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初午大祭へ先日京都伏見稲荷大社へ参拝させて頂きました。この日は午の年の午の日で日曜日とても珍しい日でした。かなりの参拝客で駐車場は6:00から満車。いつもは外国人観光客が多いですがこの日は日本人の割合が高い日でした。稲荷山も列を成して登ります。まるでバブル期のよう。初午大祭に参列される人で祈祷殿はいっぱいです。初午大祭に渡される福かさねが縁起物でかなりの売れ行きでした。やはりこの日は違います。稲荷山ではたくさんのろうそくが上がっています。最近の事情でしょうか、株
不思議な寺金剛定寺と酒井雄哉⑥多くの仏像たちが大寺院であったことを物語る古刹「金剛定寺」を訪ねる引用いろり端探訪「1200年の魅力交流」金剛定寺住職野條叡茂師摩壇があり、ここで護摩を焚きます。天皇陛下が即位される際に神様を迎える儀式があるそうなのですが、その時に用いられる穀物等は護摩に用いられるものと同じだそうです。それらはバラモン教の儀式からきたものだそうです。」「ちなみに護摩壇にある錫杖は、千日回峰行を2度満行なされた酒井雄哉大阿闇梨が実際に使用されていたものにな
まいどなニュースの記事から一日往復48kmの登山を1000日、途中でやめれば自害の掟─!大峯修験1300年で「千日回峰行」を初満行、柳澤眞悟さんが語る修行の原点千日回峰行昔、酒井雄哉(さかいゆうさい)さんがNHK特集で、この千日回峰行を行っている様子が放送されました。毎日、夜12時ごろに寺を出で、毎日往復50キロの礼拝を行うものです。雨の日も、体調が悪いなどは関係ありません。途中、行けなくなったら、自害しなさいと言う厳しい掟です。千日回峰行と言えば、塩沼亮潤さんも有
不思議な寺金剛定寺と酒井雄哉②多くの仏像たちが大寺院であったことを物語る古刹「金剛定寺」を訪ねる引用いろり端探訪「1200年の魅力交流」金剛定寺住職野條叡茂師椿井文書をもとにした金剛定寺の縁起では、聖徳太子によって創建されたとされています。残念ながらこの記述の詳細は不明ですが、金剛定寺に飛鳥時代の遺構や仏さまが確認されていないことから、もう少し後に創建されたのかもしれないと考えています。実際、金剛定寺が伽藍を構える「中山」の地からは、建物の礎石や多数のお地蔵さまなど、中世
ひざ・股関節の痛みは週1スクワットで治せる!("筋肉ドクター"が教える特効筋トレ)Amazon(アマゾン)ざんねんな筋トレ図鑑(いくらやっても意味がない)Amazon(アマゾン)私もいよいよ磯野波平が年下という領域に突入し、もはや人生も後半から終盤という域に達してきた。まあ江戸期は人生五十年とか言ってたわけで、そういう意味ではもはや余生と言えるのかも知れない。そして、一つ上の世代が死に直面していたりするわけですが、寝たきり認知症の方々を見てますと、ああ
ひざ・股関節の痛みは週1スクワットで治せる!("筋肉ドクター"が教える特効筋トレ)Amazon(アマゾン)ざんねんな筋トレ図鑑(いくらやっても意味がない)Amazon(アマゾン)子供の頃って男の子はヒーローやスポーツ選手に憧れるもんですよね。でも、私ってそんなに憧れたヒーローっていないかなと。もちろん小学校の頃は私の世代はジャッキー・チェンやシルベスター・スタローンに憧れたりしましたね。結構筋肉系の人ってアーノルド・シュワルツェネッガーに憧れがちですが、
令和八年が終わろうとしています。西暦で2025年、釈迦が入滅した『仏紀』では2568年(ミャンマー、スリランカなど)、2569年(タイ、カンボジア、ラオス)入滅の年からか、翌年からかの数え方の違いだそうです。伝教大師最澄がお生まれになってから1258年、悠久の年月が流れてきました。しかし、有史以来、変わらぬのが『普遍の真理』、実在する釈迦以前から宇宙が誕生して今に至るまでこの『真理』は変わっていません。仏の教えと書いて『仏教』、根本は同根にして『四万八千』の法門があり、個々に応じて様々な入口
酒井雄哉大阿闍梨の世界七十六完比叡山千日回峰行者の歴史比叡山の千日回峰行は師資相承の形で、千百年以上の歴史を刻んできた。元亀二年(一五七一)、織田信長の比叡山焼き討ちによって、多くの資料が焼消し、残念ながら、それ以前の文献を求めることはできないが、それ以後の記録は『大行満名帳』などによって、回峰行者の歴史を知ることができる。これによると、天正十三年の幸運大僧都の千日満行以来、酒井阿闍梨は四十六人目の回峰行者となり、しかも二千日を満行したものは、わずか三人しかいない。小寺文潁師の書かれた「玉
酒井雄哉大阿闍梨の世界七十五護摩堂の完成と十万枚護摩供③この大護摩供に先立って、酒井阿闍梨は八月九日から前行に入った。回峰手文にのっとって、五穀(米、麦、粟、豆、碑など)と塩断ちを行なうのである。この期間、酒井阿闍梨が食したものといえば、ジャガイモ、松の実、クルミなどである。こうして、多くの信者に見守られながら、大護摩供に入り、結果的には十五万三千六百十二本の護摩木が焚かれた。これも「十万枚大護摩供」最高の数字だという。この大護摩供とは別に、通常、飯室護摩堂では毎月二回(二十八日のお不動
酒井雄哉大阿闍梨の世界七十五護摩堂の完成と十万枚護摩供②この護摩堂の完成によって、酒井阿闍梨は、昭和五十八年十一月十六日から二十三日までの八日間、「十万枚大護摩供」を修した。この大護摩供は、千日回峰を満行した行者だけに認められるもので、断食、断水で十万枚もの護摩木を焚き続けるのである。護摩供というのは、不動明王に身を捧げ、智慧の火で人びとの煩悩の薪を焼くことを意味する密教の修法で、これは、無事千日回峰を達成できたことを仏に感謝し、行を支えてくれた信者の幸福を祈願し、合わせて国家の平和を祈る
酒井雄哉大阿闍梨の世界七十四護摩堂の完成と十万枚護摩供昭和五十八年十月二十八日、比叡山の中で北に位置する飯室谷で、大護摩堂の落慶法要が、山田恵諦天台座主をはじめ一山の僧侶、工事関係者、多数の信者らが参列して営まれた。比叡山の無動寺谷にしかない十万枚の大護摩の焚ける護摩堂を飯室谷に建立しようと、全国の信者が勧募して、舞台付きの木造二層本瓦葺きの壮麗な護摩堂を完成させ、この日に至った。これによって、飯室谷で初めて十万枚護摩供を修することができ、事実上、飯室回峰行の本拠地が誕生した。この陰には
酒井雄哉大阿闍梨の世界七十三信者に支えられての「京都大廻り」③この後は、松原通りを真っすぐ西へ向かう。六波羅蜜寺、神泉苑、因幡薬師を参拝し千本通りを北に向かい、北野天満宮を経て西方尼寺へ。赤山禅院を出発してから、途中の道端にはお加持を受けようとする信者は引きもきらず、酒井阿闍梨はその一人びとりに丁寧に数珠でお加持をしていく。西方尼寺から五辻を通り、上御霊神社、下鴨神社を詣じ、上善寺に向かう。ここが行者の宿坊である。到着したのが午後七時すぎ。この一日の歩行距離九十五キロ。ここで渡辺ふじ子さ
酒井雄哉大阿闍梨の世界七十ニ信者に支えられての「京都大廻り」②山内の回峰行を終えた酒井阿闍梨は、いったん宝珠院に帰り、再び無動寺坂を登り、根本中堂、雲母坂を下って、京都市左京区修学院にある赤山禅院に向かった。午前九時。赤山禅院には百数十人の人びとが酒井阿闍梨を待っていた。お加持をいただく人やここから酒井阿闍梨に従って京都市内の大廻りに一緒に歩こう、という信者達も大勢いた。午前十時。信者達にお加持をした後、先達の渡辺丈吉さんら息障講、「朝の会」の西村泰治さん達に先導されて、旧白川通りを南下。
酒井雄哉大阿闍梨の世界七十一信者に支えられての「京都大廻り」八百日の赤山苦行が終わると、その翌年はいよいよ「京都大廻り」である。堂入りも荒行ならば、歩く上においての最大の難関は、この京都大廻りである。この京都大廻りは、山上の回峰を終わってから下りて京都市中を巡拝して京都に宿泊すること五十日と、無動寺谷の宝珠院に帰って五十泊と合わせて百日間で、一日の行程が九十五キロということになる(ちなみに無動寺回峰は八十四キロ)。酒井阿闍梨は、この二千日回峰中に当然のことながら、二度この京都大廻りに挑んで
酒井雄哉大阿闍梨の世界七十伝統ある回峰行者の夏の荒行③ちなみに行者に対する呼称はこうなっている。新達―葛川夏安居に初度から七度参加したもの。先達―同じく八度から十四度参加したもの。大先達―同じく十五度から二十四度参加したもの。大々先達―同じく二十五度以上参加したもの。新行—百日回峰の行者。白带行者——五百日を満じた行者。当行満阿闍梨——七百日を終わった行者。大行満大阿闍梨——千日回峰を満行した行者。記録によれば、天正十二年から現在に至るまで、葛川夏安居に参籠した新達行者
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十九伝統ある回峰行者の夏の荒行②安曇川支流の明王谷にかかる第三の滝を行場と定め、断食・不眠の行を続け、一心に祈ること十七日間、相応和尚はその滝壷の中に身を投じた時、滝壷の中から忽然と不動明王が出現し、相応和尚を助けたという。葛川夏安居の期間中に、新達らによって行なわれる「太鼓乗り」は、この故事にならったものである。昭和六十一年度の葛川夏安居に、私も同行した。七月十六日朝五時、四十数人の行者が隊列をつくって葛川明王院をめざす。途中の道で行者を待ち構える信者の一人ひと
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十八伝統ある回峰行者の夏の荒行比叡山の回峰行者にとって、絶対に欠かすことのできない修行に「葛川夏安居」がある。これは毎年七月十六日から二十日まで、千日回峰行者、百日回峰行者らによって、裏比良の葛川明王院で、回峰行の始祖・相応和尚を偲んで行なわれるもので、「葛川入寺」とも呼ばれている。相応和尚の遺徳を讃えるとともに、その苦行の一端を体得し、同時に不動明王に一歩でも近づこうとする、千年を越す長い歴史を受け継がれてきた伝統ある回峰行者の夏の荒行である。相応和尚の苦行とはこ
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十七回峰行最大の難関の堂入り③堂内には行者のほかに、常に二人の介添えする僧がいる。行者が眠りこけそうになると、肩をゆすって起こす。香を焚いたり、ローソクを替えたりもする。介添えの僧は交替制で行者を陰から支えているのである。こうして、行者は殆ど堂内に籠もりきりになるが、一日に一回だけ出堂すかいることが許される。午前二時、「閼伽井」と呼ばれる所までいって、不動明しゅすい王に供える水を汲みにいくのだ。これを「取水」という。堂入りの中日、五日目になると、天目茶碗に入った水で
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十六回峰行最大の難関の堂入り②では、なぜそれほどまでの荒行をするのか。七百日までの行は、自分自身のための自利行で、八百日以降は他の人のためにする化他行である。そのために不動明王と一体になる、すなわち生身不動明王になるための行を修しなければならないのである。まさに、「悪事を己に向かえ、好事を他に与え、己を忘れて他を利するは、慈悲の極みなり」という教えそのものではないか。では、堂入りの実際はどうなのか。堂内は、内陣と外陣に仕切られていて、行者は午前三時、十時、午後五時
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十五回峰行最大の難関の堂入り千日回峰行の最大の難関は「堂入り」という荒行である。七百目の回峰行が終わって、その日から九日間、不眠、不臥、断食、断水で不動明王に祈りを捧げ、十万遍の不動真言と『法華経』全巻を唱える。文字通り、死を賭した行である。酒井阿闍梨はこの荒行を二度行なっている。昭和五十三年十月と昭和五十九年の二回である。酒井阿闍梨は最初の堂入りに先立って、「ここに愚鈍の行者雄哉、日畢生の悲願を凝らし、九日間断穀、断水、心身を清めて不動明王の心地に到達せんことを期
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十四決まりを破ったら回峰行者ではない②回峰行の決まりの基本が書かれているのは、回峰手文である。この回峰手文は師資相承、すなわち師から弟子へと道(回峰の決まりやルート)を次第に伝えるのである。当然行者以外に門外不出で、それを行者自らが書き写すのである。そして、師匠から行者が守らなければならない決まりを申し渡される。それを「制誡(せいかい)」というが、その内容は以下のようである。一、回峰行の間は絶対に浄衣と袈裟を身からはなしてはならない。一、回峰の間はみだりに立ち寄
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十三決まりを破ったら回峰行者ではない千日回峰行は、「行不退」だという。いったん回峰行に入れば、いかなる理由があろうとも退くわけにはいかない。行が続けられない時は自害せよ、というのである。しかも浄域であり、霊山である比叡山中を穢してはならないから、山外に出て、やれというのである。このことでもわかるように、千日回峰行には大変厳しい決まりが、いくつもある。まず、千日回峰行は誰でも勝手にはできない。百日回峰行をやった者の中から、先達会議(千日回峰行者で構成)で許可された者
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十ニ行は、わしの人生の最後の砦③「出家の動機?それがあんまりはっきりしないのね。最初は伯母に、無動寺谷にある弁天さんに連れてこられたの。そしたら、お寺というのは葬式をやる所だとばかり思っていたのに、どういうわけか、護摩を焚いたり、行をやっているお坊さん達もいる。こんな生き方もあるんだなって思って、何となくお山に足を運んでいるうちに、得度しなさい、というの。得度って何ですかって聞くと、坊さんになることだというの。もう、うれしくなっちゃったね、わしなんかでも坊さんにな
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十一行は、わしの人生の最後の砦②酒井阿闍梨の半生をブロフィール的に紹介すると――ー。酒井阿闍梨は、大正十五年五月、大阪で生まれる。本名忠雄。まもなく東京に移り、旧制中学校を卒業後、予科練に入る。復員後、そば屋、菓子屋、株尾、工具など職業を転々とする。三十歳すぎに大阪に移り、結婚したが、妻が自殺。亡妻の母親に誘われて無動寺の弁天堂にお参りするようになったのが、昭和三十六年頃であった。その後もしばしば比叡山を訪れた。人生の挫折感を癒そうというのではなく、自分の残りの
酒井雄哉大阿闍梨の世界六十行は、わしの人生の最後の砦初めて酒井阿闍梨にお会いしたのは、昭和五十五年の早春の頃であった。『日本の聖域――最澄と比叡山』を出版するため、写真の掲載許可をいただくのが目的であった。その後も、『行道に生きる』(島一存著)、『科学の知恵心の智慧』(広中平祐著)、『仏教健康法入門』(朝倉光太郎著)の出版で、編集者として著者に同行して酒井阿闍梨から話を聞く機会を得た。その他にも、画家の前田常作画伯、国立歴史民俗博物館の山折哲雄教授(当時)の取材にも同行し、インタビューさ
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十九酒井雄哉二千日回峰行の記録③この後、南谷西尊院から叡南の辻を経て、無動寺に至る。またもとの道を引き返して、大比叡の中腹、深い熊笹に覆われた行道を通って智証大師廟を経由し、法華総持院から西谷の山王院に出る。浄土院に礼拝して、西塔の各堂を巡拝し、峰道に至る。峰道で左右諸方を拝みつつ玉体杉で玉体加持を行なう。地主権現から阿弥陀が峰を通って横川中堂に至る。横川の諸堂を巡拝し恵心僧都の墓所より、斜め道を一挙に飯室谷に降りる。全長約四十キロ。酒井阿闍梨の足で所要時間七時間~
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十八酒井雄哉二千日回峰行の記録②まず、飯室不動堂を出峰。松禅院、慈忍和尚廟に進み、奈良坂を下って帝秋寺、西教寺と拝みながら日吉神社東本宮に至る。山王二十一社をくまなく参詣して生源寺前の鳥居に至り、坂本の諸方諸神を遙拝して滋賀院、真乗院、妙徳院、霊山院と進む。霊山院は、かつて酒井阿闍梨が小僧生活に入った寺で、故人となった師匠の冥福を祈る。霊山院を出て、走井堂、日吉神社西本宮をまわり、八王寺山の急坂を一気にかけ登っていく。八王寺三の宮を詣で、最澄の両親が参籠したと伝え
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十七酒井雄哉二千日回峰行の記録前項で「三百九十年ぶりの飯室回峰」と書いたが、実は、この久しく絶えていた飯室回峰の復興を願って百日回峰を満じたのが、酒井阿闍梨の師匠である箱崎文応師であった。昭和十五年九月に、無動寺回峰を千日満行した箱崎師は、昭和十九年に古い回峰手文を見ながら百日の飯室回峰を満行した。だが、昭和四十九年、酒井阿闍梨が千日回峰を決意し、無動寺谷から飯室谷に移ってきた時には、箱崎老師は八十三歳になっていた。先達を務めることができず、酒井阿闍梨に回峰コースを
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十六三百九十年ぶりの飯室回峰③だが、現在のような回峰コースが確立したのは室町時代以降のことであるといわれる。酒井阿闍梨の師僧であった小寺文穎師は、「比叡山回峰行の史的展開」という論文の中で次のように述べている。「北峰修験の比叡山回峰行は千年一日のごとく続けられているけれども、その歴史的な形成過程には、次のごとき四段階があったと思考される。第一期山林巡行時代(831~1130)第二期三塔巡礼時代(1131~1320)第三期比叡山巡礼時代(1321~1570
酒井雄哉大阿闍梨の世界五十五三百九十年ぶりの飯室回峰②回峰行の始祖は相応和尚であると書いたが、『慈覚大師』の著作がある山田座主に、「飯室回峰は慈覚大師の叡山巡拝が基本になっている」というご教示をいただいた。慈覚大師は、飯室谷を出て、日吉神社から八王子山に登り、神宮禅院にお参りして、悲田谷を登って、根本中堂にお参りすることを繰り返されたという。帰りは西塔、横川を経て飯室に帰られたのだろう。まさに飯室回峰は慈覚大師の巡拝の道と軌を一にしているのである。ともあれ相応和尚によって始められた回峰行は