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久しぶりに書店で我を失ってしまいました個人的に興味ある分野でめちゃくちゃ読みたい本がたくさん出ている!どれも我慢できずに購入。だけど大きくて厚くて重くて高価おかげで帰りは財布は軽く腕は筋肉痛中村佑介ぬりえブックCOLORME,tooAmazon(アマゾン)最近好きなイラストレーターさん。画集にするか塗り絵にするか迷って塗り絵をチョイス。老中医Amazon(アマゾン)これが一番重かった。教科書が教えない
さて第1部が終わっての来る第2部となる今回の話。出だしがどうなるか気になっていたのですが…ちょっと待ってぇぇぇ!!!今回、完全に逃げ若版『太平記』になっているんですけど!?完全に南北朝のラスボス足利尊氏が主役になっているんですけど!?主人公の時行くんが完全に不在なんですけど!?いやむしろ大歓迎なのが困っちゃった所(苦笑)今回の舞台となる1336年はまさに日本史上でもこれほど凄まじいジェットコースターのような勝者が入れ替わる凄まじい逆転!逆転!逆転!はそうはない。そして何よりも南北朝最
もう3月も終わりますね。桜🌸はこの辺はまだ開花しません。不二桜🌸もまだですね。。今日はこんな感じだった。私が東寺で1番素晴らしいと思う桜はここなんです。小子坊しょうしぼうここは天皇をお迎えする特別な所です。南北朝時代、足利尊氏が光厳上皇を奉じて都に入った時に入った。上皇は洛中の戦いが治まるまでの間小子坊を御所としました。ここの桜満開の時はこんな感じ⬇️⬇️毎年私、ここで写真を撮ってます。しかし今日は。。🙁🙁🙁こんな感じ⬇️⬇️でも今日
〇。極楽征夷大将軍垣根涼介ちょっと違う視点から見た歴史を描いて下さる垣根さん、今回は『足利尊氏』です⇑クリックお願いいたします<(__*)>
ある、ブログに日本の歴史は西から動くって!なにー日本の歴史は愛知とか岐阜とか東海って呼ばれる地区っていうか地域からヤロッ!って、おれは愛知だから。だって、戦国の三英傑織田信長、豊臣秀吉、徳川家康は愛知だら。それに、あんた源頼朝だって、愛知うまれよ。熱田神宮の近所に看板あったよ!頼朝のお父さんは熱田神宮の宮司の娘を妻してんの。んで、保元の乱のとき熱田神宮から義朝に応援の兵を送ってるはずだからね。貴族政治から武士の時代の転換に愛知の人が活躍してるでしょ!んで、足利尊氏が倒幕を
著者垣根涼介第169回直木賞受賞作やる気なし、使命感なし、執着なしなぜこんな人間が天下を獲れてしまったのか?混迷の時代に天下を獲った足利尊氏氏のリーダー像を描いた小説です著者によると足利尊氏は、史上最も無能な武将なんだそうwこれまで持っていたイメージとは、かなりかけ離れた足利尊氏でしたそして、あの教科書などでおなじみの足利尊氏の絵ざんばら髪の武者姿※最近では、あの絵は、尊氏ではなく別人と判明したようそれ関係のエピソードもありましたw頼りない兄を支え
栃木県足利市にある龍泉寺‼️二回目の参拝…😊広くて、綺麗で、立派なお寺で、御朱印も立派です‼️十三仏もおられるので、ゆっくり参拝🙏御朱印を直書きしてくださるんですが、その間に美術館を見ることができます。今日あたりまでお雛様みたいで、お雛様が飾ってありました。他にも、足利尊氏に関する物など見どころがあります😊美術館をゆっくり見させていただき、見終わると御朱印が書き終わってる感じです😊本堂も開かれており、ご本尊様が拝めます。足利は良いお寺がたくさんあります😊藤棚があるので、また藤の季節に行かせ
3月28日出来事1336年(延元元年2月15日)-光厳上皇の新田義貞追討の院宣が、備後の鞆の足利尊氏のもとに到着。忌日・亡くなった日1945年-ウラヌス号、西竹一の愛馬西竹一は1932年のロサンゼルスオリンピック馬術障害飛越(ひえつ)競技で金メダルを獲得。記念日などシルクロードの日1900年のこの日に廃墟となっていたシルクロードの楼蘭(現在のクロライナ)が発見されたことに由来する。
私が育った街・衣笠に等持院という名刹があります。小学校の友人の家が等持院の境内にあったことから、よく自転車で遊びにいった思い出の地です。この院を創建したの征夷大将軍の足利尊氏。夢窓疎石が開山した等持院(中京区)の別院として衣笠山の山麓に「北等持院」を建造します。その後、尊氏の菩提寺となり、応仁の乱後に等持院と合併し北等持院が「等持院」となりました。堂内には足利氏歴代将軍の木像13体が安置されています。尊氏は後醍醐天皇の「建武の新政」に反旗を翻し、光明天皇を拝して北朝を立て、建武式目
足利尊氏が室町幕府を開くんだがご当人が、やる気なしの「極楽殿」という、かなり読み応えある大作。タイトルからノホホンとしたハナシかと思ってたら数十年に渡る戦、いくさ、イクサの連続で武士って大変天下取るって、大河ドラマで見るより数倍しんどい。現代人には務まらんだろう。死生観も時間の流れもまったく違うんだろうな。そんな極楽殿もそれなりに成長し独り立ちする最後に人間味を感じた。楠木正成、新田義貞、南北朝、ここの時代のコトなのねと勉強になりました
上杉景勝吉川元春小早川隆景武将にちなんだとみられる四股名がたくさんそして新入幕力士として110年ぶり優勝を果たした尊富士関の四股名を見たときヤマトタケルノミコトや足利尊氏をイメージしてしまいました横綱が途中休場したとはいえ相撲内容と負傷を抱えながら出場した千秋楽の相撲は素晴らしかったです
「足利尊氏って超いい加減な奴だったんだって!」田中が食卓テーブルに肘をついて考えごとをしてるといきなり妻がそう言った「へーっそうなんだ」田中は自分の考え事を一旦置いておいて一応相槌を打つそうさ悪気はないのさこの人は自分の関心ごとに私が興味が無いとは想像も出来ないんだから田中は冷めたコーヒーをまるで苦い煎じ薬のようにゆっくりと啜りながらさっきまで何を考えていたのか思い出そうとしただがなかなか出て来ないまぁいいさどうせたいした事では無かった筈だから「
神戸高速線新開地駅徒歩5分兵庫警察署前竹内典之シェフGeorgesBlancHôtelBeau-RivageGenèveフィレンツェやプーリア州等で3軒リーガロイヤルホテル大阪を経て2017年5月15日オープンムール貝・小海老・帆立・トマトエスカルゴバターココット焼き真鯛の香草マリネ、シーザーサラダカリフラワームースパイ蛍烏賊・ベーコン・菜の花ペペロンチーノ→予約時スープへ変更可連子鯛、ベーコンと春キャベツケッパー・焦がしバターソース兵庫産牛フィレ肉、マデラソ
<速報>本日、青春18きっぷを使い、上郡へ。智頭急行に乗換えて「白旗城」(兵庫県上郡郡)の最寄り駅「河野原円心」まで乗車する予定が、JRの遅れで乗れませんでした。仕方なく観光協会で自転車を借りて片道7キロの道を漕ぎました。既に登城口で合流予定だった城友夫婦には出発してもらっていたので、私は追いかける感じで急ぎました。しかし途中の道は、苔むした石が転がる難所が続き、岩場の尾根も続くなどして行く手を阻みます。苔むした「谷落としの岩」の上を登る↓城域内の「櫛橋丸」跡で夫妻に追い
4月のスルーツアーで京都まで遠征することになった。前から色々と気になっていた足利氏について何か読んでみようと思った。この本は、過去の研究者の意見をもとにした研究書であり、筆者がいかに多くの研究書を読んだかを知り、足利氏の何たるかを理解することはできたが、小説ではないので、時代や人物を具体的にイメージすることはあまりできなかった。まるで大学生の卒論のよう。せっかくだからメモるが、今度はもっと素人向けの本をさがしてみようと思った。なぜ、足利氏は続いたか—プロローグ:室町時代(足利尊氏が「
こんにちは!1週間で勝手に勉強する子供に変わる楽しい家庭学習法を実践する親勉インストラクターあいとなおです😊年中長男春の選抜高校野球に釘付けです!テレビを見ながら「足利尊氏だって!」と言われたのですが、足利尊氏くん、いるのでしょうか😂?何が起きるか分からない高校野球‼️ドキドキしますよね💓昨晩小5長女が何やら集中して机に向かっておりました😀完成したものをニヤニヤしながら見してくれました☺️イケメンに弱いお年頃😂⁉️ザビエルと源頼朝がこんな
足の調子は回復基調ですが、前回は5万歩、歩いてしまい、反省です。今回は、無理せず、通常1日の行程を、2日に分割して歩きました。お昼前に尾道駅に到着しました。寒いです。尾道は「寺の町」でもありますので代表的な「千光寺」か「浄土寺」にご挨拶と思いましたが、高所にある「千光寺」は、寒そうなので諦め、タクシーで「浄土寺」に向かいました。山門(重文)聖徳太子開基(616年)と伝わる古刹ですが「足利尊氏」が弟「直義」共々戦勝祈願をした寺としても有名です。寺の紋は足利家の家紋です。境内
義康の子足利義兼(尊氏より7代前)が鎌倉時代初期(1190年代)に邸宅を撤去して大日如来を本尊とする鑁阿寺を設立しました本堂は鎌倉時代1197年に足利義兼が持仏堂として建立し、その後火災で失いますが足利尊氏の父足利貞氏により1299年に再建されました楼門は仁王門や山門とも呼ばれています足利義兼が1196年に創建しましたが室町時代に兵火にあい1574年足利幕府13代将軍足利義輝によって再建されました両側の仁王尊像は鎌倉時代の運慶の作と言われていますが室町時代とも伝えられてい
読了面白かったです掴みどころのない尊氏が直義のこととなると何をそれは自分の命さえ差し置いても必死になる自分がない様で直義を何より大事に思う確固たる自分がある青砥藤綱のくだりはこれからの処世術の参考になると思った
京都・等持院にご案内させていただきました。等持院は、足利尊氏が創建した禅寺で、足利歴代将軍の木像や大きな達磨図があります。達磨は、中国の禅宗の開祖である達磨大師がモデルとなっており、達磨の起源は、1677年(延宝5年)に東皐心越禅師(とうこうしんえつ)が開山した黄檗宗(おうばくしゅう)の少林山達磨寺で、正月に心越禅師の描いた一筆達磨の座禅像を配り札としていたことによるとされ、その後、江戸時代には、起き上がり小法師から派生する形で今の達磨が出来上がったようですね。また、禅宗
勝てば官軍負ければ賊軍なんてウソだ!!!!戦争に負けた人物が英雄扱いされ勝った方が悪者扱いされるケースも幾らでもある。戊辰戦争において負けた旧幕府側からも立見尚文や柴五郎、榎本武揚や佐川官兵衛、齊藤一等多数の人物が明治政府に取り立てているし、また旧幕府軍側に付いた地域の住民への差別等も行われず山本五十六などの人物が取り立てられているし、また新撰組や白虎隊などは悲劇の英雄として讃えられている為、戊辰戦争において旧幕府側は"本当の意味での"賊軍扱いとはならなかった。また大昔の英雄として平将門、
建武三年(1336年)、楠木正成を湊川の戦いで破って京へ向かう足利尊氏の軍勢に後醍醐天皇は比叡山へ逃亡。上洛した尊氏は光明天皇を擁立するが、その二日後に突然出家すると言い出し、清水寺に願文を奉納した。「この世は夢のごとくに候」尊氏が清水寺に奉納した願文の書き出しにある言葉。私はこの言葉の響きがとても好きだ。この世は夢のようなもの。尊氏が願ったそれとは違うだろうが、「夢のような人生だった」と微笑んで生涯を振り返られる生き方ができればいいと思う。足利尊氏直筆、清
【前段】試験的に江ノ電バス乗り放題パスがアプリ限定ですが販売されているそうです。横浜市内と鎌倉市内の江ノ電バスが乗り放題です。知っていたら、これ使っていた。【本題】鎌倉宮行く途中、宝戒寺に寄りました。ここ、後醍醐天皇が北条氏の霊を慰めるために室町のサイコパス足利尊氏に建立させたとされるお寺です。元々、執権北条氏の邸宅があったとされています。北海道は3月時点でまだ雪なんですがねえ。中は撮影禁止です。宝戒寺の御朱印です。では失礼します。
源頼朝の命で建立された真言宗光福寺の子院を暦応3年(1340年)に足利尊氏この地に移し三河守護の安達盛長に命じて弥陀堂(三河七御堂のひとつ)を建立したと伝わる青龍山金蓮寺。江戸時代に吉良氏の帰依を受け寛政年間に今の曹洞宗に改宗している。石柱門門前の石佛境内本堂(御本尊:不動明王[秘蔵])東海三十六不動尊二十番の札所経蔵観音堂三河三十三観音二十七番の札所鐘楼堂手水舎お不動さんの名水(吉良の名水のひとつ)江戸時代の弥陀堂の鬼瓦国宝の弥陀堂木造阿弥陀三尊像歴代住職の
昨日の朝活のサウナも極楽だったけど今読んでいる本にも極楽がまだ途中だけどおもしろい本を読み出すと困るのが家事がおろそかになる事作者の垣根涼介さん「エンタメとして楽しんでもらえれば」と何かのインタビューで言われてましたけど足利尊氏のあり様これからの生き方の参考になりますよ
日本語は美しいみなさん、おはようございます「月夜にはそれともみえず梅の花香を尋ねてしるべかりける」(凡河内射恒、古今和歌集)月夜に香りを探して梅の花日本語は本当に美しいですアリガトウ「3月2日」の國史です「多々良浜の合戦」建武3年(延元元年、1336年)九州に逃げていた足利尊氏は多々良浜(福岡県)で南朝方の肥後国・菊池武敏を破ります尊氏は鎌倉幕府の北条時行の乱を鎮めた後後醍醐天皇からの京都へ戻る命令に従いませんでした後醍醐天皇
●【再投稿】【快挙】セントラルパ吉田7月ランキング1位!(昨日気づきましたw)【和歌付き】2週間ぐらい、HURTRECORDランキング1位だったと気づかず暮らしていた、セントラルパ勢吉田です。初めての1位は、なかなか嬉しいもんですね♪フリーBGM(無料音源)2023年07月度人気ランキング|著作権フリーBGM制作サイトHURTRECORD著作権フリーBGM(無料音源)制作サイトHURTRECORD2023年07月度人気ランキングwww.hurtrecord
昨夜遅く足利のお客様から、足利学校門前マルシェ出展のお誘い連絡がありました。野球繋がりのお客様なんですけど、鑁阿寺や足利学校周辺ではかなり顔が利く方なんですわこんな歴史ある素敵な場所でハチが蛇口を売るわけじゃありませんよ~3月10日なんて話しが急すぎますけどね。せっかくのお誘いなのでハチ会社ハンドメイド事業部出展させて頂きます。運営委員会さんは陽気も良くなりかなりの人出を見込んでいるようです。こういうイベントは飲食物と小物販売が強いですよね~どちらかというと女性
2024・2・23の事デパートの中の本屋さん↑誰の事かな=混迷の時代に天下を獲った足利尊氏のリーダー像垣根涼介は、日本の小説家。長崎県諫早市生まれ。長崎県立諫早高等学校、筑波大学第二学群人間学類卒。生年月日1966年4月27日(57歳)出身地長崎県諫早市学歴筑波大学日本も行けたね↑裏側って❓表に行った
小田城址の手前に「小田城址歴史ひろば」という歴史資料館の位置付けの建屋があります。駐車場は広くありますが満車です。小田城址ではなく、ここを拠点にたくさんの方がりんりんロードを使って自転車を楽しまれているようです。小田氏の歴史は周辺の競合に翻弄されてきました。八田知家は源頼朝の信頼あつく13人合議制の一人で、小田氏初代となります。佐竹氏とは終始争っており、7代のときに佐竹と戦うためにも後醍醐天皇側の南朝の北畠親房を小田城に引き入れました。ですが、8代のときに北朝川に負け足利尊氏側に付き従