツアーでは、東博ボランティアの方のご案内で、実際に中に入ることや、躙り口から茶室の中を見ることができます。ツアーは50分ほどで、説明の合間に、写真を撮る時間もあります。東博ボランティアの方の説明は、分かりやすく、そして親切でした。今は花も少なく、木々も落葉しているので、庭園を楽しむのはもう少しあと。今回は、お茶室をメインに楽しんで見てきました。九条館
この禅昌寺は国道41号線を下呂から少し西に進むと、右側に禅昌寺を案内する石柱があります。ここは萩原町中呂で約400mほど上がって、LR高山線の踏切を渡っていくと、臨済宗妙心寺の寺院の禅昌寺があります。平安時代、恵心僧都が桜洞(下呂市萩原町)に観音世菩薩を彫り、草庵を開いたのが始まりという。後に後円融天皇が皇后の安産祈願したところ,皇子が誕生したので、永和3年(1377)円通寺の寺号と、ともに勅願所として「天下十刹」の綸旨をさずけた。その後兵火をうけ廃絶したため桜洞城主の三木直頼が,天文元年(
村田珠光(ジュコウorシュコウ)大和の出身で、禅を一休宗純に師事した。足利義教・義政の同朋衆(ドウボウシュウ)の能阿弥に唐物の鑑定や茶湯の作法を学び、京の六条堀川に4畳半の草庵茶室を開き、わび茶の先駆をなすとされ、「象牙の茶杓を竹の茶杓に変えた」のは、珠光だったと云う。武野紹鷗紹鷗は、若狭の守護大名・武野氏の末裔。父・信久は和泉の堺で皮革業を営み成功して産をなした。紹鷗は京に出て三条西実隆(サネタカ)に和歌を学び、茶の精神に触れた。村田珠光に師事し、侘茶を学び、室町四条に茶
【食育クイズ:Vol.1782】「京都府」の「金閣寺」おさらいクイズ!鳳林承章の依頼で金森宗和が金閣寺に建立した茶室とは?↓↓↓↓↓↓問題は下記から↓↓↓↓↓↓∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞コッチラボ国産大豆100%大豆ミートプレミアムソイミンチ粗挽き鶏ミンチ風サラダ・スープに大容量サイズ1kgAmazon(アマゾン)大豆コーヒードリップパックAmazon(アマゾン)たねすはら無添加
昨日から10月のお稽古に備えて季語の復習を始めているが、旧暦の10月は、今の暦では大体11月くらいなので、紅葉の時期で銀杏散る、末枯(うらがれ)薄紅葉、錦秋、初紅葉、紅葉狩、照葉、などが季語とされており、この季節のお茶碗にも「紅葉呉器」、「紅葉図」などが挙げられる。昨日泉屋博古館所蔵の紅葉呉器を挙げたが、この「呉器」という言葉がひっかかるのは当然で、「呉越同舟」という成句があるようにどうみても「呉」は中国(上海あたり)で高麗(朝鮮)は意味しない。というこ
今日は長年の念願が叶って、大徳寺の塔頭「真珠庵」の特別拝観に出掛けていた。大徳寺の塔頭の中でも、さほど広くはない、むしろ小さ目のお寺である。このお寺は、あの〝一休さん〟一休宗純を開祖として、没後10年となる1491年に、堺の豪商・尾和宗臨によって建てられた。一休宗純は、後土御門天皇の勅命で1477年に大徳寺の第48世住持となり、1467年から10年余り続いた「応仁の乱」で荒れてしまった、大徳寺の再興に尽したとされている。(大徳寺山門「金毛閣」)ただ本人
…【48】庭玉軒(テイギョクケン)は、客殿の北にある通僊院(ツウセンイン)の北東に付属し、金森宗和好みとされる。書院の東側の庭園が外露地に当り、縁が腰掛に充てられている。南側の潜りを入ると内部は一坪半ほどの土間で飛石が打たれた内坪となっており、中に蹲踞(ツクバイ)や刀掛が設けられている。つまり、内坪は内露地の役割を果たしており、内露地が屋内化されている。内坪と室内は直結しており、室内は二畳台目である。
座談会での中村直勝氏、司会の林屋晴三氏による宗和評が面白い⭕️「宗和がチョロチョロして東福門院のご機嫌を取ろうとするのは宗旦には腹の立つ事だったろうね」⭕️「大嘘つきの金森は異端者」「宗和の道具は仁清」
宗旦文書165要約「73歳になり茶の湯は更に面白くなった。京衆は呼ばず大徳寺衆と一世一代の茶を楽しんだ」宗旦文書148要約宗旦文書150要約「片桐石州や金森宗和は嘘がある、正直でなければならない」宗旦文書151要約「金森嘘つき茶湯、石州も江戸にて嘘がばれた」宗旦は、この様に綺麗さび、姫宗和と言われた利休没後の、風潮を極端に嫌った。侘び茶を貫きたかったのだと。
仁清の茶碗は、これまで書いたとおり、かなり幅広い作風のものがある。そのなかで色絵のものだけみても、沢山種類があって、黒釉を全体にかけて、絵窓を作りそこに花、扇面などを描いたもの黒釉色絵芥子(けし)文茶碗.黒釉色絵芭蕉文茶碗凄くデザイン的で、現代の陶芸家の作品といっても、通用する。これに対し、素焼きの茶碗に絵付けしたものも多い。色絵三日月波文茶碗(東京国立博)色絵松島図茶碗銘「蓬莱山」(大樋美術館所蔵).などがある。いずれも釉薬が比較的薄くて、
『27年ぶりの母校』昨日の投稿の続きです。1年前の話ですが、3月27日、母校の同志社大学へ。京都御所から今出川通りを渡ったらすぐ。私は法学部だったのですが、当時はどの学部も1・2…ameblo.jp↑の続きです。京都御所、同志社大学、そして最後の目的地は相国寺。3年ほど前に箱根の岡田美術館で伊藤若冲の展示を観ていて、若冲にゆかりのある京都の相国寺に若冲の作品があるということを知りました。相国寺(しょうこくじ)ってどこだろ?と調べてみると、母校のすぐ北側でびっくり。足利義満が創建した臨
【食育クイズ:Vol.1136】「京都府」の「茶人」おさらいクイズ!「京都」で活躍した茶人の年代順で正しいものはどれ?∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞∞【食育クイズ:Vol.1135】(「京都府」の「歌碑と寺社仏閣」おさらいクイズ!「京都」にある歌碑と寺社仏閣との組み合わせで間違っているのは?)の↓↓↓↓↓↓正解と解説↓↓↓↓↓↓【解説】「吉田兼好」の「歌碑」や「墓」があるのは「仁和寺」では無く
閲覧ありがとうございます!他流のお棚について、特に協力者求む!です。お裏さんとか、正直棚が多すぎて(汗)これに形をトレースした挿絵をつけて、まとめようと思ってます。できれば尺寸も書き添えようかと。好の一覧ってやはり必要ですよねぇ。ご協力いただけた方には、PDFにて原本をお渡しいたします。三人寄らば文殊の知恵ではありませんが、何卒ご協力お願いいたします。棚物好総覧《卓》・丸卓利休形桐木地…………【千】利休宗易好檜木溜塗………【表】啐啄斎好松木摺漆………【表】惺斎
京都国立博物館主催の見学会の続きです。方丈の襖絵の後は茶室に移動します。ここで説明が真珠庵スタッフに交替。庵関係者が多岐に渡って、時代の幅も結構あるので、よく分からなくなったのでまとめてみました。↑曽我蛇足は朝倉義景で、野々村仁清は金森宗和で代表させました。作品は評価されていても生没年不詳なんですよ、彼ら。文化財を守るタヌキ方丈の横には茶室があって両者を繋ぐ廊下の手前に昭和に描かれた一休さんの肖像画があります。一休さん肖像画に穴、犯人はアライグマか京都・大徳寺(写真=共
正観さんによると…。(旅じょうず入門…昭和57年)●自然保護の波昭和40年代後半、アメリカで発生した自然保護の波はアメリカの若者の旅や生活に浸透し、そのライフスタイルを「反公害」「省エネ」「自然保護」を核とするものに変えた。ジョン・デンバーに象徴される〝自然回帰派”は、交通手段に徒歩やサイクリングを選び、遊びも、動力を必要としないウインドサーフィン、カヌー、バードウオッチング(野鳥観察)などを考え出した。欧州の〝施設型”テニスやゴルフなどとは明らかに違う。最近ではさらに進み、原野
高山市/老舗料亭「洲(す)さき」を重要文化財国の文化審議会は5月20日、岐阜県高山市神明町の老舗料亭「洲(す)さき」の建物三棟を、重要文化財(重文)とするよう文部科学相に答申しました近く指定される見通しとの事です「洲さき」は、江戸時代後期の1794(寛政6)年に創業しました国の重要伝統的建造物群保存地区内にあり、2009年には高山市有形文化財にも指定されました。二代目高山城主の金森可重の長男で、茶道宗和流の始祖・金森宗和が好んだ味と形を伝える「宗和流本膳」を受け継いでい
茶の湯の続きですQ.231下図の茶碗が制作された歴史的背景として、最もふさわしいものは?①日本の磁器が、オランダ東インド会社によって輸出用にオーダーされた②古田織部が、美濃で自分好みの織部焼を制作させた③鮮やかさと枯淡の須弥に応える、色絵陶器や銹絵陶器の制作が京都で盛んになった④千利休が唐物中心だった茶席に和物を持ち込み、茶の湯用の陶器制作が始まった黒楽茶碗(俊寛)〈長次郎作/〉文化遺産オンライン天正年間(一五七三-一五九一)に千利休の好みを受けて「宗易形」といわれ
私は恥ずかしながら歴史や地理に弱く、夫からはいつも呆れられています。(夫は歴史や地理に強くて諸々の条件を気にせず純粋に好きな職業を選ぶなら高校の社会の先生になりたかったという人です。ちなみにお嫁ちゃんは激務で退職しましたが元は高校の社会の先生です。)神社仏閣巡りをするようになってから私は神仏だけでなく昔の人々の思いにも心を寄せるようになりました。元善光寺様にお参りしようと夫が言った時、私は木曽義仲公ゆかりの地が同じ長野だということをわかっていませんで
<京都、大原三千院(1)>「♪きょォとオーおーはらアさん・ぜん・いん!」ついつい口ずさんでしまう。メロディが、テレビアニメ「まんが日本昔ばなし」のオープニングテーマ曲の、「♪ぼうや~よいこだねんねしな」にそっくり似ているものだから、わたしの頭にしっかり刻み込まれているのだ。永六輔の作詞、いずみたく作曲で、1965年にデュークエイセスが歌ってヒットしたご当地ソング「女ひとり」という歌の出だしである。その歌われた大原の里に、ついに訪れた。なにかしら感慨深いも
■宸殿[しんでん]本殿。1926年(大正15年)御懴法講の道場として建立。2019年(平成31年)屋根葺替。宸殿東側。宸殿北東部山中の小祠。庭園の先に見えるのは、往生極楽院。宸殿前に広がる庭園。■有清園京都市指定名勝。池泉回遊式庭園。宗和流茶道の祖・金森重近(1584-1657)による作庭。有清園の名は、謝霊運(385-433)の句「山水有清音」に由来します。宸殿西側。
■地蔵像■有清園[ゆうせいえん]池泉回遊式庭園。金森宗和(1584-1657)作庭。中国六朝時代の詩人、謝霊運(385-433)の「山水清音有」より命名。青苔に杉や檜などの立木が並び、山畔を利用して上部に三段式となった滝を配し、渓谷式に水を流して池泉に注ぐようになっています。■地蔵像■宸殿■弁天池■亀島飛石の左の立石が亀の首。■三段落としの滝石橋背
禅昌寺の続き【禅昌寺庭園「萬歳洞」】禅昌寺の境内にある庭園「萬歳洞」は、宗和流茶道の開祖で優れた作庭家でもあった金森宗和が造園した庭園です。巨石を配して山に見立て、その間をぬって流れる水が心字池へと注ぐ、禅寺らしい蕭然とした日本庭園は、飛騨一美しいとも言われていて岐阜県の名勝に指定されています。ネットから借りてきました廊下から奥行きが狭く、写真の中にすべては収まらない座って撮れるのがこの位・・・・上の方までは撮れません
皆様こんにちは🍁本日もお読みいただきありがとうございます。お天気が良かったのでふと思い立って大原へ行ってきました。三千院へ向かう参道。中には閉められてしまったお店もあったけれど、お土産屋さんは結構(平日なのに)開いていました。観光客もちらほら。。。三千院桃山時代〜江戸時代の武将でありお茶人でもあった金森宗和が手掛けたと言われる聚碧園”(しゅうへきえん)どこの寺院もコロナ禍でお茶の提供を一時的に止めていらっしゃいましたが、こちらでは再開されていました。早速お庭を
∂六窓庵茶室茶室での句会や会議に利用できる博物館北側庭園内施設東京国立博物館の北側庭園内の「六窓庵」5名程度の小規模な茶事から茶会、句会、会議やコンサートまで、様々な用途でご利用出来る。他に九条公爵ゆかりの「九条館」など5棟の茶室がある。六窓庵ろくそうあん東京国立博物館庭園にある茶室。もと奈良・興福寺慈眼院内にあり、慶安(けいあん)(1648~52)年中に金森宗和の好みで成ったと伝えられる。明治初年、画家高階在晴(たかしなありはる)が入手し、在晴の没後1875年(明治8)
宗和忌茶会にお邪魔しました。薄茶席のお床には金森宗和像のお軸に端整な御香台には仁清の繊細な香炉が…再びこの美しい香炉を拝見出来て嬉しいです。仁清!仁清!宗和!宗和!仁清!といった御道具を拝見させて頂ける機会はそうそうないです。このような御道具たちも、もちろんたいそうなご馳走ですが、やはり美味しいお茶があってのことと思います。今回は良くも悪くもいろいろと考えさせられる時間を頂いたと思っています。お干菓子持ち帰り、自服一服…ホッ忌の装いにはちょうど良い色味かと…今月3つ目の茶会。あ
いつも読んで頂き、ありがとうございます。11月11日に、大徳寺真珠庵へ襖絵を見に行きました。「とんちの一休さん」一休禅師を開祖とする、真珠庵には、曽我蛇足、長谷川等伯、の襖絵があるのですが、その修理の間、新しい襖絵として、さまざまな方が絵描いたものの公開です。釣りバカ日誌の北見けんいち氏や、大人の一休さんの伊野孝行氏、等々それぞれが「何でもあり」で絵描かれた襖絵。すごいエネルギーです。一休禅師と交流が深かった、村田珠光作と伝わる七五三の庭では、かつて比叡山
この数日、比較的に良い天気が続いている。日中は暖かいものの、夜は冷え込み、本日、年季の入ったガスストーブの試運転をしてみた。もちろん当分は点けるつもりはないが、年を取るとやたらと用心深くなる(笑)。昼と夜の温度差が大きければ、良い作物が育つと言われているが、紅葉も同様らしい。一週間前に永観堂の一足早い紅葉を紹介済みだが、やはり全体的に様子見の状況が続いている。この様な状況なので、モミジに関して紹介されていない画像が無いかとパソコンフォルダーを探していると、今年の初夏に