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所在地〒444-2808愛知県豊田市槙本町大屋敷特徴三河北部に残る在地領主の山城で、主郭には神社があるが登城道や案内はない。南麓の板碑から斜面を登り堀切を過ぎると主郭で、奥の尾根にも堀切が残る。感想神社から参道を下りて来ると民家の庭先に出た。遺構はかなり明瞭なので、少し整備してもらいたい。
その2では砲台左翼側を見に行きます。観測所の階段前から左翼側に向かう道があります。観測所の左斜め前辺りに用途不明のコンクリート柱が立っています。第1砲座前方にあったコンクリート柱と同型です。鉄筋が入っていますね。道が二手に分かれますが右手に行ってみます。砲側庫の出入口付近に排水溝があります。砲側庫北側出入口です。左右には石材の壁が造られていますが、右翼側の砲側庫出入口はコンクリート施工でした。なぜ異なる造りなのでしょうね?右翼側の砲側庫のコンク
皆さん、こんばんは『世界遺産鹿苑寺(金閣寺)♪京都一人旅(その17)』皆さん、おはようございます🎶京都一人旅(その16)の続きです観光3日目……、最終日でしたあっという間に1日目、2日目が終わってしまったのよ〜🥹最終日だと思って…ameblo.jp京都一人旅(その17)の続きです😊この日は、あいにくの雨☔で、早歩き観光した感じ🫣とにかく寒かったんです😭色んな方向から金閣寺を撮ってます😊順路テクテク歩いて行きますこちらは龍門滝🏞️こちらは安民沢コレは何だろうと、ネットで調べ
4年ぶりに渡良大島砲台を再訪しましたので、ブログ記事を書き直します。渡良大島(わたらおおしま)は郷ノ浦港の沖合に浮かぶ島で、近隣の長島、原島とともに「渡良三島(わたらみしま)」を構成しています。なお現地では単に「大島」と呼ばれています。地図で島の位置を確認します。大島に上陸するためにはまず壱岐島に渡ってフェリーを乗り換える必要があります。つまり二次離島と言うわけですね。壱岐島の郷ノ浦港から定期船が1日4便就航しており、原島、長島を経由して大島までは50分の船旅となります。
上州富岡駅から歩きます。富岡の街も古い建物が多く残っているのね。街中の観光案内所、お富ちゃん家。マンホールカードもらったよ。観光案内所の人は若いフランス人のイケメンで、カジュアルな服装なのに、革靴をかっこよく決めるという、なかなかなファッションでありました。先に進み、富岡製糸場が見えてきました。その手前に韮塚製糸場という施設。富岡製糸場の真ん前で、私立の製糸場もあったのね。近年になって遺構が発見された展示施設です。240310旧韮塚製糸場富岡製糸場のそばにかってあ
サクラを愛でたあとは、三浦海岸付近で、給油して秋谷行ってその後、長者が崎霞むと、春って感じだねえ!駐車料金・・・いつもバイクだから、無料お土産屋さんは、改装中(どうやら、オーナーが代わったらしい)真名瀬バス停に寄って最後に、金沢の泥亀へ元々は、歩道橋から、店舗ビルの二階へそのまま行ける構造だった(生き残った歩道橋はこんな感じ)道路の反対側へ向かう陸橋を店舗から見る反対向きは、店舗ビルイメージ的には、駅前のぺネストリアンデッキ(本来は
黒崎砲台の記事は4年前に書きましたが、先月の壱岐渡航にて観測所を発見しましたので追記します。*************************黒崎砲台は壱岐島の西北端に築城された砲塔砲台です。巡洋戦艦赤城の一番砲塔を転用した四十五口径四十糎加農2門を有していました。詳細はこちらの記事にて。『壱岐要塞探訪④~黒崎砲台その1(砲台)』◆砲台名:黒崎砲台◆起工:昭和3年(1928年)8月15日◆竣工:昭和8年(1933年)2月14日◆備砲:45口径40糎加農砲2門(連装砲塔1基、
馬見丘陵公園の中央エリアにも古墳がたくさんあります。その一つ、「ナガレ山古墳」を訪れました。整備させた墳丘は築成当時はこのような状況だったのでしょうか…『ナガレ山古墳』:国指定史跡。5世紀前半の2段築成の前方後円墳。墳丘長105m。史跡ナガレ山古墳の整備は、破壊された部分に土を入れ、さらに遺構を保護するために墳丘全体に盛土を施しています。発掘調査で埴輪列を確認した墳丘裾と中段に埴輪列を復元し、墳頂部と西側埴輪列は植栽で埴輪列を表現しました。葺石の復元には、発掘調査で確認した種類の石を用
2月に屋島山頂に、宿泊したばかりなのですが気に入ったので、また、同じ所に宿泊しました~👍️この宿から見える、高松市内の夜景が素晴らしい✨駐車場🅿️が狭いので💦相方のMARCH「マー兄さん」で❗(笑)前回2月に、部屋の窓から見えた、老木の桜が気になってました。しっかりと、🌸桜の花を、咲かせてました🎵🎵🎵部屋の窓からは、こんな感じに見えますよ🎵窓から、北側を眺めると、山桜が沢山咲いてましたこのホテルが有る場所自体、昔の屋島城跡らしいのですが❗城といっても昔の砦跡。
こんばんは。子供が春休みの期間3日から今日まで福島県と宮城県にある東日本大震災の遺構を訪ねてきました。1日目は浪江町にある請戸小学校と伝承館を訪れました。東日本大震災が起きてから13年瓦礫はキレイに片付けられてしまっていましたが、惨状を見ていない嫁さんと子供に見せたかったのです。
www.arpademica.comwww.eric-harps.de「キタラ」が短く、お里帰りをしました。「キタラ」とは聞き慣れない名前、そう思われた方があることでしょう。「ライアー」「リュラ」と言った方が若干馴染みがあるかもしれません。「ライアー」というと日本ではシュタイナーの楽器だけが知られていてでも、実は色々あるのです。割と近年、ここランゲンディンゲンからそれ程遠くない
フロンティア4月のラインナップ紹介✅4/4旧約聖書滅亡の街の真実💫~宇宙から謎解きミステリー✅4/11恐竜王国誕生の秘密🦖~なぜ地上の王者になれたのか?✅4/18夢見る”怪物”村上隆京都で大規模な個展を開催中の現代美術作家👉村上隆さんが切り開くフロンティアに迫ります旧約聖書に登場し、神の怒りをかって焼野原となったというソドムの街。中東ヨルダン、死海からほど近い場所に記述と似たような場所があることがわかってきた。舞台は青銅器時代
「朱雀門を通りぬけて」(平城京)篠笛の独奏曲荒井ひとみ作曲集CD3の2「曲想」復元された朱雀門(画像お借りしてます)講堂、ところどころ改修されていますが現存する唯一の「平城宮遺構」興福寺北円堂、「鎌倉時代に再建‼️」されたもの興福寺の阿修羅像(一番人気がある😁)大仏様に描かれた仏画(画像お借りしてます)(画像お借りしてます)奈良時代都の周囲には「外郭」がめぐらせてありました南の入口は「羅生門」でそこから北にまっすぐにのびるのが
蹴上インクラインから琵琶湖疏水センターあたりに。文明開花のあの時代の遺構。こちらから勢いよく水力発電所の水が放水。夷川ダムを経由、鴨川に合流し、淀川へと注ぐ。
金沢を始め、全国各地の「伝統的建造物群保存地区」で、多くの武家屋敷が保存されています。これ等を鑑賞すると、中世の武士や医者などの日常が見えてきます。弘前市にも「伝統的建造物群保存地区」が仲町にあります。藩医の家柄の旧伊東家住宅や伊東家の裏にある下級武士の旧梅田家住宅そして、旧笹森家住宅も保存されています。旧笹森家住宅は、地区で最古の武家屋敷として、中・下級武士の住まいですが、貴重な遺構です。敷地は、結構、広いです。中・下級の武士らしい簡素な住宅です。多少
『遺した?壊せなかった?〜鶴川座の残像?〜』おはようございます。どんよりと雲が広がります、2024年4月3日㈬の小江戸川越です。事務局近くの、新河岸川沿いの桜が一気に開いたようで、見た目の推定が4.85分咲🌸な感じです(^o^)既にそこそこ見頃になってますね(^o^)さて、冒頭1〜2枚目の画像にご記憶はありませんか?数年前に惜しくも解体され、宿泊施設に建て替えられた「旧鶴川座」。最後の公開時と解体が始まった頃の画像で、2019年頃でしょうか?芝居小屋から洋風のホー
石場家住宅の北側の約10.6haが、国選定の「弘前市伝統的建造物群保存地区(重要伝統的建造物群保存地区)」です。弘前城は、当初、北門(亀甲門)を「追手門」としていたため、亀甲町と仲町(城の西側の下町と東側の上町の《中間の町》という意味)は、追手門の守りとして重要なエリアとされました。今も、黒塗りの「薬医門」などの武家屋敷の遺構が残り、サワラの垣根や黒い板塀が、江戸時代さながらの佇まいを見せています。まずは、「旧伊東家住宅(県重宝)」です。代々、藩医を務めた伊東家の住居として200年ほ
所在地〒444-2342愛知県豊田市則定町本郷(則定小とその裏山)特徴徳川氏の配下にあった鈴木氏の山城で、一度は関東に移るが、江戸時代は旗本として麓に陣屋を構えた。小学校の入口に陣屋の石垣が残り、そこから史跡公園を経て登ると椎城に至る。城址には中央を堀切で分断した二段の郭が残る。感想規模は大きくないが遺構の残存度合
所在地〒470-0361愛知県豊田市猿投町城ケ峯特徴ハイキングコースになっている猿投山の南に位置する山城。登城口から尾根に出て、西へ進むと堀切や広い郭が残る。感想登城口が分かり難い。遺構は小規模かつ曖昧で見所は少ない。
〈世界遺産その魅力と未来〉98城西国際大学教授佐滝剛弘先史時代の鰻養殖の遺構2024年4月2日オーストラリアバジ・ビムの文化的景観日本人の多くが好物に挙げる鰻。うな重やひつまぶしは今でもかなりのご馳走だ。この鰻を日本の縄文時代に当たる先史時代に「養殖」していた民族がいる。オーストラリアの先住民、グンディッジマラ族である。彼らは太平洋から遡上してきた鰻を溶岩を並べた水路に引き込み、大ぶりの鰻だけを捕獲し、小ぶりの鰻を水路の先の池で育て、一定の大きさになったら食料とした。さらに長
弘前城の北の郭、通称「亀甲門」前にある「石場家住宅(国の重文)」です。内部へ入ると「司馬さんが当家を訪れたときの写真」が掲示してありました。恐らく、「街道をゆく北のまほろば」の時かと思われます。この住宅は規模が大きく、「ちょうな」で仕上げた角材を使った梁や指物を使用するなどの豪壮な構は、津軽地方の数少ない豪商の遺構として貴重です。石場家は、津軽藩政時代に、藩内のわら工品を中心とした雑貨荒物を取り扱い、屋号を「マル世(丸に世の字)」、当主は代々「清兵衛」を名乗りました。一説によ
駿府城公園の奥に天守台発掘調査現場見学ゾーンがあり、9時になってオープンしました。発掘情報館きゃっしるに入ると、今川期の遺構の上に天正期天守台を拡張して慶長期天守台があり、発掘された天正期の瓦からは金箔が残っています。現在は重機を入れる前で人手で発掘調査中で、天守台跡野外展示場になる計画です。天守堀に沿って進むと広い慶長期天守台の跡が見えて、天守台に続く木橋の遺構があります。反対側に回ると天正期天守台の跡があり、今川期の遺構も見つかっています。すぐ後ろには徳川家康像があり、お手植えのミ
前回に続いて3月の初め、まだ冬の風が吹きすさぶ中、群馬県の県庁所在地・前橋市を訪問した様子を紹介。前回訪問した群馬県庁を出発点に、かつてここにあった関東七名城の一つ「前橋城」の遺構を散策して散策します。昭和庁舎を訪問その前に、群馬県庁の「昭和庁舎」を訪問、興味深い展示を見つけました。「上州人宰相」の展示。第二次世界大戦後、群馬県は47都道府県で最多となる4人の総理大臣を送り出しました。左から「福田康夫・中曾根康弘・福田赳夫」そして「小渕恵三」、お
2024年3月用事で横浜に外出駐車したコインパーキングの脇r13沿いに何かの遺構がありました用事まで時間があるので接近します人の背丈もない、かわいらしい門柱です海軍兵学校の門標昭和20年、海軍兵学校閉校に際して撒去後年、原形通りに復元とのこと全体像門柱はだいたい対(つい)ですが、反対側には自販機があった位で他には何も見当たりませんでしたタテいっ直線の柱でなく、「L字」になってるようです用事が済んだ後、また少しだけ歩きました立派な親柱銘板昭和二年七月竣功1927年…戦前橋で
<2023年3月16日>銀座に投宿した翌朝の散歩で訪れた「旧新橋停車場」。建物の裏側へ廻ると、そこには線路とホームも残されていました。その端に「0」表示の石柱があります。これが「0哩(マイル)標識」でした。【1870年4月25日(明治3年3月25日)、測量の起点となる第一杭がこの場所に打ち込まれました。】ここが我が国の「鉄道発祥の地」ということになります。復元された3mの線路も創業時のものだそうです。プラットホームの正面に立ちます。プラットホームの構造は「盛
もう、どこでこの山陽5000系を撮影したのか?この山陽6000系も?ここは伊保駅構内踏切です。一旦、自宅にもどりましたが、とんぼ返りで伊保に帰ってきました。小浴場へ!沈みガチな足ばんざい🙌をして、居室へ。シングル〜べぇ〜えっどでゆ〜めと!お〜ま〜え〜抱いてたコロ〜っ!禁煙シングルやのに、寝タバコ禁止!って写真がひっくり返し〜!晩御飯はほっかほっか亭の肉野菜炒めおかず。シングル〜べぇ〜えっどで〜ゆ〜めと!お〜まえ〜抱いてた~コロ〜!うたた寝!zzz翌朝、伊保駅へ!播磨ね
その4では両翼の側防穹窖を取り上げるとともに、北端の地下にも匣室が設置された可能性について考察していきます。まずは堡塁の定義を明治期の史料から抜粋します。「堡塁とは近戦自衛の設備を備え陣地の支点又は複郭たる任務を有する防御営造物である。堡塁の形状は通常平扁なる多角形にして之に平行せる壕を設け、壕内は外岸側防穹窖又は「カポニエール」と称する特別の側防設備に依りて側防す。咽喉部も亦側防の設備を為す。而して壕内の側防には小口径速射砲若しくは機関砲を備ふるものとする。」定義の通り龍司山
所在地〒441-1334愛知県新城市中宇利仁田特徴今川氏の配下(熊谷氏)が守った山城で、家康の祖父(清康)により落城した。郭と空堀などの遺構がかなりの規模で残っていて、案内や説明も充実している。感想15年ほど前に訪問し「低」と評価したが、整備が進んでいて評価を見直した。藪に埋もれている主郭から先も整備してもらいたい
こんばんは。☆彡この「一乗谷朝倉氏遺跡」については、一旦下書き保存していたところ、意図せぬ段階でアップされてしまいました。フライングしてしまって。。。何人かの方に「いいね」もいただいたりしましたが、混乱させて失礼しました。今回改めて記事を完成しアップさせていただきます。今日のコチラは久しぶりに晴れて暖かい一日になりました。最高気温も15℃を超えたのではないかと。天気はすでに下り坂。明日にはまた夜から雨になって、金曜日には本降りになるとの予報です。さて、今回の北陸旅。
北の丸と本丸を結ぶ架け橋が発掘調査で確認され復元されました400年前の遺構がそのまま復元されて石を使わない土だけの山城はとても珍しい山城です現在は型崩れ防止の為に芝生が張られていますが本来は関東ローム層(赤土)がそのまま露出し滑りやすく登り難い造りになっていました。