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酒井雄哉大阿闍梨の世界六十四決まりを破ったら回峰行者ではない②回峰行の決まりの基本が書かれているのは、回峰手文である。この回峰手文は師資相承、すなわち師から弟子へと道(回峰の決まりやルート)を次第に伝えるのである。当然行者以外に門外不出で、それを行者自らが書き写すのである。そして、師匠から行者が守らなければならない決まりを申し渡される。それを「制誡(せいかい)」というが、その内容は以下のようである。一、回峰行の間は絶対に浄衣と袈裟を身からはなしてはならない。一、回峰の間はみだりに立ち寄
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十三決まりを破ったら回峰行者ではない千日回峰行は、「行不退」だという。いったん回峰行に入れば、いかなる理由があろうとも退くわけにはいかない。行が続けられない時は自害せよ、というのである。しかも浄域であり、霊山である比叡山中を穢してはならないから、山外に出て、やれというのである。このことでもわかるように、千日回峰行には大変厳しい決まりが、いくつもある。まず、千日回峰行は誰でも勝手にはできない。百日回峰行をやった者の中から、先達会議(千日回峰行者で構成)で許可された者
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十ニ行は、わしの人生の最後の砦③「出家の動機?それがあんまりはっきりしないのね。最初は伯母に、無動寺谷にある弁天さんに連れてこられたの。そしたら、お寺というのは葬式をやる所だとばかり思っていたのに、どういうわけか、護摩を焚いたり、行をやっているお坊さん達もいる。こんな生き方もあるんだなって思って、何となくお山に足を運んでいるうちに、得度しなさい、というの。得度って何ですかって聞くと、坊さんになることだというの。もう、うれしくなっちゃったね、わしなんかでも坊さんにな
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十一行は、わしの人生の最後の砦②酒井阿闍梨の半生をブロフィール的に紹介すると――ー。酒井阿闍梨は、大正十五年五月、大阪で生まれる。本名忠雄。まもなく東京に移り、旧制中学校を卒業後、予科練に入る。復員後、そば屋、菓子屋、株尾、工具など職業を転々とする。三十歳すぎに大阪に移り、結婚したが、妻が自殺。亡妻の母親に誘われて無動寺の弁天堂にお参りするようになったのが、昭和三十六年頃であった。その後もしばしば比叡山を訪れた。人生の挫折感を癒そうというのではなく、自分の残りの
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十行は、わしの人生の最後の砦初めて酒井阿闍梨にお会いしたのは、昭和五十五年の早春の頃であった。『日本の聖域――最澄と比叡山』を出版するため、写真の掲載許可をいただくのが目的であった。その後も、『行道に生きる』(島一存著)、『科学の知恵心の智慧』(広中平祐著)、『仏教健康法入門』(朝倉光太郎著)の出版で、編集者として著者に同行して酒井阿闍梨から話を聞く機会を得た。その他にも、画家の前田常作画伯、国立歴史民俗博物館の山折哲雄教授(当時)の取材にも同行し、インタビューさ
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十九酒井雄哉二千日回峰行の記録③この後、南谷西尊院から叡南の辻を経て、無動寺に至る。またもとの道を引き返して、大比叡の中腹、深い熊笹に覆われた行道を通って智証大師廟を経由し、法華総持院から西谷の山王院に出る。浄土院に礼拝して、西塔の各堂を巡拝し、峰道に至る。峰道で左右諸方を拝みつつ玉体杉で玉体加持を行なう。地主権現から阿弥陀が峰を通って横川中堂に至る。横川の諸堂を巡拝し恵心僧都の墓所より、斜め道を一挙に飯室谷に降りる。全長約四十キロ。酒井阿闍梨の足で所要時間七時間~
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十八酒井雄哉二千日回峰行の記録②まず、飯室不動堂を出峰。松禅院、慈忍和尚廟に進み、奈良坂を下って帝秋寺、西教寺と拝みながら日吉神社東本宮に至る。山王二十一社をくまなく参詣して生源寺前の鳥居に至り、坂本の諸方諸神を遙拝して滋賀院、真乗院、妙徳院、霊山院と進む。霊山院は、かつて酒井阿闍梨が小僧生活に入った寺で、故人となった師匠の冥福を祈る。霊山院を出て、走井堂、日吉神社西本宮をまわり、八王寺山の急坂を一気にかけ登っていく。八王寺三の宮を詣で、最澄の両親が参籠したと伝え
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十七酒井雄哉二千日回峰行の記録前項で「三百九十年ぶりの飯室回峰」と書いたが、実は、この久しく絶えていた飯室回峰の復興を願って百日回峰を満じたのが、酒井阿闍梨の師匠である箱崎文応師であった。昭和十五年九月に、無動寺回峰を千日満行した箱崎師は、昭和十九年に古い回峰手文を見ながら百日の飯室回峰を満行した。だが、昭和四十九年、酒井阿闍梨が千日回峰を決意し、無動寺谷から飯室谷に移ってきた時には、箱崎老師は八十三歳になっていた。先達を務めることができず、酒井阿闍梨に回峰コースを
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十六三百九十年ぶりの飯室回峰③だが、現在のような回峰コースが確立したのは室町時代以降のことであるといわれる。酒井阿闍梨の師僧であった小寺文穎師は、「比叡山回峰行の史的展開」という論文の中で次のように述べている。「北峰修験の比叡山回峰行は千年一日のごとく続けられているけれども、その歴史的な形成過程には、次のごとき四段階があったと思考される。第一期山林巡行時代(831~1130)第二期三塔巡礼時代(1131~1320)第三期比叡山巡礼時代(1321~1570
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十五三百九十年ぶりの飯室回峰②回峰行の始祖は相応和尚であると書いたが、『慈覚大師』の著作がある山田座主に、「飯室回峰は慈覚大師の叡山巡拝が基本になっている」というご教示をいただいた。慈覚大師は、飯室谷を出て、日吉神社から八王子山に登り、神宮禅院にお参りして、悲田谷を登って、根本中堂にお参りすることを繰り返されたという。帰りは西塔、横川を経て飯室に帰られたのだろう。まさに飯室回峰は慈覚大師の巡拝の道と軌を一にしているのである。ともあれ相応和尚によって始められた回峰行は
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十四三百九十年ぶりの飯室回峰恵心僧都源信(九四二~一〇一七)が住した横川の恵心院をすぎ、霊苑を経て急坂二キロ余を降りると横川六谷の一つ、飯室谷に達する。この道は飯室回峰の行者道になっている。東塔五谷、西塔五谷に対して横川だけ、なぜ六谷なのか。それは比叡山の「離れ小谷」ともいうべき飯室谷があるからだという。飯室谷は、慈覚大師円仁がこの地で感見した不動明王を自ら彫刻して拓かれた谷である。伝説によると、食物を司る神とされる飯櫃童子が老翁の姿になって現われて、慈覚大師に供
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十三きみは「不動明王」を見たか③ところで、回峰行者の本尊とする不動明王は、右手に剣と左手に索をもち、目をカッと見開いた忿怒の相の恐い仏像である。仏さんにも序列がある。仏の最高位が如来。これは悟りの境地の仏で、次が菩薩。これは如来と同じ境地には達しているが、まだ修行の位。この如来と菩薩の働きを助けるのが明王で、仏道修行を邪魔する悪鬼悪獣などを叩きのめして追い払うのが役目。不動明王は、サンスクリット語で、アチャラ・ナーダといい、正しくは不動尊。降三世、軍荼利、大威徳、
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十二きみは「不動明王」を見たか②宗祖最澄の考え方は、「顕密一致」の実践哲学である。顕教であるこの「法華経』の精神と不動明王を念じる密教色の濃い山岳信仰とが重なって、千日回峰行が生まれた。中国の天台大師智顗(五三八~五九七)の著した『摩訶止観』に、「歩々・念々・唱々」という言葉がある。ひたすら歩け。ただただ念じよ。そして、お経・真言を唱え続けよ。まさに回峰行者の修行は、この端的な言葉で表わされている。『酒井雄哉大阿闍梨の世界五十一』酒井雄哉大阿闍梨の世界五十一き
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十一きみは「不動明王」を見たか千日回峰行を一言でいうならば、それは「常不軽菩薩の行」であるという。前項で紹介した相応和尚の夢告は、つづめていえば、『法華経』の「常不軽菩薩品」に出てくる「不専読誦、但行礼拝」ということになる。経を読むことを専らにせず、ただ礼拝行に徹する。天台の教えに「山川草木悉有仏性」という言葉があるが、山や川、草や木、石ころまで、全てのものに仏性があるという考え方だが、その生きとし生けるもの、全てを礼拝して歩くというのが千日回峰行なのである。宮
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十千日回峰行はいつ始まったのか③行満せば不動明王本尊となり一切災殃を除くべし、、、、このようなお告げがあり、巡礼の苦行を満じた時、行者は不動明王そのものになるといわれたのである。こうして、東塔の無動寺谷を根拠地にして、比叡山巡拝の修法を編み出し、更に比良山系の山林抖欺にも足を伸ばし、現在の回峰修験の基礎を確立したのである。ところで、比叡山には古来から「三塔十六谷」という言い方がある。三塔とは東塔、西塔、横川をさし、それぞれに、横川をさし、それぞれに、(東塔)
「歩くこと、生きること――一日一生の心」歩くのも行、生きるのも行。『一日一生』酒井雄哉大阿闍梨著生前、飯室不動堂で八千枚大護摩供のお手伝いをさせていただいたご縁から、今でも酒井大阿闍梨さまのお言葉は心に残り続けています。本書を読みながら、日々の生活の中で、何を見つけ、どう感じ取るか?その一つひとつが“行”になるのだとあらためて思いました。酒井大阿闍梨さまも、生涯の中で良いことも悪いこともすべてを味わい尽くされた方です。だからこそ、私自身も“追われる日々”や“追い求める日
酒井雄哉大阿闍梨の世界四十九千日回峰行はいつ始まったのか②円仁はその様子を黙って見ていた。その若い僧は、後になって千日回峰行の始祖といわれる相応和尚(八三一~九一八。建立大師)であった。相応和尚は、十五歳で鎮操というお坊さんに連れられて、比叡山に入山した。『法華経』の勉強をするうちに、その中の「常不軽菩薩品」に感銘を受け、なんとか常不軽菩薩の境地に達したいと、先のような礼拝行を続けていたのである。この行が円仁に認められ、相応和尚は円仁から「不動明王法」「別尊儀軌護摩法」などの秘法を授けられ
酒井雄哉大阿闍梨の世界四十八千日回峰行はいつ始まったのか宗祖最澄の弟子に円仁(七九四~八六四。慈覚大師。第三世天台座主)という高僧がいる。十五歳で最澄の弟子になった円仁は、比叡山で次第に頭角を現わし、承和五年(八三八)から約十年間入唐し、その間、師の意志を継いで天台教学を学ぶ一方で、密教、浄土教の研鑽にも励み、同時に五台山巡礼も積極的に行なっている。その間の仔細は自ら著した『入唐求法巡礼行記』に詳しいが、ともかく山岳修行、巡礼のルーツともいうべき五台山での巡礼修行も体得して、艱難辛苦の末
酒井雄哉大阿闍梨の世界四十七比叡山と最澄と十二年籠山④千日回峰行者もこの伝統にのっとり、十二年間、一山の結界から一歩たりとも出ない「十二年籠山」を続けるのである。環境といえば、「おのずから住めば持成のこの山は、実なるかな依身より依所」という最澄の歌があるが、「依身より依所」とは、心のあり方も大切であるが、修行する環境が人間にとって最も大切であるという意味である。「解脱の味は独り飲まず、安楽の果は独り証せず」(『願文』)「悪事を己に向かえ、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の
酒井雄哉大阿闍梨の世界四十六比叡山と最澄と十二年籠山③ところで、比叡山には「論湿寒貧」という言葉がある。厳格な学問と修行。琵琶湖の水によって湿度が高く、かつ厳しい寒さの気候条件。そして極度に清貧を守るという日常生活。比叡山での修行の環境を表わす言葉であるが、この言葉にも最澄の精神が受け継がれているといってもいいだろう。最澄が五十三歳の時に書きしるした『山家学生式』に、「国宝とは何物ぞ。宝とは道心なり。道心有るの人を名づけて、国宝と為す」という有名な一文があり、更に、「叡山に住せしめ、一
酒井雄哉大阿闍梨の世界四十五比叡山と最澄と十二年籠山②その比叡山に、初めて青年僧最澄(伝教大師)が分け入ったのは、延曆四年(七八五)、今から千二百年以上も前のこと。この年、奈良東大寺で受成して正式の僧となった最澄は、自分の所属する近江国分寺にはもどらず、独り比叡山に登り草庵を結び、自刻の薬師如来を祀って孤独な山林修行の生活に入ったのである。この時、最澄は十九歳であった。それから三年後の延暦七年、初めて一乗止観院(現在の根本中堂)という小さなお堂を建て、比叡山を「山修山学」の山として本格的な
酒井雄哉大阿闍梨の世界四十四比叡山と最澄と十二年籠山千日回峰行を語るためには、まず比叡山という「お山」がどんな山であり、天台宗の教えがどんな教えであるかを知る必要があろう。比叡山は京都の東北、琵琶湖の西に位置し京都と滋賀の県境を南北に連なる山脈の総称であり、主峰には八四八メートルの大比叡ヶ岳、次峰には四明ヶ岳、それに釈迦ヶ岳、三石岳、水井山と連なっている。風光明媚な山で、古来より都の鬼門を守る鎮守国家の霊山と知られ、「世の中に山てふ山は多かれど山とは比叡のみ山をぞいふ」と和歌にも歌わ
酒井雄哉大阿闍梨の世界四十三千日回峰行とは、どんな行なのか④六年目の百日(八百日)は、比叡山を巡拝するほかに、京都修学院にある赤山禅院にお参りする。住復約二十数キロの行程が加わるから、これを「赤山苦行」という。九百日は、「京都大廻り」といい、比叡山を巡拝した後、京都に下り、京都市内の神社仏閣を巡拝して宿泊。翌日は京都を同様に一巡して山に帰り、比叡山を巡拝して自坊にもどる。これを百日間繰り返すことになる。この間の行程は一日九十五キロ(飯室回峰の場合)にも及び、特に京都市内では信者にお加持も
酒井雄哉大阿闍梨の世界四十二千日回峰行とは、どんな行なのか③この千日回峰は、百日を一期として七年間で修することになっている。最初の百日は「百日回峰行」と呼ばれ、素足に草鞋をはいて山上山下のお堂や霊跡を巡拝する。回峰行者の象徴である蓮華密は被ることを許されず、手にもって歩く。二年目、三年目はそれぞれ百日間歩く。四年目の四百日五百日は一年で二百日連続して行なう。五百日が終わると「白帶行者」と呼ばれるようになる。五年目の六百日と七百日も続けて行を行なう。七百日を満行すると、「堂入り」という千日
酒井雄哉大阿闍梨の世界四十一千日回峰行とは、どんな行なのか②さて、千日回峰行であるが、この行は百日回峰を満行した者のうちから、厳しい先達会議を経て許される行である。比叡山三塔十六谷の峰や谷を巡って、堂塔や墓所、野仏や石像、比叡山中の一木一草に至るまで礼拝して歩く修行で、この行はまた「行不退」「捨身苦行」といわれており、病気や怪我、そして、どんなに激しい嵐の日や雪の日でも一日として行を休むことは許されない。もし行を中断しなければならないことがあれば、首つり用の死出紐か自害用の短刀で、自らの命
酒井雄哉大阿闍梨の世界四十千日回峰行とは、どんな行なのか①昔から比叡山には三大地獄があるといわれている。「回峰地獄」「掃除地獄」「看経地獄」で、地獄とは苦しい修行の連続というほどの意味である。また、「峰の白鷺、谷のすず虫」という言葉もある。白鷺は回峰行者であり、すず虫は横川の修行僧をさす。白い浄衣を身にまとい、峰道を飛ぶように歩く行者の姿はまさに白鷺であり、修行の鈴の音はするが姿を見せない横川の僧をすず虫にたとえた。すず虫にたとえられた横川の修行僧の状態を「看経地獄」といい、これに浄土
酒井雄哉大阿闍梨の世界三十九修行することを無上の喜びとする行者⑤小林隆彰二度の千日回峰行と十二年籠山明けとともに酒井阿闍梨は、伝教大師最澄東国巡化の道を歩いて皇居に参内した。続いて回峰行のルーツといわれる中国・五台山を巡礼。更に山陽・山陰の慈覚大師円仁の道を歩き、更にバチカンを行者姿で訪れ、ローマ教皇と固く手を結んだ。そして今も国の内外を問わず、求めに応じて「利他」一筋の道を歩み続けている。『酒井雄哉大阿闍梨の世界三十八』酒井雄哉大阿闍梨の世界三十八修行することを無上の喜びとする行
酒井雄哉大阿闍梨の世界三十八修行することを無上の喜びとする行者④小林隆彰死を覚悟の堂入りが、もし失敗したらということもあったが、この人間ならと私は信じ切っていたのである。堂内の一挙手一投足が全ていのち懸けであることを、テレビの画面は正直に視聴者に見せた。あの感動は今も新しくよみがえるのである。十二年籠山が終わったら、中国山西省の五台山巡りを酒井阿闍梨に、というのが今の私の念願である。『酒井雄哉大阿闍梨の世界三十七』酒井雄哉大阿闍梨の世界三十七修行することを無上の喜びとする行者③小
酒井雄哉大阿闍梨の世界三十七修行することを無上の喜びとする行者③小林隆彰三年籠山を満じて飯室谷の箱崎文応老師の許へ送ったのは、不世出の大行者の面倒を見切れるのは、酒井しかないと考えたからである。三十六回も断食行をし、九十歳まで滝行を欠かさぬ目の不自由な老僧の手を引いて午前二時、共に氷の滝行をする苦労は常人の及ぶ所ではない。回峰七百日を満じて九日間、断食、断水、不眠、不駅の堂入りの時、NHKの和崎信哉さんが、堂内に隠しカメラを入れたいと希望された。誰にも相談せず、教化部の山田能裕さんに応
酒井雄哉大阿闍梨の世界三十六修行することを無上の喜びとする行者②小林隆彰忠雄さんが比叡山へ登る回数が増えて来たある日、私は所用で忠雄さんの亡妻の母、中登千代さんの家へ行った。旋盤をまわしていた彼が、「先生、僕、坊さんになりたいけどなあ」と一言小さな声で漏らしたが、中年で僧侶になるのはむずかしいので返事をしなかった。しかし、結局、忠雄さんは私が戒師になって出家してしまった。仏縁というべきか。三年籠山に入った時、明治以来絶えていた常行三昧をやりたいと希望して九十日間、法華堂に籠もっ